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覚え書:「今週の本棚:江國香織・評 『あの川のほとりで 上・下』=ジョン・アーヴィング著」、『毎日新聞』2012年2月12日(日)付。

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今週の本棚:江國香織・評 『あの川のほとりで 上・下』=ジョン・アーヴィング著

 (新潮社・各2415円)

 ◇歴史のように「個」を越えて生きていく物語
 何て深く耕された物語だろう。驚愕(きょうがく)する。言葉を失う。というより、言葉でいっぱいになって、温かく、この上なく、満たされてしまう。ふーっ、とため息をつくのがやっとだ。だからほんとうは、誰にも言いたくない。「ケッチャム」がどんなに特別かということも、「ドーシードー」のことも(アーヴィングの小説がいつもそうであるように、今度の小説にも忘れられない言葉がたくさん埋め込まれている)。どの頁(ページ)の、どの一文にも物語の血が流れている。どこを切っても物語の肉が切れる。本のなかで、この物語は生きているのだ。

 一九五四年のニューハンプシャー州から、この長い小説は始まる。すでに衰退の兆しが見えつつある、小さな林業の町から。そこには荒くれた労働者たちがいる。定住していたり、流れ者だったりする。そして、彼らに一歩もひけをとらずたくましい女たちがいる。

 主人公ダニーは、労働者たちに食事を供する食堂の、コックの息子だ。母親はすでに亡くなっている。十二歳のダニーにとって、この土地が世界のすべてだ。男たち、女たち、林業、川、熊や犬、そして食堂。でも、事故が起る。きわめてアーヴィング的な、瞠目(どうもく)すべき事故(ダニーが父親の愛人を、熊と間違えてフライパンで殴り殺してしまう!)が。

 父子は町を出る。逃亡生活が始まる。大切なのはあらすじではないとはいえ、二人はまずボストンで暮し、やがてカナダに移り、さらにまた移動する。どちらも誠実な人柄なので、慕われるし、友達ができたり女ができたりする。コックは非常に腕がよく、どの町でも仕事に打込む(その描写がすばらしい。一軒ずつの店の佇(たたずま)い、湯気や匂い、音、活気。人々の働きぶりや誇り、実に実においしそうな、その時々の流行や、地域のお客の生活や好みを想像させる料理。イタリア風だったりフランス風だったり、中華風だったり)。ダニーは店を手伝いながら成長し、結婚したり息子を持ったり離婚したりしつつ作家になる(この、ダニーの作家としての遍歴、および創作作法は、ユーモラスでややシニカルな、余裕ある手さばきでアーヴィング本人を彷彿(ほうふつ)させるように書かれている)。そうやって、父子が生きていくあいだにアメリカも変遷し、ベトナム戦争があり、ツインタワービルの崩壊がある。最終章は二〇〇五年。

 それぞれの場所で、人々はつねに生活を営む。本文の小見出しにあるとおり、「事故の起こりがちな世の中」で。歴史がそうであるように、物語も個を越えて進む。個はそこから逃れられない。でも、物語を支えているのはつねに個だ。さまざまな、風変りな、厄介な、魅力的な。たとえばコックの親友であり、ダニーにとって二人目の父親のようなケッチャム、大女で力持ちでタフだけれど、やがて悲しいシックスパック・パム、複数の人間の回想のなかで生き続けるダニーの母親のロージー、それに勿論、熊と間違えられるインジャン・ジェイン。挙げればきりがない。小説の出だしで死んでしまうアンジェロも、気の毒なその母親も、ダニーを出征から守るために妊娠するケイティーも、実力派の料理人たちも、空から降ってくる女も。読んで、一人ずつに出会える喜び!

 豊かな、濃密な、おもしろい小説である。あまりにもおもしろかったので、読み終ったあと、他の本を読みたくなくて困った。

 この作家とおなじ時代に生きていることを、私はほんとうに幸福に思う。(小竹由美子訳)
    --「今週の本棚:江國香織・評 『あの川のほとりで 上・下』=ジョン・アーヴィング著」、『毎日新聞』2012年2月12日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120212ddm015070028000c.html

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