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根本的な自己省察とまったく普遍的な自己省察とは不可分

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 日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるものであるにもかかわらず、匿名的に行われる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これら現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きいついての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。というのも、これら地平によってのみ、明証の「射程」が究極的に捉えられ、それと相関的に、対象、理論的形成物、価値、目的といったものの存在の意味が評価されることができるからである。このような認識批判を欠いているからこそ、まさに現代の実証的な諸学の高次の段階において、さまざまな基礎づけ問題や逆接や理解不可能性が現れることになるのだ。学問全体を貫いて、その対象領野と理論との意味を規定している根本概念は、素朴に生じたものであり、未規定のの志向的地平を持っている。それら根本概念は、ただ荒っぽい素朴な仕方で遂行された、知られざる志向的働きの形成物なのである。このことは、単に個々の個別諸学だけでなく、あらゆる形式的な規範を扱う伝統的論理学についても当てはまる。歴史的に生成してきた学問から出発して、よりよき基礎づけへ進み、その意味と働きについてのよりよき自己理解へ至ろうとする試みはすべて、学者自身が行う自己省察の一部であろう。しかし、〔本当の意味で〕根本的な自己省察は一つだけしかなく、それは現象学的な自己省察なのである。根本的な自己省察とまったく普遍的な自己省察とは不可分であり、同時に、現象学的還元、それによって開示された超越論的な我(エゴ)の志向的な自己解明、直観的な形相学という論理的な形態における体系的記述、といった形をとった自己省察とは、我(エゴ)と超越論的な間主観性に「生まれつき備わった」、構成についてあらゆる考えられる可能性を支配できるようにすることを意味している。
    --フッサール(浜渦辰二訳)『デカルト的省察』岩波文庫、2001年、272-274頁。

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日常生活に根ざした議論よりも床屋談義が優先されてしまう本来のそれとは対極にある本朝のスノビズム。

結局、「文句をたらたらいってそれでおしまい」。
溜飲は下がるでしょうが、それでは問題は一向に解決しません。

そしてその情況を加速させるのが学問と日常生活の断絶構造。

ソフィスト的知識人は知識を独占しないと商売になりませんからそれを強調し、知っている側と知らない側の対立を煽るだけ。

だから「知っている側」はテキトーに嘯き、知らない側が「文句を言って終わり」にしてしまう。

しかし本来、学問とは日常生活と断絶したものでもなければ、ずるずるべったりで日常生活に媚びを得る物でもありません。

日常生活のなかで出来事が学問にヒントを与え、素朴な疑問が学問に道を示す。
学問は、一向に変わらぬと思われがちな日常生活に新鮮な息吹を与え、それを開拓していく。

かくあることにより、「文句をたらたら並べて、はい、おしまい」とする床屋談義から、日常生活を開拓していく根ざした議論が始まるとは思うのですけれども。

晩年、そのことを一番危惧したのがフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)。

最近、フッサール以上にそのことを痛痒しております。

生活の中で書を読み、書を読む中で生活を失念しない……かくありたいものです。

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