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2011年6月

【覚え書】ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」

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 現代人のプロレタリア化の進行と、大衆の形成の進行とは、ひとつの出来事の両面である。新たに生まれたプロレタリア大衆は、現在の所有関係の廃絶を迫っているが、ファシズムはこの所有関係には手をつけずに、大衆を組織化しようと試みている。ファシズムは大衆に、彼ら自身を表現する機会を(彼らにふさわしい権利を、では決してなく)与えることが、自分の利益になると考える。大衆が所有関係を変革する権利をもっているのに対し、ファシズムは所有関係を温存しつつ、大衆にひとつの表現を認めようとする。ファシズムの行きつくところは当然ながら、政治生活の耽美主義化である。ダヌンツィオとともにデカダンスが、マリネッティとともに未来派が、そしてヒトラーとともにシュヴァービングの伝統が、政治のなかに道道と入場してきた。
 政治を耽美主義化しようとするあらゆる努力は、ある一点において極まる。この一点とは戦争である。戦争が、そして戦争だけが、従来の所有関係を保存したまま、最大規模の大衆運動にひとつの目的を与えることを可能にする。これは事情を政治の側から見た言い方である。同じ事情の側から見れば、次のような言い方ができる--戦争だけが、所有関係を保存したまま、現代の技術手段をすべて動員することができる。アタリマエのことながら、ファシズムによる戦争賛美は、これらの論拠を用いてはいない。にもかかわらず、こうした点を一瞥しておくのは有益である。エチオピア植民地戦争に関するマリネッティの宣言文にはこうある。「二十七年前からわれわれ未来派は、戦争を美的でないとする意見に反対してきた。……したがってわれわれはここで確認する。……戦争は美しい。なぜなら戦争は、ガスマスクや威嚇用拡声器や火炎放射器や小型戦車によって、人間が機械を征服し支配する状態を樹立するからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は、人間の肉体を金属で被うという夢をはじめて実現するからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は花咲く野に、連発銃の炎という蘭を付け加えるからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は、銃火、大砲の連射、その合間の静寂、芳香と腐臭を、ひとつの交響曲にまとめ上げるからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は新しい公正、たとえば大型戦車、幾何学模様を描く飛行編隊、燃え上がる村々かららせん状にたちのぼる煙、その他たくさんのものを創造するからだ。……未来派の詩人と芸術家たちよ、……これら戦争の美学の諸原理を思い出せ。新しいポエジーと新しい造形をもとめる君たちの奮闘が、これらの原理によって照らし出されるために」。
 この宣言文には明快さという長所がある。その問題設定は、弁証法的に思考する者によって引き継がれるに値する。弁証法的に思考する者にとって、今日の戦争の美学は、次のような姿で表れてくる。生産力の自然な利用が、所有の秩序によって妨げられると、技術手段、テンポ、エネルギー源の増大は、生産力の不自然な利用を強く要求する。この不自然な利用の場は戦争に求められる。そして戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだきわめてむごたらしい諸特徴を規定しているものは、巨大な生産手段と、生産過程におけるその不十分な利用とのあいだの齟齬(別の言葉で言えば、失業と販路不足)なのである。帝国主義戦争は、技術の反乱である。技術の要求に対して社会が自然の資源を与えなくなったので、技術はその要求をいまや<人的資源>に向けているのである。技術は電力設備を配置するかわりに、人力を軍隊というかたちで配置する。飛行機を行き来させるかわりに弾丸を行き来させる。そして技術はガス戦という、アウラを新しいやり方で消滅させる手段を所有している。
 「芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも(フィーアト・アルス・ペレアト・ムンドゥス)」〔「正義は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」というラテン語の成句のもじり〕とファシズムは言い、技術によって変化した感覚的近くに芸術的満足感を与えることを、マリネッティが表明しているように、戦争に期待する。これは明らかに芸術のための芸術(ラール・ブール・ラール)の完成である。人類は、かつてホメロスにおいてオリュンポスの神々によって見物されるものであったが、いまや自分自身によって見物されるものとなった。人類の自己疎外の進行は、人類が自分自身の全滅を題意球の美的享楽として体験するほどになっている。これがファシズムが進めている政治の耽美主義かの実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ。
    --ベンヤミン(久保哲司訳)「複製技術時代の芸術作品」、浅井健二郎『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫、1995年。

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すいません、息絶えました。。。。

入力だけしてコメンタリーできずorz。


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卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない

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 世界には抑圧があり、わたしたちは多少とも隷属させられていることは、疑いのない事実である。抑圧され隷属させられている限り、わたしたちは、もはや人間ではなく、ものである。わたしたちは、明晰な意識を持ちながら、ものであることをうけいれることはできない。ものに還元されていると感じる限り、わたしたちは、自分を還元しているものを破壊するようかかり合い(アンガージェ)にされているのだ。
 わたしたちは、個人的に、この還元作用から脱却することもできるが、それはつねにうさん臭い形である。じじつ、そのためには、人間が根本において商品として扱われている世界に、参与しているのでなければならないし、わたしたち自身、少なくとも共犯関係を通じて、同胞たちを商品としているのでなければならない。真に脱却し得るためには、わたしたちは絶えず、ものとは違うように振舞い自分の個性を荒々しく主張しながら、自分が参与していることの結果を破壊するようにしなければなるまい。しかし、その主張を通じてしかものであることはやめられないとしても、その主張はわたしたちを、全般的な形で与件としてある人間性から隔絶するものだ。商品として扱われないものは、攻撃的に(他のひとたちに対立して)強調される個性なのである。わたしたちのうちにひそむ端的な人間性は、けっして真にあるがままに--ものとはまったく違うものとして--認知されることはない。わたしたちは、共通の人間性の否認しか主張しないのだ。陰険に裏切り者となっているのである。
 しかし、もし個性による脱出を拒み、共通の人間性を主張するなら--ものでないことを、他のひとたちと同時に、おなじ資格でしか、うけいれまいとするなら--わたしたちはまず、ものであることをうけいれなければならない。人類のすべてが抑圧することをやめてしまい、どこにも売物としてある人間である商品がなくなった時に、はじめてわたしたちは、還元作用から脱却することができるのである。それまでは、自由にあしらわれるものの水準、卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない。
    --バタイユ(山本功訳)「政治的欺瞞」、『戦争/政治/実存 --社会科学論集1 ジョルジュ・バタイユ著作集 第14巻』二見書房、年、111-112頁。

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20年ぶりにバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille,1897-1962)を読み返していますが、フーコー(Michel Foucault,1926-1984)やデリダ(Jacques Derrida,1930-2004)に見られない“迫力”に似たものがありますね。

商品であることをうけいれることを拒否してしまうのは簡単なのですが、単純に拒否してしまうこと自体が、陰険な裏切り者となってしまう。

だとすれば、どこで脱出を構想するべきなのでしょうか。

「ものであることをうけいれなければならない」として「自由にあしらわれるものの水準、卑しめられた人間性の水準にありながら、規律のうちに解放のとてつもない仕事に寄与しなければならない」と説くバタイユには一種の誠実さを感じられずにはいません。


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通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程

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 生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己の更新の過程である。教育と社会的生命の関係は、栄養摂取や生殖と生理的生命との関係に等しい。この教育は、まず第一に通信(コミュニケイション)による伝達にある。通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる形式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにあるのだが、そのことがもっとも容易に認められるのは未成熟者を扱う場合である。すなわち、あらゆる社会制度は事実上教育的であるけれども、その教育的効果は、まず年長者と年少者の共同生活との関連において、共同生活の目的の重要な部分となるのである。社会がいっそう複雑な構造や資産をもつようになるにしたがって、制度的(フォーマル)なつまり意図的な教授や学習の必要性が増大する。制度的な教授や訓練の範囲が拡大するにつれて、直接的な共同生活において獲得される経験と学校において獲得されるものとの間の好まらしからざる裂け目が産み出される危険が生ずる。この危険は、この二、三世紀の間における知識および技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえに、今日、これまでになく大きなものとなっているのである。
 デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育 上』岩波文庫、1975年、23-24頁。

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コミュニケーションとしてのメディアが腐敗するのは、それを生き物として育てようとしない利用する側……それが発信者であろうが受信者であろうが……の問題につきるのではあるまいか。

メディアに流通するものが言語であれ音声であれ、映像であれ……そこにはそれを発信し受益する生きた人間が存在します。

その意味では、いかにメディアは、「通信による伝達」の媒介に過ぎないとしても、生きたものとして育てていく責任というのも恐らく随伴するはずでしょう。

しかし、利用するなかで、できあがっていく構造を「できあがったもの」として享受し、それを「育てていく」視点を失ってしまうことが多々あるのではないかと思います。

「生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己の更新の過程である」。

「通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる形式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにある」。

デューイ(John Dewey、1859-1952)はメディア論として『民主主義と教育』を論じたわけではありませんが、民主主義と教育を媒介するメディアを育てていくという視点から読み直すとなかなか興味深いものです。

この指摘は深くかみしめるべきかと。

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悲哀の人にして信仰の人、愛国の人にして希望の人。

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 イザヤは透徹した真実の眼をもつて国と世界の現実を見たがゆゑに、悲哀の預言者たらざるをえなかつたのですが、同時に彼は信仰の眼をもつてエホバの真実によりたのんだから、かくも大なる希望の預言者となつたのです。
 悲哀の人にして信仰の人、愛国の人にして希望の人。彼によつて国家の理想は明らかにされ、正義と平和は世界の指導原理として高く掲げられました。彼によつて国難の意味は明らかにされ、国家復興の道は示されました。愛する日本が敗戦による国難・国辱に陥つたことの意味を知り、この中から新たなる日本として復興する道は、イザヤの預言をおいて他にありません。私どももまた彼の預言の正統を引くところの信仰の預言者、愛国の預言者、希望の預言者を絶対に必要とします。たとひその人の生涯は悲哀の人たるを免れないとしても、国家復興の希望は全くこのやうな預言者の信仰にかかるのであります。
    --矢内原忠雄『続 余の尊敬する人物』岩波新書、1949年、45頁。

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震災以降、『旧約聖書』を紐解くことが多くなりました。
責任をもって生きていくということは、様々なものに目をつぶらず、しっかりとそれを捉え、そして自分自身の問題としていきていくということでしょうか。

ひとりひとりの人間が聡明に、預言者としての自覚をもって生きていくしかないということなのですが・・・。

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人間の生活を歪めてきた眼差しについての素描

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 自然的生活とは、それが学以前の関心であれ学的関心であれ、また理論的関心であれ実践的関心であれ、それらの関心によって動かされながら、主題化されていない普遍的地平において営まれる生活である。この地平こそまさしく、その自然性においては、つねに存在者としてあらかじめ与えられている世界である。それゆえ、われわれがそこに入り込んで生きているかぎりは、「あらかじめ与えられている」ということばを必要としないし、世界はわれわれによってつねに現実であるなどと特に断る必要もない。あらゆる自然的な問いやあらゆる理論的および実践的目標--それらは主題とか、そんっざいするものとか、おそらく存在するであろうものとか、蓋然的なものとか、疑問なものとか、価値あるものとか、計画とか、行為と行為の成果とか、さまざまなかたちをとるであろうが--は、世界地平にあるなにものにかかわる。なんらかの存在様相によって性格づけられるものはすべて、なんといってもふたたび現実的存在に関係づけられるのであるから、上述したことは、仮象や非現実的なものにさえも当てはまる。たしかに世界は、あらかじめ、「現実的に」存在するもののすべてという意味、すなわち真の現実のすべてという意味をもっている。その現実はむろんそのようなものとして、訂正や、妥当性の変更のたえざる動きのうちにおいてのみ、われわれによってのそれなりの現実性をもっているのではあるが、世界の一つの理念的統一体であることは、あらかじめ先取りされているのである。
    --フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央公論社、1995年、260-261頁。

