L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.
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人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
--パスカル(前田陽一、由木康訳)「パンセ」『世界の名著 24 パスカル』中央公論社、1967年、562頁。
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ツイッターで少し連投した内容ですが、メモとして加筆して残しておきます。
学生さんからパスカル(Blaise Pascal,1623-1662)の有名な「“人間は考える葦である”とはどういう意味なのですか?」という質問があったので、少しだけ紹介します。
一般的には次の二点が比喩されたものとみてよいかと思います。
すなわち……
(1)無限な宇宙に比較すると人間は葦のようにか弱い。
(2)しかし、同時に、そのことを知っている・自覚する人間は「考える葦」として全宇宙の力よりも偉大である、
……という意味で受け取って大丈夫かと思います。
いわゆる人間の「考える力」に人間の人間らしさを見出したパスカルの洞察といってしまえばそれまでで、言い古されたネタですが、その公定解釈よりも「葦」で比喩したことには注意すべきかもしれません。
※ただし、パスカルの場合は最終的に、その「道徳の原理」はジャンセニストの立場からキリスト教信仰へと収斂しますが、ここではひとまず措きます。
さて……、
湖畔に群生する葦は、涼を送る微風にすらゆらぐ心許ない存在です。
強風の前ではそれこそ抵抗することすら不可能で、ぐわ~んとその姿を大きく風のなされるままに曝してしまいます。
それに対して森林の様々な大木はどうでしょうか。
葦が前後するような微風はおろか、強風にも揺らぐことなくその勇姿を示すことがほとんどです。
しかし大木には弱点があります。強風が続くと大木とは、時に「折れ」てしまうことがあるんです。
葦は風のなされるままです。しかしめったに「折れ」てはしまいません。
弱き自らの存在を自覚する葦は、風が吹くとそれに身をまかせます。
一見すると逆境に屈服したようにその姿は見えるかもしれません。
しかし、一旦、風や荒が収まると、葦は徐々に身を起こし、再び元の姿に戻ってゆく……。これが人間への比喩とされている点です。
この葦のように人間は、自然や運命の暴威に対しては無力です。これは否定できない事実です。だからそれに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずから立ち上がることができる……。
では、その柔軟性の根拠は人間の場合どこに存在するのでしょうか……。
パスカルは「考えることができる」ことにそれを見出しました。
たしかにこのことが後の知識主義的錯覚としての知性偏重への端緒を切り開くことになったことは否定できないけれども(しかもそれはパスカルの意図とはかけ離れたものですから、「パスカルの」というよりも悪しき「パスカル主義」とでも言った方が正確でしょうが)、知識にせよ知性にせよ、本来的にはそれは、人間をより柔軟なものたらしめるものとして存在しているのではないかと思わざるを得ません。
考えること・知性・知識といったものが、その人をして柔軟たらしめることができるかどうかで大きな違いには多分なるでしょうね。
パスカルの知性に対する信頼と知が人間を自由にするという発想(良心の内発性)は、もっと顧みられてもよいと思います。
今日日は、どちらかと言えば、パッケージ化された「知」なるものが人間を雁字搦めにしてしまうものですから。
思えば、この「葦」という比喩は、パスカルその人の人生そのものの表象かもしれません。病弱なパスカルは39歳という短い生涯ですが、理不尽な病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、信仰を深めてゆきます。
そのなかで、状況に「折れる」のでも「負ける」のでもなく、左右されない生き方を人間の知性に見出した……そういっても良いかもしれません。
だからこそ「知性」がパッケージ化されてしまう……、例えば、ジャンセニストの立場からイエズス会風の良心の内発性を阻む「良心例学」に関しては、断固として立ち向かうその勇姿と雄弁には、どうしてもそれを承認できない、その熱い魂というものを観じざるを得ません。
人間の生活世界において、パッケージ化された知が提供する「模範解答」と、自分自身が逡巡・熟慮・決断を下して導いた「そのひとの血と汗の解答」というものは往々にして、文言は同じかもしれません。
しかし、人間は限界をふりしぼって、それを自分で手に取るべきである……そのことによって人間は、葦であり葦でない存在になる……。
そのへんを丁寧に見極めていかないと……知なるものは、どこまでもそのひとのものにはならないとはおもいますよw
最後に、いちおー、フランス語の「パンセ」の原文も紹介します。
L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.
パンセ (中公文庫)
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