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「対象にまったく完全に注意をそそぐといった行為」について。

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 詩人は、真に実在するものにじっと注意をそそぐことによって、美を生み出す。人の愛するという行為も、同じである。今そこに、飢えかわいているその人がわたしと同じように真に存在するものだと知ること--それだけで十分である。残りのことは自然につづいて起こってくる。
 あるひとりの人間の活動の中に、真、善、美といった真正で純粋な価値が生じてくるのは、いつも場合にも同じ一つの行為を行為を通じてである。対象にまったく完全に注意をそそぐといった行為を通じてである。
 教育の目的は、注意力の訓練によってこういった行為ができる準備をととのえてやることにつきるといっていい。
 このほかにも教育にはいろいろと有益な点があるが、いずれもとり上げるに足らない。    --シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995年、198頁。

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先週からの続きで、スピヴァクの社会変革論を少し復習しながら、今日の授業を組み立てたのですが、やっぱり、世界に対して何らかのアクションを起こしていきたいという熱意はあるのですが、

「具体的にどうしましょう?」

ってなると、それが思い浮かばずに、

「しょぼーん」

となってしまい、その状況に引き裂かれてしまう熱意ある学生が多いことに気がつく。

なんどもいうけれども、そういう熱意がなんらかの党派的運動に「利用」されるのが一番不幸だと思うし、結局、何もできないから「もー、どうでもいいや」って放擲的なシニシズムもよくないと思う。

だとすれば、やはり、くどいのですが、「学生」である自分自身のいとなみを大切にしながら、「土台」をつくっていくしかないのだと思う。

福沢諭吉は、明治元年、旧幕府軍と官軍の戦争が江戸ではじまったとき、行く末を案じ、色めきだつ塾生たちに次のように語ったという。

「私はその戦争の日も塾の家業を罷(や)めない。(中略)世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ會(かつ)て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな」(『福翁自伝』)

結局の所は、このへんに収斂していくと思う。勘違いされると困るので少し捕捉をすれば、福沢のいう「世間に頓着するな」というのは、決して、世界を遮断しろ!という意味ではありません。いな、むしろ関心は大いにもたなければならないけれども、それに振り回されたり一喜一憂して、本来やるべきことがらが疎かになってしまうことは最も不幸だろうという指摘だと思います。

確かに、就職予備校としての大学は、根本的な探究を放棄しておりますし、社会に対して絶えず批判的預言者としてふるまうべき存在目的は捨て去られ、社会に迎合することを競う状況ですが、たえず意識をもって学問研鑽を積み重ねていくことは必要だろうと思います。

そしてその探究の中で、自分自身がこれまで積み上げてきた、そして積み上げさせられてきたものをひとつひとつ検討するなかで、必ず、つながっていくはずだと思います。

そこは大事にして欲しいということです。

スピヴァクはダブルバインドを承知のうえで、足下を掘れという。ここからだと思います。

まあ、こういう考え方は、専従運動家とかから見れば、取るに足らないというよりも、大人の怯懦のように映るかもしれませんが、臆病ゆえに、そういうのではなく、結局はきちんと「人間とは何か」というものを学問と生活の往復関係、そして自身の苦闘のなかでゆっくりと練り上げていかないと、正義なんてものは、うすっぺらい付け焼き刃みたいなもので、多くの人をけがさせてしまうって話ですかネ。


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