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土曜に野暮用があり実家へ戻っていたのですが、日曜にとんぼ返り。
少し仮眠をとってから仕事を開始しました……。

短い滞在でしたが種々考えることが多くあり、また思索の肥やしにしていこうと思います。

さてそのひとつが現実を開拓すべき理念的生活という意味での「見本」の問題です。

俗流プラトニズムが現実を開拓するどころか、現実を台無しにしてしまったことは承知ですが、それでも、批判的視座は人間には不可欠です。

もう少し平たい言葉でいえば目ざすべき「見本」とすべきものは、人間が生きていく上では必要ではないかという部分ですね。

しかし、明治維新以降の近代化の歩んだ日本は、やはりどうしても「東京」をすべて「範型」にしてしまい、内在的発展の芽を摘んでしまったというのはひとつの不幸かもしれません。

大きな物語としてひとつの枠組みを設定したとしても、その展開には多様な部分があってしかるべき。

その部分が特に戦後の日本では見失われ、一様な「近代化」にすべてが合わされてしまったなあ……というありふれたことを認識した次第。

その地域、地域には、変わらぬ風景というものが存在しますが、決して百年一律でもないし、中央に合わせたような展開のみを選択する必要もないということ。。。

短い滞在でしたが、車窓から見える風景、自宅から見える風景、東京から見える風景、それをみつめるなかで、ぼんやりとですが、そんなことを考えた次第です。

まあ、思えば「標準語」というのもそうなのですけどね(苦笑

この曲がり角の時代に、次代に対してどのような選択肢をとってゆくべきかもう一度考える必要があるのかも知れません。

まあ、凡庸な議論にすぎませんけれども、自然な生活世界における素朴な実感は無解にできないところがありますね。


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東京から少し離れて……

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 人間はみな、その内的本性に従って、一個の宇宙(コスモス)、その中で現実の世界全体とすべての偉大な歴史的時代とが反映し、内在する一個のミクロコスモス(小宇宙)である。かれはたんに世界の微々たる断片ではない。あるいはまだ自己の意識状態の未熟さによって閉ざされていようとも、その意識が拡大し明晰になるにつれて内的に開かれてくる一種の大きな世界である。
    --ベルジャーエフ(氷上英廣訳)『歴史の意味』白水社、1998年、34頁。

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少し所用で、金曜日から香川県へ。

新幹線が東京から西へむかえばむかうほど、大地が豊かになってくることを実感します。

東京集中というのは、時代の錯覚、あるいは砂上の楼閣の異名かもしれませんね。


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宗教の真正さを試すべき試金石はどこにあるのか。

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 レッシングの『賢者ナータン Nathan der Weise』の指環の物語は、宗教の究極的な最奥の真理がもはや外面的にではなく内面的にのみ立証されることを現している。歴史的事実による経験的な証明であれ、抽象的な論拠にもとづく論理的・形而上学的証明であれ、所詮すべての証明は不十分である。なぜならば結局において、本来の宗教はそれが作用する限りにおいてのみ存在し、そしてその本質は心情と行為においてのみ実現されるからである。
 すべての宗教の真正さを試すべき試金石はこの一点に存する。
    --カッシーラー(中野好之訳)『啓蒙主義の哲学 上』ちくま学芸文庫、年、274-275頁。

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外面的・歴史主義的に導かれる宗教における真理の弁証というものが、宗教間対立の前では、もはや何の訳にも立たないことをその身で経験したレッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729-1781)は、宗教的真理の弁証は、もはや「心情と行為においてのみ」実現されるのでは、と問う。

激しく同意です。

「すべての宗教の真正さを試すべき試金石はこの一点に存する」。


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「自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す」柔軟さ

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 明治のなかば、新渡戸稲造は、日本で学校を終えて、米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学した。社会学の先生に試問されたとき、スペンサーならば、どのページに何が書いてあるかまでおぼえているおで、彼の用語についてどんなむずかしい質問にも答えられるつもりだった。ところが、「スペンサーをどう思うか」という質問をはじめにされたので、とても困ったという。そこから定義を墨守しない新渡戸流の学問の転回がはじまった。
 万古不変の定義は、経験のかかわる領域では、むずかしい。その場にあるモノを使って必要に応じて概念を定義する方法は、江戸時代の落語に流儀としてすでにあった。三遊亭円朝作「芝浜」は、酔漢、浜辺、財布の三代を寄席のお客に与えられて、その場でつくられた。酒のみの女房による生活たてなおしの工夫がここにあらわれる。こんにゃくの値段と大きさを取り入れて仏教用語と対比する「こんにゃく問答」などは、つたわらなかった失敗例を通して、あるべき定義術を今日に伝える。

 自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。自分の定義でとらえることができないとき、経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。明治以降の日本の学問には、そういうところがあまりなかった。
 試験のための学習は、そういうはずみをつけない。ヨーロッパの学問の定義ではこういう、というのを受けて、その適用をこころみ、その定義にすっぽりはまる快感がはずみとなって学習がすすむ。すっぽりはまらないところに注目して、そこから考えてゆくというふうにならない。
    --鶴見俊輔「ぼんやりした記憶」、『思い出袋』岩波新書、2010年、35-37頁。

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落語を少し勉強してみようかなw

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L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.

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 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
    --パスカル(前田陽一、由木康訳)「パンセ」『世界の名著 24 パスカル』中央公論社、1967年、562頁。

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ツイッターで少し連投した内容ですが、メモとして加筆して残しておきます。

学生さんからパスカル(Blaise Pascal,1623-1662)の有名な「“人間は考える葦である”とはどういう意味なのですか?」という質問があったので、少しだけ紹介します。

一般的には次の二点が比喩されたものとみてよいかと思います。
すなわち……

(1)無限な宇宙に比較すると人間は葦のようにか弱い。
(2)しかし、同時に、そのことを知っている・自覚する人間は「考える葦」として全宇宙の力よりも偉大である、

……という意味で受け取って大丈夫かと思います。

いわゆる人間の「考える力」に人間の人間らしさを見出したパスカルの洞察といってしまえばそれまでで、言い古されたネタですが、その公定解釈よりも「葦」で比喩したことには注意すべきかもしれません。
※ただし、パスカルの場合は最終的に、その「道徳の原理」はジャンセニストの立場からキリスト教信仰へと収斂しますが、ここではひとまず措きます。


さて……、
湖畔に群生する葦は、涼を送る微風にすらゆらぐ心許ない存在です。
強風の前ではそれこそ抵抗することすら不可能で、ぐわ~んとその姿を大きく風のなされるままに曝してしまいます。

それに対して森林の様々な大木はどうでしょうか。
葦が前後するような微風はおろか、強風にも揺らぐことなくその勇姿を示すことがほとんどです。
しかし大木には弱点があります。強風が続くと大木とは、時に「折れ」てしまうことがあるんです。

葦は風のなされるままです。しかしめったに「折れ」てはしまいません。

弱き自らの存在を自覚する葦は、風が吹くとそれに身をまかせます。
一見すると逆境に屈服したようにその姿は見えるかもしれません。
しかし、一旦、風や荒が収まると、葦は徐々に身を起こし、再び元の姿に戻ってゆく……。これが人間への比喩とされている点です。

この葦のように人間は、自然や運命の暴威に対しては無力です。これは否定できない事実です。だからそれに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずから立ち上がることができる……。

では、その柔軟性の根拠は人間の場合どこに存在するのでしょうか……。
パスカルは「考えることができる」ことにそれを見出しました。

たしかにこのことが後の知識主義的錯覚としての知性偏重への端緒を切り開くことになったことは否定できないけれども(しかもそれはパスカルの意図とはかけ離れたものですから、「パスカルの」というよりも悪しき「パスカル主義」とでも言った方が正確でしょうが)、知識にせよ知性にせよ、本来的にはそれは、人間をより柔軟なものたらしめるものとして存在しているのではないかと思わざるを得ません。

考えること・知性・知識といったものが、その人をして柔軟たらしめることができるかどうかで大きな違いには多分なるでしょうね。

パスカルの知性に対する信頼と知が人間を自由にするという発想(良心の内発性)は、もっと顧みられてもよいと思います。

今日日は、どちらかと言えば、パッケージ化された「知」なるものが人間を雁字搦めにしてしまうものですから。

思えば、この「葦」という比喩は、パスカルその人の人生そのものの表象かもしれません。病弱なパスカルは39歳という短い生涯ですが、理不尽な病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、信仰を深めてゆきます。

そのなかで、状況に「折れる」のでも「負ける」のでもなく、左右されない生き方を人間の知性に見出した……そういっても良いかもしれません。

だからこそ「知性」がパッケージ化されてしまう……、例えば、ジャンセニストの立場からイエズス会風の良心の内発性を阻む「良心例学」に関しては、断固として立ち向かうその勇姿と雄弁には、どうしてもそれを承認できない、その熱い魂というものを観じざるを得ません。

人間の生活世界において、パッケージ化された知が提供する「模範解答」と、自分自身が逡巡・熟慮・決断を下して導いた「そのひとの血と汗の解答」というものは往々にして、文言は同じかもしれません。

しかし、人間は限界をふりしぼって、それを自分で手に取るべきである……そのことによって人間は、葦であり葦でない存在になる……。

そのへんを丁寧に見極めていかないと……知なるものは、どこまでもそのひとのものにはならないとはおもいますよw

最後に、いちおー、フランス語の「パンセ」の原文も紹介します。

 L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.


