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隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負おうている者のこと

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……現代人は、テクノロジーや非人間的で抑圧的な国家権力に対する反動として、自分の優越性または優先性を確証したがる(同一性論理の勝利を讃え、それに基礎づけを与える)傾向あるようですが、それと同時に、みずからの解体と疎外を、間接的で技術的なコミュニケーションを通じて乗り越えようとしてもしております。こうした場面におきましては、わたしたちが実存的・社会的にコミュニケートすべき他者なるものは、本来的人格ではなく、同一性論理に支配された仮面であるにすぎません。テクノロジーによって急速に変貌し、ホロコーストによる真の脅威にさらされることによって、正義が第一の戒めとならざるをえないこの世界にありましては、「私が愛さねばならぬ隣人、それは、いった誰のことか?」という問いは、いささか逆説的な響きをもちます。けれども、その問いは、思想的にも現実的にも、その重大性において低く見積もられるべきものではないのです。
 何故ならば、隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負おうている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたとかろにいる者でもあります。彼は、ホメーロスの世界の貧者、漂白の乞食であり、福音書にいう富める者です。彼は、「正義のおこなわれる」「法治」国家で盗賊に出会うひとびと、支えてやるのが私の義務であるひとびとです。彼は、「豊かな社会的に」における貧しき者・富める者であり、アフリカやインドで飢餓に苦しむひとびとです。こうして、私の隣人とはで現にあり・あるであろう、多くのひとびとが存在するのです。ですから、社会科学や政治家学その他の諸科学は、これまで未解決であった社会問題を解決できる方法や方策やテクニックを発見・応用することによって、生活の万端においてあらわれてくる正義への要求に応え、これがひろく普及するよう努力を積み重ねなけれあなりませんが、それらの努力は、共同体、社会、国家のなかでわたしたちすべてが仕える目標が見失われないようにと援助する、哲学的・理論的考察と別個のものとされてはならないのです。
    --K.I.ブドゥリス(山川偉也訳)「正義と倫理」、『正義・愛・政治』勁草書房、1991年、127-129頁。

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あらゆるシステムのまなざしというものは、人間を人間として扱うことができない。人間をその当人に即した代換え不可能な人間として扱ってしまうとシステム自体が破産してしまうからだ。

この当然の事実をスルーすることによってあらゆるシステムというものは、息を長らえることができるし、それがそれとして機能する。

別にそのことにいちゃもんをつけるつもりはありませんけどネ。

しかし、その流儀に生きている人間が乗っかかってしまうと、それに輪をかけたの負の連鎖が天文学的に拡大してしまう……こっちのやっかいさに頭を抱えてしまう今日このごろです。

その流儀にのっかかってしまうとは何を意味するのか。

すなわち、システムに準拠したアドミニストレイターという匿名の立場を利用して現実に生きている人間をこねくり回してしまうということです。

そうした負荷が係り続けてしまうとどうなってしまうのか。

いろいろあるでしょうけれども、フツーの人もそれを同じようにやってしまうって話しであり、目の前にいる人間を人間として扱わないっって寸法です。

人類はこの歴史を数千年にわかって収奪構造と反収奪構造変革論の出来レースとしてやってきた。

しかし、そろそろそうした「ごっこ」の時代はやめにしませんかね???

正義も倫理も活字のなかや「号令」のなかに存在するわけではない。

それはひっそりと生きている人間の世界に存在するのだ。

クソッタレが。

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