歴史の流れに入ってゆくこと
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歴史の流れに入ってゆくことによって自分の身が汚れはしないかと心配するのは、徳ではなく、徳を逃れようという道である。或る人々は、罪が存在し横行するこの現実、この人間的事物と人間関係の具体的世界に手を染めることは、それだけで積みに染まることにほかならないと考えるように見える--あたかも罪は、内部から完成するものでなく、外部から感染するものであるかのように。これは、ファイリザイ的潔癖であって、手段浄化の教えではない。
手段純化の教えは、まずなによりも、諸手段の階層性の問題にかかわっている。それは、人間にふさわしい目的は人間にふさわしい手段によって追求されなければならない、ということを要請する。それはまずもって、ただ一般的に善いばかりでなく・その目的に真に適合し・自身に目的の印章と刻印を帯びているような手段を取り上げようとする積極的な意志がなければならないと主張する--すなわち、かの共同善の本質に属する正義やかの、共同善の完成に属するところの、世俗生活の聖化そのものを体現しているような手段を。
--ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、昭和三七年、87-88頁。
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おそらくこのマリタン(Jacques Maritain,1882-1973)の指摘がひとつのキモになるんだろう。
関わることによって「自分の身が汚れはしないかと心配」するのは、汚れるどころかそのあべこべで、「徳をのがれようという道」になってしまう。
また関わることはしないけれども、問題を指摘することによって自分を「マシ」と確立するのもおそらく同根。
まあ、関わることは大事なんだけど、今度は「関わっている」から「何をやってもいい」とか、「イコール善」と短絡してしまうのも手段純化とは程遠い野蛮な暴挙。
その両極をさけながら、具体的世界のなかで、共同の問題を解決していくしかないんでしょうねぇ。
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