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「政治的生活は、人間の共同生活の唯一の形態ではない」という沃野のあたりで

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 プラトンが、「汝自身を知れ」というマキシムを、全く新しい意味に解釈したときは、ギリシャ文化およびギリシャ思想の転回点であった。この解釈は、ソクラテス以前の思想には見られなかったのみでなく、ソクラテスの方法の限界を、はるかに超えた問題を導入したのである。デルフォイの神の要求に従うために、また、己を検討し、己を知る宗教的義務を遂行するために、ソクラテスは、個別的人間に接近したのであった。プラトンは、ソクラテスの探究方法の限界認識した。問題を解くためにはもっと広いプランに投影しなければならない、と彼は断言した。我々が個人的経験中に遭遇する現象は、極めてさまざまであり、はなはだ複雑で矛盾したものであるから、これを解きほごすことは、なかなかできない。人間は、その個人的生活の中で研究すべきものでなく、政治的および社会的生活の中で、研究しなければならない。プラトンによると、人間性は困難なテキストのようなものであって、その意味は、哲学によって解明されるべきものである。しかし、我々の個人的経験の中では、このテキストは、判読できるほど極く微細な文字でかかれている。哲学の最初の任務は、これらの文字を拡大することでなくてはならない。哲学は、それが国家の理論を展開しないうちは、人間に関する満足な理解を与えることはできない。人間の性質は、国家の性質中では、大文字で書かれている。この場合には、テキストの、隠された意味が、突如姿を現わし、不明瞭、不鮮明と思われたものが、明瞭となり、読むことができるようになる。
 しかし、政治的生活は、人間の共同生活の唯一の形態ではない。人類の歴史において、現在の形のような国家は、文明化が、ある程度進んでから後で生まれたものである。人間は、このような形態の社会組織を発見するよりも、はるか前から、その感情、願望、および思想を組織しようとする、別の試みを行っていたのであった。このような組織化および体系化は、言語、神話、宗教、および芸術の中にみられる。もし人間の理論を発展させようと考えるならば、我々はこのように広い基礎を取り上げなければならない。国家は、どんなに重要だとしても、すべてではない。それは、人間の他のすべての活動を表現することもできず、また吸収しつくすこともできない。たしかに、これらの人間的活動は、歴史的発展中において、国家の発展と密接に結びついており、多くの点で、政治的生活の形式に依存している。しかし、これらの諸活動は、なるほど歴史的に孤立して存在しているものではないけれども、それぞれの目的と価値をもっているのである。
    --カッシーラー(宮崎音弥訳)『人間 シンボルを操るもの』岩波文庫、1997年、142-143頁。

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政治的な主張とかイズムによってその人間がどういう人間なのかを判断することはたやすいし、男性の場合「天下国家」を論ずることが多いので、そうならざるを得ない現実を否定することは困難ですが、それでもなお、「政治的生活」の弁舌によってのみその人間を判断することは不可能です。

なにしろ「政治的生活は、人間の共同生活の唯一の形態」ではありませんし、多様な現実のなかでそのつどつどの選択を政治的局面以外においてなしながら生きておりますから、そのへんの文脈を把握することは必要でしょう。

しかしそのことをもってして、政治的な主張とかイズムという言説をするーしていいわけでもないことはいうまでもありませんので、念のため。

しかしそれでもなお、もういちだん深く考えなければいけないのは、政治的生活とそれ以外の部分、そしてまた逆にそれ以外の部分と政治的生活における言説の密接な関係を顧慮しながら、トータルに考えていくこと……。

それが必要なのじゃないのかな……などと思うことがここ最近よくあります。

たしかに、「こうしたほうがいい」「いやいやこうすべきだ」という大声や相手を罵倒する声を耳にしますけれども、その人間の全体性からかけ離れたところで、先鋭化した「言説」として、まるで金太郎飴のような模範解答のような言い方のみが流通している事態には当惑するんです。

その人間が生きている生活空間から、どのようにそれを導き出したのかが(そしてそのまた逆もしかりなのですが)大事だと思うのですけれども……ねぇ。

政治的な枠内だけで議論をすすめると、結局のところは、いいように落ち着いてしまう……というのがパワーゲームの落とし穴。

歴史を振り返ってみればその証左だらけw

きがつくと集合離散で「ほんとうはこうなのじゃないのか」って議論が置いて行かれる……。

人間はその落とし穴に何度も陥り、あきらめたり・自暴自棄になったりするわけですから、その枠組みをささえるメタとしての生活空間から相即的にトータルに見直していくという視座が不可欠なんです。

たしかに僕たちの生活は「国家の発展と密接に結びついており、多くの点で、政治的生活の形式に依存している」ことは確かです。しかしながらそれ以上に広大な生活世界を保持し、その「諸活動は、なるほど歴史的に孤立して存在しているものではないけれども、それぞれの目的と価値をもっているのである」わけですから、どのように関係しているのか、顧慮しながら動いていかない限り、同じ事を何度も繰り返してしまう……そこが恐ろしいわけです。

文脈が違うかもしれませんが、あらゆる文脈を相即的に捉えようとした「相関性の神学」といってよいティリッヒ(Paul Johannes Tillich,1886-1965)を敬愛するのもこのゆえんでしょうかw

バルト(Karl Barth,1886-1968)的峻厳さを高く憧憬することもありますが、まず出発点の基盤としては、ティリッヒ的全体をつないでいくまなざしというのは大事だと思いますよ。

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