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2011年5月

「瞬間の安心と完成を発見すること」は哲学ではない

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 哲学の本質はいかに言い表わされるか さてかくも一般的に、またかくも独特な形態をもって現れる哲学とはいかなるものでありましょうか。
 哲学者(philosophos)というギリシア語は、学者(sophos)と対立する言葉であって、知識をもつことによって知者と呼ばれる人と異なり、知識(知)を愛する人を意味する言葉であります。この言葉の意味は現在まで維持されてきております。すなわちそれは独断主義の形態、換言しますと、いろいろな命題として言い表された究極決定的な、完全な、そして教訓的な知の形態、をとることにおいて、しばしばこの言葉の意義を裏切っているのでありますが、哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究することなのであります。哲学とは途上にあることを意味します。哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります。
 しかしこの途上にあること(Auf-dem-Wege-sein)--時間のうちに存する人間の運命--はそれ自身のうちに深い満足の可能性を隠しているのであります。特に高潮した完成の刹那においてそうなのです。このような可能性はけっして言葉で表わすことのできる知識や命題や認識のうちに存するのではなく、人間存在の歴史的な実現過程のうちに存するのであって、存在そのものはこの人間存在にとって現われ出るのであります。人間がそのつどおかれている状況のうちにこの現実をとらえることが「哲学すること」の意味なのであります。
 探究しながら途上にあること、あるいは瞬間の安心と完成を発見すること、これらの言葉はけっして哲学の定義ではないのであります。哲学には縦の組織とか横の組織とかいうものはないのです。哲学はある他のものからは導き出されない。哲学はいずれも自己を実現することによって自らを定義する。哲学とは何であるかということは、私たちによって実験されなければならないことなのです。かくて哲学は生きた思想の実現であり、またこの思想への反省であります。あるいは哲学は、行為であり、この行為について語ることであります。自己自身の実験からして、はじめて私たちは、世界の中において私たちが哲学として出会うところのものを感得することができるのであります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年、14-15頁。

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短大での哲学の講義、本日の分にて、「哲学とは何か」という主題の部分とその概要(歴史とテーマ)について終了。

このあとはテーマにしたがって議論するようにつくっているのですが、最初の3-4回目の講義で、学生さんたちひとりひとりの「哲学観」というものをぶっ壊す必要があります。

哲学は難しい……というのもそのひとつですが、それ以上に問題なのが……そして実はこのことは「哲学」という学問だけに限定されない問題でもあるということですが……次のことでしょう。

すなわち、哲学という学問を学ぶというこが、何かできあがった体系や理論を「覚える」「学ぶ」ということと捉えているというドクサです。

たしかに学習者の学習スタイルを「参与観察者」の視点から見るならば、古典と向き合い格闘するその様は、英語の学習や簿記の学習のように、機械的学習としての「覚える」「学ぶ」というように「見える」かもしれませんが、それはひとつのきっかけにすぎず、そこに哲学の本質はないということ。

たしかに膨大な哲学の業績を目の前にすると、そのように見えてしまう節もありますし、ヤスパース(Karl Theodor Jaspers、1883-1969)が「いろいろな命題として言い表された究極決定的な、完全な、そして教訓的な知の形態」と指摘するところもあって、そのように受け止められてしまう感もあるのですが(これは哲学学者の責任ですが、苦笑)、それイコール哲学ではありません。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)は「哲学を学ぶことはできない。哲学を学ぶのではなく哲学することを学べ」と喝破しましたがそのへんのところです。

そこからどのように紡ぎ上げていくのか……。

それが知の所有者と違う、倦むことなく知を探究する「知識(知)を愛する人」としての哲学(者)ということです。

だから哲学を学んだとしても、それは何かの理論やら理屈やらを「知識として所有」することではありません(それが悪い訳じゃないし、それも必要だけど、ひとまず横に措きます)。

大切なのは、「哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究すること」そして「途上にあること(Auf-dem-Wege-sein)」です。

「完成の刹那」を峻厳に退けながら、どこまで迫っていくことができるのか、それが「哲学をする」ということに他なりませんし、だから「哲学を学ぶことはできない」。

そーいう認識としてのイメージのぶっ壊しといいますか、動執生疑はできたのではないかと思います。

だから、哲学は何も教えてくれませんよw

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「自分自身の理性を使う勇気をもて」ということだ

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 このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避けられないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が、わずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである。このような人々は、みずからの力で未成年状態の<くびき>を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。
 しかし注意が必要なことがある。それまで後見人たちによってこの<くびき>のもとにおかれていた公衆は、みずからは啓蒙する能力のない後見人たちに唆(そそのか)されると、みずからをこの<くびき>のもとにとどまらせるようにと、後見人たちに迫ることすらあるのである。これはあらかじめ植えつけられた先入観というものが、どれほど有害なものであるかをはっきりと示している。先入観は、それを受けつけた人々にも、そもそもこうした先入観を作り出した人々にも、いわば復讐するのである。こうして公衆の啓蒙には長い時間がかかることになる。
 おそらく革命を起こせば、独裁的な支配者による専制や、利益のために抑圧する体制や、支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるなだけなのだ。
    --カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年、13-14頁。

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ちょっとカント(Immanuel Kant,1724-1804)の有名な言葉「自分自身の知性を用いる勇気をもて!」が気になって、その言葉の記された「啓蒙とは何か」を再読したのですが、いろいろと驚くべきことが多くひとつ紹介します。

たしかに、様々な問題であふれかえっているのが私たちの生きている社会です。
その矛盾を解消するためには、その不備を手直ししていく必要があります。

改める点は改め、伸ばすべき点は伸ばしていく……漸進的な改良は不可欠です。

しかし、それだけ「改めて」も何も変わらないというのも、歴史を振り返ると証左ですよね。

「おそらく革命を起こせば、独裁的な支配者による専制や、利益のために抑圧する体制や、支配欲にかられた抑圧体制などは転覆させることができるだろう。しかし革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ」。

暴力と革命の世紀といわれた20世紀をカントは目撃しておりません。しかしカントの指摘はそのままその時代精神を深く撃つ一節です。

外在的なシステムの改良は不要だ!ということではありません。

しかしそれと同じぐらい、否、それ以上、人間自身が冷静に自分を見つめ直し、自分自身改める挑戦というのも必要不可欠です。

そのためにこそ「自分自身の知性を用いる勇気」を選択する他ありません。

しかしこのカントの言葉は改訓でも命令でもありません。
むしろこの言葉(中山訳では「自分自身の理性を使う勇気をもて」)は、河辺にゆらぐか細い葦のような取るに足らない存在にすぎない人間そのものへの励ましなのかも知れませんね。


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 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サベーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分自身の理性を使う勇気をもて」ということだ。
    --カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年、10頁。

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無秩序はただわれわれが求めていない秩序である

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 無秩序の観念についても私は同じように言いたい。なぜ宇宙は秩序をもっているか。どうして規則が不規則的なものに、形相が質料に押しつけられるのか。われわれの思考が自分自身を事物のうちに見いだすのはどういうわけか。この問題は、古代の哲学者においては存在の問題であったが、近世の哲学者において認識の問題となっているけれども、同じような錯覚から生じたものである。無秩序の観念がはっきりした意味をもつのは、人間の仕事つまり私の言う製作の領域においてであって創造の領域においてではないと考えれば、この問題は消失する。無秩序はただわれわれが求めていない秩序である。あなた方は思考によってさえ一つの秩序を除去しておいて別の秩序が出てこないようにさせるわけにはいかない。目的や意志がないとしても、機構はあるからである。機構が負けると、意志や気まぐれや目的が勝ってくる。しかしこの二つの秩序の一方を期待してるのに別の方が出てくると、無秩序だと行って、そこにあるものを、そこにあってもいい、またはあるはずのものを表わす言葉で述べて、自分の残念がる心をもちを客観的にするのである。してみると、すべての無秩序は二つのことをふくんでいる。われわれの外には一つの秩序が、またわれわれの内には、それだけがわれわれの関心を惹く別の秩序の表象がある。そこで除去はやはり代置を意味する。すべての秩序の除去すなわち絶対的無秩序の観念は、仮説に従って、二つの面をふくむ操作に対してただ一つの禁止しか認めないことになるから、この場合なんと言っても矛盾をふくむのである。そこで絶対的な無秩序の観念は、音の結合、「声の息(フラートゥス・ウォーキス)」しか表わしていないか、それとも何かに応じているとすれば、精神が機構から目的へ、目的から機構へ飛び移って、自分がいる場所を示すために、とかくそのたびごとに自分のいない点を指すようになる動きを表すかである。してみると、秩序を除去しようとすれば、二つもしくはそれ以上の秩序を考えているのである。それはつまり、「秩序の欠如」の上に付けくわえる秩序という考え方は虚妄意味するもので、この問題は消失するということになる。
    --ベルクソン(河野与一訳)「可能性と事象性」、『思想と動くもの』岩波文庫、1998年、148-150頁。

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無秩序が明瞭に理解される現場というのは、「創造」の領域ではなく「製作」の領域においてかあ。

ふうむ。

そしてひとつの秩序が成立するためにはもうひとつ別の秩序が必要かあ。
秩序は伴侶を必要とするのねん。

そして「除去は代置」を随伴するかあ。

ふうむ。

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 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。

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 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、<語られたこと>としての意味の次元にとどまることになりましょう。しかし私たちとしては、<語ること>としての意味がなにを表しうるのか、この点を探らなければなりません。
 「ために」〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です。それは近さの関係であり、そこで働くのは、ある者の他の者に対する責任です。このような関係のうちには主題化不能な知解可能性があります。それは、主題や主題化の効果によってではなく自分自身によって意味を得るような関係なのです。つまり、少なくともここでは、知解可能性と合理性は根源的な仕方で存在に属するものではないのです。ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「<語ること>としての意味」、『神・死・時間』法政大学出版局、1994年。

