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詩人の芸術は、われわれの個性をよりよく悟らせ、われわれの視界を自己の心情体験を超えた広さに拡大する媒介となる

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 抒情詩人は、平生は外的目的に攪乱されたり日常的騒音に被われたりしている、心の内のしずかな推移を、心耳に聞きとり、これを捉えて意識にまでとりあげる能力が恵まれている。詩人はわれわれの心の内に、かつてわれわれの心の内に存した一連の内的生活をふたたび呼び醒ましてくれ、しかもそれは特に強い特に独特な仕方でではなく、穏やかな経過をとりつつ意識的にあつかわれているので、詩人の芸術は、われわれの個性をよりよく悟らせ、われわれの視界を自己の心情体験を超えた広さに拡大する媒介となる。心情の天才はわれわれの一人一人にわれわれ自身の内界を啓示し、またわれわれに親近な他人の内奥を洞見させる。こうした詩人の個性が多種多様であることによって、われわれは人間の内奥のゆたかさを会得させられる。したがってまたわれわれが或る抒情詩人を理解し、その詩人の意義を認識するのは、詩人が人間的内奥の諸相ならびにそれの芸術的表現手段によって生みだした新しいものを把握する必要がある。
    --ディルタイ(小牧健夫・柴田治三郎訳)『体験と創作(下)』岩波文庫、1961年、206頁。

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詩は真実を描写するわけではないけれども、イコール「嘘」ではありません。

ここをはき違えると大変なことになってしまう。現代世界においてもっとも大切なことは「真実」の探求と、そして「詩心の復権」につきるのだろうなあと常々考えております。

うえの文章はディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)が文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)の詩作の力強さを評した部分ですが、まさに詩の力とは「詩人はわれわれの心の内に、かつてわれわれの心の内に存した一連の内的生活をふたたび呼び醒ましてくれ」るところにあるのはその指摘のとおりです。

たしかに目の前にある問題に対応することは必要不可欠なんですが、その問題を引き起こした人間そのものへ目を向けることも大切です。その営為が失われてしまうと、何度も同じ事を繰り返さざるを得なくなってしまいますしね。

優れた詩人の作品は、読む者の魂を高揚させてくれます。

それは、宇宙のリズムや巧まざる自然の営みへの驚きであれ、あるいは圧政への抵抗の叫びであれ、謳い上げられた詩人の心が、読者の心に触れて、共振を起こしてくれる。

この力が今の世界では最も必要だと思うのですが……いかがでしょうか。

人間は詩を読むことにより、様々な立場や地位に「ある」存在以前の、一個の人間に立ち戻ることを促してくれます。そして人間の善性を揺さぶり結集し、その尊厳性を涵養してくれるのが詩の力。理想をみつめつつ、現実を力強く開いていく精神の力、言葉の力こそこそ、詩心にほかならないと思います。


逐語霊感的な墨守でもなく、大言壮語でもない……そこに「詩」のもつ「言葉」の「力」がさく裂する契機があるんですよね。

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