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レヴィナスの「慈愛」と「正義」、センの「共感」と「コミットメント」

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 先のタルムード解釈をレヴィナスに促した動機のひとつに「飢え」と「飢饉」があった。いつかテクノロジーはこの課題を解決するだろうとの展望を抱きながらも、レヴィナスは国連などの介入によってもこの課題がまったく解決するされていないことを指摘している。唐突の感を免れないだろうが、レヴィナスをつき動かしているこの動機は、ある経済学者のことを筆者に連想させる。インドはベンガルに生まれたアマルティア・セン(一九三三-)である。経済学のずぶの素人として、『貧困と飢饉』(一九八一)や『倫理と経済について』(一九八七)などセンの著作を読んでいると、相異なる学的領域の単勇者でありながらも、センとレヴィナスのあいだには人間の悲惨に対するどこか共通の感性があるのではないかとの印象を抱く。
 根拠のない印象をにすぎないが、『選択・福利・測定』(一九八二)所収の「合理的な愚か者」の次の一節を見てみよう。「もし他人の苦悩を知ったことによってあなた自身が具合が悪くなるとすれば、それは共感(シンパシー)の一ケースである。他方、他人の苦悩を知ったことによってあなたの個人的な境遇が悪化したとは感じられないけれども、しかしあなたは他人が苦しむのを不正なことと考え、それをやめさせるために何かをする用意があるとすれば、それはコミットメントの一ケースである。」
 センのいう「共感」はレヴィナスのいう〈慈愛〉に、センのいう「コミットメント」はレヴィナスのいう〈正義〉に対応している、と考えるとことができる。ただ、センはこうも言っていた。「共感に基づいた行動は、ある重要な意味で利己主義的だと論ずることができる。というのも〔共感においては〕人は他人の喜びを自分でも嬉しいと思い、他人の苦痛に自ら苦痛を感ずるからであり、その人自身の効用の追求が、共感によって促進されるからである。この意味で非-利己的なものは、共感に基づく行為であるよりはコミットメントに基づく行為である」、と。〈慈愛〉と〈没利害〉、〈正義〉と〈利害〉を結びつけるレヴィナスとは逆の主張がなされているのだが、ここでは、それに加えて、「効用」(utilité)という、レヴィナスが決して十分には考えるとことのなかった観念が〈没利害〉に貼付されてされている。
 センのいう「共感」がハチソンやアダム・スミスらのモラル・センス論に由来することは言うまでもないが、センにもレヴィナスにも見られる倫理の二肢化は、感とに相前後するヒュームならびにショーペンハウアーに顕著に認められる図式だった。一方では、ヒュームの功利主義を批判し、カント的な道徳法則の理論から根本的な着想を汲み上げながらも、その理論の形成過程においてつねにヒュームの道徳原理論を意識していた現代の哲学者たちのひとり、それが前出のロールズである。センはロールズについてこんな危惧を表明している。「ロールズは、『〔身体障害者をどのように扱うかという〕難しい事例は‥‥その運命が憐憫と不安をよび起こす、われわれとは隔たった人々のことを考えざるをえなくすることによって、われわれの道徳的な識別能力(our moral perception)を混乱させることにもなりうる』と書いている。それはロールズのいう通りかも知れない。が、難しい事例は現実に存在しているのだから、身体上の廃疾、特別な治療のニーズや心身の欠陥といった事例が、道徳的に重要な意義を有していないなどとみなしたり、間違い恐れる余りにそれらを考慮の外に置くことは、必ず逆の意味では過ちを生じさせるにちがいないだろう。」
 ここでは、センは、「格差原理」と称されるロールズの「正義の第二原則」を問題にしている。「社会的・経済的不平等は最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化するものでなければならない」との原則を。これに対して、「正義の第一原則」は、「無知のヴェール」なるものによって想定される「原初状態」に対応している。当事者の差異は彼ら、彼女らにはまったく知られておらず、そのとき人々は類似した状態にあるので、各人は同じ論拠にもとづいた正義のを構想するというのである。ロールズのいう「無知のヴェール」はある意味では「知ならざるもの」としての〈対面〉を思わせる。と同時に、〈対面〉はその任意の相手を「最も不遇な者」とみなすことでもある。ロールズのいう二つの正義の原則が〈対面〉のうちに含まれているものだが、「誰が最も不遇か」という解決不能な問題に、レヴィナスは「私以外の誰もが最も不遇である」と答えたのであって、この回答が問題の棚上げであることはもはや言うまでもない。
 そのロールズは『正義論』のなかで、愛ないし仁愛について、「困難なのは、一度に数人の人の要求が対立すると、これらの人々の愛が混乱状態に陥ってしまうということだ。(‥‥)仁愛というのは、多くの目標をもつ人々のなかで多くの愛が対立する限り、まったく正体が分からない」といっているが、これはまさに、レヴィナスが「第三者」の観念を前にして突きあたった問題にほかならない。今後の展望にすぎないが、レヴィナスの経済倫理学をセンやロールズの議論と対比していくことは重要な意義読解の課題となるだろうし、その意味では、これは次節の課題とつながる論点だが、たとえばロバート・ノージック(一九三八ー)の書物の題名--『アナーキー・国家・ユートピア』は『存在するとは別の仕方で』と同年に出版された--をレヴィナスが用いたとしても、まったく違和感はないだろう。事実、ノージックのいう「最小国家」--「配分的正義」はそこから排除される--の問題は決してレヴィナスのいう「三人の国家」(後述)とも無縁ではないのだから。
    --合田正人「焼尽のユートピア  飢えと格差--今後の課題」、『レヴィナス』ちくま学芸文庫、2000年、491-494頁。

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初出は1988年(改訂の上、文庫化が2000年)になるから、今から20年以上前の指摘になるのですが、僕もこの辺りが引っかかっていたところ。

レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906-1995)の「慈愛」と「正義」、セン(Amartya Sen,1933-)の「共感」と「コミットメント」は相照らす概念のように思われていたところなんですが、今後このあたりのツメも必要かも知れません。

経済学に関してはずぶの素人ですが、特に、日本では、規範経済学(厚生経済学)は経済学と倫理をリンクする部門としての規範経済学(厚生経済学)の研究が少ないこともひとつの原因なんだろうとは思います。

また比較思想の観点からみても大きな相互影響を見出すのは困難ではないかと思われるのですが(未チェックですが)、影響関係よりも、同様な思索を導き出さざるを得なかった事例としてみていくとすっきりするのかと思いつつ、この辺りをクリアにすることも、ひとつの課題ではないかと。

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