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まあ、すこし古いというかゴールデンウィークの連休のときに、わが家御用達の「ささ花」にて家人とかる~く一献行った写真をとっておりましたので、少し載せておきます。


レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が「『ために』〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です」と指摘するとおり、家族は大事にしないとねw

いや、しかし、「ささ花」@花小金井。

毎度ながらいい仕事をしておりました。

その日のオーダーは次の通り(写真とってないのもありますが)。

初鰹はたたきで頂戴します。

息子殿は出汁巻き玉子。

九条葱とジャコと豆富のサラダ。

若鶏のコンフィーと春野菜のグリル。これはヤヴァイ。

筍と豚ロースのオイスターあんかけご飯(石焼きご飯)。

酒は福島県の銘酒「飛露喜」と福井県の「黒龍」。


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人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ること

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 ついでながら、人間がしばしば年をとって、若いころ持たなかったような、歴史に対する感覚を得るのは、体験と忍苦の数十年を経過するあいだに人間の顔と精神に積まれた多くの層を知ることにもとづいている。根本において、必ずしも意識されてはないが、老人はみな歴史的に考える。少年に似つかわしいいちばん表面の層に、老人は満足しない。老人とて、いちばん表面の層を無視しようとも消し去ろうとも思いはしないが、その下に、それあって初めて現在に十分な値打ちが与えられるような体験の層の系列をも認めることを欲するのである。
    --ヘッセ(高橋健二訳)「秋の体験」、『幸福論』新潮文庫、平成十六年、143-144頁。

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文豪・ヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)の謂わんとしていることはよくよく理解できるのが、少し補足するなら、その人間が「体験と忍苦」をどれほど経験したか=生きた年齢だけでもない……そんなことを、このところ実感します。

もちろん、それは齢を積み重ねた人々を軽視するという軽佻浮薄な批判ではありませんので、そこを勘違いされては困るわけですし、老若男女とわず、「体験と忍苦の数十年を経過するあいだに人間の顔と精神に積まれた多くの層」を経験したその「値打ち」を否定するわけでもありません。

しかし、ひとつだけいえるのは、その長さだけを測りにして判断するのは、早計の嫌いもある……そのことだけは否定できません。

とくに3.11以降……。

いわゆる若い人々であっても、その衝撃という「体験と忍苦」から、本物の動きをはじめた人間が数多く出てきたことをまのあたりにすると、そんなことを思ってしまうわけです。

いずれにしても、「若いからダメだ」とか「長年生きていたからすごいんだ」という通俗的な徳論ではないんだろうと思います。

そのひとが「体験と忍苦」……それがたとえ1回切りの出来事であったとしても……から、何を学び、どう動こうとしているのか、ということを丁寧にやっていくことができるのであれば、「歴史的に考える」(=現在から未来への展望をデザインする)ことが可能になるのじゃないのかと。

いわゆる、メッキが剥がれた有象無象は沢山出てきました。
しかしそれと同じぐらい沢山、無名の本物も出てきた。

僕もそうありたいし、この事件を契機に、時代の歯車を後退させるようにしたくはない。

そんなことをこのところよく痛感いたします。

ということで、麒麟クラッシクラガーでローストポーク。
焼豚ほど諄くないのがいいねい。

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日々の生活こそは凡(すべて)てのものの中心

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 日々の生活こそは凡(すべて)てのものの中心なのであります。またそこに文化の根元が潜みます。人間の真価は、その日常の暮らしの中に、最も正直に示されるでありましょう。
    --柳宗悦『手仕事の日本』岩波文庫、1985年、231頁。

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先日、キャベツの中から発見された蝶の幼虫をそのままそだてていますと、サナギになったわけですが、それが今朝、蝶へと成長しました!

柄からすると、モンシロチョウ。
餌の与え方も調べましたので少し飼育してみようと思います。

早速、名前を何にするのか……息子殿が思案中。

日常生活に注目しながら少しだけ丁寧に生きていくと、それなりに発見というものはあるものです。

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「人間を歪めるもの」に対する抵抗は、イデオロギーが先行してはなりませんよ、ホント

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……エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ルッターの出発点には、「エラスムスが産んだ卵を孵した」と謂われるくらい、ユマニスムに近いものがあったに違いありませんが、キリストの心に帰るために、同じキリストの名を掲げて、意見の違うキリスト教徒(この場合は旧教徒)と闘争するという行動に出て、ヨーロッパに幾多の非キリスト教徒的な暴状を誘発するような事態を作ってしまいました。そして、カトリック教徒の側には、ルッターから見れば《生ぬるい》エラスムスの批判までを白い目で見て、新しい時代の息吹を窒息させることをもって唯一の解決法と考えていた人々もいましたから、そういう人々にも、ルネサンス期の血みどろな宗教戦争の責任を負ってもらわねばならぬことは当然です。しかし、もしルッターが、エラスムスと終始一貫手を握り、先輩としてのエラスムスの批判の衣鉢を継ぎ、これを更に世に広く辛抱強く弘めたら、また同じ志の人々の育成に尽したら、あのような悲惨事は起こらなかったかもしれません。そして、このように、《もし……したら》というようなことは、我々人間が、大して心の痛みも感じないで公言できる便利な言葉であることは、承知していますが……。
    --渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫、年、327-328頁。

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フランス文学者・渡辺一夫(1901-1975)さんが描写する、エラスムス(Desiderius Erasmus,1466-1536)とルター(Martin Luther,1483-1546)の発想と形式の差異が正鵠を得ているのは、本人自身が、何よりも「ユマニスト」だったからなだろうと思うのは僕だけではないでしょうね……ぇ。

エラスムス以上に「ユマニスト」たらんと努力するからこそ最後の一節「このように、《もし……したら》というようなことは、我々人間が、大して心の痛みも感じないで公言できる便利な言葉であることは、承知していますが……」の余韻がこだまするのだと思います。

非常に重いといいますか、深く受け止めなければならない一節です。

特に今の時代。

正しいことだけを主張して自分を安全地帯に定位し、恫喝とつるし上げだけをやるアンチと推進派。

そうした構造から脱出するひとつのきっかけになれないと……同じ事を繰り返してしまいますね。

ふう。

「人間を歪めるもの」に対する抵抗は、イデオロギーが先行してはなりませんよ、ホント。

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美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。

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美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。
    --正岡子規『墨汁一滴』岩波文庫、1984年、90頁。

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気分転換に近所を自転車で走ってきたのですが、美しい花が精一杯咲き誇っておりました。

紫陽花は少しフライング気味のようでしたが……、まあひとつw

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フェアプレーの義務は、基本的な道徳的観念としての忠実や感謝のような、他の一応の義務と並ぶものである。しかし、これらの義務と混同されるべきではない

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 フェアプレーの義務は、基本的な道徳的観念としての忠実や感謝のような、他の一応の義務と並ぶものである。しかし、これらの義務と混同されるべきではない。これらの義務はすべて、それらの定義から明らかなように、明確に異なっている。あらゆる道徳的義務の場合と同様に、フェアプレーの義務も、個々の事例いおける私利に対する制約を含意している。この義務は、しばしば、厳密に定義された合理的な利己主義者ならば決意しないであろうような行動を要求する。従って、正義は、たしかに、何人に対しても、その一般的状況においては、すなわち、正義の諸原理が提案され承認される手続きにおいては、自分の利害を犠牲にすることを要求しない。けれども、ある実践に携わるという脈絡において生じる個々の状況においては、自分の境遇の特異性からすれば手に入ることが許されるであろう特定の利益を、差し控えることを要求されるであろうという意味において、フェアプレーの義務が、しばしば彼の利害と衝突するということが生じるかもしれない。
--J・ロールズ(田中成明訳)「公正としての正義」、田中成明編訳『公正としての正義』木鐸社、1979年、51-52頁。

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フェアプレーつうのを最近、めっきり聞かなくなったねい(涙

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「わざわざ考えなくてもよい」ものを、「わざわざ考える」わけ

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 物のまわりをかぎまわって、物の目じるしをあつめ、物を分類してきたこれまでの哲学は、カントがあらわれたので、研究を中止してしまった。カントは人間の心そのものをしらべるように研究をひきもどして、人間の心にあらわれてくるものを吟味した。カントが自分の哲学をコペルニクスのやり方と比べたのは、もっともなことである。地球を静止したものとして、太陽が地球のまわりを回転していると考えていたコペルニクス前の時代には、天体の運行についての計算がどうもうまく合わなかった。そのときコペルニクスが太陽を静止したものとして、地球が太陽のまわりを回転すると仮定した。すると見よ! すべての計算がきわめてうまく合うではないか? これと同じくカント以前は、「太陽」である理性が、現象界つまり「地球」のまわりを回転してそれを照らしていると考えられていた。ところがカントは「太陽」つまり理性を静止したものとして、「地球」つまり現象界がそのまわりを回転して、それに照らされていると仮定した。すると現象界つまり「地球」は、理性つまり「太陽」の光のおよぶ範囲にはいったときだけ照らされるのである。
    --ハイネ(伊東勉訳)『ドイツ古典哲学の本質』岩波文庫、1973年、174-175頁。

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短大での哲学の第三講義が無事終了。

いよいよ本格的な「哲学する」段階へ突入したwというところでしょうか。

哲学も宗教も根本原理の探求という意味では同じ側面がありますが、哲学で特徴的なことは、どこまでも「言語」を使って、省察をすすめていくというところでしょうか。逆から照射すれば、哲学には祈りの言葉と行為はありませんが、宗教には祈りの言葉と行為は存在するというわけですが、いずれにしても哲学は「言語」をつかって、「言語道断」という境地をさけながら、アプローチしていく学問です。

ですから、初手の段階で、「鉛筆とは何か」とか「林檎とは何か」ということを「言葉」を使って説明させる議論を授業でやるわけですが、

やはり……(苦笑

履修者の皆様、「鳩が豆鉄砲くらった」ようになっておりましたw

そりゃあ、そうなんです。

日常生活の中では、ラベルとして名前と意味以上のことを探求することはありませんし、それですむというのが日常生活です。

だから、「当たり前のこと」は「わざわざ考えなくてもよい」という寸法です。

しかし、「それ、どうよッ」ってツッコミを入れるのが哲学なんですね。

だからこそ「わざわざ考えなくてもよい」ものを、「わざわざ考える」わけです。

そのことによって実は、これまで覆いを被されて見えなかった・見過ごしていたことというものがハッキリとして、まさに、無知の知の自覚から真の智への愛が芽生えるという筋道です。

たしかに考えなくても、生きていくことは可能です。
そして考えたことを他者とすりあわせて生きていくことも可能です。

しかし哲学とは、「本当はそれはどうなのか」自分で言葉を使って考え、そして考えた事柄を言葉を使って他者と摺り合わせながら、共通了解していく技法でもあるんです。

だからこそ、これまで義務教育的な過程で「わざわざ、そんなこと、どうでもええやん」というところをスルーしないように心掛けると、まあ、このくだらない人間世界ですけれども、少しは色鮮やかになるというものです。

「鉛筆とは何か」

「林檎とは何か」

……わざわざ言葉を使って、考え直してみると、それは楽しいものですよ。

そのことによって、その人の生きている世界はコペルニクス的転回がされるはず(^O^☆♪

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かくして……計画的に……自由となるのけ?

