自己の運命を自ら開拓し、世界人生の謎を自ら解決すべく、雄々しく現実にたちむかう「我」
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こうして前七世紀から六世紀に及ぶギリシアの二百年は、実に顕著な矛盾的性格を示すのである。すなわち、それは一方に於いては清新な自由のパトスと奔湧する野心の情熱との灼熱的時代であるとともに、他方に於いては暗澹たる壊滅と動乱と絶望の瘴癘の気に充ちた時代であった。深い生の憂愁と、若々しい生の昂揚とが同じ時代の矛盾する両面をなして併存していた。そして現実が、かくもはなはだしい矛盾的性格を帯びて人に迫ったが故に、これに対処する人もまた、ますます現実主義的たらざるを得なかったのである。それは生死に関わる根本問題だからである。この矛盾多い現実を肯定するにせよ否定するにせよ、敢然としてそれに直面し、それを直視するのでなければ、人は生存の権利を抛棄するのほかない。かくて人は美しい音の夢をいさぎよく棄て、冷厳な心をもって冷厳な現実に向う。自己の運命を自ら開拓し、世界人生の謎を自ら解決すべく、雄々しく現実にたちむかう。しかしながら、現実の壁は粗硬であり、その障礙の前には人間の努力も往々にして稚戯に等しい。この苛酷な試練によって琢磨された人間が全身をもって現実と衝突するところに個性は目醒める。かくてここにはじめて明確な「我」の自覚が生じたのであった。
--井筒俊彦『神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア』人文書院、1978年、73-74頁。
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思い出したかのように希代の天才・井筒俊彦先生の著作を最近、まとめて読み直している毎日です。
先生のイスラーム理解には少し足を入れすぎた部分や、中国仏教に関するそれにおいては、理解というよりも先生自身の哲学の開陳というきらいがありますが、そんなアレはどうでもいいと唸らせる広さと深さというものがあるんです。
さて……。
『神秘哲学』の第一部を読み直しながら、「ああ、そうだな」というところがありましたので抜き書きした次第。
すなわち、西洋哲学における「我」の問題とはデカルト(René Descartes,1596-1650)によって全てが代弁されてしまうのですが、その源流においてはそれだけではない発想があるということ。
「我」の自覚とは、対峙による「我」の「生成」とでもいえばいいでしょうか。
理性と言語にのみ準拠した「我」だけが全てでない。
いやはや……。
神秘哲学―ギリシアの部
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