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「人間を歪めるもの」に対する抵抗は、イデオロギーが先行してはなりませんよ、ホント

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……エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ルッターの出発点には、「エラスムスが産んだ卵を孵した」と謂われるくらい、ユマニスムに近いものがあったに違いありませんが、キリストの心に帰るために、同じキリストの名を掲げて、意見の違うキリスト教徒(この場合は旧教徒)と闘争するという行動に出て、ヨーロッパに幾多の非キリスト教徒的な暴状を誘発するような事態を作ってしまいました。そして、カトリック教徒の側には、ルッターから見れば《生ぬるい》エラスムスの批判までを白い目で見て、新しい時代の息吹を窒息させることをもって唯一の解決法と考えていた人々もいましたから、そういう人々にも、ルネサンス期の血みどろな宗教戦争の責任を負ってもらわねばならぬことは当然です。しかし、もしルッターが、エラスムスと終始一貫手を握り、先輩としてのエラスムスの批判の衣鉢を継ぎ、これを更に世に広く辛抱強く弘めたら、また同じ志の人々の育成に尽したら、あのような悲惨事は起こらなかったかもしれません。そして、このように、《もし……したら》というようなことは、我々人間が、大して心の痛みも感じないで公言できる便利な言葉であることは、承知していますが……。
    --渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫、年、327-328頁。

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フランス文学者・渡辺一夫(1901-1975)さんが描写する、エラスムス(Desiderius Erasmus,1466-1536)とルター(Martin Luther,1483-1546)の発想と形式の差異が正鵠を得ているのは、本人自身が、何よりも「ユマニスト」だったからなだろうと思うのは僕だけではないでしょうね……ぇ。

エラスムス以上に「ユマニスト」たらんと努力するからこそ最後の一節「このように、《もし……したら》というようなことは、我々人間が、大して心の痛みも感じないで公言できる便利な言葉であることは、承知していますが……」の余韻がこだまするのだと思います。

非常に重いといいますか、深く受け止めなければならない一節です。

特に今の時代。

正しいことだけを主張して自分を安全地帯に定位し、恫喝とつるし上げだけをやるアンチと推進派。

そうした構造から脱出するひとつのきっかけになれないと……同じ事を繰り返してしまいますね。

ふう。

「人間を歪めるもの」に対する抵抗は、イデオロギーが先行してはなりませんよ、ホント。

02


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