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 三 プロレタリア革命。矛盾の解決、すなわち、プロレタリアートは公共権力を掌握し、この権力によってブルジョワジーの手からはなれ落ちつつある社会的生産手段を公共所有物に転化する。この行動によって、プロレタリアートは、これまで生産手段がもっていた資本という性質から生産手段を解放し、生産手段の社会的性質に自己を貫徹すべき完全な目標を与える。かくして今やあらかじめ立てた計画に従った社会的生産が可能となる。生産の発展は、種々の社会階級がこれ以上存続することを時代錯誤にする。社会的生産の無政府状態が消滅するにつれて国家の政治権力も衰える。人間はついに人間に特有の社会的組織の主人となったわけであって、これにより、また自然の主人となり、自分自身の主人となる。--要するに自由となる。
 この解放事業をなしとげること、これが近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的条件とその性質そのものとを探究し、以ってこれを遂行する使命をもつ今日の被抑圧階級に、彼ら自身の行動の条件および性質を意識させること、これがプロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。
    --エンゲルス(大内兵衛訳)『空想より科学へ 社会主義の発展』岩波文庫、1966年、92頁。

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仕事の休憩中に、エンゲルス(Friedrich Engels,1820-1895)の『空想より科学へ』(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft,1880)を読み直していたのですが、その熱意はわからなくはないのだけれども、どうしても社会主義といいますか、共産主義を含めた意味合いでの革命図式には、頷くことが出来ない自分がいるなあ、ということを再確認した次第です。

この著作は、主著といってよい『反デューリング論』を抜粋してつくった「社会主義入門」とでも呼ぶべきパンフレットになりますので、少し過激といえば過激ですが、やはりそれだけエッセンス化したものでもありますので、彼の息吹と熱意は感じるのですが、どうしても、やはり……。

ふうむ。

……というところでしょうか。

何が、「ふうむ」かと申しますと、「かくして今やあらかじめ立てた計画に従った社会的生産が可能となる。生産の発展は、種々の社会階級がこれ以上存続することを時代錯誤にする。社会的生産の無政府状態が消滅するにつれて国家の政治権力も衰える。人間はついに人間に特有の社会的組織の主人となったわけであって、これにより、また自然の主人となり、自分自身の主人となる。--要するに自由となる」というものの見方でしょうか。

社会変革の理論は、人間を後においてははじまらないわけですが、理論や構築すべき理念というものが彼らにはどうしても先に来てしまうというところ。

もちろん、現実に挑戦!といって、構築すべき理念やそれに伴う理論というものを無視してもよいというわけではありませんけれども、これはどちらが先かという議論よりも、両方を検討しながらやっていかないとまずいのでは……というのが私の正直なところ。


理屈先行だとによって人間が台無しにされてしまうし、「あるべき」を欠如した現実への惑溺は、現況を開拓できないし……というところでしょうか。

まあ、ふうむ……ですよ。

……などと思案するよりも早く寝た方がよいのですが、、、

今日は久しぶりにといいますか、今期初の宅内呑みで、冷やしトマト。

午前中はクソ暑い一日でしたが、午後からメチャ寒い一日。

ほんま、どうなっているのでしょうかねえええ。


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科学的教養を身につける努力

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 ウィリアム・ジェームズ以来、しばしば、こういうことがくりかえし言われてきた。教養のある人は誰でも、宿命的に、何か一つの形而上学を信条としている、と。しかしわれわれには、次のように言ったほうが、もっと正確であると思われる。すなわち、どんな人でも、科学的教養を身につける努力のなかでは、一つではなくむしろ二つの形而上学を拠りどころにしている。それら二つの形而上学というのは、どちらも自然で説得的であり、絶対的で打ち破りがたいが、しかし矛盾し合っているのである。とりあええず、それらに、合理論と実在論という古典的な呼び名を与えておくことにしよう。ところでこの二つの哲学上の基本的態度は、現代科学の精神のなかでは、静かに結びついているのである。この平和な折衷の理由を、今すぐ言っておいたほうがよいだろうか? それなら、科学の哲学の次の公準、ぜひよく考えてみてほしい。「科学は人間精神の所産であるが、それは一方では我々の思考の法則に合致したものであり、他方では外部世界に適合させられたものである。だから、科学は二つの顔をもつ。一つは主観的な顔であり、もう一つは客観的な顔であるが、二つとも同じように必然的である。というのは、われわれの精神の法則にせよ、また〈世界〉の法則にせよ、それを変えることは、われわれには不可能だからである。」 実に奇妙な形而上学的宣言であえる。この宣言は、〈世界〉の法則のうちにわれわれの精神の法則を再発見するという、一種の二重化された合理論に人を導くかもしれない。だがまた、「われわれの精神の法則」も〈世界〉の法則の一部と考えて、その絶対不変性を主張する普遍的実在論に導くことも可能である。
    --G.バシュラール(関根克彦訳)『新しい科学的精神』ちくま学芸文庫、2002年、7-8頁。

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どうもうちの息子殿は、文系クラスタwのようでして……、

本は誰に云われなくてもよく読みますし、言葉そのものに対する関心が非常に強い子供にそだっているのですが、どうも理系方面に関しては、興味はあり将来的にはそちらの方に進みたいと言って憚らないのですけど、その具体的に取り組みに関しては、苦手なようでして、つまり、算数とか理科がね。

ですから、スパルタ式に計算ドリルをやらせても耕地が荒れてしまいますので、そうではない方法で、関心をもたせるようにと……配慮しているのわけですが、わが家ではそのひとつが、生物をなるべくたくさん育ててみるというものにしております。

植物を植えてみる。
金魚を育ててみる。
亀を育ててみる。

まあ、その辺ですけど、この間、たまたま、購入したキャベツに青虫といいますか、芋虫といいますか、蝶か何やらの幼虫が付着しておりましたので、今回はそれを飼育箱に入れてみて観察することにしました。

古典科学の基本は、観察と記述ですからねw
※量子論的ツッコミはここではしないでくださいよw

というわけでケースにいれて2-3日。
ものすごい食欲で葉っぱに穴をあけていたのですが、4日目にぱたりとそれが終息。
フタをあけるとサナギになっておりました。

さて何が出てくるのか・・・。

ひとつ楽しみがふえた次第。

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[東日本大震災の記録]5月20日「東京電力からのお詫びとお知らせ」。

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 東北地方太平洋沖地震の影響に伴う福島第一原子力発電所の事故、および放射性物質の放出により、発電所の周辺地域の皆さま、広く社会の皆様に大変なご心配とご迷惑をおかけし、心より深くお詫び申し上げます。
 当社は、政府・関係各省庁や自治体などのご支援とご協力を仰ぎながら、事態の一日も早い収束に向けて、全力を挙げて懸命に取り組んでおります。
 加えて、原子力発電所・火力発電所の多くが被害を受け停止したことによる電気の供給力不足から、計画的な停電を実施させていただき、皆さまには大変なご不便とご迷惑をおかけしたことを重ねて深くお詫び申し上げます。
 このような状況の中、皆さまにはご過程での節電をはじめ、鉄道の運行や工場における操業の調整などにご協力いただいており、心よりお礼申し上げます。皆さま一人ひとりのご協力が大きな力となり電気のご使用量を抑えることができており、電力の需給バランスは改善をみせております。
 しかしながら、今後も突発的な気象の変化などにより、電気のご使用が急増した場合などには、電力需給が逼迫する可能性があり、電力消費がピークとなる夏場にはさらに厳しい状況が予測されます。
 皆様には、引き続きご不便をおかけすることになりますが、今後も電気のご使用をお控えいただき、より一層の節電にご協力をお願い申し上げます。
                 平成23年5月。

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……だ、そうです。


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それをたらしめるためには「不満をもちつつもどこかで無力感と裏腹な居心地のよい「消費者」であることから脱け出さなければならない」