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読むことから生きる糧へ転換すること

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 教授過程は、思考の良い習慣を産み出すことに集中すれば、それだけ統一されているのである。われわれは思考の方法について論じてよいのであって、それは間違っているわけではないが、大切なことは、思考することそのものが教育的な訓練の方法なのだ、ということである。だから教授法の要点は、熟慮の要点と全く同じなのである。それらは、以下の諸点である。まず第一に、生徒に本物の経験的場面を与えなければならない--生徒がそれ自体のためにそれに興味をもつような、連続的活動が行なわれなければならないのである。第二に、この場面の中で、本物の問題が、思考を呼び起こす刺激として、現われ出なければならない。第三に、生徒は、それを処理するのに必要な、情報をもつべきであり、観察を行うべきである。第四に、解決策が生徒の心に浮かび、しかも、生徒がそれを整然と展開する責任をもつべきである。第五に、生徒は、自分の考えを適用して試し、それらの意味を明らかにし、自分でそれらの妥当性を見出す機会と必要とを持つべきである。以上の五点である。
    --デューイ(松野安男訳)『民主主義と教育 上』岩波文庫、1975年、259-260頁。

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昨日の哲学の講義では、哲学という枠組みから一旦離れて「本を読むこと」について少々お話を。

大学生の学習において、それまでの義務教育と最も異なる側面とは何かと言えば、やはりどれだけそのひとが本を読んだかということです。換言すれば、授業時間の教室で学問とか学習が完結しないということを意味していると思います。

教室の時間というのはひとつのきっかけを与えるだけにすぎません。
だから自分で本を読んで開拓していくしかありません。

本は読んだ方が、読まない方よりもいい。

そのことはこれまでの経験で誰しもが分かっております。

しかし、では具体的にどう読むべきなのか……これはテクネーの議論と捉えられると困りますけど……というところを、ひとりひとりがこれまでの読書経験をふりかえりつつ、仲間達と意見を交わし、よいそれがみつかれば試してみる……そいうところは必要だろうとしばし議論。

何しろ「本を読め」と言われても「何から読めばいいのか」誰も教えてくれるわけではありませんから。

ともかく本は読んだ方がいい。

迷っているならその間に一頁でも読まないと進みません。

しかし、人間の生命は無限ではなく有限です。

であるならば、人が一生かかって読むことの出来る本の量にも限界があります。

だとすれば、数百年にわたって読み継がれている古典名著とよばれる良書から読み進める他ありません。

別に漫画を読むなという単純な議論ではありません。

漫画も多いに読めばいいと思う。
しかしそれと同じぐらい良書も読んだ方がいいという話です。

そしてこれまでの知識の吸収=学習観というドクサが、人に誤った読書観を植え付けていることも多々あるのでそこも指摘した次第です。

要するに、本を読むことによって「新しい知識」が増加することは言うを待ちません。

しかしそれだけが本を読むということでもないということです。本を読むということは直接、過去の賢者や哲学者たちと読み手が対話をするということ。

対話をするということとは何かといえば、それは思索しながら読書し、読書しながら思索を重ねるということです。

知識は確かに少ないよりは多い方がいいでしょう。
しかし、それは手段にすぎません。
そこからそのひとがどれだけ知識を知恵へ転換できるのか……、それが思索・熟慮にかかっていると思います。

ひとりひとりの学生さんがより沢山の本を深く読んで欲しいと思います。
しかし、同時にそこから学んだものを自分自身の生きる糧へと転換すること、それだけは失念してもらいたくない部分ですねw

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「位置づけられている者」として構築されること

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 --お聞きしたいのは、このインターナショナルという概念そのものについてです。最近、それについて話すのすら難しい。グローバルという言葉は許されません。一方で、位置(ロケーション)、国家(ネイション)、文化の空間といった語は使われています。その結果、このように思考の位置を問題にする思潮において、ディアスポラてきな考えはとても広く支持されています。位置その他の概念は、非常に重要な問題となっています。こういったことが話題になるといつものぼる名前のなかに、あなたは含まれています。
 このインターナショナルという概念についてどう思いますか。もちろん私たちは、インターナショナルが持つ啓蒙の概念には、どんなものであれしがみつくことはできません。しかし私がたったいまお話しした物語で使われる意味についてはどう思いますか。マルクスがインターナショナルだったという意味は、または、物理学者がハイゼンベルク〔量子力学の基礎を築いた。民族の利益よりも科学の倫理を重んじて、ナチスの核兵器開発を故意に遅らせたとされてきた。なおその定説はいまは反証されている〕の生まれ故郷かなにかを見たときに感じる意味はどうでしょうか。大学人の生活は家を与えうると感じますか。インターナショナルの概念はある意味、現実感がないかもしれませんが、その概念からなにかを救いうるでしょうか。

 じつは大学人の生活は、以前にまして家を与えるようになっています。私たちの時代に、インド国内でどれほど人の循環があったにしろ、現在はもっと盛んです。もっともっとです。思うに、最近は人が押されるように行き来していて、私はいつもびっくりしてます。だって私は、合衆国では古い時代の移民ですからね。
 もうひとつ言えることがあります。個人的なことですが、私は海外にいるといつも「位置づけられている者」として構築されます。理由はばかげたことです。私がサリーを着ているからなのです。サリーを着るのは文化的な理由ではまったくなく、服装を変えようと思いつかないからなのですが。サリーの方がずっと安上がりです。私はファッション業界を軽蔑していて、その為政者ではありません。私が着ているのは、二〇年か三〇年前から持っているひどいチャパ(プリント地)の絹のサリーですが、ちゃんとコーディネートできているかどうか、まったくのところあやしいものです。野暮なベンガルの大学人風の着こなしですよ。残念なことに、それに慣れきってしまって、変わりようがありません。これが文化的な表明と受け取られるのです。私の方としては、自分が服装の習慣を変えられないことに、最近、少々我慢できないことがあるんですがね。合衆国のインド人コミュニティは、もっとも豊かな少数派グループで--第二、第三世代の子どもたちはかなり位置づけが変わっています。地下鉄の駅で彼らの一人に、とても「勇気がある」と褒められましたよ。私がサリーを着ていたからです。自分のイメージをどうとらえたらいいか、さっぱりわかりません。信じられないぐらいにおなじみの、いつもながらの、ワンパターンの服装をずっとしているというのに……
    --ガヤトリ・スピヴァク(大池真知子訳)「付録 家--私的な会話」、『スピヴァク みずからを語る 家・サバルタン・知識人』岩波書店、2008年、161ー163頁。

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「『位置づけられている者』として構築」されてしまうのは不可避なのでしょうか。
とくにその出自を位置する装いが同伴した場合、本人の意図とは別のところに定位されてしまう。

人間はだいたい、「自分のイメージをどうとらえたらいいか、さっぱりわかりません」というのが素朴な生活の実感なのではないかと思います。

否、そのイメージを構想し、戦略的にアピールする人間そのものが、それによって表象しようとするものを破壊し、「声なき声」を封じてしまう。

自分自身が自分自身であること、それは意識化された「勇気がある」というのは違う、人間の生きる勇気のはずですが、「勇気がある」と称賛された「位置付けられる」ことへの定位は「勇気がある」ということとも似て非なるものなのだと思うのだけれども……。

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「近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されている」

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 僕は東大の駒場キャンパスで一九九六年から足かけ三年間、「立花ゼミ」というのを開講しまして、そのゼミのタイトルは最初の二年は「調べて、書く」、三年目は「調べて、書く、発信する」としました。
 タイトルを「調べて、書く」にしたいといったら、東大の世話役のセンセイにエエッ? と驚かれましたが、僕は「調べて、書く」ことこそが教養教育の一番のポイントであると思っていたし、いまも思っています。この「立花ゼミ」の課程でできたのが『二十歳のころ』、『環境ホルモン入門』、『新世紀デジタル講義』という三冊の本(いずれも新潮社刊)です。『二十歳のころ』のはしがきで、なぜ、「調べて、書く」なのかということについて次のように書いています。

 さて、なぜ「調べて、書く」なのかといえば、多くの学生にとって、調べることと書くことがこれからの一生の生活の中で、最も重要とされる知的能力だからである。調べることと書くことは、もっぱら私のようなジャーナリストにだけ必要とされる能力ではなく、現代社会においては、ほとんどあらゆる知的職業において、一生の間必要とされる能力である。ジャーナリストであろうと、研究職、法律職、教育職などの知的労働者であろうと、大学を出てからつくたいての職業生活のかなりの部分が、調べることと書くことに費やされているはずである。近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されているからである。
 人を動かし、組織を動かし、社会を動かそうと思うなら、いい文章が書けなければならない。いい文章とは、名文ということではない。うまい文章でなくてもよいが、達意の文章でなければならない。文章を書くということは、何かを伝えたいということである。自分が伝えたいことが、その文章を読む人に伝わらなければ何もならない。
 何かを伝える文章は、まずロジカルでなければならない。しかし、ロジックには内容(コンテンツ)がともなわなければならない。論より証拠なのである。論を立てるほうは、頭の中の作業ですむが、コンテンツのほうは、どこからか材料を調べて持ってこなければならない。いいコンテンツに必要なのは材料となるファクトであり、情報である。そこでどうしても調べるという作業が必要になってくる。
 調べて書くということは、それほど重要な技術なのに、それが大学教育の中で組織立って教えられるという場面がない。これは大学教育の大きな欠落部分だと思う。といっても、調べて書くということは、そうたやすく人に教えられるものではない。それは抽象的に講じるだけでは教えることができない。どうしてもOJT(on the job training 現場教育)が必要である。そう考えて、このゼミナールをはじめたのである。

 ここに書いたように、「調べて、書く」ことこそ、教養の基本です。「知識」としての教養ではなく、「技」としての教養の基本です。それこそ、高等職業人の身につけるべきリテラシー(読み書き能力)そのもののわけです。
 人間の知的能力の基本は言語能力にあります。人間の文化はすべて、言葉を道具として使いこなすことによって発達してきました。だから昔から、学問のあることとと読み書きのできることが、同じliterateという言葉で表現され、その能力がリテラシーと呼ばれてきたのです。中世の大学が基本教養として教えた三学四科の三学とは、文法学、修辞学、論理学のことです。この三学が言語能力の基本だから、そこに力点を置いたのです。この三学の上に、文章能力、スピーチ能力、対論能力、説得力、考える力が築かれるわけです。それさえ身につけることができれば、この社会に乗りだしていくことができます。
 「調べて、書く」という場合には、この言語能力にプラスして、調べる能力が必要です。書く前に、そもそも書くに足る内容を見つける能力が必要だということです。自分が書こうとしているテーマに関して、情報を集め、それを取捨選択し、整理して、その中から書く能力を組み立てていく情報整理能力が必要です。その前に情報探索能力が必要だし、その前にまずもって何よりも自分のテーマを見つけるための問題発見能力が必要です。
    --、立花隆『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』文春文庫、2004年、270-273頁。

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以前、ツイッターで立花隆(1940-)氏の「近代社会は、あらゆる側面において、基本的に文書化されることで組織されている」という議論を紹介したかと思いますが、一応、その出典といいますか前後の部分を紹介しておきます。
※ノンフィクション作家としてではなく知的啓蒙者としての氏の議論には賛否両論ありますがここではいったん措きます。

ホントは、『二十歳のころ』(新潮文庫)が初出になるのですが、立花氏自身が『東大生はバカになったか』(文春文庫)でそれを紹介しながら、補足する議論を展開しておりますので、こちらになった次第です。

いろいろ気になる言及になるのですが、

①調べて・書く・発信する能力ということ。
②「知識」としての教養ではなく「技」としての教養ということ。
③本来の大学教養のありかたとその展開ということ。

そして……④「近代とは……そしてそれがかぎりなく連続性として続いている現代もそうですが……どういう社会なのか」ということ。

時間のあるときに少し、この4点を詳論したいと思います。

このところ、忙しくて時間がなく、紹介で終わりというパターンが多くてすいません((((;゚Д゚)))))))

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著者:立花 隆

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「物事を間違っていると考えようとしない長い間の習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ」

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 恐らくここに述べてある意見はまだ世論になり切っていないので、一般から支持されることはないだろう。物事を間違っていると考えようとしない長い間の習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ。そして初めはだれもがこの習慣を守ろうとして、恐ろしい叫び声を上げるのだ。だが間もなく、その騒ぎは静まる。理屈よりも時のほうが考え方を変えさせるのだ。
 一般に長い間権力の乱用が行われる場合には、その正当性を問題にしてよいのだ。 (被害者が立腹して問題にしなければ、そのままで済まされるかもしれない場合でも同様だ。)
    --トーマス・ペイン(小松春雄訳)「コモン・センス」、『コモン・センス 他三篇』岩波文庫、1976年、13頁。

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今日6月18日は、3月11日に発生した東日本大震災から100日目。

