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一七八九年の集団は、つねに偶然だったとは言わぬまでも、少なくとも革命的行動とは無縁の動機で、まず純粋な群衆として形成された

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 他方、革命の歴史家たちは、暗黙のうちに、革命的群衆を、多少とも組織性をもった行動や祝典参加のためなどに、さまざまな個人が、共通の情念ないし同一の理性的判断に基づいて、自覚的に集まったもの、とみなしているように思われる。しかし、こうした集団は、語の固有の意味での「群衆」fouleではなく、実は「結集体」rassemblementなのである。ここで念頭に置かれているのは、明らかに、一七九二年六月二十日や一七九三年六月二日の示威運動、一七九二年八月十日の蜂起、一七九三年八月十日や共和歴第二年草月(プレリアル)二十日の祭典などに違いないが、こうした「結集体」は、疑いもなく何らかの組織性を有している点において、「群衆」とは異なっている。これら結集体には、国民衛兵やセクシオンが枠組を付与しているのだ。
 これに対して、一七八九年の群衆は、こうした特徴を備えていないと主張することができる。第一に、七月十四日の戦士たちや、十月五日の朝、マイヤールが指揮することとなった、大部分が女性から成るデモ隊は、何ら組織の痕跡を留めていない。農村の蜂起についても同様である。とくに注目すべきは、行動を志向する「結集体」の性格を帯びる以前に、一七八九年の集団は、つねに偶然だったとは言わぬまでも、少なくとも革命的行動とは無縁の動機で、まず純粋な群衆として形成された、ということである。七月十二日の日曜日、巴里の民衆は、散歩をしたり良い天気を楽しんだりするために、パレ・ロワイヤルの周辺に集まっていたのだった。その時に、ネッケル罷免の知らせが、突如彼らの精神状態を変化させ、「群衆状態」をつくり出し、「集合体」から革命的な「結集体」への急変を準備させたのである。おそらくは、十月五日の月曜に集まった女性達も、少なくともその大多数は、パンの不足と高騰に抗議しようと集まったのであり、この単なる「集合体」が突如ヴェルサイユへ向かうデモ隊に変容したのは、その後のことにすぎない。マコン地方のイジェ村では、七月二十六日の日曜日、農民たちはいつものようにミサに参列し、ミサのあと、教会から出て、ごく自然に教会前の広場に集まる形となった。そして、この集まりが、領主の館に向けての革命的な「結集体」へと変容し、地方における農民叛乱のきっかけとなったのである。「大恐怖(グランド・ブール)」が拡まってゆく過程では、まず野盗の集団が押しかけてくるとの知らせがきっかけとなって、村人たちが集まり始める。当初の恐怖を乗り越えると、人々は自衛の組織にとりかかる。この集まりが、時に--多くの場合そうなるというのではなくむしろ逆なのだが……革命的な性格、つまり、特権身分や国王役人に反抗するといった性格を帯びることがあるにしても、それは後んびなってのことであった。革命期を通じて、とくに飢饉の際の市場やパン屋の店頭などでは、群衆がこのようにして攻撃的な結集体へと一挙に変容した事例を見ることができる。われわれの調査のためには、このような変容の事例の方が、綿密に計画された叛乱の準備よりの、はるかに興味深いのである。
    --ルフェーブル(二宮宏之訳)『革命的群衆』岩波文庫、2007年、13-15頁。

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Noと叫ぶのがそれを綿密に計画された叛乱が占有してしまっているのがこの国土世間の陥穽なのかもしれません。

Noと叫ぶ専門家の抱く違和感だけが正しい違和感であるわけではありません。

フツーに暮らしているひとびとの抱く違和感こそ、素朴でありますが、結果として慧眼である事例ということはよくある話。

ただこの国土世間はどうしても両極端に引き裂かれている嫌いがあり、叫ぶのは一部の専門家集団のみで、フツーのひとは「違和感なんて感じてないっすよ」ってスルーしてしまうという分断構造。

「それはちょっとおかしくねえか」ってことを「まあ、いいか!」って片づけてしまわないようにしない……と。


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