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書評:ハンス・ヨーナス(品川哲彦訳)『アウシュヴィッツ以後の神』法政大学出版局、2009年。

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ハンス・ヨーナス(品川哲彦訳)『アウシュヴィッツ以後の神』法政大学出版局、2009年。


いま、「神について語ること(テオロギア)」は果たして可能か。ユダヤ人哲学者H・ヨナスの重厚な思索の軌跡

本書には、『責任という原理』で名高いユダヤ人哲学者ハンス・ヨーナスが「神」をめぐる思索の軌跡(講演と論考)が三編ほど収録されている。日本の思想業界では……現代思想の文脈においては……なじみの薄い哲学者の一人だが、グノーシス研究の泰斗であり、生命倫理学、責任原理に関するその深い考察は、現代世界をいきる者が傾聴せざるを得ない迫力をもっている。

ハイデガーに影響を受け、戦中は対独戦(イギリス軍のユダヤ旅団)に参加し、戦後はアメリカに渡ったヨナス。経緯を見るとアーレントを想起してしまうが、学生時代から終生、彼女の親しい友人の一人であったという。
そのヨーナスが晩年に注視したのが「神」についての思索である。その出自のとおり、ヨーナスもアウシュヴィッツの悲劇と無関係ではない。母を絶滅収容所で失った彼にとって「アウシュヴィッツ以後の神」を問うことは必然でもあろう。

なぜ神はアウシュヴィッツのような惨劇を防ぐことができなかったのか。

「アウシュヴィッツの霊たちが黙せる神にむかってあげた長くこだまする叫びにたいしてなにがしかの答えのようなものを試みる、そのことを断念しないことこそ、その人びとにたいする責務である」。

ヨーナスは、神の実在を証明しようなどとは気負わない。それが不可能であることは承知しつつも、哲学者にとっての「神概念」として扱おうともまたしないのである。

冒頭で神の沈黙を端的に次のように指摘する。

「神はそれを欲したからではなく、そうできなかったから、介入しなかったのだ」。

ここから、アウシュヴィッツの悲劇を前に、神を「苦しむ神」「生成する神」「気づかう神」「全能ではない神」として捉え直す。この世界の悲劇に救い奇跡を介入することのできない神として向き合うのだ。そして眼差しを人間へと深く向けていく。ヨーナスにとって「介入できない」ことは問題ではない。それ以上に課題となるの、人間自身の手によって「神的なるもの」が毀損されつつある世界において、人間自身が、それを守り助けなくてはならないと考えるのである。

これは弁神論でもなければ、理神論でもないし、伝統的な神概念と異なるものでもあろう。しかし、ヨーナスの論考は、アウシュヴィッツの悲劇だけの問題に留まらない。宗教や文化、そして民族を超え、「悪なるものの」を不可避に内在させる人間という普遍的な問題であるからだ。

「アウシュヴィッツは私にとって神学的なできごとでもあった」。

思い起こせば、同じ年に生まれたアドルノが「アウシュヴィッツ以降詩を書くことは野蛮である」という言葉を残しているが、その意義ははるかに重いものがある。

なお本編のほか、訳者の品川哲彦氏による長文の論考「ハンス・ヨーナスの生涯」と丁寧な「解題」も収録されており、ヨーナスの生涯とその思想を確認する上でも非常に有益である。


〔目次〕
 凡例
 第一章 アウシュヴィッツ以後の神概念――ユダヤの声
 第二章 過去と真理――いわゆる神の証明にたいする遅ればせの補遺
 第三章 物質、精神、創造――宇宙論的所見と宇宙生成論的推測
 訳 註
 ハンス・ヨーナスの生涯
 解題
 引用文献
 初出一覧
 訳者あとがき


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