« 保守主義的思考のメモ | トップページ | 規則は何某あるいは何某の意のままに曲げられうるもの »

「合理的主義的・演繹的思考」も大事にされなければ、「書かれた言葉よりも、つねにより豊かな、より生き生きとした現実」をもって対抗することすらもできないのが現況でしょう

0000_dscf5574


-----

 具体的なものへの執着
 この保守主義的な体験と思考との本質的特徴のひとつは、直接に現存するもの、実際的に具体的なものへの執着である。ここから、具体的なものに対する新式の、いわば感情移入的体験が生まれるのであるが、当時「具体的」という言葉が反革命の標識として用いられていたことのなかにその反映を示すことができる。具体的に体験し、具体的に思考するということは、いまや、人間がおかれている一定の直接的環境における特殊な態度、独自な活動意欲--一切の「可能なもの」、「思弁的なもの」に対する極端な嫌悪を意味する。
    --カール・マンハイム(森博訳)『保守主義的思考』ちくま学芸文庫、1997年、13-14頁。

-----


再読ではなく、かったまま放置していたマンハイム(Karl Mannheim,1893-1947)の名著『保守主義的思考』読了。


人間は「旧来のものを墨守し、更新にたずさわるのを嫌うような人間的な心的素質を一般にもっている」。これが伝統主義という立場であり、現在においても色濃く存在しております。

しかし、伝統主義的な行為は、イコール保守主義でもないし、対極の革新主義とも直結しません。

もちろん、「旧来のものを墨守し、更新にたずさわるのを嫌うような人間的な心的素質を一般にもっている」ものであるとすれば、保守主義も革新主義もその土壌の影響を受けていることは確かですが、それと切り離すことによって思弁することで、それぞれがおのれを明らかにするものでえあるからです。

さて、伝統主義という立場は深く人間の性向に根ざす生物学的な態度といってよい部分が見え隠れしますが、そから脱皮する形で区別されるように表れたきた保守主義とはどのような立場でしょうか。


-----

具体的なものと抽象的なものとのこの対立は、そもそも体験の、環境の対立であって、思考の対立はただ第二次的なものでえあり、しかもこの論理的対立の近代的な形態のなかには、ひとつの政治的根本体験が付着しているということを証示することによって、二つの体験典型がいかに鋭く社会的に機能化されているかという重要な点があきらかになる。近代世界の形成には、現存の組織を解体しようと努めるもろもろの社会層が存在することが必要である。彼らの思考は必然的に抽象的であり、可能的なものによって生きる。これに反して、保持と停滞化に努める者の思考と体験とは具体的であり、既存の生活組織を踏み越えない。
    --カール・マンハイム(森博訳)『保守主義的思考』ちくま学芸文庫、1997年、50-51頁。

-----


フランス革命を経た19世紀初頭、最初に登場するのが啓蒙主義と革命がもたらした「抽象的」「理念的」なものへ偏愛する革新の立場ですが、それをうけて自らを洗練していく立場というのが、パトリオティズム的な伝統主義とは異なった「保守主義」という立場。

そして保守主義は、「具体的」で「生き生きとした」ものを掲げて《保守主義的思考》として機能していく……。
※この形成過程でロマン主義との対峙があるわけですが。

-----

 保守主義的改良主義の本領は、個々の事実を他の個々の事実によって交換(代替)すること(改良)にある。進歩主義的改良主義は、好ましからざる事実に対して、このような事実を可能にさせている世界全体を改造して、この事実を除去しようとする傾向をもつ。ここから、進歩主義者の体系化への傾向、「保守主義者」の個々の事例への傾向が理解できる。
 保守主義者は、進歩主義的体系に対抗してひとつの体系を打ちたてることを余儀なくされるにせよ、歴史過程の進展にともない現状からずり落とされて、歴史の過程を逆行させるために積極的に干渉しなければならなくなるにせよ、反動的になったときにだけ体系的に思考する。
    --カール・マンハイム(森博訳)『保守主義的思考』ちくま学芸文庫、1997年、47頁。