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 デモクラシーは、決して完成されることがない。絶えず未完成であり続けるはずだ。人間としての限界によって制約はされてはいても、デモクラシーの空間にデーモスとして足を踏み入れ、自分たちが公的な存在として相互に認知し合うとき、自分は決して無力ではないことをはじめて感じるのではなかろうか。そのためには、不満をもちつつもどこかで無力感と裏腹な居心地のよい「消費者」であることから脱け出さなければならない。
 それでは具体的にどうしたらいいのか。まずわたしたちデーモスが、政治家や専門家たちより、ある意味で「賢い」ことを悟るべきである。正確にいえば、「賢くなる」ことはできるし、また「賢くなる」努力を続けるべきであろう。そのために、法外なエネルギーや時間がかかるわけではない。新聞や雑誌、ラジオやテレビに登場する識者や専門家、アンカーパーソンやウオッチャーたちの言説のうち、どれが「まとも」なのか、それを識別する「目利き」の力を養うことである。現実が恐ろしく複雑であるにもかかわらず、それを単純明快なわかりやすさに置き換えるレトリックにはいつも疑いの眼差しを忘れてはならない。わたしたちの生がそうであるように、デモクラシーにかかわる共同の事柄で、複雑さを免れる問題などひとつとしてないからである。この適度の懐疑の目を養えば、いまわたしたちデーモスにとって何が問題なのか、何が優先的に議論されなければならないのか、問題の背後に一体どんな具体的な経験の積み重ねがあったのか、こうしたことが少しづつわかってくるはずだ。
 さらに大切なのは、テレビなどの映像メディアが、実は操作や幻想、偽造などの影響を及ぼしやすいものである点を片時も忘れないことである。映像は決して嘘をつかないのではなく、そうした影響に絶えずさらされている自分をあらかじめ理解しておくことが重要だ。
 こういうと、あれも信じるな、これも信じるなと、なにやら皮肉っぽい懐疑主義者となるよう薦めているみたいだが、決してそうではない。どんなメディアでも、ありのままの現実と世界を映し出すことなどありえないという重要な視点をもつ必要を、強調したいのである。なぜなら、その「目利き」がなければ、わたしたちは、たちまち「観客民主主義」の「消費者」に転落させられてしまうのだから。
    --姜尚中、テッサ・モーリス=スズキ『デモクラシーの冒険』集英社新書、2004年、238-240頁。

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民主主義の一翼を担う多数決原理そのものが方法論的に破綻していることは、ケネス・アロウ(Kenneth Joseph Arrow、1921-)が不可能性原理で明快に示したとおりだし、その実態に反吐して哲人政治の理想へ傾倒するプラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)を引くまでもなく、完全な制度ではありません。

しかしながら、チャーチル卿(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874-1965)が「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」と指摘したとおり、「まあ、マシ」というのも事実。

であるならば、どのように向かい合っていくのか。

まあ、仮象は仮象として受けとめていくしかないわけですけど、具体的にはどうなのよって話になると、有象無象としてしてしまうのも事実。

……といって、お任せしてしまうと、それはそれでひとつの終焉を導くだけであって、新しい時代が始まるための「終演」にならないのも歴史の歩みを振り返るとそのことが至極理解できるという寸法です。

さて……
戦後日本社会は制度としての民主主義を樹立することに成功しましたが、間接民主主義として「任せる」だけでなく、その中身を検討する「目利き」することまでも「お任せ」してしまったのは否定しがたい事実です。

どのように「目利き」していくのか。

時代の転換期にあたって、そのことを考えさせられた次第です。

「なぜなら、その『目利き』がなければ、わたしたちは、たちまち『観客民主主義』の『消費者』に転落させられてしまうのだから」。

そして『観客民主主義』はパンとサーカスのローマ市民さながら、考えることをスルーした『消費者』として、怪物を召喚するものですからねえ。

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デモクラシーの冒険 (集英社新書)Bookデモクラシーの冒険 (集英社新書)


著者:テッサ・モーリス-スズキ,姜 尚 中

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【覚え書】「異論反論 反原発デモが盛り上がっています 人の犠牲の上に立つ社会とは 寄稿 雨宮処凛」、『毎日新聞』2011年5月18日付(水)。

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「異論反論 反原発デモが盛り上がっています 人の犠牲の上に立つ社会とは」
 寄稿 雨宮処凛

 反原発・脱原原発でもが全国で相次いでいる。東京都内では週末ごとに大規模デモが起こり、ほぼ毎日、全国どこかで「反原発」の声が上がっている。
 私自身も1万5000人が集まった4月10日の東京・高円寺「原発やめろデモ」を皮切りに、ツイッターで呼びかけられたデモなど、今まで4回参加した。共通しているのは、参加者の多くが若者ということだ。子連れの家族も目立ち、ほとんどが「デモは初めて」と口にする。「原発には関心がなかった」という人も多く、反省の言葉を口にする人も少なくない。しかし、今回の事故を受け、多くの人が「原発はいらない」と意思表示を始めたのだ。

自民党が推進した原発を支える構造
 私自身、原発についての専門的な知識もなければ代替エネルギーについて有効な案を持っているわけでもない。しかし、この国のすべての人が今、現在進行形で放射能汚染のただ中にいることは紛れもない事実だ。水や空気が汚染され、その影響はいつまで続くか誰にもわからない。そんな原発だが、現在30代の私が生まれた時から存在し、その是非を問われたことは一度もない。自民党が推進してきた原発とそれを支える構造が先にあり、その中で選択する余地もなく、今回の事故で初めてこれほど「当事者」でえあることを突きつけられた。「今、何もしないことで将来、下の世代にロクでもないものを残したと恨まれたくない」。デモ参加者達から何度も聞いた。私もまったく同感だ。
 そして今回の事故で、私たちは「原発」が持つ大なる矛盾を目の当たりにした。「寄せ場」である大阪・釜ケ崎で「ダンプカーの運転手」という求人に応募した60代の男性が福島第1原発で働かされ、職のない若者が「将来白血病になっても補償はない」という内容の誓約書にサインして働いている。一方、原発の交付金で箱モノを建て、その維持費のために更に原発を誘致するような「原発依存から抜けられない」状況が生み出されてもいる。そしてひとたび事故が起これば、大切に育てた生き物や農作物を泣く泣く置いていつ戻れるかわからない避難生活が待っている。
 高円寺のデモで、若い男性が掲げていたプラカードには「私は福島から来た“原発難民”です」「俺の双葉町を返せ!」と書かれていた。
 何かあったら大量の「原発難民」が生み出されることが前提となっている社会。私はこの国がこれほど脆弱なシステムの上に成り立っていることに今まであまりにも無自覚だった。そして怖いのは、放射能の影響は私たちが死に絶えても続くということだ。
 今回、白日のもとにさらされたように、「原発」は多大な犠牲を必要としている。誰かの犠牲の上に成り立つ生活を、私たちは転換させる時期なのだと思う。

あまみや・かりん 作家。1975年生まれ。反貧困ネットワーク副代表なども務める。「震災から3カ月の6月11日に反原発デモが全国であります。『原発はいらない』の声を上げたい人はぜひ。詳細は東京の主催団体、素人の乱の『原発やめろデモ』サイトなどで」
    --「異論反論 反原発デモが盛り上がっています 人の犠牲の上に立つ社会とは 寄稿 雨宮処凛」、『毎日新聞』2011年5月18日付(水)。

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5月18日付けの『毎日新聞』にて雨宮処凛女史(1975-)の寄稿があったので、資料として残しておきます。デモの有用性には懐疑的ですが、これまで無自覚だった人が状況を認識するようになったという時代は、変わりはじめているのだろうと思います。

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【覚え書】民主主義制度の「おもうつぼ」に入らぬように・・・

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 民主主義の論理上の欠点は、政治の過程や結果よりも政治の起源に気をとられたことにあった。つねに民主政治論者は、政治権力が正しい方法でもたらされたのなら、その権力は有益なものである、と考えてきた。彼の全視線は権力の源泉に注がれてきた。というのも、一番の大事は人びとの意志を実現することにあるという信念に呪縛されているからである。まず、表現は人間の最大関心事であり、次に、意志は本能的に善だからというのだ。しかし、水源でどれほど調整しても川の流れを完全にコントロールすることはできない。民主政治論者たちは、社会的権力を生み出すために有効なメカニズム、つまり投票と代議制のすぐれたメカニズムを見出す努力に気をとられている間に、人間のそのほかの関心をほとんどすべてなおざりにしてしまっていた。
 いかにして権力が生じるにせよ、もっとも重大な関心はその権力がいかに用いられるかにある。文明の質を決定するものは権力の用い方である。それは権力の発生源でコントロールできるものではない。
 もし政治をすべてその発生源においてコントロールしようとすれば、重大決定のいっさいを人目に触れないものにしてしまうことを避けられない。よい生活を生み出すような政治的決定を自動的に下す本能などは実在しないのである。権力を実際に行使する人びとは国民の意思を表現できないばかりか(なぜならほとんどの問題について意志など存在しないから)、選挙民には知らされていない意見にしたがって権力を行使するのである。
 では、もし民主主義哲学から、政治は本能的なものであるの自己中心的意見によって操作できるという過程を枝葉にいたるまで根こそぎ引き抜いたら、人間の尊厳に捧げられる民主主義の信仰ははたしてどうなるのであろうか。それは人格のいやしい一面とではなくて、そのその全人格と結びつくことによって新たに息づくであろう。なぜなら伝統的な民主政治論者が人間の尊厳を危うくしたのは、たった一つのあやふやな仮定のためだったからである。人間は自らの尊厳を賢明な法律、よい政治のかたちで本能的に明示する、というのがその仮定であった。有権者たちはそれを示さなかった、だから実際的精神の持ち主からしてみれば、民主政治論者は少々愚かに見える状況にいつもおかれていたのである。
 しかし、人間の尊厳を自治に関するただ一つの仮定に托すばかりでなく、人間の尊厳は人間の可能性が適正に行使されるようなある生活水準を要求するのだ、という考え方を打ち出すなら問題は一変する。
 そのとき政治を評定する規準は、その政治が最低限の健康、適切な住居、必要物資、教育、自由、娯楽、美しさを生み出すかどうかということであって、このようなものすべてを犠牲にして、その政治がたまたま人びとの頭に浮かんできた自己中心的意見に反応して揺れ動くかどうかということだけではない。このような規準をどこまで正確かつ客観的なものにできるかによって、比較的少数の人びとの仕事にならざるをえない政治的決定が、人びとの利害・関心に実際につながるようになる。
 想像できるかぎりどんな時代になっても、目の届かない環境全体がすべての人間にとって明白になり、人びとが自発的に政治上の全問題について健全な世論をもつようになるとは思われない。もしそのような見込みがあったとしても、自分たちに影響のある「ありとあらゆる社会的行為」について意見を形成するために、願って苦労したり時間をとったりする者がどれだけいるか大いに疑問である。ただ一つ幻想ではない見込みといえば、われわれひとりひとりがそれぞれの領域で、目の届かない世界の現実に基づいて描かれた図面によって行動するけーすがますます多くなり、こうした図面を現実に近似させておけるような専門家をますます多く育てていくだろうということである。
    --W.リップマン(掛川トミ子訳)『世論 下』岩波文庫、1987年、160-162頁。

