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絶対的正義の主張は、血と涙に濡れた無用の犠牲を生む

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 絶対的正義の理念は幻想であり、存在するのは利益・利益衝突・闘争や妥協によるその解決のみである。合理性の領域に存在するのは正義でなく平和である。しかしたんなる妥協・たんなる平和に尽きない正義への希求・憧憬、高次の、至高の、絶対的な価値への信仰は、合理的思惟が動揺させるるにはあまりにも強力な物であり、それを覆すことがおよそ不可能であることは歴史の示すところである。この信仰が幻想であるとすれば、幻想は現実より強いのである。多くの人間、否全人類にとって、問題解決とは問題の概念的・言語的・理性的解決ではないからである。かくて人類はおそらく未来永劫ソフィストの解答に満足せず、プラトンの辿った道を、血と涙に濡れつつも、辿り続けるであろう。この道こそ宗教への道である。
    --ハンス・ケルゼン(長尾龍一訳)『神と国家』有斐閣、1971年。

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 政治上の「正義」「理想主義」について思いを巡らすと、常に思い浮かぶのは、全体主義の脅威から民主主義を擁護し抜いたオーストリアの方哲学者ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen,1881-1973)の警告です。

第三帝国の猛威をモロに経験しただけに、ケルゼンのイデオロギー批判、宗教批判は過激になることは承知で、もちろんそれを全公定することに与するわけではありませんが、その批判したくなる消息だけは理解できるような気はします。

宗教的言語における「義戦論」や「ジハード」など、絶対的正義の主張、固執は、実におびたたじしい「血と涙に濡れた」無用な犠牲を生んでしまうからです。宗教にかぎらず、特に20世紀は、排他的かつ狂信的なイデオロギーによって屍の山を積み上げてきただけに、「絶対的正義」なるものには懐疑的になり、眉に唾をつけたくなってしまいます。

しかし、同時に、ケルゼンも認めているように、正義によって立ち正義に生きることに生き甲斐の根拠を求めざるを得ないのも、人間という生き物の属性かもしれません。

さて、正義という天秤を中央においた場合、その両極に位置するのが、(暫定概念としての)善と悪という問題になるでしょう。
※暫定概念としたのは、伝統的な価値論においては、善は相対的概念ではないから、そう表現したわけですが、それはひとまず措く。

理想主義が愛国無罪の玉砕主義に暴走せず、そして同時に現実に籠絡されてしまうのでもない道を選択するためには何が必要なのでしょうかねぇ。

やはり、それが「天秤」にフラフラ揺れる「仮象」でしかないという認識をどこかに持ち合わせていないと、「血と涙に濡れた」無用な犠牲を生み出してしまうのではないでしょうか……ねぇ。

そのためには、現実に即して、理念をみる。理念に即して現実をみるという絶妙なバランス感覚が不可欠です。だからこそ、優れた現実感覚、人間への尊厳の感覚を失わないように自戒しつつ、考え行動し、行動しつつ考える必要があるのかもしれませんね。


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