覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『ガリラヤのイェシュー--日本語訳新約聖書四福音書』=山浦玄嗣・訳」、『毎日新聞』2011年10月30日(日)付。
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今週の本棚:池澤夏樹・評 『ガリラヤのイェシュー--日本語訳新約聖書四福音書』=山浦玄嗣・訳
『ガリラヤのイェシュー--日本語訳新約聖書四福音書』
イー・ピックス出版・2520円 電話0192・26・3334 www.epix.co.jp
演劇的な訳が生む新しいイエス像
『新約聖書』にある四篇の福音書(イエスの伝記)の翻訳である。
読み手の心に染みる生き生きとした訳。そうなったのは、いくつかの新しい方針を用いたからだ。
改めて言うまでもないが、本来『新約聖書』は教養のための本ではなく、信心のための本である。まっすぐ心に届かなくてはならない。
マタイという男が書いたイエスの伝記は昔は「マタイ伝」と呼ばれた。簡潔ではあるが、これではまるでマタイの人生を書いた本のようだ。今いちばん広く流布している「新共同訳」の『聖書』では「マタイによる福音書」となっている。今回の訳では「マタイの伝えた《よきたより》」だ。
イエスが地上に現れたのは人類にとって嬉(うれ)しいことだから(とキリスト教徒は信じる)、それは「よきたより」である。それをかつては「福音」という造語で表した。 これまでの『聖書』にはそういう漢語系の造語がたくさんあった。漢語だと、わかったようで実はわからない。それをこの大胆な訳者は原義に遡(さかのぼ)って和語で伝えようとする。
いちばん目覚ましいのは「洗礼」を「お水潜(くぐ)り」とした例だろうか。これだと耳で聞いても水を経て新しい自分になった感じが伝わる。
あるいは来るべき理想を「神の国」ではなく「神さまのお取り仕切り」とする。国土のある「国」ではなく神の統治なのだから(と説明するのに漢語を使うのももどかしいのだが)。
しかし、単語の訳などこの翻訳の大胆な原理の一つに過ぎない。
訳者はイエスが生きた時代のユダヤの時代相を考える。ローマ帝国の圧力のもとで辛うじて国の体裁を維持し、国内では「サドカイ衆」や「ファリサイ衆」などいくつもの勢力が対抗していた。イエスが属する「ガリラヤ者」は田舎者として軽蔑(けいべつ)されており、近隣のカナン人(びと)やガダラ人(びと)は更に低い位置に置かれた。
この状況を伝えるのに訳者は幕末から明治維新に至る時期の種々の日本語を用いることにした。これならば多様で不統一ながら、現代の我々でもまずまず理解できる。
地の文には当時の公用語である「関東武家階級」の言葉を用いる。
そして、「登場人物の階級と出身に合わせて、ファリサイ衆は武家言葉、領主のヘロデは大名言葉、イェルサレムの人々は京言葉。商人は大阪弁。サマリア人は山形県庄内(鶴岡)弁。ガリラヤ湖東岸の異邦人たちは津軽弁。<中略>イェリコの人は名古屋弁……」という風に訳し分ける。
いちばん大事なイエスの言葉。公の場では地の文だが、私的な状況では彼はケセン語(訳者の母語である岩手県南部気仙地方の言葉)を話すのだ。
日本語の表記には漢字とふりがなという便法がある。方言でわかりにくいところはこれで意を伝え、更にカッコ内に説明を補う。意味と響きが呼応しあう。また本文だけで理解がむずかしいところには注釈を挟み込み、時にはそれは演出のためのメモかト書きのようにもなる。
こんな風に解説するといかにも煩雑だけれど、実際にはこれほど読みやすく、これほど心に向かって寄せ来る福音書はなかった(と信心なきぼくでも思う)。
イエスとは何者か? 「僻村(へきそん)のしがない百姓大工だ。この男の世に出ての活動はわずか二、三年、その生涯はどう見ても大失敗で、最後は政治犯としての濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられて十字架上に刑死する。だが、不思議なことにこの男の短い人生が世界の歴史を変えた」と訳者は言う。
翻訳についての工夫は目的を達するための経路である。それがどれほどの成果を挙げたかを見てみようか。「マタイ」の二十六章七十三節、イエス逮捕の後、弟子のペトロがイエスの仲間かと問われて三回まで否認する悲しい場面。
彼は「確(たし)かにあんたもあの者(もの)どもの仲間(なかま)や。その言葉(ことば)の訛(なま)りで、ハッキリわかるで。」と京言葉で迫られる。
「そんたな〔糞(くそ)たれ〕野郎(やろう)など(なんと)、何でこの俺が(おれア)知(し)ったもんだづう(知っているものか)!」とペトロはケセン語で応じる。
「折(お)りも折り、鶏が時をつくった。
ペトロは、『鶏っこ(とりッこ)が(ア)時を(とギィ)つぐ(・)る前(めア)に、其方(そなだ)は(ア)三回(みゲァり)、この俺(おれァ)を(どゴォ)知(し)らねァって語(かだ)る』と言(い)なさったイェシューさまの言葉を思い出した。そしてそのまま、屋敷の外に逃げ出し、身も世もなく泣き崩(くず)れた」
新共同訳ではペトロは「確(たし)かに、お前(まえ)もあの連中(れんちゅう)の仲間(なかま)だ。言葉(ことば)遣(づか)いでそれが分(わ)かる」と言(い)われて「そんな人(ひと)は知(し)らない」と答える。
「するとすぐ、鶏(にわとり)が鳴(な)いた。ペトロは、『鶏(にわとり)が鳴(な)く前(まえ)に、あなたは三度(ど)わたしを知(し)らないと言(い)うだろう』と言(い)われたイエスの言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)した。そして外(そと)に出(で)て、激(はげ)しく泣(な)いた」
山浦訳は目で読むと同時に耳に響きを呼び起こそうとする。とても演劇的であり、それだけイエスの人間像が迫る。彼はかつて四福音書をケセン語に訳した。それをより一般化したのが今回の仕事であり、ギリシャ語原典を深く解釈しての訳業は強い力をもって読む者に迫る。まさに「よきたより」だ。
--「今週の本棚:池澤夏樹・評 『ガリラヤのイェシュー--日本語訳新約聖書四福音書』=山浦玄嗣・訳」、『毎日新聞』2011年10月30日(日)付。
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