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La Pensée sauvage:植民地支配は文明化なんだから感謝しろってドヤ顔に涙

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さて、わが主題に話を戻すとして、自分の習慣にはないものを、野蛮と呼ぶならば別だけれど、わたしが聞いたところでは、新大陸の住民たちには、野蛮で、未開なところはなにもないように思う。どうも本当のところ、われわれは、自分たちが住んでいる国での、考え方や習慣をめぐる実例とか観念以外には、真理や理念の基準を持ちあわせていないらしい。あちらの土地にも、完全な宗教があり、完全な政治があり、あらゆることがらについての、完璧で申し分のない習慣が存在するのだ。彼らは野生であるが、それは、自然がおのずと、その通常の進み具合によって生み出した果実を、われわれが野生と呼ぶのと同じ意味合いで、野生なのである。本当ならば、われわれが人為によって変質させ、ごくあたりまえの秩序から逸脱させてしまったものこそ、むしろ野蛮と呼んでしかるべきではないか。前者のなかには、本当のものが、もっとも有用で自然な美徳や特性が、生き生きと、力強く存在しているのに、われわれときたら、後者のうちで、それらの質をおとしめて、われわれの堕落した好みのほうに合わせてしまったのだ。
    --ミシェル・ド・モンテーニュ(宮下志朗訳)『エセー』2巻、白水社、2007年、64頁。

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※twitterの古いまとめの再掲ですいません。

ちょっと調べものして関連する事項まで調べていたら頭に来たので少し連投します。

要するに「植民地支配とは、文明化“してやった”!んだからガタガタいうな」という議論をいまだに根拠あるものと信じて疑わぬお花畑が多すぎて涙だったという話です。

野蛮・文明の対立構造の問題性は、思想の世界では、はるか昔に議論がつきているのにこれをまだまだ信じて疑わぬとは驚いてしまう。

1920年代の朝鮮半島の風俗を調べることがあって村山智順の記録を確認していたら、驚いた。

http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mura/
※その足跡とは、総督府嘱託として、同地の在来の宗教観、風水、慣行、あそびを記録したわけで、詳しくは、村山智順『朝鮮場市の研究』(国書刊行会、1999年)を繙けば確認できます。


村山の調査に、植民地主義の眼差しは明瞭に伺うことができるし、今日の視点からその営みへのイデオロギー批判を加えるのは間違ってはいない。しかし、それは「ただそれだけ」のことで、そこから何かが生まれてくるわけではない。手法は民俗学か社会学がはっきりしないが、調査・記録としては精度が高い。
※私自身は、イデオロギー批判が目的で村山調査を振り返っているわけではないし、関心は、村山と同時代に中国・朝鮮論を論じた吉野作造にあるから村山批評は後日の課題。だから村山論および吉野論も横に措く。

だけど、問題なのは、村山の記録写真を流用して牽強付会の議論をしている人間が多いことに少し驚愕した。

村山は、民俗学的領域からアプローチすれば記録として貴重であり当時の宗教・民族文化を確認するうえでは必須の資料となる(だから植民地主義なわけだけど)。しかし、その写真…例えば、病気を避けるまじない等々…を「日本人が科学・医療の眼差しで駆逐した! すげぇだろう」とドヤ顔で「文明化」を讃えるお花畑が多いことに驚いてしまう。

当時流通していた「まじない」をはじめとする民俗慣習を「劣悪」として斥け、科学文明の矛として最新医療を導入して「あげた」日本はエライ、感謝されてナンボ…という議論です。

文明とは何か、文化とは何か。還元不可能な固有性、そしてそれにもかからず人間としての普遍性の眼差しを欠い議論ですよ。

正直、あたまをかかえてしまった。19世紀の視座じゃないですかw
そしてインフラ整備によって虚偽を正当化してしまう政治デマゴギーまでコンボドライブ搭載という寸法。

未開/文明という対立構造の不毛さは厭と言うほど議論されているし、その暴力性はくどくど申し立てるまでもない。しかし「医療を導入して未開を駆逐した」って言い切る感性には驚いてしまう。仮にそうだとしても、植民地主義を肯定することは不可能だし、欧米と違うというのもザレゴトにすぎない。

そして加えるならば、自然科学(というよりも技術)にのみ根拠を置く文明なるものが人間を充全に幸福へと導くのかといえばどうでしょうか?

この点も省察は必要だし(だからといってその脊髄反射として「自然へ帰れ」もだめだけど)、まじないを駆逐することが「より善」であるとするならば、アナタはどうよって問うて欲しい。

俗に日本は無宗教を標榜する人間が多数であるにもかかわらず俗信・まじない・占いダイスキーという精神風土。明日のことを雑誌の最後の頁(占いなんかがだいたいある)で判断してるって方がパーセンテージとしては多いわけでしょ。

だとすればねぇ、言い方悪いですが人のこといえた義理じゃないんですよw
※わたしゃ、すぴりちゅあるやらナニやらでぇーっきらいですが、これは制度宗教のていたらくもあるわけで……ってこれはまた別項にて論じます。

「いや、おれはそんなゲン担ぎもしない」唯物主義者だといいきるのであれば、得たいの知れない日本リスペクトには直結しないし、科学「主義者」として振る舞って欲しい。そして加えるならば、その科学というものも、アインシュタイン以降のそれに更新してから見直してほしい。

ほんと、痴れ者が多すぎる。自称愛国者が異なる他者を傷つけるのみならず、返す刀で大好きな日本そのものまで傷ものにしているやないけ!

主義主張することは自由だろうけど、論理的に成立しない、その暴力性・問題性を自覚しないザレゴトは、指摘ではなく「犯罪」にすぎないと思う。

正直「無自覚」は罪だとしても「無知」は致し方ないかと思うてきたが、犯罪レベルの「無知」があまりに多すぎることに僕は絶望しています。

文明化してやったぞ、ゴルァ、感謝しろボケって発想は、La Pensée sauvage 以前なんだよ。

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