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人間の生活を歪めてきた眼差しについての素描

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 自然的生活とは、それが学以前の関心であれ学的関心であれ、また理論的関心であれ実践的関心であれ、それらの関心によって動かされながら、主題化されていない普遍的地平において営まれる生活である。この地平こそまさしく、その自然性においては、つねに存在者としてあらかじめ与えられている世界である。それゆえ、われわれがそこに入り込んで生きているかぎりは、「あらかじめ与えられている」ということばを必要としないし、世界はわれわれによってつねに現実であるなどと特に断る必要もない。あらゆる自然的な問いやあらゆる理論的および実践的目標--それらは主題とか、そんっざいするものとか、おそらく存在するであろうものとか、蓋然的なものとか、疑問なものとか、価値あるものとか、計画とか、行為と行為の成果とか、さまざまなかたちをとるであろうが--は、世界地平にあるなにものにかかわる。なんらかの存在様相によって性格づけられるものはすべて、なんといってもふたたび現実的存在に関係づけられるのであるから、上述したことは、仮象や非現実的なものにさえも当てはまる。たしかに世界は、あらかじめ、「現実的に」存在するもののすべてという意味、すなわち真の現実のすべてという意味をもっている。その現実はむろんそのようなものとして、訂正や、妥当性の変更のたえざる動きのうちにおいてのみ、われわれによってのそれなりの現実性をもっているのではあるが、世界の一つの理念的統一体であることは、あらかじめ先取りされているのである。
    --フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央公論社、1995年、260-261頁。

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土曜に野暮用があり実家へ戻っていたのですが、日曜にとんぼ返り。
少し仮眠をとってから仕事を開始しました……。

短い滞在でしたが種々考えることが多くあり、また思索の肥やしにしていこうと思います。

さてそのひとつが現実を開拓すべき理念的生活という意味での「見本」の問題です。

俗流プラトニズムが現実を開拓するどころか、現実を台無しにしてしまったことは承知ですが、それでも、批判的視座は人間には不可欠です。

もう少し平たい言葉でいえば目ざすべき「見本」とすべきものは、人間が生きていく上では必要ではないかという部分ですね。

しかし、明治維新以降の近代化の歩んだ日本は、やはりどうしても「東京」をすべて「範型」にしてしまい、内在的発展の芽を摘んでしまったというのはひとつの不幸かもしれません。

大きな物語としてひとつの枠組みを設定したとしても、その展開には多様な部分があってしかるべき。

その部分が特に戦後の日本では見失われ、一様な「近代化」にすべてが合わされてしまったなあ……というありふれたことを認識した次第。

その地域、地域には、変わらぬ風景というものが存在しますが、決して百年一律でもないし、中央に合わせたような展開のみを選択する必要もないということ。。。

短い滞在でしたが、車窓から見える風景、自宅から見える風景、東京から見える風景、それをみつめるなかで、ぼんやりとですが、そんなことを考えた次第です。

まあ、思えば「標準語」というのもそうなのですけどね(苦笑

この曲がり角の時代に、次代に対してどのような選択肢をとってゆくべきかもう一度考える必要があるのかも知れません。

まあ、凡庸な議論にすぎませんけれども、自然な生活世界における素朴な実感は無解にできないところがありますね。


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