人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている。2012.1.28
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人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている。
大正十三年六月十五日 吉野作造
--吉野作造「日記 二」、『吉野作造選集 14巻』岩波書店、1996年。
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明日1月29日は吉野作造(1871-1933)の誕生日。
上に引用した吉野の言葉は、日記に記された一節ですが、実は、この言葉は、吉野作造自身が人生において最大の危機中で発せられたものです。
この前の年(大正12/1923年)、吉野作造は東京帝国大学法学部教授の職を辞しております。その理由は次の通りです。
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氏(引用者注……吉野作造)は横浜の某富豪を説いて支那人、朝鮮学生の学費を出して貰つてゐたが、該富豪が自身の打撃で世話が六ケ(むつか)しくなつたので、氏は自分で費用を造らうと考へたのである。それは大学教授の収入よりも新聞社の方がズツト善い待遇を与ふるからであつた。
--赤松克麿編『故吉野博士を語る』中央公論社、1934年。
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うえの引用は、吉野作造に「新聞社」仲介の世話をとった米田実(朝日新聞社)の言。吉野が東大を辞して朝日新聞社へ転職する遠因は、大正12年9月の関東大震災です。
横浜の素封家が、中国・朝鮮半島からの留学生に援助をしていたのですが、震災によって今後はその支援を見込めなくなったため、吉野作造自身が世話をしようとのことで、収入のよい「朝日新聞社」へ入社という経緯になったのです。
しかし……。
入社後、半年もたたないうちに、筆禍事件によって、退社をよぎなくされてしまいます。その進退窮まった際に、日記に記されたのが、一番最初の引用です。
軍部、枢密院、貴族院に対する吉野の容赦のない批判は、時の権力から常に警戒されていたわけですが、ひとつの些細な記事が筆禍事件へと大発展。
朝日新聞自身も吉野作造を護れきれなくなってしまい、退社という形で「何の過失なくして乃ち失業の群に入る」(吉野日記、1930年3月21日)という、客観的にみれば、マア「どうしようもない状況の中」に投げ込まれまてしまうんです。
そのなかで発せられた言葉です。
しかし、吉野自身は「人生には逆境はない」と力強く自らを励ましながら、このあとも使命の道を歩み通します。
身に降りかかった逆境のなかにおいても、吉野はなお「天に事へ人に仕へる」ことを使命として、まさに“生き抜きます”。
「天に事へ」とは、クリスチャンとして神に仕えることでしょう。
もう少し多元的な表現をすれば、「真理に身を投じる」とでもいえばいいでしょうか。
そして「人に仕へる」とは他人のために事をなすということなのでしょう。
このふたつは吉野の生涯における二つの人生の大指針なのですが、はからずも逆境によって決意として表現されたことに驚いてしまいます。
さて、朝日新聞を退社した後、吉野は社会的には不遇な状況が続きます。
が、同時に次の手を打ち始めます。それが吉野晩年の労作となる「明治文化研究」。
大正~昭和初期の論壇では、盛んにデモクラシー、そして社会主義、その他種々の主張が百家争鳴の如く繰り広げられていくわけですが、その淵源としての日本の近代はどこにあるのか?
当時の誰もが顧みることのなかった近代日本の出発点の資料を蒐集し、結果としては、実のところ民本主義論以上の、業績を後世に残すことになります。
※そこで集められた資料、そして史料に対するコメンタリーは、現代の「群書類従」と評価されております。蛇足ですが、学生支援は継続しております。
で……。
何かといいますかと、5年ほど非常勤講師としてお世話になった通信教育部を3月いっぱいで「退職」することになってしまいました。
専任教員で担当科目を回すことができるようになったので、申し訳ないのですが、4月から「担当をはずれてくだしあ」という「馘首」というのが早い話(涙
年末には新年度の予定をすべてセッティングして、新年度も
「さあ、がんばるか」
……と思っていた矢先なんですが、
まあ、人生には色々ありますね。
とほほ、というか、
おるず、というか、、、。
博士論文のほうも目処がついてきたので、今年こそと思っていたのですが……、ね。
まあ、人生には色々ありますね。
……かといって、人生をこれでやめるわけにもいきませんが、
何といいますか、正味のところ、「こころにぽっかりと穴があいてしまった」……という支えきれないほどの脱力感があるのは確かなところですが、ただ、うちひしがれてもはじまりませんので、私自身が研究をしている吉野作造の言葉を思い出した次第です。
ただこれも正直なところ、そこまで私も人間ができておりませんので、「逆境はない」と深く決意することへは少し時間がかかりそうですが、
それでも、、、、
「人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている」。
この言葉を忘れないようにといいますか、命には刻んでおきたいと思います。
昨日、SNSでその速報を少しだしたところ、履修された学生諸氏から、
「先生は辞めても、私の先生です」
というありがたい言葉をいくつも頂戴しました。
ありがたいことです。
正直、今後、どういう形で、組み立て直していくのか、全く暗闇の中です。
ただ、しかし、5年間という短い間でしたが、通信教育部で、ウンコのような私の講義を熱心に聞いてくださり、そしてオン・オフ問わず、真剣に様々な世代のひとびとと魂の交流を続けることができたのは、私自身の貴重な財産になったことは確かです。
皆様、ありがとうございました。
だから、誰を恨もうとか、ナニだとかというのは、ないのですが、その感謝と報恩の気持ちだけは忘れることなく、新しい挑戦を続けていきたいと思います。
皆様との交流……それはレポートを介したそれであったり、また教室のそれであったり、また酒席のそれであったり、キャンパスでの雑談であったり、さまざまな形をとりましたが、どれも金の思い出です。
本当にありがとうございました。
くどいですが、もう一度、新しい挑戦を開始しようと思います。
で……長くなるのが私の文章ですが、蛇足ついでにひとつ。
ブログ読者の方々で、レポートが未提出の方は、早めにだしましょうねw
3月まではまだ担当をしておりますので、どうぞよろしくお願いします。
まずは、「書いてみる」ここから卒業への一歩は始まりますからね、どうぞよろしくです。
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