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システム準拠でOKとすませてしまうことは、それこそ思うつぼ。

「想像できるかぎりどんな時代になっても、目の届かない環境全体がすべての人間にとって明白になり、人びとが自発的に政治上の全問題について健全な世論をもつようになるとは思われない」とのW.リップマン(Walter Lippmann, 1889-1974)の指摘は重すぎますネ。

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「わたしたちは囚われの身であり、鎖につながれているのである(執着)」ことの自覚と脱獄へ


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 この世のさまざまな事柄についての幻想は、存在に関するものではなく、価値に関するものである。洞窟のたとえも、価値に関係がある。わたしたちが所有しているのは、ただ善の模造品の影ばかりである。だから、善との関連でいえば、わたしたちは囚われの身であり、鎖につながれているのである(執着)。わたしたちは、そこへあらわれてくる、まがものの価値を受け入れる。そして、自分では行動していると思っていても、事実はじっと動かずにいる。というのは、結局同じ価値体系の中にとどまっているのだから。
    --シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995年、90-91頁。

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月曜日は、出張あけできつかったのですが、短大で2回目の哲学の講義。

初回はガイダンスと導入だけですからいよいよ本格的な授業の開始となりました。

さて哲学において一番大切なこととは何かといえば、「それがはたしてそうなのか?」ということを、きちんと自分で確認するということです。

ソクラテス的言い方をするとすれば、「あなたが理解していることは果たして正しいのか」ということを「ここまでは理解している・ここから先は理解していないということ」をはっきりさせながら、「ほんとうの○○は何なんだろう」と確認していく作業に他なりません。

いわば、これまでインプリンティングされてきた臆見を精査していく……それが「哲学する」ということに他なりません。

これまで積み重ねてきた宿痾のようなそれはたやすく穿つことは困難かもしれませんが、そのひとつのきっかけになればと思う次第です。


履修される皆様、半期という短い間ではございますが宜しくお願いします。


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 人間の思考は、情念や空想や疲労などに引きずられやすく、変化しやすいものである。ところが、実際の活動は、毎日、そして一日のうち何時間も同じようにつづけられて行かねばならない。だから、思考とはかかわりのない、つまり、さまざまな関連をはなれた、活動の動機というものが必要になってくる。これが、偶像である。
    --シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995年、104-105頁。

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重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)Book重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)


著者:シモーヌ ヴェイユ

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絶望するしかない窮地に追いこまれても、目の前が暗くなって、魂が身体を離れるその瞬間まで、あきらめるな

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 チサキを助けるためには、罠がまっているとわかっている地へ、行かねばならない。
 恐ろしかった。母に教えられたように、<神を招く者>として、冷静であらねばと思ったが、胸の底にひろがっていくおびえを消すことはできなかった。
 がたがたふるえながら、バルサを見つめていると、バルサが肩に手を置いた。
 「わたしの養父が、いっていた。--絶望するしかない窮地に追いこまれても、目の前が暗くなって、魂が身体を離れるその瞬間まで、あきらめるな。
 力を尽くしても報われないことはあるが、あきらめてしまえば、絶対に助からないのだからってね」
 その言葉よりも、バルサのおちついた声が、アスラのふるえをしずめてくれた。
    --上橋菜穂子『神の守り人 上』新潮文庫、平成二十一年年、294頁。

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週末は晩冬を思わせるような北海道・札幌市にて勤務大学の通信教育部の対面授業(スクーリング)を土日の二日間、行ってきました。

ほんとうに肌寒い二泊三日になりましたが、16名の学生さんたちと、膝詰めで「倫理学とは何か」という部分を対話することができました。

まずはそのことに感謝しなければなりません。

ありがとうございました。

また、快く、宴を開催してくれましたが学友・親友の皆様、ほんとうにありがとうございました。

また消えがたい思い出のひとつひとつを積み重ねることができたと思います。

倫理学とは道徳と異なり、初めから「~せよ」とはいいませんし、その根拠を示してくれはしません。どちらかといえば「~せよ」の根拠を、全体との有機的な連関を保持した状態で自分で考えていく学問になります。

ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ嘘をついてはいけないのか」は教材にも書かれておりませんし、教員が分かり易く示すものでもありません。

しかし、社会と歴史に耳を傾けながら、なぜそうなのか自分で考え、ほかのひととそれを摺り合わせていくところにその醍醐味があります。

そうした考えるひとつのきっかけになったとすれば、望外の喜びであります。

確かに社会もめちゃくちゃで、いろいろと頭にくることはあります。

しかし、あきらめずに、一人の人間として誠実に生きていく……。
そのことができれば、そのひとは、倫理学をしはじめたことになることだけは否定できません。

人生に勝て!などと偉そうなことはいいませんし、いいたくすらありません。

しかし、自分自身の道を迷わず歩き続けるひとに、自分自身も含め、ひとりひとりが成長していく、そうした契機になればと思う次第です。

ともあれ、二日間、皆様ありがとうございました。

北海道はようやくタンポポが咲き誇り、そして桜の花が咲き始めたところです。

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神の守り人〈上〉来訪編 (新潮文庫)Book神の守り人〈上〉来訪編 (新潮文庫)

著者:上橋 菜穂子
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君神聖なる普通の存在を、 君ら大地と生命を最後の光の矢が放たれるまでわたしは歌う。

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終わりを告げた一日のわたしを浸しわたしを満たす輝きを、
未来を予兆するひとときを、過去をくり帰すひとときを、
咽喉をいっぱにふくらませつつ、君神聖なる普通の存在を、
君ら大地と生命を最後の光の矢が放たれるまでわたしは歌う。
    --ホイットマン(鍋島能弘・酒本雅之訳)「日没に歌う」、『ホイットマン詩集 草の葉 下』岩波文庫、1971年、258頁。

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日曜日。
北海道での倫理学スクーリング最後の時間は試験。
試験が終わると、ひとりひとりが教室を出て自分自身の生活の場へとかえっていく。
うれしさ・よころびと同時に、一抹の寂しさもなんだかかんじてしまう。

そうした夕べ。

すべて終わるとあわただしく札幌駅へ。
そこから千歳空港へと。

翌日は朝から短大で講義・

その「普通の存在」であることの神々しさ。

そんなことをときどき実感します。

さて……。

写真は、新千歳空港のライオンで頂いた石焼きジンギスカン。
サッポロクラシックと北海道ケルナー 辛口。

味わいがほろ苦いねい。
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旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市編「THE BUFFET(ザ・ブッフェ) 大丸札幌」

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 「網掛けの人……もし、さむらい松五郎さん……」
 よびかけながら、男がついて来て、
 「この、須坂の峰蔵の顔を忘れなすったかえ?」
 忠吾は、こたえぬ。
 「ま、それもむりはねえ。七年前に、ひとりばたらきのおれが、湯屋谷の富右衛門お頭のところに、ちょいと世話になっていたとき、お前さんはろくに口をきいたこともありませんでしたね」
 忠吾が、無言でうなずく。
 「あのころのお前さんは、湯屋谷のお頭の右腕だとか左腕だとかいわれて、子分の衆が一目も二目も置いていったけ」
 「……」
 「相変わらず、無口なお人ですねえ、お前さんは……ま、ともかくも久しぶりだ。そのあたりで一杯さしあげたいが、いかがなもので?」
 「ふむ……」
 忠吾はうなずいて見せた。
    --池波正太郎「さむらい松五郎」、『鬼平犯科帳 14』文春文庫、2000年、247-248頁。

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初日の授業を終えた土曜日の夕方。
全力投球にて卒倒状態だったのですが、一旦ホテルへ戻ってから再び夜のサッポロの町へ。

北海道の皆様が酒席を用意してくれているということ、そして授業の参加者の方も記念にと集まってくださることになっていたので、札幌駅南口の大丸百貨店へむかったわけですが、この日も肌寒い一日でしたw

目的地は、「THE BUFFET(ザ・ブッフェ) 大丸札幌」。

百貨店8Fの見晴らしのいい一角に位置するバイキング形式のブッフェです。


会場から一旦ホテルへ戻り、それから出かけましたので到着したのは19時前ぐらいでしょうか。夕方からそうそうにはじめていて、すでにできあがり始めていた仲間たちと合流して乾杯!