一刻もはやい復興を祈らざるをえません。

ニュースで取り上げられることも当初より少なくなり、メディアの報道は「復興ムード」。

しかし現実には瓦礫はそのまま、明日どうなるわからないという状況は変わらぬまま。

そうした齟齬に戦慄することがしばしば。

3月11日で露呈した問題は多数ありますが、これまでの日本の既存の権力補完の構造がもはやこの時代には役に立たないということがはっきりしたのもその一つでしょう。

あたらしい思考枠組みのパラダイム、そして現実変革への脱構築が必要であることを僕はその日学んだように思う。

しかし、気がつくと、既存の利権構造を復活させようとひっそりとコッソリと事態が進行しているような現況には、驚かされてしまうというものです。

だからこそ、100日目。

もういちど、あの日のこと、そして経過を確認しながら展望していかないと……そう思われて他なりません。

上に引用したのは、アメリカ独立への起爆剤となり、人々を鼓舞したトマス・ペイン(Thomas Paine,1737-1809)の有名なパンフレット「コモン・センス」の序から。

「物事を間違っていると考えようとしない長い間の習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ」……ってところにだまされないようにしないと。

※写真は3/11の自宅と近所。


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覚え書:新渡戸稲造、読書にして人間を造りたいならば

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 読書にして人間を造りたいならば
 故に私は一言最後にこういっておきたい。先ず読書には或る意味に於て便法なく、一度は艱難して苦しまなければならぬ。その代わりに艱難したならば、後は自由自在に、日本の本ならば縦に読まずに横に読み、西洋の本ならば横に読まずに縦に読むことが出来るようになる。それには練習と見識、見識というのは、自分は何を望むかということ、何のために本を読むのであるか、今日は暑いし、昼寝をしようと思うが、眠りを助けるために本を読むのだ。演説するのに何か面白い例を引くために読むのである。今度は自分の心に一つの疑いがあって、それを解決するために読むのであるというように目的に依って違う、随って見識に依って違うのである。だから目的と見識が備った以上は、先ず第一に古典を読んで、それも皆読めということではない、バイブルならばバイブル、プルタークならプルターク、シエクスピヤならシエクスピヤ、何か一つを熟読する。そうして後の方は参考にする。外の書物は自分の尊敬する人の教を補うために使うだkであって、そうなって来ると大きな心棒だけは決る。それに外のものは皆付けて行くのである。だから物を言っても、沢山の本を読んでいるから脱線するだろう、しかし心棒が動かぬ以上は皆元に帰ってくる。多読病に掛った奴は話をしても脱線脱線で元に帰って来ない。何を話しているのか訳が分らなくなって来る。そうなると話しばかりでなく、人間そのものまで無頼漢になってしまう。何をしても特徴がなくなる。何をやっても駄目になる。この特徴は必要なことで、こういう時になって、初めて読書が人間を拵えることになる。読書にして人間を拵えることに貢献しないならば、これはただ漫談家を作るに過ぎまい。甚だ申訳ないようですけれども、先刻御話したような具合ですから、今日はこれで失礼致します。
    --新渡戸稲造「読書と人生」、鈴木範久編『新渡戸稲造論集』岩波文庫、2007年、185-186頁。

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小さなひとりの美しい女性の呟きを是非お聞きくださいまし。

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145番(彼女の肖像に描きこまれた称賛の意を、錯誤と呼んで否定しようとするもの)
 あなたが目にするこの、色塗られた嘘
それは巧みな技のかぎりを尽くして
色彩の生み出す偽りの論法にのっとって
感覚をずる賢く騙すもの。
 この偽り、へつらいの思いが
年月の恐るべき技を見逃そうとし
時の苛酷さを打ちやぶって
老いと忘却を乗り越えさせようとしたこの偽りとは、
 それはおもねりの生んだ空虚な細工品
それは風に揺れるかよわい花
それは運命に対する無益な防壁
 それは愚かにして誤った努力
それははかない熱意、よく見てみれば
それは屍、それは土くれ、暗がり、そして無。
    --ソル・フアナ(旦敬介訳)『知への賛歌 修道女フアナの手紙』光文社古典新訳文庫、2007年、30-31頁

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積読のまま開かなかった一冊の本を久しぶりに手に取ったのですが、なかなか素晴らしい一冊。

アメリカ大陸最初の作家ソル・フアナ(Sor Juana Inés de la Cruz、1948-1695)の詩や書簡を集めたアンソロジー『知への賛歌 修道女フアナの手紙』。

オススメです。

ソル・フアナは日本語版wikipediaでは項目すらなく、ほとんど知られていない女性知識人。

〈訳者まえがき〉から紹介すると次の通り。

「この美貌の修道女は、十七世紀後半に四十数年の短い人生を生きたメキシコの詩人であり、詩こそが文学の最高ジャンルであったこの時代のスペイン語世界全体に文名を轟かせたスター」

「紙幣に載るような作家といえば(引用者註……メキシコの二百ペソ紙幣の顔)、誰からも尊敬されるような模範的な人生を生きた人、それが修道女であればなおさら、信仰厚い模範的な修道女として生き、宗教的に崇高な作品を書いた人だと誰しも思うだろう。しかし、ソル・フアナはまったく違った。彼女は本を読みたいがために、学問をしたいがために、作家になりたいがために、しかたなく、というよりも、きわめて戦略的に修道女になることを選んだ人だった。巨万の富に恵まれていない当時の平民の女性にとって『文』の道を目ざしたければ、それ以外に選択肢はなかったからだ。そして、彼女はそのことを公言してはばからない勇気と率直さの持ち主だった。しかも、彼女が書き、生前から全集に集められて刊行され、広く愛された作品は、まったく世俗的なテーマのものだった」。

三百年前のメキシコの地で、悩みを誰にも相談できずひとりで黙々と考え、悩み、「どうして」「なぜ」と世界の不合理を問い続けた、小さなひとりの美しい女性の呟きを是非お聞きくださいまし。


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知への賛歌――修道女フアナの手紙 (光文社古典新訳文庫)Book知への賛歌――修道女フアナの手紙 (光文社古典新訳文庫)


著者:ソル・フアナ

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旨いもの・酒巡礼記:東京都・八王子市編「バーゼル洋菓子店京王八王子店(BRSSERIE BASEL)」

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 芭蕉が「わが門の風流を学ぶやから」(遺語集)ということをいっているが、風流とはいったいどういうことか。風流とは世俗に対していうことである。社会的日常性における世俗と断つことから出発しなければならぬ。風流は第一に離俗である。孔子が子路、曾皙、冉有、公西華の四人の希望を尋ねたとき、子路は政治家として非常時局を担当することを志望し、冉有は経済界の立役者となって民利を計りたいと答え、公西華は官吏を希望する旨を述べた。ひとり曾皙は答えなかったが孔子の再問に対して「沂(き)に浴し、舞雩(ぶう)に風(ふう)し、詠じて帰らんといったので、孔子は喟然(きぜん)として歎じて「われは点(曾皙)に与せん」といった。風流とは世俗と断つ曾皙の心意気である。
    --九鬼周造「風流に関する一考察」、『いきの構造 他二篇』岩波文庫、1979年、101頁。

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このところ月曜の授業が済んでからちょくちょく寄るのが、バーゼル洋菓子店の京王八王子店(「BRSSERIE BASEL」)。

洋菓子店ですので、西洋甘味とパン、それからヘルムート・ザッハースのコーヒーがのめる「カフェ」。

しかし、ビールも出せば、ワインもある。ビストロ風のメニューもそろっておりますので、昨年来よりちょくちょく利用するのですけれども、6月からサントリーのプレミアム・モルツの生ビールが通常500円のところ、おもてのテラス席限定ですが、そとでやるならば半額で頂戴できますので、授業が終わってから、帰る前に、ちょいとそこで「ぼけぇ~」っとすることが定番となりつつあります。

何しろ3杯呑んでも750円ですからねw

だいたい、最初に生を頼んでから、じっくりと小皿料理(二品で400円)を選んで乾杯。

先日は、ヒヨコ豆のトマト煮と紫キャベツのマリネ♪

ほどよく煮込まれたやわらかいヒヨコ豆の甘さと、酸味の効いたキャベツのマリネのダブルパンチにプレミアム・モルツの呑み具合もすすむというものです。

前者は歯ごたえはしっかりあるものの、噛むたびに口蓋のなかでやわらかくとろけ、トマトソースがひよこ豆のしっかりとした味わいを引き立たせ、後者は素材がよろしいのでしょうか……、クィックメニューにかかわらず、シャキッと身が引き締まる鮮烈さに驚くばかりです。

ゴキュゴキュとビールのおかわりをお願いしつつも

17時前から、

「マターリ」と時が凪がれゆくのをしばし堪能。

時間にすれば、20分くらいでしょうかね。

これがココロの洗濯になるという次第です。

しかし、街をみやると、まだまだ活動タイム。

正直なところ、雑踏で忙しく立ち居振る舞うひとびとの姿をみるにつけ

「我ながら何やってんだか……w」

……って忸怩たる部分もなきしもあらずですけれども、

九鬼周造(1888-1941)博士が「風流とは世俗に対していうことである。社会的日常性における世俗と断つことから出発しなければならぬ。風流は第一に離俗である」と指摘するとおり、そんなことを気にしているようでは、「風流を気取る」ことはできませんね!

ですから俗世と関係をひとときたち、

ゴキュゴキュとやる次第。

9月まではこのサービスをやっているのでこれからもおせわになるかと思います。

いやはや(苦笑

料理もさることながら、店員さんのしつけも行き届いており、まあ、いい仕事、していますよ。

お近くにお立ち寄りの際は、是非どうぞ。


■ バーゼル洋菓子店京王八王子店(「BRSSERIE BASEL」)
東京都八王子市元神明町3-20-6 第一生命ビル1F
営業時間:8:00~22:00
 土日祝:9:00~22:00
http://www.basel.co.jp/index.htm

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著者:九鬼 周造

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いかなる技術、いかなる研究(メドトス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる

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 いかなる技術、いかなる研究(メドトス)も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明の見事だといえる所以である。
 種々の場合の目的とするものの間には、しかしながら、明らかに一つの差別が見られるのであって、すなわち、活動それ自体が目的とするである場合もあれば、活動以外の何らかの成果が目的である場合もある。目的が何らか働きそのもの以外にあるといった場合にあっては、活動それ自身よりも成果のほうがより善きものであるのが自然であろう。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『二コマコス倫理学 上』岩波文庫、1972年、15頁。

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短大の哲学の講義、昨日の第6回の前半にて哲学史の流れ(現代まで)を抑えて、いよいよ、後半部分からテーマ、問題意識集中型の講義へ切り替え!

