人間が万物の尺度ではあるが、普遍的な、思考する理性的な人間がそうなのだということ……
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ソフィスト哲学の正しさは主観性、自己意識の正しさ、すなわち、わたしによって承認さるべきものは、それが合理的であることをわたしの意識の前に立証しなければならないという要求である。その正しくない点は、有限で経験的で利己的な主観性を原理へまで高めたこと、すなわちわたしの偶然的な意欲と意見とが、何が合理的であるかを決定するという要求である。その正しい点は、自己確信の原理を立てたことだり、その誤りは偶然的な意欲と表象とを王座にのぼせたことである。自由と自己意識との原理を真実の姿にまで発展させること、ソフィストたちが破壊にのみ用いていたのと同じ反省という手段をもって客観的思想という真の世界、絶対的に存在する内容を獲得すること、経験的主観性のかわりに絶対的あるいは理想的主観性を定立すること--これが次の時代の課題であった。そしてこの課題を引受けかつ解決したのがソクラテスである。経験的主観性のかわりに絶対的あるいは理想的主観性を原理とするとは、次のような認識を表明することを意味する。すなわち、万物の真の尺度は、この個人としてのわたしの意見や好みや意欲ではなく、真、正、善はわたしまたは他のいかなる経験的主体の好みや恣意にも関係せず、それを決定するのはわたしの思考ではあるが、わたしの思考、すなわちわたしのうちにある理性的なものである。わたしの理性はわたしに特有なものではなく、あらゆる理性的存在に共通なもの、普遍的なものであるから、わたしが理性的な、思考的な存在としてふるまうかぎり、わたしの主観性は一つの普遍的な主観性である。実際思考する者はすべて、自分が権利、義務、善、悪と考えることは、単に自分にそう思われるだけではなくて、すべての理性的存在にそう思われるのだという意識、したがって自分の思考には普遍性という性質、普遍的な妥当、一口に言えば客観性があるという意識をもっている。以上がソフィスト哲学に反対するソクラテスの立場であり、したがってソクラテスとともに客観的思想の哲学がはじまるのである。ソクラテスがソフィストたちにたいしてなしえたことは次のことであった。すなわち、反省を無反省の信仰や従順が必然的に生み出していたと同じ結論に導いたこと、および思考する者が自由な意識と自分の確信から、かつて生活と風習とが普通の人々に無意識のうちに教えていたと同じように判断し行為することを学ぶようにさせたことであった。人間が万物の尺度ではあるが、普遍的な、思考する理性的な人間がそうなのだということ--これがソクラテスの教えの根本思想であり、この根本思想によってそれはソフィスト的原理の積極的な捕捉をなしているのである。
--シュヴェーグラー(谷川徹三・松村一人訳)『西洋哲学史 上巻』岩波文庫、1958年、85-87頁。
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哲学という学問は基本的には「自分で考える」ことを大事にします。
しかしながら、それが独りよがりになってしまうことを極端に警戒します。
独断専行の思索というものは、哲学と呼べるものではなく、単なるイデオロギーにしか過ぎませんから。
しかし、「自分で考える」ことが大事だよ!って言いますと、「ひとそれぞれ」でいいんですよねって反応が返ってくるのも事実です。
いや、しかし、それは早計なんだが……という訳ですから、「自分で考える」ことが大事だという以上に、何度かにわたってそのことを指摘するようにしておきます。
さて……。
月曜の講義では、ちょうどソフィストからソクラテス(Socrates,c. 469 BC-399 BC)への展開を紹介していたので、そのあたりを少し丁寧に紹介した次第。
ご存じの通りソフィストたちは、詭弁術を駆使して、この世の中には「ひとそれぞれ」しかないんだって開き直ってしまいます。
プロタゴラス(Protagoras,ca. 490 BC-420 BC)の言葉「人間は万物の尺度である」は、その格率を見事に表現したものだと思います。
※ただプロタゴラスの意図は違うところにありますが、それはひとまず措きます。
たしかに人間は、神のような眼を持つことは不可能ですから、考える・判断することにおいて「ひとそれぞれ」としての「自分」から出発せざるを得ません。
その意味では字義通りの「ひとそれぞれ」でしょう。
しかし、本当に「ひとそれぞれ」って簡単に言い切ってしまうことができるのだろうかどうかという余韻は実際のところ余地としてのこってしまいます。
おそらく、この余韻にどれだけ敏感になることができるかどうかがその分岐点かもしれません。
人間にはその出発点以外にも、本人の意志ではいかんともしがたい「ひとそれぞれ」というのは歴然として存在します。
しかしそれとおなじぐらい、自分自身だけでなく他の人にも共通して当てはまるような観点ていうのも存在します。プラトン(Plato,424/423 BC-348/347 BC)のようにイデアなんてものを定位しようとは思いませんし、近代自然科学流の「客観」の「実在」なんてぇいいません。しかし、私にもアナタにもひとしくかかわるようなところはやっぱりあるです。
結局、ソフィストの問題というのは認識論としての相対主義というよりも、後者を全く切り捨ててしまった不寛容さにあるのじゃないのかなと思う次第ですが、「ひとそれぞれ」と「ひとそれぞれだけじゃない」ってことを混同したり、どちらか一方しかないんだって言い切ることは、少し恐ろしいことかも知れません。
「自分で考える」のは「ひとそれぞれ」としての私ですが、そのことを歴史と社会、そして他者との有機的な相即関係のなかでその考察をすすめていかないと……ねぇ。
西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))
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