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覚え書:「今週の本棚:山崎正和・評 『科学コミュニケーション……理科の〈考え方〉をひらく』=岸田一隆・著」、『毎日新聞』2011年10月2日(日)付」。

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今週の本棚:山崎正和・評 『科学コミュニケーション-理科の…』=岸田一隆・著
『科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく』(平凡社新書・798円)

困難を自覚した科学啓蒙の決意
 「科学立国」は日本の国是だと叫ばれながら、他方では若者の「理科離れ」が囁(ささや)かれている。世界中で科学が世界観の中心を占めるなかで、庶民の非科学的なふるまいが問題を起こしている。米国では予防ワクチン注射に母親の反対運動が広がったり、日本では放射能汚染の被害者への差別が見られたりした。科学コミュニケーションの必要と困難は、あらためて誰しもが感じるところだろう。

 著者もみずから専門の物理学者として、科学者と一般庶民の知識の溝に憂慮を覚えて、筆を執った。だがこの著者が凡百の科学啓蒙(けいもう)家と違うところは、専門の研究者として問題の深刻さを自覚し、溝を埋めるのは容易でないという現実直視に立っていることである。「科学の感動」だの「科学を身近に」といった甘ったれた標語を排して、科学は難しいと素直に認めることから著者は出発する。

 著者はまず「わかる」とはどういうことかと自問し、専門外の脳科学や心理学や哲学的認識論まで援用して、常識と科学との根源的な乖離(かいり)を指摘する。常識が「わかる」というとき、それはたんに頭で理解するだけではなく、共感をこめて納得することを意味している。一方、科学が「わかる」というのは、情報を純粋に理性的に把握することであり、そのために最大限に数学に頼って現象を記述することである。両者の違いは心理学的にも実証されており、近年は脳科学が活動する脳の部位にまで遡(さかのぼ)って区別を認めている。

 さらに科学のなかでもっとも尖端(せんたん)的な物理学の場合、用いられる数学は極度に高度化し、虚数を含む複素数が駆使されるようになった。量子力学のいう物質の波動はそれでしか表現できないのだが、これはもはや常識の表象能力を完全に超えた世界だろう。だいたい二乗すると負数になる虚数というもの自体、たとえ専門家でも理解はできても「思い浮かべる」ことはできるのだろうか。現に著者によればあのアインシュタインですら、量子力学の解釈に最後まで納得しなかったという。

 ついに科学がここまで来てしまった今、それでも科学啓蒙は可能かと問うために、著者はさらに科学的思考の歴史を素描する。ここでも著者の思索態度は底深いのであるが、結果として浮かびあがったのは、日本に固有の困難な事情だった。科学の母胎となったのはキリスト教だが、西洋では科学は母なる宗教と絶えまなく闘いながら成長した。だが日本では科学は政府の方針として外から輸入されて、庶民にとっては反感でも歓迎でもなく、ただ無関心の対象だったからである。

 欧米の科学者が世間の迷信と闘い、その戦闘精神を内に秘めて研究に励んだのにたいして、安んじて象牙の塔に立て籠(こ)もってきた日本の研究者は幸運に見えた。だがいったん知の社会的共有が課題になると、反対者を相手に説得する学者よりも、無関心の群衆に囲まれた学者のほうが孤独は深いのである。

 にもかかわらず現代社会において、科学的な無知は放置できる問題ではない。知の共有は個人の権利ではなく、社会にたいする義務であることは、たとえば言葉や道徳の共有がそうであることに似ている。思考の方法としての科学、世界観としての科学は万難を排して啓蒙すべきだ、という著者の決意は胸を打つ。著者はそのための方策をも模索しているが、この本を読み終えた読者なら、ここから先を考えるのは自分自身の責任であるのに気づくだろう。
    --「今週の本棚:山崎正和・評 『科学コミュニケーション……理科の〈考え方〉をひらく』=岸田一隆・著」、『毎日新聞』2011年10月2日(日)付。

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科学コミュニケーション−理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)Book科学コミュニケーション−理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)


著者:岸田 一隆

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