その初回としてジョン・デューイ(John Dewey,1859-1952)のプラグマティズムというよりも、デューイ自身の問題意識を紹介。

そのひとつが手段と目的の混同といってよいでしょう。

ご存じの通り、デューイは、黒船来航後の日米修好通商条約締結の翌年に誕生し、合衆国によって行われた人類初の水爆実験・アイビー作戦(Operation Ivy)の年に亡くなっております。

幕末から現代までおよそ100年近く生きたデューイは何をみたのでしょうか。

それは現代に生きる矛盾の全てを見たと言っても過言ではありません。

時系列で見ていくならば……

アメリカ史上最大の内乱である南北戦争と戦後の本格的な産業革命。

フロンティアの消滅と列強の植民地競争。

そして第一次世界大戦とロシア革命。

第二次世界大戦におけるホロコーストと原子力。

そして国際連合の成立と冷戦の開始・・・。

100年かけてデューイが目撃したものは様々あるでしょうが、そしてそれは、「人間のために」というかけ声が「人間そのもの」を疎外するものとして機能した現実です。

アリストテレス(Aristoteles,384 BC-322 BC)は、人間の生きる目的を最高善の探究と喝破し、それを幸福と呼びました。

しかし目的の連鎖の途中でひとは最高善の探究を失念して現実に惑溺してしまう。

その歴史から何を学び、何を活かしていくのか。

デューイの足跡にはそのヒントが沢山詰まっているという寸法です。

徳論臭を避けたいところですが、それでもなお、ある程度は「何のために」というのがない限り、人間の行いのたいていの部分というのは、うまくいかないことが多いというのは否定することのできない事実ですね。


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「中」的な「状態」には、「時宜を心得ている」「わきまえがある」

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 人生においては休養もあることだし、休養に際しては遊びや楽しみが持たれるのであるから、ここにおいても何らか調子のとれた交歓といったようなものがあり、そこには語るべき--同じくまた聞いていい--ことがらと仕方があると考えられる。そして、かくかくのひとびとの間において語り、かくかくのひとびとから聞くということも、決してどちらでもいいことではないであろう。かかることがらに関しても「中」に対する過程と不足の存するのは明らかかである。
 滑稽が度を越えるひとびとは、あらゆる仕方があるただ滑稽ならざることを恐れ、猥雑ならぬことがらを語ろうとか揶揄される相手かたに苦痛を与えないようにしようとかいうことよりも、むしろひたすらに笑を誘うことを目標とするものなるがゆえに、彼らは道化者であり、卑陋なひとびとであると考えられる。これに反して、自分もまったく滑稽なことをいわないし、滑稽なことを口にするひとびとに対して腹を立てるというごときは、野暮なかたくるしいひとびとであると考えられる。
 調子のとれた冗談で楽しませるひとは機知的(エウトラペロス)なひとと呼ばれる。すなわち「円転自在な」ひとという本来の意味である。けだしこのような表面的な動きも倫理的性状(エートス)の運動であると考えられ、あたかも肉体がその運動からして判断されるごとく、同様の仕方でまた運動によって倫理的性状が判断されるのである。
 だが、滑稽なことはいたるところにあるし、また、たいがいのひとびとは冗談や揶揄を然るべき以上に喜ぶものであるがゆえに、道化者までも、たしなみのあるひとびとなみに機知的なひとびとと呼ばれることも行なわれてはいる。両者がしかし異なったものであり、しかもその差異の僅少でないことはわれわれの述べたところからして明らかであろう。
このような「中」的な「状態」には、「時宜を心得ている」「わきまえがある」ということが固有なのであって、わきまえのあるひとの特徴は、およそちゃんとしたひととか自由人とかに調和するような性質のことがらを語りまた聞くというところに存する。すなわち、かようなひとびとには、同じく冗談ではあっても、口にしたり聞いたりするにふさわしいことがらといったものがあるのであって、自由人の諧謔は下人のそれとは異なるし、教養のあるひとと教養のないひととでも異なる。
    --アリストテレス(高田三郎訳『二コマコス倫理学 上』岩波文庫、1971年、164ー165頁。

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中庸とは極端を足して二で割ったではなく、極端を排しながら「創造」していくという難行。「度を越えない」節度は、一日や二日で身に付くものではありませんが、「ゴルァァ」ってがなりちらすことは一日や二日で身に付くものですけどね(苦笑


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野蛮の政治はひとを覊扼す。文明の民は覊扼を免る

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 野蛮の政治はひとを覊扼す。文明の民は覊扼を免る。文野の別、ただその民の言行自由を得ると得ざるとにおいて視るべきのみ。それ人の性霊、もと自由なり。君子静居、天を敬し善を思う。大悪魔王といえども、絶てその自由を障碍すること能わず。ただその言行に発するにあたりては、あるいは威権を弄してこれを禁じ、あるいは法例を設けてこれを制する。かの威権を弄してこれを禁ずるのは野蛮の醜政、今これを論外に附す。法例を設けてこれを制するは、かの半開の国、専制の政治に多くこれあり。あるいは文明の俗と称する国においても、まま聞くところなり。
    --津田真道「出板自由ならんことを望む論」、『明六雑誌』第6号-1、明治七年四月。

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1872(明治5)年1月に改正された「出版条例」によって、印刷物の出版には文部省による許可が必要とされるようになるのですが、その状況に対して「いかがなものか」と反論したのが明治期を代表する啓蒙思想家の津田真道(1829ー1903)です。

津田は「出板自由ならんことを望む論」において、国民の文明化のためには思想・行動の自由を保障することが不可欠であるとして、出版の自由を求め、フランスを例にとりながら出版の自由を抑圧することがかえって政治的不安定の原因となったと説いたわけですけれども……

「今は昔・・・」

………ではありませんね。

「野蛮の政治はひとを覊扼す。文明の民は覊扼を免る」ですよ。


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著者:山室 信一,中野目 徹
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「状態(ヘクシス)」としての正義

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 あらゆるひとびとの解して正義(デイカイオシュネー)となすところのものは次のような「状態(ヘクシス)」にほかならないのをわれわれは見る。正義とは、すなわち、ひとびとをして正しいものごとを行うたちのひとたらしめるような「状態(ヘクシス)」、つまり、ひとびとをして正しきを行なわしめ、正しきを願望せしめるようなそうした「状態(ヘクシス)」の謂いである。不正義の場合もこれと同様に、それは、ひとびとをして不正をはたらかしめ、不正なものごとを願望せしめるような「状態(ヘクシス)」を意味する。われわれも、だから、これをもってわれわれの論議のだいたいの基礎としたい。
    --アリストテレス(高田三郎訳『二コマコス倫理学 上』岩波文庫、1971年、169頁。

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そう、状態としてあるのが「正義」。

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「そういう考え方もあったか」という驚きにまさるものはない

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 ヨーロッパの個性は、その根拠を知的教養のうちにもっており、決して情緒的性格の違いを尊重するものではない。なぜならヨーロッパ思想では、情緒は身体的に発生するものであって、それは尊重に値するものではなく、尊重に値するのは、知的教養における独自性だからである。そのような知的教養の独自性の尊重は、キリスト教によってではなく、何より大学の討議形式のなかで培われたと思われる。
 言うまでもなくこの討議形式は、古代ギリシアからのものである。しいて言えばソクラテスの「問答法」が起源である。プラトンの時代にはまだ討議形式がもつ個性の育成という側面は意識されなかったし、そのことはのちの時代になっても同じであったが、討議形式を制度としてもたない日本のような国の実状から考えれば、討議形式のもつ効用は、意外にはっきりしていると思われる。
 というのも、討議形式は個々人に、独特の個性のあるアイデアを要求するからである。ちょうど思わぬ技が競技における勝利を導くように、討議で勝つためには、相手が予想しないアイデアが有効となる。そして新しいアイデアをもつためには、ものごとを眺める新しい視点を必要とする。そして新しい視点は、往々にして異なる視点をもつ人々から受ける精神的刺激に負うことが多い。実際、自分の考えに凝り固まってしまうことから逃れる良い刺激というものは、「そういう考え方もあったか」という驚きにまさるものはない。人はこのような経験を積むと、異なる視点をもつ人々の存在を排除せず、むしろ喜ぶようになるものである。こうして討議形式は、それが社会の紐帯として有効にはたらくと、人々の個性を引き出すようになるのである。
    --八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』平凡社新書、2000年、100-101頁。

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人間はうまれおちたまま「人間」に「なる」のではない。
※平等性や尊厳性を否定するためにいっているのではありませんよ、念のため。

人間は、人間世界のなかで「人間」に「なる」生き物なんです。

そしてそれを丁寧に拵えていくのが討議空間としての大学という「場」。

ヨーロッパで誕生した「大学」という制度の独創性もそこにある。

教室で先生が「個性的になりましょう」ってふったら、学生さん皆が「は~い」と手をあげて応じれば「個性的な人間」に成長できるわけでもないし、それはそもそも平等とも疎遠なあり方ですしね。

だから個性の根拠は、情緒的性格や身体的に発生するものにおかれるべきでないし、それが平等を疎外する要素にもなりません。

だからヨーロッパで誕生した大学は、その根拠を「知的教養」のうちに置き、それを薫発・尊重するように醸成されていったわけです。

そしてその実践が討議。しかしこれをアメリカ流のディスカッションと同義でみてはなりませんでしょう。前者が創造への扉を拓くものであるとするならば、後者は断罪のレース。

たしかに議論として相手に勝つことは必要ですが、同時に、そのことによって、「そういう考え方もあったか」という驚きの精神も不可欠。

なにしろ「哲学は驚きからはじまる」わけですから。

「人はこのような経験を積むと、異なる視点をもつ人々の存在を排除せず、むしろ喜ぶようになるものである。こうして討議形式は、それが社会の紐帯として有効にはたらくと、人々の個性を引き出すようになるのである」。

まあ、日本の大学ではこの辺がスルーされているんだよなあ、と感じるのは僕一人ではないでしょうけれどもネ。


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ニーチェの描写した市民社会における隊長と隊員のやりとりから一コマ(苦笑

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 党派の中の勇気。--あわれな羊たちはその隊長に言う。「とにかく先に立って行ってくれ。そうすればわれわれは君について行く勇気を決して無くさないであろう。」あわれな隊長はしかし心の中で考える。「とにかく私の後をついて来てくれ。そうすれば私は諸君を導く勇気を決して無くさないであろう。」
    --ニーチェ(茅野良男訳)『曙光 ニーチェ全集7』ちくま学芸文庫、1993年、354頁。

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ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)が推察して描写した隊長と隊員のやりとりのようなのですが、、、

……リアルに「おなかいっぱい」

げふげふwww


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つまりこのあたりで日本人は、宗教アレルギーから脱していくためのまじめな学習を必要としているのではないか

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 日本人はたしかに宗教に対してアレルギーをもつところがある。昨今のカルト的事件によってそれはあからさまになってきている。だから、キリスト教の説明もまともに聞いたことのある人は少ない。そしてたぶん、仏教についてもである。だから宗教に対する無関心は、一時的な現象なのかもしれない。しかし、実はキリスト教について何もしらっずに、中世はもとより近代ヨーロッパを学ぶことには思わぬ限界も出てくる。実際、近代哲学の父デカルトも、進行を捨てていたわけではないし、かれの哲学の概念には、プロテスタントの教義との一致も一部で言われている。哲学のなかに宗教をもち込むことは注意すべきではあるが、人間が生きていく思想の全体を考えるなら、一応の理解が必要なことも常識であろう。
 もしかしたら、日本人には、宗教が非近代的だ、という観念があるのかもしれない。だからそれを知ることは、自分が古くさい考え方に左右されることになるまいかというおそれがあるのかもしれない。たしかにヨーロッパの民衆は、キリスト教会のなかでも布教に熱心だったカトリックの権力から離れて(信仰からは離れていないが)、近代技術を手に入れた。そしてその力を移入して近代化した日本人は、宗教の価値を世界で一番否定する理由を、そんな歴史からもつのかもしれない。つまり生半可な知識で日本人は、ヨーロッパが政治権力を教会から引き離したことを見て、信仰を生活の全般から引き離すことが近代であるのだと、勘違いしているのかもしれない(たしかにヨーロッパでも、現代では信仰から離れてしまった人が多いのだが)。しかし、技術の力で経済力をつけた日本は、今や精神の空洞化に悩んでいる。カルト的な宗教はますます日本人の宗教不信を増している。このままでは出口の見えない状況となってしまうだろう。
 つまりこのあたりで日本人は、宗教アレルギーから脱していくためのまじめな学習を必要としているのではないか。
    --八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』平凡社新書、2000年、12-13頁。

