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支配する者は「上司」ではなく、個人的首長であり、その行政幹部は、本質上「官僚」ではなくて、個人的な「臣僚」である。

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第三章 伝統的支配
〔6〕 伝統的支配
 支配の正当性が、古くより伝承されてきた(「以前から存する」)秩序や首長権力の神聖、という基礎に立脚しかつ信じられるとき、その支配を伝統的〔支配〕とよぶことにしておく。首長(または比較的多数の首長)は、伝統的につたえられてきた規則によって設定される。かれが服従されるのは、伝統をつうじてかれらに賦与された、固有の品位によるのである。ごく単純なばあいには、支配団体は、主として教育の共同ということによって規定された、恭順団体なのである。支配する者は「上司」ではなく、個人的首長であり、その行政幹部は、本質上「官僚」ではなくて、個人的な「臣僚」である。被支配者は、団体の「成員」ではなくて、(1)「伝統的同輩」(〔7〕)であるか、あるいは(2)「臣民」なのである。首長にたいする行政幹部の関係は、没主観的な職責ではなく、個人的な家臣として中世によって決定されたのである。
    --マックス・ウェーバー(濱嶋朗訳)『権力と支配』講談社学術文庫、2012年、52-53頁。

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ウェーバーの大著『経済と社会』のなかの理論的な部分、とりわけ「支配の諸類型」に関して、ハイライト的に訳出されたものが待望の文庫収録!

支配の類型を、「伝統的支配」、「カリスマ的支配」、「合法的支配」に分類し、歴史的経緯でその内実をダイナミックに論じた古典中の古典といっていいでしょう。みすず書房だか創文社だかのそれを演習で読んだのが学生時代ですから、20年ぶりぐらいの再会でしょうか……。

自分自身がそのころ、ウェーバーの分析に関心がなかったというせいもあるのですが、帰りの電車で読んでいたのですが、ほうほうと驚くことばかり。

その意味では、学生時代に読んでピンとこなかった1ッ冊っていうのは、文学にせよ哲学にせよ、数年経て再会すると驚くことってたくさんある訳ですが、脱線せずにもどりましょう。

ウェーバーも大物ですから「乗り越えられた」とか「限界」がなによりも先に指摘される先達になりますが、その眼差しと射程は、簡単に「乗り越えられた」とか「限界」を指摘するだけでははじまらないなーというのが正直なところです。
※もちろん社会学をプロパーとする専門家には別の意見があることは百も承知ですが、印象論風に語れば、そういう読感というのは否めないというアレです。

さて、ぱらぱらよみつつ、想起するのは、やはり大阪の市長さん。

現在は、様々な支配と服従のシステムがコングリマリットのように複合的にからみあっているので、それは「これだ!」などとは1つに還元できないは承知です。

しかし、それでも建前としては、「合法的支配」に準拠するのが現代の行政システムであることは否定できないと思います。

冒頭には、「伝統的支配」の特徴を論じた部分を紹介しましたが、まさに、部下に対しては「上司の命令を聞け」という表現を使いますが、求めていることは、「官僚」としての職務上の服務よりも「臣僚」としてのそれであり、行政機構は有無をいわせぬ「恭順団体」の様を呈していますよね。

首長にたいする行政幹部の関係は、「個人的な家臣としての忠誠」を内心・外面にかかわらず強要する様を拝見するにつけ、、、

「固有の品位」はないにもかかわらず!!!

「法律ガー」とはのたまいますものの、「ここは、伝統的支配」に正当性を求める前時代なのカー!!!

と錯覚してしまいます。

たしかに山積する問題に対処することは必要ですが、その強権的手法と、自身からの提案でなく、言及への反射というスタイルだけみていると、そら恐ろしいものを感じてしまうのですが、この危惧は小さくみつもるとエライことになってしまうと思うのは僕一人ではないでしょう。

再来というものは、まさに「再び」「来る」ことなので割合と見抜きやすいと思います。しかし目的が同じであっても、スタイルをずらしながらやってくる「あたらしい」やり方っていうのは見抜きがたいものです。

それに加えスピードがはやい!!!

まさにまるで専制君主かと見まがうほどですが、

「どんどん、やれ、やれー」

って観客民主主義ではない選択を賢明に取らないと、ホント、取り返しのつかないことになってしまうと思うのですが……ねぇ~。

加えて、ウェーバーの精緻な類型化は、フーコーによる「新しい」権力論が登場するおよそ半世紀前のこと。

いったい、どうなってることやら。

しかし、君が代やら日の丸やらを「動員」するという意味では、「伝統」すらも「利用」しているというわけですしねー

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