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「情報過多は、むしろ理解の妨げ」になるどころか「自分の判断を下す手間まで省いてくれる」とは……。

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 ここに読書家というのは、情報や知識を主として活字によって得る習慣のある人のことである。ラジオ、テレビの発達したマス・メディアの時代の今日であるが、このような習慣のある人たちこそ、本当の読書家と呼ぶにふさわしい。
 昔のインテリはたいてい、この意味で読書家だった。むろん、何もかも読書から得たというわけではなく、テレビやラジオのなかった時代でも、実際の見聞を通して得られる知識や情報もある程度はあった。だが、それだけでは知的好奇心を満足させることのできない人々もいた。インテリは読書が必要であることを知っていたし、また事実、よく本を読んだものである。
 ところで読書は、最近、昔ほど重要されないようだ。ラジオ、とくにテレビは、かつて活字が果たしていた機能を肩代わりしようとしている。テレビのニュースは目に訴えるし、ラジオは仕事をしながらも聞けて便利である。しかし、これらの新しいマス・メディアは、私たちが物事を深く理解するという点で、はたして本当に役立っているかといえば、大いに疑問である。
 いまの私たちは、世界について昔より多くを知ることができるようになっているそれは恵まれている。深く理解するために、多くを知ることが絶対に必要であるなら、それも結構だろう。だが一から十まで知らなくても物事を理解することはできる。情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の正しい姿が見えなくなってしまっている。
 こういうことになったのはなぜか。--理由の一つは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくてもよいような仕掛けにできていることである。現代の頭脳はその粋を集めて、情報や意見の知的パッケージを作るという大発明をなしとげた。この知的パッケージを、私たちは、テレビ、ラジオ、雑誌から受けとっている。そこには気のきいた言い回し、選びぬかれた統計、資料などがすべて整えられていて、私たちはいながらにして「自分の判断を下す」ことができる。だがこの知的パッケージがよくできすぎていて、自分の判断を下す手間まで省いてくれるので、読者や視聴者はまったく頭を使わなくてもすんでしまう。カセットをプレーヤーにセットする要領で、知的パッケージを自分の頭にポンと投げこめば、あとは必要に応じてボタンを押して再生すればよい。考える必要はなくなったのである。
    --M.J.アドラー、C.V.ドーレン(外山滋比古、槇未知子訳)『本を読む本』講談社学術文庫、1997年、14-16頁。

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ふうむ。

初版からいけば71年前の指摘(1940年、改訂1967年)。

全くコメンタリー不要の指摘。

「情報過多は、むしろ理解の妨げ」になるどころか「自分の判断を下す手間まで省いてくれる」とは……。

げ、げげげw

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