ここは食べ物も作り置きではなくきちんと小分けして提供するスタイルのバイキングですが、食べ放題だけでなく、飲み放題もついてい、たいていのアルコールはそろっているのですが、やはりウリは北海道限定「サッポロクラシック」。

がぶがぶとのみつつ、美味しいお料理も好きな分量だけ愉しませていただきました。

閉店時間に関連するオーダーストップはありますが、時間制というわけでもありませんので、美味しいお料理とお酒で、ゆっくりと楽しいひとときを過ごさせていただきました。

早めに並んで場所取りをしてくださった皆様ありがとうございます。

すでに私が来店した時は、30名ぐらいの長蛇の列でした。店舗の形式上予約ができないからなのですけど。

いやしかし、いろいろがっつり呑み、がっつり頂きました。

これで男性、3,300円(女性は3,100円)。

安いよなあ、ホント。

■ THE BUFFET(ザ・ブッフェ) 大丸札幌
〒060-0005 北海道札幌市中央区北5条西4丁目7番地 大丸札幌店 8階
営業時間:17:30-22:00(入店ストップ21:00 オーダーストップ21:30)
http://www.buffet.jp/the/shoplist/d_hokkaido01.html

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鬼平犯科帳〈14〉 (文春文庫)Book鬼平犯科帳〈14〉 (文春文庫)


著者:池波 正太郎

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旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市、番外編「SUNTORY BAR 1999」

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旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市、番外編「SUNTORY BAR 1999」


表題の通り番外編。F45ビルの8Fの「魚まさ」で24:00まで呑んでから、そのまま1Fのサントリー直営のショットバー「SUNTORY BAR 1999」へ直行w

女性バーテンダーが迎えてくれる洒落たお店ですが、

たしか、山崎とアイラモルトをがぶがぶとやったのですが・・・。

記憶はどこかへw

■SUNTORY BAR 1999
住所 北海道札幌市中央区南四条西5丁目 F45ビル1F
電話 011-221-7373
営業時間 月-土 18:00-03:00
     日・祝 18:00~01:00

http://gourmet.suntory.co.jp/shop/0112217373/index.html


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旨いもの・酒巡礼記:北海道・札幌市編「函館海鮮居酒屋 魚まさ」

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 そのころ、秋山小兵衛は元長の二階で、松村伊織と酒を酌みかわしていた。
 小兵衛が、きげんよく酒をすすめるものだから、伊織は先刻の醜態を忘れ果てたかのように盃を重ね、小兵衛のさそいにのって、
 「いや、先生、まことにどうも……わたしも、あのようなことになろうとは、まさかに、おもいもおよばぬことで……このようなことになるのでしたら、あんなことをするのではありませんでした」
 二十三歳の、いかにも若わかしい顔に愛嬌笑いを浮べ、八年ぶりに会った小兵衛老人の前で、すっかり打ちくつろぎ、ぺらぺらとしゃべりまくる態は、とうてい、これが旗本の子弟ともおわれぬ。
    --池波正太郎「嘘の皮」、『剣客商売 3 陽炎の男』新潮文庫、昭和六十一年、137-138頁。

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13日の金曜日!に北海道へ到着したのですが、18:00ちょっと前にホテルに荷物を預けてから、お世話になったのが「魚まさ」(魚まさ 札幌すすきの店)。

北海道の知人が予約をいれてくれたところなのですが、もともとは函館産まれ、函館育ちの居酒屋で、この4月に札幌店が開店したというできたてほやほやのお店。

テーマは「函館の食材を函館で食す」!

以前、北海道の知人に「北海道に“旬”はありません。いつ何を食べても美味しいんです」といわれたことがありますが、その食の一つの“極み”である「函館」を堪能させていただいた次第です。

お任せのコースと単品の注文に、飲み放題をつけてはじめましたが、北海道限定の「サッポロクラシック」で乾杯。
お通しは、「鮪のしぐれ煮」。

クラシックの芳醇な味わいで再会を喜ぶとともに、薄味ながらしっかりと味わいを主張する「しぐれ煮」に舌鼓。


さて……最初にはこばれてきたのは、まずは名物の「活イカ」からw

ごらんのとおり、生きているイカをそのまま1本どーん!、と。

お造りでやるわけですが、口蓋で身が跳ねるというのはこのことでしょうか。

3人でも多いかなというイカですが、こちらは後で、残りを天ぷらにしていただき、1度で2度美味しいという寸法。

お造りはしめさばとサーモン。

しめさばの脂も素晴らしく、こちらも口の中で溶けてしまい、生きのよいサーモンにも驚愕。新鮮なサーモンは本土ではめったに見ることができませんから、、、

「これが本物の鮭かッ!」

……などと口にしてしまう始末ですw

それからお任せの串盛り(塩)。

鶏中心のオーダーですが、どちらも「ぷりぷり」の味わいに、北海道の幸のすばらしさに納得ですが、ここはひとつ「どこでも出てくるメニューで、それが本物かどうか確かめてやろう」……ということになり・・・

お願いしたのが「鯖の塩焼き」

日本のどの家庭でも作られる定番メニューですが、、、

この身ののり具合を見てください。

輝いていますよw

輝いているのは見てくれだけではありません。

一口口に運んだとたん、

「参りました」

……というのはこのことでしょうか。

終盤、これをやらずに「北海道から帰ることはできない」というわけでお願いしたのが、「豚串」です。

北海道では「ヤキトリ」と言えば「ヤキトン」が出てくるように、豚の名産地。

大降りの肉をタマネギと豪快にアレンジし、秘伝のタレで焼いた奴で勝負。

いあずもがなこちらの負けですよねwww

結局、19:00からはじめてラスト・オーダーまで飲み続けた次第ですが、いやはや、、、

「いい仕事をしておりました」

また来道するときには訪れたいものです。

ありがとうございました。

※たぶん、他にも頼んではいると思うのですが、写真解説はこれだけで……すいません。


■ 函館海鮮居酒屋 魚まさ 札幌すすきのF45店
住所 〒064-0804 北海道札幌市中央区南4条西5 F45ビル8F
TEL 011-252-6801
営業時間 17:30-24:00
定休日  日曜日

http://r.gnavi.co.jp/h202902/

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「情報過多は、むしろ理解の妨げ」になるどころか「自分の判断を下す手間まで省いてくれる」とは……。

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 ここに読書家というのは、情報や知識を主として活字によって得る習慣のある人のことである。ラジオ、テレビの発達したマス・メディアの時代の今日であるが、このような習慣のある人たちこそ、本当の読書家と呼ぶにふさわしい。
 昔のインテリはたいてい、この意味で読書家だった。むろん、何もかも読書から得たというわけではなく、テレビやラジオのなかった時代でも、実際の見聞を通して得られる知識や情報もある程度はあった。だが、それだけでは知的好奇心を満足させることのできない人々もいた。インテリは読書が必要であることを知っていたし、また事実、よく本を読んだものである。
 ところで読書は、最近、昔ほど重要されないようだ。ラジオ、とくにテレビは、かつて活字が果たしていた機能を肩代わりしようとしている。テレビのニュースは目に訴えるし、ラジオは仕事をしながらも聞けて便利である。しかし、これらの新しいマス・メディアは、私たちが物事を深く理解するという点で、はたして本当に役立っているかといえば、大いに疑問である。
 いまの私たちは、世界について昔より多くを知ることができるようになっているそれは恵まれている。深く理解するために、多くを知ることが絶対に必要であるなら、それも結構だろう。だが一から十まで知らなくても物事を理解することはできる。情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の正しい姿が見えなくなってしまっている。
 こういうことになったのはなぜか。--理由の一つは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくてもよいような仕掛けにできていることである。現代の頭脳はその粋を集めて、情報や意見の知的パッケージを作るという大発明をなしとげた。この知的パッケージを、私たちは、テレビ、ラジオ、雑誌から受けとっている。そこには気のきいた言い回し、選びぬかれた統計、資料などがすべて整えられていて、私たちはいながらにして「自分の判断を下す」ことができる。だがこの知的パッケージがよくできすぎていて、自分の判断を下す手間まで省いてくれるので、読者や視聴者はまったく頭を使わなくてもすんでしまう。カセットをプレーヤーにセットする要領で、知的パッケージを自分の頭にポンと投げこめば、あとは必要に応じてボタンを押して再生すればよい。考える必要はなくなったのである。
    --M.J.アドラー、C.V.ドーレン(外山滋比古、槇未知子訳)『本を読む本』講談社学術文庫、1997年、14-16頁。

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ふうむ。

初版からいけば71年前の指摘(1940年、改訂1967年)。

全くコメンタリー不要の指摘。

「情報過多は、むしろ理解の妨げ」になるどころか「自分の判断を下す手間まで省いてくれる」とは……。

げ、げげげw

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著者:J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン

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「近道」をさけて「道」を創造していくということ

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 「道。」--いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ--そして道を失う。
    --ニーチェ(茅野良男訳)『曙光 ニーチェ全集7』ちくま学芸文庫、1993年、69頁。

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いそぎばたらきで恐縮ですが、うえのニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の一節はもはや説明が不要なほど明快なレヴェル。

はしょったり、短縮したり、近道で「楽をしよう」とすると、ほんとうに歩むべき道というものを失念してしまうものなんですよね。

さて……
ゴールデンウィークには、わが家恒例の夏の対策?として「ごーや」の苗を植えました。真夏になるとこれが涼しいカーテンになるからです。

ことしてで3年目。

手間はかかるのですけど、生命と向かい合うということ自体「手間がかかる」「手抜きのできない」ことですから「近道」なんてありませんから、毎日、誠実に向かい合うほかありません。

まあ、ついでなので魯迅(1881-1936)の一節もひとつ。

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 希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
    --魯迅 (竹内好訳)「故郷」、『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇』岩波文庫、1955年。

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3月から、いろいろと考え直したり、頭にきたりすることの多い毎日ですが、「道」を丁寧に拵えていくしかありませんね。

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古来、哲学と称せられるものは、何等かの意味において深い生命の要求に基づかざるものはない

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 古来、哲学と称せられるものは、何等かの意味において深い生命の要求に基づかざるものはない。人生問題というものなくして何処に哲学というべきものがあるであろう。
    --西田幾多郎「生の哲学について」、『西田幾多郎全集 第6巻』岩波書店、1965年。

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月曜から勤務先の短大での哲学の新年度の講義がはじまりました。

