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善意の努力を完成してくれるであろうと希望しながら生きる

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 道徳的な神の民を建設するということは、それゆえ、その実施が人間にではなく、神そのものにのみ期待されうる業である。だがそれだからと言って、人間はこの仕事に関して何もしないでよいとされはしないし、また各人はただ自らの道徳的な私事だけに専念すればよいので、人類の出来事全体は(その道徳的規定に関して)ある一段と高い知恵に委ねておけばよいといった具合に、摂理に任せきりでよいとされもしない。人間はむしろ一切が彼にかかっているかのように振舞わなければならない。そして彼はこの条件の下でのみ、一段と高い知恵が彼の善意の努力を完成してくれるであろうと希望してよいのである。
    --カント(飯島宗享・宇都宮芳明訳)「単なる理性の限界内における宗教」、『カント全集 第九巻』理想社、1974年、143頁。

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哲学を学ぶと言うことは、機能主義的に「おれはコレができるゼ」(キリッ……だとか、ドグマちっくに「これしかないんだよ」(ゴルァ……だとかという態度とは無縁の「境地」にでも似たものがあるのじゃないかと思います。

今日は、授業でその辺を少しお話させて頂いた次第ですが、その意味では、少し一方的にこちらが話し込んでしまった⇒演説してしまったわけで、履修者の皆様申し訳御座いませんでした。

ただ熱心に聞いてくださっていたようであり(リアクションペーパーなんかを見ると)、少しくさび?を打ち込むことあできたのではないかと思います。

哲学とは、実際のところ、「おれはコレができるゼ」(キリッって式に就活に直接役立つわけでもアリマセンし、その人の生きる確信として「これしかないんだよ」(ゴルァというのともちがう、ある意味では「慎ましく生きる」流儀なのではないかということです。

この世の中をどのように見て、そしてどのように関わっていくのか……ということに関して、「人間はこの仕事に関して何もしないでよいとされはしない」わけですが、だからといって「各人はただ自らの道徳的な私事だけに専念すればよいので、人類の出来事全体は(その道徳的規定に関して)ある一段と高い知恵に委ねておけばよいといった」お任せでもありません。

そのなかで、流れず・流されず、押さず・押し出さず「佇んで」歩む……。

そこでしょうか。

「人間はむしろ一切が彼にかかっているかのように振舞わなければならない。そして彼はこの条件の下でのみ、一段と高い知恵が彼の善意の努力を完成してくれるであろうと希望してよいのである」。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)が「理性の限界内の宗教」の末尾を「希望してよいのである」と結びますが、あてにするのでもなく・放置するのでもなく、たんたんと歩み続けてゆく「慎ましさ」としての「希望」……ここがおそらく人間が生きていくうえで一番大事なんじゃないかと思うんですが……。

ともあれ、今日は非常糞暑い一日でした。

熱血?教室の後は、少しひとりで暑気払い。

しかし、希望とは夢想でも確信でもなく、そこへ自らが到達していくという深い決意にも似た慎ましさがあるんだろうと思うのですけれどもねぇ~。

どうなんだろw

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