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自分たちの奉じる自由と自立の思想が庶民層のなかでどう生きるかは、思想の死命を制する本質的な課題であるはずだ

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 個の自由と自立を求める啓蒙思想家にとっては、自分たちの奉じる自由と自立の思想が庶民層のなかでどう生きるかは、思想の死命を制する本質的な課題であるはずだ。民主の思想の根幹は民衆が主体となることなのだから。
 が、維新変革の主体と同じ階層--つまり、過激公卿・下級武士・庶民上層部--からなる啓蒙思想家や民権思想家は、その社会的位置からして、庶民層に近づくことは容易ではなかったし、また時代の大変革をやや遠くのできごととして見ている庶民にとって、舶来の自由や民権の思想は近づきやすいものではなかった。距離をちぢめるには、舶来の思想と庶民の生活の落差を自覚した知識人が、落差を埋める方向にむかって思想を生かす道を模索し、みずから庶民の生活と接するなかで自由と自立の思想を生きなければならなかったろうが、舶来の制度や技術や知識が、そして舶来の思想も、上からの近代化の有力な武器として利用されるような時代には、知識人が明確な自覚をもって庶民に近づくのは、ことのほかむずかしかった。「中間層にとって公的および私的な官僚的編成のなかに系列化される牽引力の方が、『社会』を代表して権力に対する距離を保持しつづける力より、はるかに上廻った」という事態は、知識人の脆弱さを語るものであると同時に、上からの近代化の勢いの大きさを示すものであることを否定はできない。
 だからこそ、いっそう自覚的に、倫理的に、知識人たちは庶民層との交流を模索しなければならなかったが、自由民権運動の高まりのなかで、反権力へと傾斜していく一部の庶民とのあいだに一時的な交流はうまれたものの、日常の場での庶民層との交流はほとんど模索されることがなく、知識人たちは、自由と民権の思想性をつらぬくことよりも、官民の要職について舶来の知識や技術を生かすことに生きがいを見いだすことになった。
    --長谷川宏『丸山眞男をどう読むか』講談社現代新書、2001年、133-134頁。

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へーゲルの研究者として知られる長谷川宏さんが、著作『丸山眞男をどう読むのか』のなかで、個の自由や自立の思想がどうして根付かなかったのか、議論しているのが上の引用部分です。
※手がかりにするのは丸山眞男の戦時期の論文「国民主義の『前期的』形成」より(『丸山眞男集』第二巻、岩波書店、所収)。

長谷川さんは丸山の議論を参考にしながら、端的にふたつの理由を指摘しております。

「一つには、精神の強さが足りなかった。個人における個の自由と自立の不十分さをいうのに、精神が強くなかった」(130頁)ゆえに、「それよりも官職だの、社会的地位だの、権勢だの、名誉だのを追いもとめる」(131頁)ことになったと指摘。

こうしたところが明六社系知識人が雪崩をうって迎合するのと、福沢諭吉の毅然さを分かつことになるし、元々は平民主義を掲げていた徳富蘇峰が御用ジャーナリズムになるのに対し、旗を掲げなかった宮武外骨は「生き方」としてそれを終生実践したことと分かつことになる。

そしてもう一つが、上の引用箇所の問題になりますが、「知識人の知と思考が民衆に近づくという方向性をもたなかったことがあげられる。明治以降の近代化が上からの近代化だったこともあって、近代的な知や思考は、支配層と結びつきやすく、底辺の民衆の抵抗の思想として生きるのがむずかしかった」(131頁)というものです。

その結果、どうなったのか。歴史を振り返るまでもありません。本来人間を解放すべき「知」というものが、本末転倒の支配と隷属の「武器」として動員されてしまうことになってしまいます。

「知識人たちは、自由と民権の思想性をつらぬくことよりも、官民の要職について舶来の知識や技術を生かすことに生きがいを見いだすことになった」……。

体制翼賛に「動員」される知と知識人。この構造はおそらく今も変わっていないし、自由と知の拠点たる大学も、自立した個人とほど遠い「勉学」に励む「素行」正しい「忠良な帝国臣民」を「育成」することに全力であることは否定できない。

ただ、それでも僕自身は、時代の空気としては、わずかながらも変革の機運を感じている。社会のネットワーク化は、独占された「知」を解放する小さなきっかけになっているし、自立的庶民の横断的な連携もちらほら芽生えている。支配や指導とは無縁の、庶民のなかに広がる自由への願いが、お仕着せにしかすぎない社会の常識や良識といったものを、「小水石を穿つ」ていくのだと思う。

夢想的と笑われるかもしれませんが。

その意味では、「頭にくること」がマア、多いわけですが、あきらめずに、その怒りを創造へ転換していくしかないですね。

これまでは、知識人や社会的上層の人々が、庶民の忍耐にあぐらをかき、いいように「無知」として退けてきたのがその歩みだと思う。しかし、時代は違うはずだ。

もの言い、考え、連携する無名の挑戦こそ時代を大きく転換する。

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