universalとpersonal
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そこで、あなた方でする仕事というものを見ると、普遍的即ちuniversalの性質を持っている。私どもの方はuniversalではなくてpersonalの性質を持っています。なお敷衍していえば、あなた方はまず公式を頭の中に入れて、そのapplicationが必要であるそれは人間が考えたものに違いないけれども、私がこのものがいやだといっても御免蒙ることはできない。universalということはpersonalityという個人としての人格じゃなくて、personalityをeliminateし得る仕事なのです。この鉄道は誰が敷設したという事は素人にはあまり参考になりません。この講堂は誰が作ったって問題にならない。あすこにぶらさがっているランプだが、電気だが何だか知らないが、これには何のpersonalityもない。即ち自然の法則をapplyしただけなのであります。
しからばわれわれの文芸は法則を全然無視しているかというと、そうでもない。ベルグソンの哲学には一種の法則みたいなものがある。フランスではベルグソンを立場として、フランスの文芸が近頃出て来ている。しかしわれわれの方ではsexの問題とかnaturalismとか世間に知れわたった法則等から出立するものは、そのabstractionの輪郭を画いてその中につめこんだのでは、生きて来ない。内から発生した事にならない。拵えものになる。即ちわれわれの方面では、abstractionからは出立されないのです。しからば文学者の作ったものから一つの法則をreduceすることはできないのかというと、それはできる。しかしそれは作者が自然天然に書いたものを、他の人が見てそれにphilosophicalの解釈を与えたときに、その作物の中からつかみ出されるもので、初めから法則をつかまえてそれから肉をつけるというのではありません。われわれの方でも時には法則が必要です。何故に必要であるかといえば、これがために作物のdepthが出てくるからである。あなた方の法則はuniversalのものであるが、われわれの方ではpersonalなものの奥にlawがあるのです。というのは既に出来た作物を読む人々の頭の間をつなぐ共通のあるものがあった時、そこにabstractのlawが存在しているという証拠になるのです。personalのものが、universalではなくても、百人なり二百人なりの読者を得たとき、その読者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。これが即ちlawである。
文芸はlawによってgovernされてはいけない。personalである。freeである。しからばまるで無茶なものかというと、決してそうではないというのであります。
--夏目漱石「無題(東京高等工業学校交友会雑誌所載の略記による)」、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫、1986年、181-183頁。
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人文科学というものは、文芸と違い創造性は皆無であっても成立します。否、詰めていく作業としては自然科学と殆ど同じといっても過言ではありません。
しかし、その研究対象は、なんらかのlawによってgovernされているわけではなく、personalでありかつfreeなものが殆どということが屡々あります。
しかし、その対象が百年、二百年にわたって「意味あるもの」と受け継がれているという意味では、そこにlawが存在する。
その形にならないものに「形」を与えていく--そこが難行なわけですが、この仕事に従事するというのは、その醍醐味を味わうことができる……そこが哲学や倫理学、そして神学の楽しみかもしれませんネ。
![]() | 漱石文明論集 (岩波文庫)
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