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費やし使い果たすこうした見返りのない所作の、異様で何ものにも解消しえない形態……

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 二十世紀はおそらく、消費、過剰、限界、侵犯といった、類縁的カテゴリーを発見したということになるだろう。費やし使い果たすこうした見返りのない所作の、異様で何ものにも解消しえない形態だ。労働する人間と生産的人間という思考--それが十八世紀末以来のヨーロッパ文化の思考だった--においては、消費はただ欲求によってのみ定義され、その欲求は飢えといったひとつのモデルで測られてきた。飢えは利潤の追求(もはや飢えていない者の欲望)にも持ち込まれて、人間を生産の弁証法のうちに導き入れたが、その弁証法には単純な人間学が読みとれる。つまり、人間は労働という所作と手づから作り出す事物の内に、自分の直接的欲求の真理を失うが、そこにまた自己の本質と欲求の無限定な充足を見いだすことができるというわけだ。けれどもおそらく、飢えを、労働と生産と利潤とを定義するために不可欠な人間学的最低条件と理解してはならないのだ。おそらく欲求はまったく違ったステイタスをもっているが、少なくとも生産の弁証法には還元されない法則をもつある体制にしたがっているのだ。セクシュアリティの発見、サドがのっけからそれを位置させた無限定な非現実の天空、いまではセクシュアリティがそこに捉えられているとわかっている禁止の体系的諸形態、あらゆる文化においてセクシュアリを対象とし道具としている新版、それはかなり有無をいわせぬかたちで、セクシュアリテがわれわれにとって構成するきわめて重要な体験に、昔からの弁証法の言語のような一言語を付与することができないということを示しているのである。
    --ミシェル・フーコー(西谷修訳)「侵犯への序言」、『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』ちくま学芸文庫、2006年、87-88頁。

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「労働する人間と生産的人間という思考」……労働する人間の無限循環が近現代の基本的人間観ということになりますが、その人間の定義は、人間のもつそのほかの豊かさ、過剰なる部分、非知の領域……たとえばそれがセクシュアリティの領域になるわけですが……、それをを排除してしまうことになりました。

労働するということを否定する訳ではありませんし……私も労働する主体ですが……、ルールに従って「労働」するように、そうしなければならないという規範は、その他の分野でも歴然として存在するわけですが・・・

もう、暑くてどうしようもありません。

頭も働きません。

節電した方がいいのでしょうが・・・

すいません、エアコンにスイッチをいれます。

ううう、暑い。

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著者:ミシェル・フーコー

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