-----


種々論点はありますし、西洋にすべての範型を見出せ!とまでは大見得を切りませんが、読後、ひとつ実感したのは、日本の「保守」と呼ばれる立場のひとびとというのはひょっとすると保守以前の「伝統主義」のテリトリーから自称「保守」だけ看板を掲げているのではないか……ということ。

もちろん、政治学・政治思想史が専門ではない素人思考ですけれども、そのあたりを実感します。利権という名のパイの分配を墨守するだけのパワーゲームというのは、保守以前の「伝統主義」、しかもかなり劣化したそれであるような……そんなところです。
※もちろん、その対極にある革新なるものも、そうした劣化ウラン弾を相手に作業をするわけですから、同じく劣化したそれであるような……ということも念のため。

-----

 生に訴えて合理的主義的・演繹的思考を克服するもっとも素朴な形態は、「生成憲法」に対して、書かれた言葉よりも、つねにより豊かな、より生き生きとした現実を対抗させることである。のちに有名になった〔フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の発した〕単なる紙屑という憲法への嘲笑をふくんだ標語は、この「合理的なもの」の克服の最初のもっとも原始的な形態なのである。しかしより詳細にみるならば、哲学的論議において「規範」と「存在」との対立として特徴づけられている、ひとつの対立がここにすでに表現されている。保守主義的思考は、たとえば人権宣言のなかにみられるような、「人間一般の権利」から出発する思考には賛成しない。この出発点、すなわち、思考における演繹的前進とこのやり方で国家の正統性秩序を展開しようとするその目標設定とに憤りを覚え、他の論法を探索する。この探索、この敵対的思考への反抗において、人は国家、社会、秩序および方がそれまでいかにして成立し、効力を発揮するにいたったかを想起しようとする。人は、今日では討論と投票とが決定的であり、「理性」が世界の現実を設定しようとするが、以前はこれに反して一切のものが漸次的に生成し、慣習によって維持された、という相違に気づく。それとともに体系的発端と歴史的発端が分離する、自然法的思考はなおいぜんとして意味発生と現実発生とが同時に生起したという仕方で構成されていた。契約説は意味発生的構成であると同時に現実因果的擬制であった。両者をはじめてはっきり分離したのはカントである。そしてこれとともに、存在(生成)と法則との関係は、全時代にわたって集合的思考が没頭する活気ある問題になる。
    --カール・マンハイム(森博訳)『保守主義的思考』ちくま学芸文庫、1997年、47頁。

-----


「合理的主義的・演繹的思考」も大事にされなければ、「書かれた言葉よりも、つねにより豊かな、より生き生きとした現実」をもって対抗することすらもできないのが現況でしょう。

双方がプラカードに「記述された言葉」を「連呼」するだけでは時代はどうしても変わりません。

建設的思考と「豊かな、より生き生きとした現実」認識から、新たな道を立ち上げるしかない……ということでしょうかねぇ。

ぎゃふん……となってもシカタガナイので、木曜は健康診断の帰りに、立川伊勢丹8Fの「GINZA天一」にてひとりで遅めのランチ。

カウンターで挙げるそばから頂戴して、鋭気を養うことができましたので、「ぎゃふん」で終わらないように、取り組んで参りたいと思います。

Resize0227


Resize0228


Resize0229


Resize0230


|

« 保守主義的思考のメモ | トップページ | 規則は何某あるいは何某の意のままに曲げられうるもの »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/40620185

この記事へのトラックバック一覧です: 「合理的主義的・演繹的思考」も大事にされなければ、「書かれた言葉よりも、つねにより豊かな、より生き生きとした現実」をもって対抗することすらもできないのが現況でしょう:

« 保守主義的思考のメモ | トップページ | 規則は何某あるいは何某の意のままに曲げられうるもの »