「孔子もアリストテレスも、『昔々あるときに』生きていたえらい人というよりは、偉人は偉人でも隣りに住んでいて、垣根の向こうから声をかけてくれる日常生活のつき合い相手」として
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私の先生で、数年前に故人となった南原繁という学者がいます。南原先生と話をしていて談たまたま『論語』に及ぶと、先生は「あの人はね」云々というのです。「あの人」というのはむろん孔子のことです。けれども「あの人はね」といわれると、何か孔子が同じ町内に住んでいる老人のようで、私などには、そこに漂う一種の不自然さがおかしみを誘いました。けれども、この何げない言葉遣いのうちに、古典--先生の場合には専攻からいって主として西洋政治哲学の古典ですが--と直接かつ不断に対決してきた精神の軌跡が躍如としています。
孔子もアリストテレスも、ルターもカントも、先生にとっては「昔々あるときに」生きていたえらい人というよりは、偉人は偉人でも隣りに住んでいて、垣根の向こうから声をかけてくれる日常生活のつき合い相手なのです。南原先生の政治学史の講義は、こういう向う三軒両隣りの偉人たちと先生とが交す会話から成り立っていました。ですからオーヴァーな言い方をすれば、プラトンとアリストテレスとが、あるいはロックとベンサムとがかりに歴史的順序を逆にしてあらわれてきても、先生にとっては、会話の順番がちがってくるだけで、それぞれの政治哲学と先生の政治哲学との直接の対話という、先生の学問の本質的な特徴は変わらないわけです。
私のように青年時代からいわば「歴史主義的」思考の毒に骨の髄まで冒された者にとっては、こういう先生の態度にはどうしてもなじめないものがありました。けれども、政治思想史の方法論としては、そこにどんなに批判の余地があろうとも、これこそまさに古典を読み、古典から学ぶ上でのもっとも基本的な態度であり、しかも現代日本ではますます希少価値になってゆく心構えだと思います。
--丸山眞男「序 古典からどう学ぶか--開講の辞にかえて--」、「『文明論之概略』を読む(一)」、『丸山眞男集』第十三巻、岩波書店、1996年、22-23頁。
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春先に、丸山眞男を再読しないと、やっぱりはじまらない!(←って何が?ってツッコミをされると困りますが)と思い、著作集をひもとき初めて、ようやく十三巻まで来ました。うぇ~ィ!
さて収録されているのは、岩波新書の三分冊で有名な、そしてこれもすでに「現代の古典」といってよい『「文明論之概略」を読む』になります(『丸山眞男集』では十四巻までで新書三冊を収録)。
まさに「読む」という講義になりますので、福澤諭吉の『文明論之概略』を参加者と共に「読む」仕立てになります。その序で「古典からどう学ぶか」という議論をしておりますので、内容そのものよりも、古典を読む意味としては普遍的な視座が含まれておりますのでひとつ紹介しておきます。
古典とは、たしかに釣り鐘みたいなものですから、打ち手の力量・技量によって、それは大きく響くものでもあれば、逆に小さく響くものでもあります。ですから「おお、これはすごい」乃至「チンプンカンプンでした」ということで、その著者たちを「おお、これはやはり大先生」と持ち上げることも、そして同時に「いやー、エライ人の書き物はよくわらかねー」って態度をとっても仕方はないのはその実状じゃないかと思います。
丸山眞男は師の南原繁の古典観・人間観を……自身を卑下しつつw……紹介しておりますが、「孔子もアリストテレスも、ルターもカントも、先生にとっては「昔々あるときに」生きていたえらい人というよりは、偉人は偉人でも隣りに住んでいて、垣根の向こうから声をかけてくれる日常生活のつき合い相手」という認識はどこかで持ち合わせていた方がいいと思う。
研究者の端くれをしている自分でも分かりますが、孔子やアリストテレスや、ルターやカントをも「超える」ほどの力量はないし、学ぶべき点はそれぞれ尽きることを知らぬ無限の水脈の如く存在し、たしかに「偉大なる人物」であるとは思う。しかし、そうだとしても「隣りに住んでいて、垣根の向こうから声をかけてくれる日常生活のつき合い相手」として向き合わない限り、それはどこまでいっても、自分自身の事柄にはならないし、そこに双創性は出てこない。
古典を読むとは何か。いろいろな側面はありますが、その一つはやはり、古典という著作を通して、彼らと「対話」することが「古典を読む」ということなのだと思います。
ともあれ、私自身も「あの人はね」……っていいながら、たどたどしいながらも対話を継続していきたいと思います。
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