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「ほとんどの人は自分たちの価値基準を再考する必要を痛感することすらない」ことを暴くソクラテスの対話

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 ソクラテスはプラトンより四二歳年長であった。職業上は彫刻家であったが、彼が歴史の上に占めている重要性は、哲学思想の進展に及ぼした革新的な影響に存している。彼以前の思想家たちは、物質および宇宙総体の本性に関心を向けていた。そして彼らが外界に関心を集中させた成果の最たるものが、真の実在はアトムと空虚のみであると考えた人たち(原子論者)による純粋に機械論的な学説であった。ソクラテスの関心事は人間にあった。したがって、彼の考えによれば、唯一の重要な問題は人生における目標と目的はいかなるものであるか、にあった。彼の見るところ、ほとんどの人びとは、健康や財産の類いが関心事のすべてであるかのようにふるまっているが、しかしながら、これらの恩恵にあずかったとしても幸福がもたらされはしないのである。幸福が達成されるのは「アレテー」によってのみである。すなわちそれぞれの人格性、各人のもつ人間としての固有の機能の実現によってのみである--このことは、実際、万人の認めるところである。しかるに、健康や財産はわれわれの必要の若干を満足させるにすぎない。それらはなるほど当面の目的とは見なされうるかもしれないし、徳に対する見返りとすら見なされるうるかもしれないが、けっして追求すべき究極目的ではあり得ない。われわれが事柄を十分に考えぬき、十二分に真摯な探究をつづけるならば、ついにはわれわれの究極目的が何であるのか--人間としてのわれわれの固有の機能、すなわちそれの遂行においてのみわれわれが十全に自己を表現し、よってもって真のすぐれたあり方(幸福)を達成しうるはずのその当のものは何であるのか--を見出すことが期待できよう。
    --R.S.ブラック(内山勝利訳)『プラトン入門』岩波文庫、1992年、27-28頁。

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金曜の哲学の授業では、ソフィストからソクラテスへ至る哲学の概要を紹介する内容だったのですが、何といいますか、不思議な縁といいますか、その日4月27日は、ソクラテスが刑死した日でした。

感慨ぶかいものを感じつつ、授業に取り組ませていただきましたが、ソクラテスの対話とは、結局のところ、「まあ、そういうものだろう」と思ったり、「そういうことになっているから」という日常生活における自明性への挑戦であったことだけは銘記しておきたいと思います。

「まあ、そういうものだろう」と思ったり、「そういうことになっているから」として「自分で考える」そして考えたことがらを他者とすり合わせない限り、そう受け止めている事柄や知識、そして社会制度に至るまで、本当に自分のものにはならないということです。

加えて「そういうことだから」として「考えない」ことは、実は本当はそうではないという意味でのバッタモノを掴まされているかもしれないことに気づくこともできません。

ソクラテスは対話のあげく、刑死してしまいます。それもそのはずです。
ひとびとが「自明」と思っていた事柄が、実はそう思っている内容と違うこと、そして「知っている」と自認している人間たちが実は無知であったということを結果として「暴く」ことになります。

ソクラテスは、惰眠をむさぼるアテナイ人たちの目を覚まさせる「虻」を自認したそうですが、虻にかまれた連中による嫉妬の山はてんこ盛りという次第です。

もちろん、ソクラテスのように容赦なく遂行せよ!

ということではありません。

しかし、時々「考えるに値しないよ」という事柄や、ふだんは自明ものと受けとめている概念や言葉をいっぺん、自分で深く考え直すということは決して無駄ではないはずです。

例えば……

「鉛筆とは何か」
「林檎とは何か」

から初めて見るのも手だと思います。アリストテレスは、そうした真摯な探究は、身近なものに驚くことによって始まり、やはて大きな問題へと考察が広がっていくと指摘しております。

生活世界の中で、様々な事象や事柄を検討していくなかで、例えば、

「正義とは何か」
「善とは何か」
「幸福とは何か」

または、

「働くこととは何か」

といったようなことを考えてみるといいと思います。そしてソクラテスはその探究を「対話」によって遂行しました。

学生時代のうちにしかおそらくできないと思いますので、是非、考えたことを友だちとすりあわせてみるということも同時にして欲しいと思います。

その取り組みや格闘によって、どこか自分もものとは違う、自分の外に権威として存在する「知」というものが、自分自身の「知」へと転換されると思います。

是非、若い学生諸氏(だけじゃないですが)には、そうした営みの時間を意識的にもうけて欲しいと思います。

ともすれば「疑う」ということが、日本の精神風土では何か悪いことのように錯覚されているフシがあります。しかし、疑うということは、本当に自分で信じられるものを獲得する挑戦でもあるのです。その雄々しき知的挑戦を是非、お願いしたいと思います。


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 彼は彫刻家の仕事を放擲して、誰とも出会った相手と、しかし願わくば若者と対話することにつとめ、あらゆる問いの中で最も重要だと見なす問い、すなわちわれわれの生き方の指針となる原則はどのようなものであるべきかを議論した。彼は何か特定の徳目の「名まえ」--正義、敬虔など--を取り上げ、その語に含まれている意味を議論するのが常であった。いつでも最後には対話の相手はそれの意味するところを知らないと白状せざるを得ない破目に陥るのだった。しかし、そうした議論が示しているような知的率直さなしには、ほとんどの人は自分たちの価値基準を再考する必要を痛感することすらないし、心理の探究にとりかかるということもありえないであろう。
 ソクラテスの目的に対する誠実さと高い道徳水準とがいかに若きプラトン--生れつき理想主義に熱意を燃やし、明らかに最も多感な時期にある一少年--の賞讃をかちえたかは、想像にかたくない。ソクラテスとの交わりによってもたらされた最も大きな成果は、プラトンのうちに、理性的原理に生き方の基盤を置き、いかなることがあろうとも自分の理想をまげない決意を醸成したこと、あるいはむしろその決意を不動のものたらしめたことであった。
    --R.S.ブラック(内山勝利訳)『プラトン入門』岩波文庫、1992年、30-31頁。

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