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キリスト教史を神学史として把握するだけでなく、キリスト教の果たした社会的役割をも重視する必要があるのではなかろうか

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 本郷教会の会員構成を『新人』一九〇五年二月号所載の「明治三七年度現在会員の概観」によって紹介しておこう。
 (一)会員総数 三八〇(男二七六、女一〇四)。(二)東京在住 二八五、東京以外在住六七、居住調査中 二八。(三)東京在住者中一家庭を有することの明なるもの 四〇組。(四)三九歳以上(数え年)四九、二九歳-三八歳 八六、一九-二八歳 一九七、九歳-一八歳 九、八歳以下 二。調査中 四〇。(五)職業別 実業家四九(内女一)、会社員六、医者二三(内女二、看護婦一二)、美術家三、教育家二二(内女一〇)、官吏一〇、国会議員一、弁護士三、著述家・記者六、伝道四、学生一六八(内女二七)、無職四四(内女三八)、未調査四八(内女一五)。なお学生の内訳は東大二三、京大二、福岡医大一、東京高商八、東京高工五、東京高師二三、一高四、早大一七、そのほか八五(内神学生四)。
 一見注目すべきことは一九歳-二八歳の青年層が会員の過半を占め、そのほとんどが学生であることである。当時山路愛山が的確に評したごとく「本郷教会は書生の教会」であった(「我が見たる耶蘇教会の諸先生」『太陽』一九一〇年一二月)。この「書生」こそ、日本資本主義が一つの社会層として生み出しつつあった若きインテリの代名詞である。帝国主義的発展に半ば酔わされつつも、なお家族倫理の圧迫や天皇制の政治的・市民社会的自由に対する抑圧に耐えがたい思いを抱きつつあった彼らが、一面帝国主義的、一面自由主義的な、国士的風貌をもつ海老名の周辺に惹きよせられてくるのは、きわめて自然のなりゆきであった。
 当時キリスト教界で海老名の自由主義神学に対抗して正統派の福音主義の旗を高く掲げたのは、植村正久の一番町教会であった。山路はこの教会を「書生の教会」に対比して「紳士の教会」と評している。近時キリスト教史の研究家の間では、この「紳士の教会」に対する評価はすこぶる高く、逆に書生の教会は一顧だにされない(たとえば隅谷三喜男『近代日本の形成とキリスト教』、山谷・小塩ほか『近代日本とキリスト教』明治篇)。なるほど植村が福音主義の伝統を固守し、多くの有能な牧師を育てたことは事実であろう。しかし海老名を単に「日本倫理へのキリスト教の妥協降伏」者としての一側面を強調して「最も賢く見えて最も愚かな途を辿った」(隅谷)と評するのは、キリスト教史家の立場からすれば正当といえるかもしれないが、日本近代史家の見地よりすれば不当というほかない。「紳士」のなかからは高倉徳太郎らの注目すべき神学者が出たのにたいし「書生」のなかからは大正デモクラシーの代表的人物吉野作造と鈴木文治が出ている。キリスト教史研究家の側でも、キリスト教史を神学史として把握するだけでなく、キリスト教の果たした社会的役割をも重視する必要があるのではなかろうか。
    --松尾尊兊『大正時代の先行者たち』岩波書店、1993年、66-67頁。
      ※「鈴木文治」の章の脚注(3)

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 近代日本の文化人とキリスト教の関係を一瞥したとき、ある程度の接触はもちながらも、福音との決定的な対決・回心を持つことなしに、キリスト教から離れる知識人が多いなか、民本主義の旗手として名高い政治学者・吉野作造(1878-1933)は死ぬまで信仰を失わなかった。私が注目するのは、デモクラット・吉野ではなく、宗教者・吉野である。

 キリスト教と文化・社会活動の関係は単純ではないが、宗教の使命は、必然的に社会的活動をともなうとする立場もあれば、その逆もある。前者は「社会派」、後者は「福音派」「教会派」と呼ばれたりする。近代日本のプロテスタント・キリスト教史においては、このどちらか一方の立場に徹するケースが実に多い。社会派信徒は、改良事業への惑溺から「卒業クリスチャン」になってしまい、福音派の信徒は、教会活動に専念し、キリスト教を積極的革新には消極的な〝修養倫理〟として受容するケースが多い。そして付言すれば、後者が日本のキリスト教の支配的な体質となっている。

 こうした事例と比べた場合、吉野の生涯は、両者が調和した絶妙な歩みとなっている。
 「自分は、自分の人生観を基督教の信仰によつて作り上げたことを密かに満足に思ふものである。……宗教的信念は少なくとも自分にとつて生活の方法を明確に示して呉れた根本のものである」(「斯く行ひ斯く考へ斯く信ず」『斯く信じ斯く語る』一九二四年一一月)。

 宗教者であるということは、ただ学者であるとか、政治家であるかとは異なり、その人間の全生活が、強く、深く、広く、宗教を中心に成り立っていることを物語る。

 吉野のデモクラシーの主張も例外ではない。その活動は単なる時勢的な論壇活動ではなく、信仰と避けがたく結びついている。吉野に関する研究は、宗教と社会変革の問題、さらには日本におけるキリスト教の文化内受肉に関する問題を明らかにする糸口を持っているように思われる。

 冒頭には、同じ関心から近代日本のキリスト教史の把握の問題性を指摘する松尾尊兊先生の一文を掲げた。

「キリスト教史を神学史として把握するだけでなく、キリスト教の果たした社会的役割をも重視する必要があるのではなかろうか」。

 確かに「キリスト教のために」貢献した人物が賞賛されるのは世の常だし、それはキリスト教のみ責められるべき問題ではない。しかし「ために」という人物や事件だけを顕彰するのでは肩手落ちになってしまうのは事実だろう。
 ※ちなみに吉野作造の場合は、キリスト教信仰にめぐりあえた幸せと信仰への自負はあるものの「キリスト教の為に」という党派的な言説は殆ど無い。
 それぞれの宗教に啓発をうけ、土台を形成し、そしてその土壌に自ら建物を築きあげた人物も射程にいれるべきではないだろうか--。

 少し踏み込んだ言及をするならば、宗教史において、なんらかの独自の取り組みを先人として切り開いてきた人物は、殆どの場合、同時代のメインストリームからは「奇人変人」扱いされることが多々ある。そして泥棒猛々しいことに、構成になってから、さも「われらの成果」といわんばかりに、我が物顔で賞賛する事例にも事欠かない。いわゆる「後出しじゃんけん」だ。

このポイントは留意しながら、足跡を追跡することは必要なんだろう。

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