例年水準でみると、まあ50名前後かなあと思っていると、100名を超えていてびっくり……。

こちらも全力で死闘をつくしますので、履修された皆様がた、どうぞ宜しくお願いします。

……ということで、ひさしぶりにキャンパスをおとずれましたので、その様子を少々……。

すいません、考える暇なしで(涙


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どんな本も、それは自分を解放する手がかりだ

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 すべての本はやがて失われる。だが、自分の読んだ本は、自分が自分をとらえる手がかりであり、もうひとりの自分というものである。人間のつくった本は、本という形を超えて、人間の活動の中に生きている。
 ブラジル、ユーゴスラヴィア、フランス、米国、イギリスなどで、それぞれの言語で俳句と連歌が新しくおこっている。それらは、室町時代以前の日本の文化から刺激を受けており、世界それぞれの土地、それぞれの言語で俳句や連歌を試みる人のあいだに、自分たちの言語では読めない本に向かって手をさしのべる試みがある。人間の歴史の向こうには、現在を超えて、読めないが読みたい本への希望がある。
 私は、自分が老いるにつれて、子どものころの、ありとあらゆる本を読むという理想が失われ、自分の読むことのできない本を、向こうに静かに眺める位置に移っている。しかし、未来にあるどんな本の中にも、私はとじこめられたくない。どんな本も、それは自分を解放する手がかりだ。
    --鶴見俊輔編、鶴見俊輔「本という自分」、『本と私』岩波新書、2003年、10-11頁。

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東日本大震災の影響で、出講先の短大での講義が1ヶ月遅れでGW開けになりましたが、いよいよ本日が初回の講義。

これまでもつねづね、自分自身が心掛けてきたのは、学生さんたちに「学生時代にいっぱい本を読みなさいよ」ということ。

こういうご時世ですけど、本をきちんと読んでおかないとはじまりません。

そのきっかけづくりの一コマ一コマになればと思う次第。

何しろ、本当に価値のある本というもの「自分を解放する手がかり」ですからねw


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すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者はしめ出される危険

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……今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。つまり北米合衆国でいわれているように、他人と違うということ即ふしだらなことであるという風潮である。大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者はしめ出される危険にさらされているのである。ところが、この「すべての人」が真に「すべての人」でないことは明らかである。かつては「すべての人」といった場合、大衆とその大衆から分離した少数者からなる複合的統一体を指すのが普通であった。しかし今日では、すべての人とは、ただ大衆を意味するにすぎないのである。
 以上が現代の恐るべき事実であり、そのいつわりのない残酷な実相である。
    --オルテガ・イ・ガゼット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、1995年、21-22頁。

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誤解を招くと厭なので先に断ると、オルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)は、階層的社会を称賛し、円周的な市民社会を批判しようとしたわけではありません。

構想された社会としては、前者よりも後者のほうが機会の問題を含めて圧倒的な有利で効率的に稼働することは疑いようもない事実です。

しかし、それをだれがどのようなモチベーションでささえていくのか……。

そのへんの議論がすっとばされて「権利に眠る」(丸山眞男)ようになってしまうと問題も多いでしょう。

「すべての人」なんて存在しないけれども、「すべての人」に収斂させていく手合いの多いことには辟易としますよ。

ゴルァ。

あしたはオルテガの誕生日。

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学問的真実、政治的真実、妄想的真実の混乱……

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 普通のひとは日常生活に忙しすぎて専門書を読んで議論したり、生活圏以外のことを考えたりする時間があまりない。だから、学者がちゃんと勉強して、まともな情報をまともに解析して、「世の中はこうなっていますよ」、「こうしてはいかがですか」、あるいは「こういう便利なものができました」といって公開する、それをメディア、ジャーナリズムが報道して、主権者である生活者に判断してもらう、それが学問と社会のとのあいだの理想的な関係であろう。そうした方向での貢献が学者の社会的使命だろうし、社会科学の目的であるのにたいし、自然科学の目的は、自然界の仕組みとその社会的影響について客観的な情報を提示することにある。つまり、相対としての学問の目的、学者の責任とは、世の中の事実や真実がどういうものであるかを分析し、わかりやすく提示すること。また、今まで発見されていなかったものを見つけたり、今までの解釈が間違っていたりするものについて、訂正を加えるということ、社会的に圧迫されているものに対して、その権利回復の後押しをする理論的援助をすることだと私は考える。
 しかし学者が研究してきたものはしばしば一般のひとには理解しにくいから、やさしい、普通のことばで説明し直すのがメディアとジャーナリズムの役割になる。大手メディアに長くいるとそのところがわからなくなって、聞きかじり程度の知識しかないのに、自分は賢いと錯覚したり、自分は何をしてもいいと誤解して社会的迷惑行為をしているものが自称(ジャーナリスト)たちに多い。
 私個人は書くものが己の良心にのみ左右され、時代を超えて正しくありたいと願っている。科学的にわかる範囲で、いかなる権力にも遠慮することなく、学問的真実を書き抜いていくことだと信じる。が、情報と事実・真実ということを考えると、世の中には①<学問的真実>のほかに、より多くの人が幸せを感じる②<政治的真実>、教典などに従うだけの③<妄想的真実>の三つのレベルがあることを知って行動するようにしたい。
 第一の学問的真実というのは、先述のように、良心にしたがってものを見て、誰もが納得する方向に従って分析すると、いつでもほとんど同じ結果が出るものである。政治的真実とは、事実とは違うかもしれないが、関係する人びとが満足すればそれが正解という立場である。妄想的真実とは自ら調べ考えることなく、今度のニューヨークの世界貿易センタービルと国防総省に突っ込んだイスラム原理主義者(の一部)やサリン事件まで突っ走ったオウム真理教(アレフに改称)のような、彼らにだけ通用する<確信>である。第二の政治的視点でもエリート支配層の存在と関係者の独善を是認するという意味では必ずしも是認できるわけではないが、第三のケースはとうてい私のいう「市民主権」性とは相容れない。
    --渡辺武達『市民社会と情報変革』第三文明社、2001年、15-17頁。

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自然科学やメディア論が専門ではない、ただの神学研究学徒にすぎませんが、渡辺先生の指摘する行動指針は大切にしたいと思う。

たしかに世の中には、「①<学問的真実>のほかに、より多くの人が幸せを感じる②<政治的真実>、教典などに従うだけの③<妄想的真実>の三つのレベル」が存在するのは疑うことの出来ない真実。

ただしかし、この国では、①も政治的影響を受けると同時に、②は逆ベクトルへと進み、③は肥大化の傾向を増しつつあるというのが現状でしょうか。

ふうむ。

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【覚え書】矛盾をおかす力

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 矛盾をおかす力。--矛盾に堪え得る、ということが、文化の高さの徴候であるとは、現在では誰でもが知っている。のみならず若干の人たちは、高級な人間が今まで気づかなかった自分の不正について暗示を得るため自分自身に対する矛盾を願いもし喚び起こしもする、ということを知っている。しかし、矛盾をおかす力、すなわち、習慣となったもの・伝統ということを、知っている。しかし、矛盾をおかす力、すなわち、習慣となったもの・伝統となったもの・聖化されたものと戦うことによって獲得する疚しさ知らぬ良心--これこそは、前二者にもましてすぐれたものであり、われわれの文化のもつ真に偉大なるもの新しいもの驚くべきものであり、解放された精神の歩みのなかの決定的な一歩である、--これを知るものは誰か。
    --ニーチェ(信太正三訳)『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』ちくま学芸文庫、1993年、313頁。

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【研究ノート】ジジェク:自己の存在が他者性とどのように交差するのか……。

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 自身の責任を完全にとることの不可能性は、〔人が体験を〕物語として再構成する際につきものの、単純化できない主体と主体の間の文脈によっている。私が自らの人生を物語として再構成する際には、必ず主体間の一定の文脈内で行うのだ。<他者>が呼びかける命令に答え、一定の形で<他者>を扱っている。(無意識な)動機やリビドーの関与を含めた背景を、物語の中で充分に平明な形で明らかにすることはできない。記号体系の物語において自分を完全に説明することは理論的に無理であり、<汝を知れ>というソクラテス的な命令に従うことはア・プリオリな構造上の理由により不可能なのだ。規則的・象徴的な伝統の実質のみならず、身体的・欲求的な<他者>の実質、<他者(たち)>に開かれ、たまらなく傷つけられやすい自分、主体としての自分の立場--これらの実質が<他者>との繋がり次第であるためである。しかし<他者>への決定的な露出がもたらす根本的な脆弱性は、私の倫理的な地位(自主性)を制限するどころか、基礎づける。個人を人間たらしめ、我々が彼・彼女に責任を持ち手助けする義務を生じさせるのは、相手の有限性と弱さなのだ。この根本的な露出/依存性は、「私は自分の主ではなく、自身を超越した力によって行動が左右されている」ために究極的には責任を負っていないのだと、倫理を切り崩すわけではけっしてない。そればかりか、互いの脆さと限界を受け入れ、尊重しあう個人の間に、適切に倫理的な関係を切り開くのである。ここで要となるのが、<他者>の不可解性と、自分自身の不可解性が連動している店だ。それらは、自らの存在が<他者>への根本的な露出に基づくがゆえに繋がっている。他者と突き合わされても、私は自分を充分に説明することなどできない。この<他者>への露出に対して自らを閉ざしたり、意思によらないものを意図されたものに置き換えたりすべきではないと強調することで、バトラーはニーチェの思想の核心部分異論を唱えてはいないだろうか? <同じ世界>の永劫回帰を願うという彼の立場は、まさしく、我々が与えられたままに投じられた状況にあるという意思によらない全てのことを、何か<意図された>ものに移しかえるものなのだから。
 そうして、倫理の第一歩は、絶対的に自己を措定する主体という立場を諦め、自らの露出/投げ出された事実、<他者(性)>による圧倒を認識することである。我々の人間性に制約を加えるどころか、この限定は人間性の積極的な条件である。有限性の自覚がほのめかすのは、根源的な容赦と寛容の「生き、生かせ」というスタンスだ。私は<他者>を前にして自分を説明づけることなどできず、また<他者>によっても他者自身は謎であるため、彼・彼女から「あなたは誰?」という質問への答えを得ることはできない。すなわち<他者>を意識することは、<他者>を理性的、善良、愛すべきといった、明確に定義された範囲で捉えることに終始するわけではない。相手自身の不可解で不透明な渾沌の中で、相手を認識することなのだ。
    スラヴォイ・ジジェク(岡崎玲子訳)「人権の概念とその変遷」、『人権と国家--世界の本質をめぐる考察』集英社新書、2006年、145-147頁。