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僕はくどい男だから何度でも書く。

宗教を信じるも・信じないも自由だ。

しかし、宗教をきちんと理解しないことには他者を十全に理解することは不可能だし、安易なスピリチュアルに流れてしまうのが実情だ。

宗教をきちんと学ぶことは21世紀を生きる人間のパスポートなのだがorz


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根本的な自己省察とまったく普遍的な自己省察とは不可分

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 日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるものであるにもかかわらず、匿名的に行われる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これら現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きいついての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。というのも、これら地平によってのみ、明証の「射程」が究極的に捉えられ、それと相関的に、対象、理論的形成物、価値、目的といったものの存在の意味が評価されることができるからである。このような認識批判を欠いているからこそ、まさに現代の実証的な諸学の高次の段階において、さまざまな基礎づけ問題や逆接や理解不可能性が現れることになるのだ。学問全体を貫いて、その対象領野と理論との意味を規定している根本概念は、素朴に生じたものであり、未規定のの志向的地平を持っている。それら根本概念は、ただ荒っぽい素朴な仕方で遂行された、知られざる志向的働きの形成物なのである。このことは、単に個々の個別諸学だけでなく、あらゆる形式的な規範を扱う伝統的論理学についても当てはまる。歴史的に生成してきた学問から出発して、よりよき基礎づけへ進み、その意味と働きについてのよりよき自己理解へ至ろうとする試みはすべて、学者自身が行う自己省察の一部であろう。しかし、〔本当の意味で〕根本的な自己省察は一つだけしかなく、それは現象学的な自己省察なのである。根本的な自己省察とまったく普遍的な自己省察とは不可分であり、同時に、現象学的還元、それによって開示された超越論的な我(エゴ)の志向的な自己解明、直観的な形相学という論理的な形態における体系的記述、といった形をとった自己省察とは、我(エゴ)と超越論的な間主観性に「生まれつき備わった」、構成についてあらゆる考えられる可能性を支配できるようにすることを意味している。
    --フッサール(浜渦辰二訳)『デカルト的省察』岩波文庫、2001年、272-274頁。

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日常生活に根ざした議論よりも床屋談義が優先されてしまう本来のそれとは対極にある本朝のスノビズム。

結局、「文句をたらたらいってそれでおしまい」。
溜飲は下がるでしょうが、それでは問題は一向に解決しません。

そしてその情況を加速させるのが学問と日常生活の断絶構造。

ソフィスト的知識人は知識を独占しないと商売になりませんからそれを強調し、知っている側と知らない側の対立を煽るだけ。

だから「知っている側」はテキトーに嘯き、知らない側が「文句を言って終わり」にしてしまう。

しかし本来、学問とは日常生活と断絶したものでもなければ、ずるずるべったりで日常生活に媚びを得る物でもありません。

日常生活のなかで出来事が学問にヒントを与え、素朴な疑問が学問に道を示す。
学問は、一向に変わらぬと思われがちな日常生活に新鮮な息吹を与え、それを開拓していく。

かくあることにより、「文句をたらたら並べて、はい、おしまい」とする床屋談義から、日常生活を開拓していく根ざした議論が始まるとは思うのですけれども。

晩年、そのことを一番危惧したのがフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)。

最近、フッサール以上にそのことを痛痒しております。

生活の中で書を読み、書を読む中で生活を失念しない……かくありたいものです。

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著者:フッサール

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一七八九年の集団は、つねに偶然だったとは言わぬまでも、少なくとも革命的行動とは無縁の動機で、まず純粋な群衆として形成された

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 他方、革命の歴史家たちは、暗黙のうちに、革命的群衆を、多少とも組織性をもった行動や祝典参加のためなどに、さまざまな個人が、共通の情念ないし同一の理性的判断に基づいて、自覚的に集まったもの、とみなしているように思われる。しかし、こうした集団は、語の固有の意味での「群衆」fouleではなく、実は「結集体」rassemblementなのである。ここで念頭に置かれているのは、明らかに、一七九二年六月二十日や一七九三年六月二日の示威運動、一七九二年八月十日の蜂起、一七九三年八月十日や共和歴第二年草月(プレリアル)二十日の祭典などに違いないが、こうした「結集体」は、疑いもなく何らかの組織性を有している点において、「群衆」とは異なっている。これら結集体には、国民衛兵やセクシオンが枠組を付与しているのだ。
 これに対して、一七八九年の群衆は、こうした特徴を備えていないと主張することができる。第一に、七月十四日の戦士たちや、十月五日の朝、マイヤールが指揮することとなった、大部分が女性から成るデモ隊は、何ら組織の痕跡を留めていない。農村の蜂起についても同様である。とくに注目すべきは、行動を志向する「結集体」の性格を帯びる以前に、一七八九年の集団は、つねに偶然だったとは言わぬまでも、少なくとも革命的行動とは無縁の動機で、まず純粋な群衆として形成された、ということである。七月十二日の日曜日、巴里の民衆は、散歩をしたり良い天気を楽しんだりするために、パレ・ロワイヤルの周辺に集まっていたのだった。その時に、ネッケル罷免の知らせが、突如彼らの精神状態を変化させ、「群衆状態」をつくり出し、「集合体」から革命的な「結集体」への急変を準備させたのである。おそらくは、十月五日の月曜に集まった女性達も、少なくともその大多数は、パンの不足と高騰に抗議しようと集まったのであり、この単なる「集合体」が突如ヴェルサイユへ向かうデモ隊に変容したのは、その後のことにすぎない。マコン地方のイジェ村では、七月二十六日の日曜日、農民たちはいつものようにミサに参列し、ミサのあと、教会から出て、ごく自然に教会前の広場に集まる形となった。そして、この集まりが、領主の館に向けての革命的な「結集体」へと変容し、地方における農民叛乱のきっかけとなったのである。「大恐怖(グランド・ブール)」が拡まってゆく過程では、まず野盗の集団が押しかけてくるとの知らせがきっかけとなって、村人たちが集まり始める。当初の恐怖を乗り越えると、人々は自衛の組織にとりかかる。この集まりが、時に--多くの場合そうなるというのではなくむしろ逆なのだが……革命的な性格、つまり、特権身分や国王役人に反抗するといった性格を帯びることがあるにしても、それは後んびなってのことであった。革命期を通じて、とくに飢饉の際の市場やパン屋の店頭などでは、群衆がこのようにして攻撃的な結集体へと一挙に変容した事例を見ることができる。われわれの調査のためには、このような変容の事例の方が、綿密に計画された叛乱の準備よりの、はるかに興味深いのである。
    --ルフェーブル(二宮宏之訳)『革命的群衆』岩波文庫、2007年、13-15頁。

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Noと叫ぶのがそれを綿密に計画された叛乱が占有してしまっているのがこの国土世間の陥穽なのかもしれません。

Noと叫ぶ専門家の抱く違和感だけが正しい違和感であるわけではありません。

フツーに暮らしているひとびとの抱く違和感こそ、素朴でありますが、結果として慧眼である事例ということはよくある話。

ただこの国土世間はどうしても両極端に引き裂かれている嫌いがあり、叫ぶのは一部の専門家集団のみで、フツーのひとは「違和感なんて感じてないっすよ」ってスルーしてしまうという分断構造。

「それはちょっとおかしくねえか」ってことを「まあ、いいか!」って片づけてしまわないようにしない……と。


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「国民の生存そのもの、あるいはまた国の指導者や国民の基本的な利益が危機に瀕しているとのニュースが集合体の内部に拡まると、まことに印象的な形でこの現象が生ずる」はずなのに

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 (一) 人類については、純粋な集合体、つまり純粋状態の群衆は存在しないと、逆説的にではなしに言うことができる。というのは、純粋な集合体を私は、異質な要素より成るものと定義したが、人類にあっては、集合体の構成メンバーはつねに何らかの程度に集合心性を帯びているから、そのメンバーが全き意味で相互に異質となることは決してないからである。ただし、それだからといって、動物的なものと言ってよい純粋集合体の特徴のいくつかが、人間の集合体に見出されない、などと言うのではもちろんない。
 (二) 集合体のメンバーにあっては、それまでの集合心性を構成していた諸要件は、単に意識の背後に押しやられているにすぎないから、、何らかの外敵事件がそれらの要素を意識の前面に呼び戻しさえすれば、集合体のメンバーは、一挙に強い連帯感を恢復しうる。何らかの激しい成仏によって集合意識がにわかに甦ると、それは集合体に「群衆状態」とでの名付けられるべき新しい性格を付与する。市民意識が高度に発達している、文化水準が高い現代の諸国民にあっては、国民の生存そのもの、あるいはまた国の指導者や国民の基本的な利益が危機に瀕しているとのニュースが集合体の内部に拡まると、まことに印象的な形でこの現象が生ずる。こうした状況では、集合体は一瞬にして、ひとつの国民に属しているという意識をとり戻すのである。
 このように見てくるならば、集合体が急激な変容により革命的結集体へと変化を遂げることがいかにして可能かを理解するのは容易ではなかろうか? この転換のためには、革命的な集合心性があらかじめ人々の裡に醸成されていること、そして、集合体が形成される時の状況のゆえに一時的に意識から排除されていた集合心性が、何かがきっかけとなって再び意識の前面に甦ってくることが必要であり、またそれで十分なのである。集合体が、村祭りの場合のように、生理的興奮を喚び起こしたり、飢饉の時の市場やパン屋での行列の場合のように、反権力的な集合心性を自ずと内包していたりする時には、この変容は一層のこと容易となろう。
 それゆえわれわれは次のように結論できる。すなわち、それに相応しい集合心性があらかじめ醸成されていないならば、「革命的結集体」--常識的であいまいな意味合いになるが、「群衆」という言葉を使いたければ「革命的群衆」と言ってよい--はありえないのだ、と。
    --ルフェーブル(二宮宏之訳)『革命的群衆』岩波文庫、2007年、31-33頁。

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こんなものまで文庫になっていたのかと手にとって驚いたのですが、すでに出版されてから四年が経ったルフェーブル(Georges Lefebvre,1874-1959)の『革命的群衆』。

月曜に入手しましたが、短い一冊といいますか研究報告のようなものですが、なかなか奥深い著作です。

「烏合の衆はいかにして、歴史を動かす群衆に変貌するのか?」
「革命を起こす心性はいかにして造られるのか」

……帯に当たる岩波の扉の紹介文の問いをルフェーブルは、フランス革命下の農村騒擾から探究します。

職業革命家が演出する革命は必ず組織性をもった行動をその性格としますが、それは三々五々とあつまる「群衆」ではありません。

しかし最初のフランス革命には、そうした事例があったことには驚きです。

しかし、読めば読むほど……

「市民意識が高度に発達している、文化水準が高い現代の諸国民にあっては、国民の生存そのもの、あるいはまた国の指導者や国民の基本的な利益が危機に瀕しているとのニュース」がながれているにも関わらず、善き変容へスライドとしていかない本朝の現状には……ため息ばかり(涙


ぎゃふん
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どんな天才にも限界がある?!

