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覚え書:「遊覧・もうひとつの現代史 東京都江東区亀戸周辺=苅部直」、『毎日新聞』2012年9月5日(水)付。

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遊覧・もうひとつの現代史
東京都江東区亀戸周辺
苅部直

追悼碑と記念碑
 この9月1日は、関東大震災が起こってから八十九年となる日。ぞろ目の八十八と切りのいい九十との間の地味な間合いではあるが、この震災で大きな被害を受けた亀戸近辺に行ってみようと思いついた。
 それというのも、昭和の戦前から戦後にかけてジャーナリズムで活躍した社会学者、清水幾太郎の震災に関するいくつかの回想記を、前から興味ぶかく読んでいたからである。最近ちくま学芸文庫で刊行された『流言蜚語』にその一部が納められているが、そのころ清水家が住んでいたのは柳島横川町、亀戸天神から横十間川をへだててすぐのあたりであった。
 震災のとき、清水はまだ旧制の中学生である。その数年前に家業が傾き、日本橋区薬研堀町(現、東日本橋)から転居したのであった。商家が古くから並んでいた下町から「場末」への、都落ちのような気分だったという。柳島横川町には、明治時代以降、近辺に立ち並んだ工場を目あてにして、地方から流入した貧しい労働者が生活する場所であった。震災によって自宅が全壊したあと、清水一家は工場廃水のたまった泥沼を通り、天神橋を渡って川をこえ、亀戸の方へ避難している。
 もしも橋が落ちていたら、大火にまきこまれて死んでいたと清水は述懐する。いまその近辺を歩いてみると、それほど車がたくさん通るわけでもないのに道幅がとても広い。大震災のあと、地区改正が徹底して行われた痕跡であろう。
 また、どこでも道が上り坂になったあとで橋を渡り、川をこえると下り坂になる。もともと地面が低いので、橋は川面を飛びこえるような格好になるのである。関東大震災のとき、大津波が来るというデマが流れたのも、現地に立ってみるとその不安を実感できる。
もう一つ、震災時にこの地域を襲ったデマは、朝鮮人や社会主義者が破壊活動を行っているというものであった。そのせいで、この近辺でも多くの朝鮮人や中国人が殺傷されているが、なかでも有名なのは、日本人の労働組合活動家十名が兵隊によって殺された亀戸事件である。
 付近にあった紡績工場は、大正時代にもりあがった労働運動の一大拠点でもあった。もちろん、パニック状態のなかでそうした人々を犠牲にしてしまう心理は、想像で追体験しようとも思わないのだが、当時の官憲や住民にとって、不穏な活動が渦まく地域という印象があったことも、おそらく確かなのだろう。
 亀戸事件の現場である警察署の跡地は、いまや古びた商店街であり、事件の跡を示す掲示などはない。代わりに近くに浄心寺の境内に「亀戸事件犠牲者之碑」がある。事件の追悼実行委員会が1970年に建てたもので、いまでも毎年、追悼集会が行われているそうであるが、その存在を示す説明板ば外にないので、前もって知っていないと分からない。追悼碑それ自体はきれいに掃除され、ひっそりとたたずんでいる。
 今回はさらにもう一つ、近代の石碑を訪ねてみた。藤の花で有名な亀戸天神の境内にある「中江兆民翁之碑」である。自由民権運動を担ったこの思想家の、おそらく七回忌を記念して、板垣退助や大隈重信らが建てた。大きな石碑で、みずからの葬儀も拒否する唯物論者だった兆民が見たら、苦笑するのではないか。
 しかし当人は、自由と人権の普遍的な理念を日本に根づかせようと格闘し、差別された人々にも寄り添った人物である。その記念碑があるすぐそばで殺害事件が続発するとは、何ともいやな気分になる皮肉である。
 兆民の碑は亀戸事件の追悼碑と同様に、現地に案内板があるわけでもなく、亀戸天神のウェブサイトにすら紹介されていない。しかし日本の近代の光と影をともに知るよすがとして、その存在がもっと知られていいと思う。(かるべ・ただし=東京大学教授、日本政治思想史)
    --「遊覧・もうひとつの現代史 東京都江東区亀戸周辺=苅部直」、『毎日新聞』2012年9月5日(水)付。

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