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規則は何某あるいは何某の意のままに曲げられうるもの

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 規則とは執拗さの計算された楽しみ、流血の約束なのである。規則は支配の戯れにたえず力を与えさせてくれる。規則は細密に繰り返される暴力を舞台にのぼせるものなのである。平和の欲求、妥協の甘美さ、暗黙裏の法の受諾、これらは、規則を生み出したもとの道徳的大改宗とか、有益な計算とかではまったくなくて、規則の結果にすぎず、じつをいえば背徳なのである。「過誤、良心、義務の現出源は債務法のうちにある。そして地上のあらゆる大事件と同じく、その始まりは血に浸されていた。」人類は闘いから闘いへとゆっくり進歩を重ねるわけではないし、最後は普遍的な相互関係へ到達し、そこでは規則が永久に戦争にとって代る、などということはないのである。人類はそれらの暴力の一つ一つを規則の体系のうちに捉え、それによって支配から支配へと進んでいくのである。
 暴力に対して暴力が加えられること、支配する者自身を他の支配が屈服させることを可能にしてくれるのはまさに規則なのである。規則はそれ自体としては、空虚で、乱暴なもので、目標をもたない。規則はこれやあれやにつかえる為に作られている。規則は何某あるいは何某の意のままに曲げられうるものである。歴史の大きな賭けは、だれが規則を自分のものにするか、だれが規則を利用する者の位置を占めるか、だれがうまく自分の正体をごまかして、規則をねじまげ、これを逆用し、自分たちにこれをおしつけていた者に対してこれをぶつけるか、だれが複雑な機構の中に入りこみ、これをうまく働かせて、支配者が彼ら自身の規則によって支配されているという状態におちいらせるか、という点にある。ひとが見定めることのできる多様な現出は、あるただ一つの意味が次々に形をとったものではない。それはすべて置換、補充と移動、装われた征服、組織的な変換の結果なのである。もし解釈するということが、起源のうちに埋もれている一つの意味をゆっくりと明るみに出すことであるのなら、人類の生成を解釈できるのはただ形而上学だけということになるであろう。しかし、解釈するということが、暴力でもって、あるいは不正なやり方で、それ自体では本質的な意味をもたない規則の一体系をわがものにし、これに新しい報告をおしつけ、これを新しい意味に屈従させ、別の活動の仕組みにとりこみ、二次的な規則に従わせることであるなら、その場合は人類の生成が一連の解釈だということになるのである。そして系譜学はその歴史となるはずである。種々の解釈の現出としての、道徳、理想、形而上学的概念の歴史、自由とか禁欲的生活の概念の歴史。もろもろの手続きの上演舞台へそれらのものを出来事として登場させることが問題なのである。
    --フーコー(伊藤晃訳)「ニーチェ、系譜学、歴史」、『フーコー・コレクション3』ちくま学芸文庫、2006年、365-367頁。

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運動の限界と運動論の欺瞞を暴くフーコー(Michel Foucault,1926-1984)の舌鋒。

だからといって、何かをなそうとすることを否定するわけではありません。

フーコー自身も、思想的には対極にあるといってよいサルトル(ean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)と共闘して監獄待遇改善運動に従事しております。

しかし、何かをなすとき、それ自体が目的となってしまい、結局はコードを握る当事者の転換に終わってしまうことが殆ど。

であるならば、立ち位置を自覚しながら、やるしかないのですけれども……ねぇ。


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