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 どんな天才にも限界がある。石原においては、英邁な大帝によって輝かしく統治された明治を厳しく閉鎖的な軍人世界のただなかで生きたということが一つ。第二に、その信奉する日蓮主義がこれまた熱烈な忠君愛国精神と密着していたこと、そして、それは大乗仏教の特徴の一つとされる「転輪聖王思想」--強く正しい軍隊を持つ聖天子の統治こそが最高である--にがっちり支えられている。歴史的にいえば、この聖王のイメージは、前三世紀に実在した阿育王(アショーカ)の全インド統一に基づくもので、シャカ本来の思想とはなんのかかわりもない。シャカはもともと王族などではなく、それより階級的には一つ下とされる武家階級に属したインド東北部の小さな豪族で、しかも、その政治は専制的なものでなく、各部族の代表者たちによる合議制であった。当時のインドにおいて、このような体制をとっていて大きかったのはリッチャヴィで、ほかにはシャカ族その他いくつかの小部族があるだけであった。こうした“インド学”は石原が留学したころのドイツでも、ずいぶん進歩していたが、とうとう、それに触れることにならなかったのは、大乗こそが仏教で、ほかはとるに足らないとする日本仏教の古くからの伝統に誤られていたからである。
    --青江舜二郎『石原莞爾』中公文庫、1992年、428-429頁。

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こないだのETVが酷かったみたいなのですが、都合のよい部分は多いに専用して、都合の悪い部分はスルーする。

これが日本人の思考形式の顕著な部分であり、一番問題がある部分なのではないでしょうか……。

ねぇ。

ホント、かんべんしてくれ(涙

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「勇気、廉直、友と理想に対する忠誠心、親切、ユーモア、節度、正義」を備えること


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 しかも、諸国の王たちから尊敬を受けていることもさりながら、これらの書簡--たとえ真作ではないとしても、早い時期の証言としてけっして価値のないものではない--にうかがわれるところからすれば、プラトンはもっと普通の階層の人びとにも同じように心底から手を貸そうと心を砕いており、身内や知友やその他だれであれ困った人びとのためにとあれば、たとえ奴隷たちのためでさえ、できうるかぎりのことをしてやろうと考えているのである。気むずかし屋であっっという評判がプラトンにはあるが、彼は人びとの快活さを好んだようである。そして、たしかに、彼の対話篇を読んだ人はきっと認めるように、彼自身きわめて魅力的なユーモアのセンスの持ち主であった。
 要するに、彼は人間の本性を深く見通した人であった。勇気、廉直、友と理想に対する忠誠心、親切、ユーモア、節度、正義を備えた人であった。彼は神の定めたよき目的がこの世界を一貫していることを常にかわることなく確信し、彼の生をこの目的に合致させることが、人間の義務にして最大の特権であることを信じた。プラトンの尊厳は、自らが神から与えられた使命の遂行者であることを実感している人間の尊厳にほかならなかった。神命とは非道徳性や純然たる機械論的人生観と闘い、また宗教的なことがらをないがしろにする態度に敵対することであった。彼が信奉するのは「真の哲学」の語る教えであった。「真の哲学にまさる贈り物がかつて人類に到達したことはないし、今後もありえないでしょう。それをわれわれに与えたのは神々なのです」。人間にとってこの世で最も大事なことは知識と徳を獲得することである。「その報酬は大きく、しかもその希望は大いにあるのだから」。
    --R・S・ブラック(内山勝利訳)『プラトン入門』岩波文庫、1992年、85-86頁

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なんとか五回目の哲学の講義終了。

本年度前期は、東日本大震災の影響にて、通常半期15回の授業を、授業開始がゴールデンウィークあけからという都合上にて、11回で済まさなければならないので、組み立てになかなか骨を折る状況なのですが、通常よりチョい早いペースにてイントロと、哲学の誕生の部分はなんとか終了させることができました。

大学からはクロニクルな哲学史を年代順にやる必要はない……って話で授業を組み立てているのですが、それでもやはり「基礎知識」としては、

①「哲学とは何か」という部分
②哲学の流れ
③哲学が誕生した瞬間(古代ギリシアのソクラテス、プラトン、アリストテレスの三段活用w)

……に関しては言及しないことには、テーマ別の問題に踏み込むことはできませんので、どうしてもこの辺を割愛しながらやるというのは非常に難しく、……そのぶん、履修者には大変も申し訳ないのですが、それでもはしょらざるをえないところはありますので、その分は教材で自習依頼になってしまい、、、忸怩たるところはあるのですが、なんとか無事、終了というところでしょうか。

リアクション・ペーパーをみていると、そうした状況にもかかわらず、履修してくれたひとりひとりが、それなりに理解を深め、納得してくださっていることに感謝です。

さて……。

来週からテーマ集中型の講義内容構成。

「震災で11回しか授業なかったのよねん……orz」

……なんてことにはいたしませんので、どうぞよろしくw


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今の政治に今の日本を見る、恰も下野の岩舟山の如し

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日記 明治45年1月16日
 今の政治に今の日本を見る、恰も下野の岩舟山の如し。岩舟山ハ奇景の独立山なり。この山より石材出づ。全山皆岩山なり。営業者争つて石材を伐る。山の風致を破るニ頓着なし。
 政治また然り。争つて天然に疵けまた深心を破るなり。曰く法律、曰く納税、曰く兵役、曰く学文、皆国その物を破りてその物を造ると云ふ。本来を誤りて憚らさるハ現今政治関係の通弊たる当世の大悪事たり。国家、社会、人類の生命を永遠せんとせバ、断じてこの大誤りを根底より改め天然の良能を発起せしむるの外、果してこれを実行断決するニ於てハ、憲法、法律、教育の渾てを全廃して、更天神を基とせる方法即ち広き憲法を設くべし。誠ニ天則ニよらバ即ち憲法の天ニかなふを云ふなり。真理を中心とする憲法なり。組織的を法とせるものニあらず。今の如きハ岩舟山を崩して千万年の天然力をこぼちて、一次の利を争ふニ過ぎず。人生の惑ここニ至つて極まれり。
    --由井正臣・小松裕編『田中正造文集(二) 谷中の思想』岩波文庫、2005年、309頁。

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ちょっと気になることがあって田中正造翁(1841-1913)の文献を数日紐解いているのですが、いつの時代にあっても、そこで真面目に生きている人間を破壊しようとしてしまうのが国家というものなかもしれない……そのことだけは深く確認せざるを得ないという状況です。

いろいろと予断を許さない状況ではあるわけですけれども、「真ノ文明ハ 山ヲ荒ラサズ、川ヲ荒ラサズ 村ヲ破ラズ 人ヲ殺サザルベシ」なワケですが……、

ふうむ。

毎日の動向がこのところ……、

ぎゃふんですねw

Shinnobunmeiha


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田中正造文集〈2〉谷中の思想 (岩波文庫)Book田中正造文集〈2〉谷中の思想 (岩波文庫)


著者:田中 正造

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【覚え書】「血でもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう」

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 すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いているものだけを、愛する。血でもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう。
 他人の血を理解するということは、たやすくできるこではない。わたしは怠け者の読書家たちを憎むのだ。
 読書というものを見抜いている者は、もはや読書のために何もしないのであろう。なお一世紀のあいだ、読書なるものが存在し続けるとすれば--精神そのものが悪臭を放つにいたるであろう。
 誰もが読むことを学んでよいということになれば、長いあいだには、書くことだけではなくて、考えることまでも腐敗させられる。
 かつて精神は神であった。次いで精神は人間になった。そして今は、それどころか、精神は賤民にさえなる。
 血と箴言とで書く者は、読まれることではなくて、暗記されることを欲する。
    --ニーチェ(吉沢伝三郎訳)『ツァラトゥストラ 上 ニーチェ全集9』ちくま学芸文庫、1993年、72-73頁。

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痺れた一節なので、覚え書として残しておきます。


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ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)Bookニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)


著者:フリードリッヒ ニーチェ

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ニーチェ全集〈10〉ツァラトゥストラ 下 (ちくま学芸文庫)Bookニーチェ全集〈10〉ツァラトゥストラ 下 (ちくま学芸文庫)


著者:フリードリッヒ ニーチェ

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民主主義は最善の社会を齋す最善の方法ではなく、唯単に最悪の事態を避ける為の消極的=防御方法に過ぎない

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 既に述べた様に、民主主義は最善の社会を齋す最善の方法ではなく、唯単に最悪の事態を避ける為の消極的=防御方法に過ぎない。もしそれを最善の方法と考えへたとしたら、民主主義ほど始末に負へぬ代物は他に無いであらう。言ふまでもなく、民主主義は君主、支配者、政治権力などの強者を、その利己心の横暴を抑制する手段として思ひ附いたものである。その意味において消極的=防衛的なのである。機構の隅々に安全弁を備へ、強者の利己心、即ち悪の跳梁を防禦しようといふ訳である。詰り、敵を仮想した思想であり、敵意に備へる思想である。
    --福田恆存「偽善と感傷の国」、『日本を思ふ』文春文庫、1995年、334頁。

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この観点を失念してしまうと恐らく、民主主義は機能しないのではあるまいか。
民主主義そのものから「積極性」を導く出すことは不可能ですし、福田恆存(1912-1994)氏の指摘する通り、「君主、支配者、政治権力などの強者を、その利己心の横暴を抑制する手段として思ひ附いた」「消極的=防衛的」機構に他ならないですから。

そしてこれを荒廃させてしまうのは、そうした横暴行う連中よりも、横暴から身を守られている連中に他ならない。

そうならないようにしたものでございます。


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専制国家だけでなくあらゆる制度は「生活様式および習俗を決して変えてはならないということが、主要なる格率である」

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 専制的国家においては生活様式および習俗を決して変えてはならないということが、主要なる格率である。これより以上迅速に革命をもたらすものは他にない。これらの国家には、法律などは存在しないと言えるからである。そこにあるのは生活習慣と習俗だけである。そして、もし諸君がこれをひっくり返せば、諸君はすべてをひっくり返すことになる。
 法律は制定されるものであるが、習俗は鼓吹されるものである。後者はより多く一般精神に結びつき、前者はより多く特殊の制度に密着している。ところで一般精神をくつがえすことは、特殊の制度を変更するのと同じくらい、いやそれ以上に危険である。
    --モンテスキュー(野田良之他訳)『法の精神 中』岩波文庫、1989年、165頁。

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フランスの哲学者フーコー(Michel Foucault、1926-1984)は「生権力」という概念を用いることで、権力論に新たな地平を切り拓いたことで有名です。

近代以前の権力(そしてその権力〝観〟をいまなお引きずっているわけですが)というものは、命令に従わなければ殺すというわかりやすいものでしたが、近代以降の権力の特色とは、ひとびとの生活に積極的に介入しそれを管理し方向付けようとする特徴をもっております。

「殺す権力」から「生かす権力」。

こうした特徴をもつ近代の権力を「生-権力」とフーコーは呼びます。

そしてフーコーによればそれは二つのパターンをとって現出するわけですが、ひとつは、それぞれの人々の身体に働きかけていく方向性。人間の身体を規律正しく従順なものへ馴化・調教しようとする特質です。フーコーは学校や工場、軍隊において働くこの種の権力を「規律的権力」と表現しました。

