公式主義と機会主義とは一見相反するごとくにして、実は同じ「惑溺」の異なった表現様式にほかならない
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かくして福沢の場合、価値判断の相対性の強調は、人間精神の主体的能動性の尊重とコロラリーをなしている。いいかえれば価値をアプリオリに固定したものと考えずに、是を具体的状況に応じて絶えず流動化し、相対化するということは強靱な主体的精神にしてはじめてよくしうる所である。それは個別的状況に対して一々状況判断を行い、それに応じて一定の命題乃至行動規準を定立し、しかもつねにその特殊的パースペクティヴに溺れることなく、一歩高所に立って新しき状況の形成にいつでも対応しうる精神的余裕を保留していなければならない。是に反して主体性に乏しい精神は特殊的状況に根ざしたパースペクティヴに捉われ、「場」に制約せられた価値規準を抽象的に絶対化してしまい、当初の状況が変化し、或はその規準の実践的前提が意味を失った後にも、是を金科玉条として墨守する。ここに福沢が「惑溺」と呼ぶ現象が生じる。それは人間精神の懶惰を意味する。つまりそれはあらかじめ与えられた規律をいわば万能薬として、それによりすがることによって、価値判断のたびごとに、具体的状況を分析する複雑さから逃れようとする態度だからである。そうしてその様な抽象的規準は個別的行為への浸透力を持たないから、この場合彼の日常的実践はしばしば彼の周囲の環境への単に受動的な順応として現れる。従って公式主義と機会主義とは一見相反するごとくにして、実は同じ「惑溺」の異なった表現様式にほかならない。かくして、福沢をして「無理無則」の機会主義を斥けさせた精神態度が同時に、彼を抽象的公式主義への挑戦に駆りたてるのである。
--丸山眞男「福沢諭吉の哲学」、松沢弘陽編『福沢諭吉の哲学 他六篇』岩波文庫、2001年、83-84頁。
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「価値をアプリオリに固定」することが信念に生き抜く人生とは程遠いはずなのに、「価値をアプリオリに固定」することを「強靱な主体的精神」と勘違いするケースに最近ちょくちょく直面します。
ひとがものごとを判断する場合において、アプリオリに判断する場合も、そしてアポステオリにそうすることも、現実には混在しております。
しかし、少し余裕をもってそれが妥当するのかどうかという省察が欠如した場合、どちらの判断もうまく機能しないのではないかと思います。
前者は「金科玉条として墨守」する宿痾のような態度として現れ、後者は風見鶏となってしまう。その心根を極限まで排しながら、現実的判断と普遍的な判断をすり合わせようとしたのが福沢諭吉(1835-1901)の戦いではなかったのか……福沢の教説を読むそのことをいつも思い出します。
いみじくも丸山眞男(1914-1996)が指摘する通り福沢の第一規律とでもいうべきものは「惑溺」を避けるという態度。
「あらかじめ与えられた規律」でうまくいく場合を全否定はしませんが、それが「万能薬」であるわけでもありませんし、それでうまく片付くという発想は「価値判断のたびごとに、具体的状況を分析する複雑さから逃れようとする態度」とワンセットになっていることを承知しておくことが必要不可欠。
そしてその対極に位置すると見られがちな「風見鶏」の判断という奴も、つまるところは「周囲の環境への単に受動的な順応」という意味では同じように機能するから、実はひとつもののうらとおもて。共通していることは、「個別的状況に対して一々状況判断」を行うことができない思考麻痺のそれであり、そこから「一定の命題乃至行動規準を定立」する、あるいは学ぶことの出来ない臆病な心。
「具体的状況を分析する複雑さから逃れようとする態度」は、一見すると相反する極端な立場を不可避に招来させてしまうわけですが、どちらからアプローチしようとも、結局の所は両者とも、「いきた人間」を真正面からみることはできないから、現実を分断してしまう寸法です。
福沢は機会主義者として誤解を受けがちですが、それは早計でしょう。思索する余裕を欠如した公式主義と機会主義への挑戦が彼の戦いだった点は承知しておくべきでしょうねぇ。
福沢諭吉の哲学―他六篇 (岩波文庫)
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