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人権の概念の立ち上がりとその変遷を概観するジジェク(Slavoj Žižek,1949-)の議論の一節から。

自己の存在が他者性とどのように交差するのか……。

興味深い一節です。

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 人権と国家 世界の本質をめぐる考察 人権と国家 世界の本質をめぐる考察
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上野動物公園のパンダ、そして「何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く生活することを欲することができない」こと。

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定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く生活することを欲することができない。
証明 この定理の証明、あるいはむしろこの事実そのものはそれ自体で明白であり、また欲望の定義からも明らかである。なぜなら、幸福にあるいは善く生活し・行動しなどなどの欲望は(感情の定義一により)各人が自己の有を維持しようと努める努力そのものだからである。ゆえに何びとも生存し行動し云々。Q・E・D・
    --スピノザ(畠中尚志訳)『エチカ (倫理学) 下』岩波文庫、1975年、32ー33頁。

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ゴールデンウィークの連休のさなかに、パンダが来園したばかりの東京都恩賜上野動物園に足を運ぶということは暴挙にも等しい選択なわけですが、

「ゴールデンウィークに、息子殿をどこにもつれていってないというのはマズイよ」

……と細君がいうので、

「ふたりでいっておいでw」

……とふったのですが、

「一日ぐらい仕事しないでも(=学問の)、問題ないだろがッ」

……ってことで連行された次第。

いつものコースですが、まずは午前中に国立科学博物館をじっくり見学。

上野駅を降りたところで、実は改札からでるまでに長蛇だったのですが、動物園のほうにもどると、例の如くw

今日は東京都民に対しては無料で動物園が開放されていましたので、それも拍車をかけているとは思うのですが、パンダの列は別に設定されていて、閲覧まで3時間はかかるということでしたので、通常入場にて……堪能????

堪能????ですよ。

息子殿曰く「動物園に人間を見に来たみたい」

その通りです。

まあ、しかしながらそれでもテキトーに見つつ、愉しみつつ、父親「稼業」に精をださせていただいた次第。

「つかれたからパンダはもういいや」

……と本人も言うので、

「かえるか」

……ということで正面ゲートへ向かうと、

ポジショニング的なチャンスの到来!

はい、ならばずに見えました!

息子殿をだっこして見せてから、記念に、写真もぱちり。

「どうだった」

「満足した!」

……とのことで一日の業を終えた次第です。

いやはや、非常につかれた一日でしたが、スピノザ(Baruch De Spinoza,1632-1677)曰く「何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く生活することを欲することができない」というのは、なんとなく体感した次第です。

いやしかし、非常にお疲れマンボです。


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 エチカ 倫理学 下 エチカ 倫理学 下
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無限に滑車を廻すハムスター

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 実際、我々は極普通の談話においてさえ、快適と善とを区別しているのである。香辛料やその他これに類するものを加えて味を利かせた料理を食べると、最初はなんの考えもなく快適だと言うが、しかしそれと同時に本当は善くないということを認めているのである。こういう料理は、なるほど直接には感覚を喜ばせるが、しかし間接的には--換言すれば、あとあとのことを慮る理性によって考えてみると、快いとは言えないからである。健康というものの価値を考えてみる場合にも、やはりこのような区別に直ぐ気づくのである。健康は、およそ健康な人にとっては直接に快適である(少なくとも消極的には、即ち身体的苦痛がまったく存在しないという点では)。しかし健康を善であると言うためには、さらに健康を理性によって目的に完成させてみなければならない。そうすると健康とは、我々を自分の一切の仕事に進んで従属させるような状態である、ということになるだろう。最後に幸福について言えば、誰しも生活を快適ならしめるものの(その数および持続に関して)最大量を真の善--それどころか最高の善とさえ名づけてよいと考えている。しかしこういう考えに対しても理性は反撥するのである。快適とは取りも直さず享楽のことである。ところで享楽そのものが人間の唯一の関心事であるとするならば、享楽を我々に与えるところの手段に関してやかましい論議だてをするのは、--換言すれば、その享楽は仁慈な自然から受動的に得られたのか、それとも我々自身のはたらきによって自発的に得られたのかを詮索するのは、愚かなことだろう。しかしひたすら享楽するためにのみ生きているような人(そしてこの点にかけてはいかに勤勉であろうも)の存在が、それ自体なんらかの価値を有するなどということは、断じて理性の納得し得るところでない。ましてこの人が、やはり彼同様にもっぱら享楽を求める他の人達の欲求を促進する最適の手段となり、しかもそれが彼等と情感を同じくすることによって相共に一切の感覚的満足を享楽するためとあっては尚さらである。人間は、享楽を度外視しまた自然が彼にたまたま受動的に与えるところのものにいささかもかかわりなく、完全に自由な状態において彼の為すところのもの〔行状〕によってのみ、一個の人格的実在としての彼の現実的存在に絶対的価値を与えるのである。そして幸福は、快適な事共の一切を挙げても、とうてい無条件的に善たり得ないのである。*
 *享楽する責務などということは、明らかに不合理である。それだからもっぱら享楽を目標とするような一切の行為に対するいわゆる責務なるものもまた不合理である。たとえ享楽が、いかに精神的なものとして案出され(或は粉飾され)ようとも、或はまた神秘的な、いわば此世的なものならぬ享楽であるにせよ、やはり不合理なものであることには変りがない。
    --カント(篠田英雄訳)『判断力批判』岩波文庫、1964年、79-80頁。

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別に聖僧でもありませんから、享楽を否定しませんし、享楽という部分がなければ生活に潤いがなくなってしまうということはひといちばい理解しております。

しかし、それをしつづけなければならない……ということを首肯することはなかなかできません。

これは享楽に限定される問題ではありませんけれどもね。

電気を使うために電気を発電し続ける……。
お金を儲けるためにお金を使いつづけていく……。

無限に滑車を廻すハムスターのようで……orz

「ひたすら享楽するためにのみ生きている」ということでは、「いかに勤勉であろうも」それはどこかオカシイと思うのですが……。

ううむ。

ただし安直にそれへのアンチとして「自然へ還れ」という号令も空しい訓戒に等しいわけなんですがねえ。


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保守主義的イデオロギー形成のこの第一段階

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……そもそも「具体的なるものの意欲」、社会的当為からの構成に対する嫌悪、直線的時間構成の拒否、土地および有機的団体の強調的体験を意味明瞭なものにさせる中心は、保守主義的体験が、歴史的出来事を今日なお生きている過去の成分から体験し、同時にまたここからその伸張(tension)(心的な緊張方向)を入手しているという事実である。それゆえ、保守主義的に(オリジナルな仕方で)体験するということは、歴史的出来事の過去の状況のなかにその成立根源が基礎づけられている体験中心、つまり近代的保守主義が成立する時代にいたるまで、比較的不変のままに保たれた体験中心から生活することを意味する。というのは、これらの体験中心は、その時まで、近代的諸事件によってまだ揺り動かされていなかった社会的生成の諸領域に、その担い手をもっていたからである。この原初的な生活芽と体験形式とから、保守主義的思考はその充実と、単なる思弁的なものではない性格とを獲得する。
 しかし、保守主義的思考は、このような環境と内的世界との体験に底礎づけられているので、それは特殊な刻印をおびている。したがって原初的保守主義的体験は、その精神的および心的滋養分の源泉をなしている。かの生活芽を、生活圏がなお伝統的なものとのつながりを保っているところにおいて、もっとも早く把えることができる。この原初的保守主義的体験は、それは存在している生活空間のうちにすでに異種の生活態度と思考方法とが出現し、それに対するイデオロギー的防御において自己をはっきりうち出さなければならないときに、反省的になり、その特性を意識するようになる。保守主義的イデオロギー形成のこの第一段階(同時にそれは方法論的考慮の段階)において、保守主義的体験ならびに思考はすでに反省的であり、その運命線はその後、この反省がたかってゆくのにつれてますますはっきりと決定されてくる。
    --カール・マンハイム(森博訳)『保守主義的思考』ちくま学芸文庫、1997年、85-88頁。

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原体験は、バーチャルなものに比べて圧倒的に優位な位置に定位しておりますが、それに対する過度の信仰は、一種のイデオロギーになってしまうことも事実かあ。

くわばらくわばら。


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義務についての信念から行為すると断言するのが真であるのか、行われることが現実に義務であるのか

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義務についての信念から行為すると断言するのが真であるのか、行われることが現実に義務であるのか、--このような問いや疑いは良心に対しては何の意味ももっていない。--断言が真であるかどうかと問うときには、内心の意図が表面に出された意図とちがうということが、すなわち、個々の自己の意欲が、義務から、一般的で純粋な意識の意志から、離れるということが、前提されているのであろう。これは、表に出た意図は言説に表されるけれども、本来、行動の真の動機となるのは、内心の意図であろうということである。とはいえ、一般的意識と個別的な自己をかく区別することこそは、すでに廃棄されたことなのである。そしてこれを廃棄することが良心なのである。自らを確信する自己という直接知が、法則であり義務である。その意図は、自らの意図であることによって、正義である。そのとき、求められていることは、自己がこのことを知るということ、自らの知と意欲が正しいことについて、信念を語っているということ、それだけである。この断言を言表することは、それ自体で、それが特殊であるという形式を廃棄している。そのとき言表は自己の必然的な一般性を認めている。つまり自らを良心と呼ぶことによって、自らを純粋に自己自身を知ることであると、純粋に抽象的に意欲することであると、呼ぶことになる、すなわち、自らを、他人が承認するような、他人と等しいような、一般的知および意欲であると呼ぶことになる。というのは、他人も純粋な自己-知および意欲にほかならないからである。
    --G.W.F.ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学 下』平凡社、1997年、248-249頁。

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表層的な動機還元主義を慎重に廃しておりますなあ、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)。

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