もう一つは、国勢調査的マクロなアプローチです。統計学的調査をつかって対象の全体に働きかけ、「健康」「人口」をキーワードに全体を管理しようとする方向性です。

さて……
フーコーの権力論のアクチュアリティはどこにあるこというと、近代化をもてはやす進歩史観の陥穽を怜悧に批判したというのがそのひとつでしょう。

近代化とは何か。
いくつかポイントはあるかと思うのですが、近代になって個人の自由が広く認められる社会というのがそのひとつでしょうが、フーコーの権力論はそのステレオタイプを覆したところにあるといえます。

近代市民社会の誕生とは、それ以前の絶対君主的領邦国家の「殺す権力」からひとびとを解放したわけですが、それは同時に個々の人間を「生かす権力」として巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代であったという指摘です。

この指摘は何を示唆するのでしょうか。
昨日も少し言及しましたが、要するに、政治権力を奪取しさえすれば理想的な社会が到来すると見なすマルクス主義的な権力観に対する徹底的な批判として提示されたというわけです。

確かに、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)によって批判されるようにフーコーの権力論には限界も存在しますが、単純なものの見方を覆したという点では見過ごすことのできない指摘ではないかと思います。

さて……。
前ふりといいますか、フーコーの紹介が長くなったのですが、その「生権力」はどこで昨日するのでしょうか。

それはひとりひとりの人間が生きている生活空間においてなんです。

「生かす」ということは、つまり「今日」を永遠に継続させていくということ。
そして「今日」から逸脱する人間は「殺される」のではなく、矯正・調教のうえ、「今日」に送り返されるという仕組み。

そしてその「生かされる」「今日」の存在する「生活空間」とは具体的には何でしょうか。

すなわち、それは「生活様式および習俗」です。

だからこのコードを変更することは、ご遠慮願いたい。

それが「生かす権力」のホンネでしょうwww


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「現代の《無邪気な連中》は、権力が一つのものであるかのように、それについて語っている」と困るんだよw

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 現代の《無邪気な連中》は、権力が一つのものであるかのように、それについて語っている。つまり、一方に権力をもつ人々、他方にそれをもたない人々がいる、というわけである。権力はこれまで、典型的な政治的対象であると考えられてきた。いまでは、権力はイデオロギー的な対象であっても、最初はその声が聞きとれなかった場所、教育機関のなかにもしのびこんでいる、と考えられるようになったが、しかし要するに、権力は依然として一つである、と考えられているのだ。けれども、権力は、悪魔と同じように複数ではないのか。《わが名はレギオン、〔われら多きがゆえなり〕》〔「マルコ伝」第五章九節〕、と権力は言うことができるだろう。なにしろ、いたるところ、あらゆる方面に、さまざまな首長、巨大な組織や微細な組織、圧制的な団体ないし圧力団体が見られ、いたるところで、《権威をおびた》声が、きわめて権力的な言説を、傲慢さから発する言説を、はばかることなく聞かせているからである。われわれはそこで、権力は、社会的交流のきわめて些細な機構のうちにも存在する、ということを知る。権力は、単に国家や社会階級や集団のなかだけでなく、流行、世論、映画演劇、遊び、スポーツ、報道、家族関係、個人的交友のなか、さらには、権力に意義をとなえようとする解放の動きのなかにさえ存在するのだ。私が権力的言説と呼ぶのは、言説を受けとる側の人間に過ちがあるとし、したがって、罪があるとするような言説のすべてである。ある人々は、われわれ知識人があらゆる機会に「国家権力」に反対して行動することを期待している。しかし、われわれの真の戦いはほかにある。真の戦いは、複数の権力に対するもんどえあって、それこそ容易な戦いではない。というのも権力は、社会的空間においては複数的であり、歴史的時間のなかでは、それと対称的に永続的でからである。権力は、こちらで追放され、衰えたかと思うと、あちらにふたたび現れる。権力は決して滅びないのだ。権力を打破するための変革をおこなっても、権力はたちまち、新しい事態のもとでよみがえり、芽をふきかえすだろう。権力がこのように持続し偏在するのは、権力が、社会の枠を越えたある組織体に寄生しているからである。その組織体が、単に政治の歴史や有史以後の歴史だけでなく、人間の来歴全体と密接に結びついているからである。人間が存在しはじめて以来ずっと権力が刻みこまれているこの対象こそ、言語活動(ランガージュ)である--あるいはもっと正確には、言語活動の強制的表現としての言語(ラング)である。
 言語活動は立法権であり、言語はそれに由来する法典である。われわれは、言語のうちにある権力に気づかない。およそ言語というものはすべて分類にもとづき、分類というものはすべて圧制的である、ということを忘れているからである。ordo(秩序=命令)という語は、分類区分することと同時に威嚇を意味する。
    --ロラン・バルト(花輪光訳)『文学の記号学 コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1981年、10-13頁。

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水曜日は市井の職場の出勤時間が遅いので、昼過ぎから本の整理をしていたら、たまたまむかし読んだフランスの思想家ロラン・バルト(Roland Barthes,1915-1980)の著作が本棚の奥から出てきたので……

「なつかしいなあ」

……と思って手に取ったところかなりの衝撃w

学部時代は、古典を読む傍ら熱心に読んだのがいわゆる「フランス現代思想」とよばれるジャンルで片っ端から読んで、それなりには理解しているという自負までもっていたのですが(苦笑、キリスト教学に取り組むようになってから、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)を除き、疎遠になっていた所為もあり、通俗的な理解、例えばロラン・バルト=記号論、批評家みたいなカテゴリーで止まっていたなあorz……ということを、読み返す中で、理解。

正直なところ、目からウロコといいますか……、くどいですが「かなりの衝撃」。

上に引用したのは、コレージュ・ド・フランスでロラン・バルトが披露した開講講義(1977年1月)になるのですが、「言語の権力」という豊穣なテーマを、平易に開陳したことには……、くどいですが「かなりの衝撃」。

バルトは、デリダ(Jacques Derrida,1930年-2004)やフーコー(Michel Foucault,1926-1984)なんかに比べると、どちらかといえば、地味というか一段低く見積もられる嫌いが濃厚ですし、マルクス主義的二元論を相克する「新しい」権力論の視座は、まさにデリダ、フーコーにお任せした方が本道ですが、軽やかなバルトの肉声には、彼らに決して遜色しない本物の「批評=批判」人の面目躍如をみた次第です。

さて……。

本日は、菅直人第94代内閣総理大臣(1946-)閣下の進退がきわまる「ながくてみじかい一日」になりそうなのですね。

はっきり言うけれども、おそらく菅直人さんは、昨日、茂木健一郎さん(1962-)がツィートで指摘したとおり、「菅直人さんの人間性はともかく、『CPU』の性能が申し訳ないが、悪すぎるという印象は否めない。これでは、この困難に対処できない。不信任案を可決すべきだという確信が、より強まった」というのは疑いのない事実です。

http://twitter.com/#!/kenichiromogi/status/75812321183809536


僕も早く退場してもらいたいと思います。


ただ正直なところ、「はやくやめろ」と「この時期に」という両論もよくわかりますので、すごくその判断には「迷う」ところですが、「後にだれがなるんや」の含めて、これをパワーゲームに還元だけはしたくないと思わざるをえません。。

一番心配なのは、菅直人閣下が退場したことで「問題がすべて解決する」という精神的態度なんです。

そんなことで問題が解決するとみることは、まさに19世紀の思考法。

完全無欠な悪人がいて、完全無欠の「虐げられる民」が存在して、完全無欠な「悪を退治する善人」なんて存在しないのですよw

権力はたしかに実力をもって存在しますし、その構図から声を奪われ結果として「虐げられる民」は不可避的に拡大再生産されてしまいます。

だからだまっていてよいわけではありません。

しかしだまっていてよいわけでないと同じぐらい、権力と立ち向かうこと自体もひとつの権力であることを失念してしまうと元の木阿弥以上に劣化してしまうのも事実というわけですよw

そのリスク・負荷の自覚のない限り、「歴史は繰り返す」という寸法=誰がやっても同じというわけ。

酒のんでいるからぼちぼちワケワカメ……っていつものことやないけ!というツッコミは抜きで……、この国の最大の問題は、いずれにしても「愛国無罪」式の「disり無罪」の図式で、まあ、ふるい見方でいえば先に言及した旧態依然としてマルクス主義的二元論ですべてをみている……特に政治家自身がというところです。

別にさあ、菅直人閣下がやめて小沢一郎大先生(1942-)がなろうとも、誰がなろうともですが、そうした二項対立を続ける限り、ダブルバインドに拘束されたサバルタン@スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak、1942-)としてのひとりひとりの「声」は奪われ続けるわけですよw

だから、どのような進路をとるにせよ、政治を生業とする人間にいいたいのはひとつ。

そしてくどいけど、僕は茂木さん以上に、菅直人閣下は「空き缶」のような人間と思っているけれども、それでもなお、いうならば……

「批判して、それで鬼の首をとったと思うなよ」

……ってことです。

二項対立の図式を乗り越えて、何をこれからやっていくのか。

こいつは終わっているから、潰せば問題は解決する……わけないんです。

こいつはおわっているって奴は存在しますよw

もちろん潰したほうがいいんでしょうwww

しかし、こいつは終わっているから、潰したあとは「どうするか」。

権力と言語にかかわる人間はそこを深く省察しながら、動いていかないと水槽の中の波でしかありませんよ(苦笑

さて「どうするのか」。

お手並み拝見いたします。

くどいけれども、19世紀の変革理論の陥穽におちいることで「これで完成よ」ってパワーゲームはもうおしまいにしましょう。


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「ウイルスを 持ってるだけでパクられる 五月三十一日は治安記念日」。

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刑法改正案が衆院通過、ウイルス作成罪を新設

 ウイルス作成・保管だけで罪に――。衆院は31日の本会議で、コンピューターウイルスの作成や保管に対する刑事罰を新設する刑法等改正案を民主、自民、公明3党などの賛成多数で可決した。企業や政府の情報システムを狙うサイバー攻撃が頻発する中、抑止力となるかが注目される。

 ウイルスを作成、提供した場合は3年以下の懲役または50万円以下の罰金、取得や保管した場合には2年以下の懲役または30万円以下の罰金を科すのが柱。共産、社民両党は反対した。

 従来はウイルスを使って業務を妨害したり、他人のシステムに不正アクセスしたりしなければ罰せられなかったが、同法案では正当な理由なくウイルスを作成するだけで罪になる。

 政府が同様の法案を提出するのは3回目。過去2回は併せて盛り込んだ「共謀罪」への反発が強く、いずれも廃案に追い込まれた。今回は成立の可能性を高めるためにサイバー犯罪対策部分のみを切り離して提出した。
    --「刑法改正案が衆院通過、ウイルス作成罪を新設」、『日本経済新聞』2011年6月1日(水)付。
http://t.co/rtueqcW

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コンピューター監視法可決かあ。

同法案には民主党内でも反対の声もあったり、日本弁護士連合会も「慎重審議を求める」声明を出していたわけですが……昨日、可決されたようです。


これで私も貴方も、人間精神の自由は、すっぽぽぽ~ん。


「今は“非常時”が、合い言葉」。

知らない間に大変なことがどんどん進行していくようで……そら恐ろしいものを感じてしまいます。

ただ、ここで諦めてしまうと国家権力の思うつぼ。


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 人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように私は思われる。
    --ルソー(本田喜代治、平岡昇訳)『人間不平等起源論』岩波文庫、1972年、25頁。

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