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覚え書:「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」、『毎日新聞』2011年11月30日(水)付。

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太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか

 70年前の1941年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の火ぶたが切られた。その後の日本のありようを大きく変え、今日までさまざまな形で影響を与えている大戦だ。当時の作家や評論家たちは、運命の12・8をどのように見つめ、記したのか。【棚部秀行、栗原俊雄】

当時の小説やエッセーをひもとくと、開戦賛美一辺倒の世間のムードが伝わってくる。

伊藤整
「いよいよ始まった」と高揚感吐露
 作家の伊藤整(05~69)は真珠湾攻撃のニュースを聞き、夕刊を買うため新宿へ出かけた。混雑したバスの中で<「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ昂(こう)ふんしているような気がして黙っている>と、高揚感を吐露している。そして<我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている>と記した(『太平洋戦争日記(一)』)。

高村光太郎
「時代は区切られた」
 また詩人の高村光太郎(1883~1956)はこの日、大政翼賛会中央協力会議に出席していた。エッセー「十二月八日の記」に<世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた>と、開戦の感激を書き留めている。

太宰治
「けさから、ちがう日本」
 太宰治(09~48)には、「十二月八日」という短編小説(『婦人公論』42年2月号)がある。「作家の妻」という女性の一人称で、開戦の日の興奮と感動を描いた。早朝、主人公は布団の中で女児に授乳しながら、ラジオから流れる開戦のニュースを聞く。<しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。(中略)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ>
 夫の作家は極端な愛国心をもっている。妻は開戦に感動しつつも、少し距離を置いて夫を見つめ、<日本は、本当に大丈夫でしょうか>と問う。直接的ではなく一歩ずらした視点にはユーモアがあり、戦争を賛美するような表層とはうらはらの、作者の抵抗が感じられる。
 文芸評論家の高澤秀次さんは「“戦争協力小説”という印象を逃れているのは、男同士の時局への会話を避けて、晴れの日の到来に高揚する主婦のけなげさを印象付けているから」と分析する。

竹内好
「うしろめたさ払拭された」
 37年に始まった日中戦争は、国民の間で不人気だった。戦争目的がよく分からないまま100万人に及ぶ兵士が動員され、死傷者と遺族が増えていったからだ。中国文学者・評論家の竹内好(10~77)は真珠湾攻撃直後の日記で<支那事変(注・日中戦争)に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された>とし、新たに始まった戦争を<民族解放の戦争に導くのが我々の責務である>と記した(12月11日)。
 日本人は12月8日の開戦によって、アジアを欧米の植民地支配から解放するという大義名分を得たのだ。

小林秀雄
「晴れ晴れとした爽快さ」
 評論家の小林秀雄(02~83)は開戦の日、文芸春秋社で「宣戦詔勅」奉読放送を直立して聞いた。<眼頭は熱し、心は静かであった。畏(おそれ)多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた>。さらに海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた(『現地報告』42年1月)。

こぞって開戦支持 日記にも「反戦」書けず
 多くの文筆家が開戦に快哉(かいさい)を叫んだ。作家の坂口安吾(06~55)も、報道に感激している。当時は新聞も、戦争に突き進む政府や軍を支持していた。また言論が統制される中、職業作家や評論家が「反戦」を表だって主張することは難しかった。高澤さんは「そうしなければ生活できなかった。現時点で彼らを無条件に批判しても意味がない」という。
 また、民衆も開戦を支持。日本は、中国との戦争やアメリカによる経済制裁などによる重圧感にあえいでいた。当時11歳だった作家の半藤一利さんは、開戦によって<晴れ晴れとした爽快さのなかに、ほとんどの日本人はあった>(『〔真珠湾〕の日』)と振り返る。
 日記にさえ「反戦」を記すことは難しかった。昭和史が専門の作家、保阪正康さんは「そういうことを書きそうな人間は、いつ特高(特別高等警察)に踏み込まれるか分からないから用心する必要があった」と指摘する。

永井荷風
異色なのは永井荷風(1879~1959)だ。日記『断腸亭日乗』によれば荷風は12・8の夕暮れ、街中にいた。<日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となる>。街頭の商店の灯も消えた。開戦当日にして「銃後」は戦時色に染まった。荷風が帰宅のため電車に乗ると「乗客雑沓せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり」。演説の内容は記されていない。保阪さんは「『黄いろい』という表現に荷風の思いがにじんでいますね。ピーチクパーチクと、浮足だった人たちを皮肉るような」。
 12日の日記によれば、開戦後は街のあちこちに「屠れ英米我等の敵だ進め一億火の玉だ」というスローガンが掲示された。荷風は、ある人がこれをもじって<むかし英米我等の師困る億兆火の車とかきて路傍の共同便処内に貼りしと云ふ>という伝聞を記す。留学経験から欧米をよく知る自身の気持ちを、代弁してくれたと思ったのだろうか。
    --「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」、『毎日新聞』2011年11月30日(水)付。

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