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義務についての信念から行為すると断言するのが真であるのか、行われることが現実に義務であるのか

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義務についての信念から行為すると断言するのが真であるのか、行われることが現実に義務であるのか、--このような問いや疑いは良心に対しては何の意味ももっていない。--断言が真であるかどうかと問うときには、内心の意図が表面に出された意図とちがうということが、すなわち、個々の自己の意欲が、義務から、一般的で純粋な意識の意志から、離れるということが、前提されているのであろう。これは、表に出た意図は言説に表されるけれども、本来、行動の真の動機となるのは、内心の意図であろうということである。とはいえ、一般的意識と個別的な自己をかく区別することこそは、すでに廃棄されたことなのである。そしてこれを廃棄することが良心なのである。自らを確信する自己という直接知が、法則であり義務である。その意図は、自らの意図であることによって、正義である。そのとき、求められていることは、自己がこのことを知るということ、自らの知と意欲が正しいことについて、信念を語っているということ、それだけである。この断言を言表することは、それ自体で、それが特殊であるという形式を廃棄している。そのとき言表は自己の必然的な一般性を認めている。つまり自らを良心と呼ぶことによって、自らを純粋に自己自身を知ることであると、純粋に抽象的に意欲することであると、呼ぶことになる、すなわち、自らを、他人が承認するような、他人と等しいような、一般的知および意欲であると呼ぶことになる。というのは、他人も純粋な自己-知および意欲にほかならないからである。
    --G.W.F.ヘーゲル(樫山欽四郎訳)『精神現象学 下』平凡社、1997年、248-249頁。

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表層的な動機還元主義を慎重に廃しておりますなあ、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)。

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