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覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著
 (新潮選書・1785円)

 ◇原作と張り合う「偶像破壊」的な集大成
 『謎とき「悪霊」』は、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によって「古典新訳ブーム」に火を付けた亀山郁夫氏による、本格的な『悪霊』論である。ドストエフスキーのこの長篇については、本書と並行して、注目すべき仕事が二つ同氏によって行われていることにも言及しておく必要があるだろう。一つは、『悪霊』そのものの新訳(光文社古典新訳文庫、二〇一〇~一一年)で、今年の二月に刊行されたその「別巻」には、「スタヴローギンの告白」と一般に呼ばれる章の三種類の異稿の翻訳が収められ、詳細に比較対照されている。

 さらに今年の四月にはロシアを代表する文学研究者の一人で、とりわけ『悪霊』研究の第一人者として知られるリュドミラ・サラスキナと亀山氏の対話と質疑応答をまとめた『ドストエフスキー「悪霊」の衝撃』(光文社新書)という本も刊行されている。日本のドストエフスキー読みが、本場ロシアの第一線の研究者とこれほどがっぷり四つに組み合ったのも、これがおそらく初めてではないか。

 今回出版された『謎とき「悪霊」』は、この小説に関する亀山氏の精力的な仕事の集大成といった性格を持つ。ただし、作家の伝記、時代背景から、小説の細部の分析、そしてテキストの表層の下に隠された謎に至るまで、あらゆる面を丹念に検討して、総合的にまとめた本としてはまったく新しい著作である。しかも、一冊の書物として、何よりも面白い。亀山氏の研究の特色は、文献の博捜、執拗(しつよう)とも言えるほど細部にこだわったテキストの読みと、慎重な研究者がその前で立ち止まるような一線を踏み越える偶像破壊的なヴィジョンの結びつきであって、この『悪霊』論もその結果、原作そのものに張り合えるくらい魅力的な、独自の価値を持つ著作になっている。
 『悪霊』は、当時のロシアの革命家グループの中で起こった「リンチ殺人事件」をモデルにした作品であり、日本の連合赤軍事件をはるか百年前に先取りした予言的小説として有名だが、それ以外にもリベラリスト、人神主義者、民族主義者などの様々な声がにぎやかに議論を闘わせる。そして小説は登場人物たちの夥(おびただ)しい死によって彩られながらも、秘められた性的欲望や陰惨なユーモアといった要素にも事欠かず、そのあまりに雑多な要素を取り込んだ構造を見ると果たして成功作なのか疑わしくなるほどだが、それだけに多くの起伏とそこに秘められた謎に満ちている。最大の謎はおそらくスタヴローギンというカリスマ的人物と、彼が犯した少女陵辱についての「告白」をどう読むかということだが、亀山氏はその謎に徹底的に分け入り、少女が犯される場面に秘められたマゾヒスティックな性的欲望の問題を大胆にえぐり出した。

 日本における「ドストエフスキー読み」の伝統は長くて深い。亀山氏の『謎とき』に直接先行するものとしては、江川卓による『謎とき「罪と罰」』『謎とき「白痴」』『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』という三冊(いずれも新潮選書)があった。江川卓こそは、形而上(けいじじょう)学ないし人生論のどんよりとしたぬかるみから、小説テキストとしてのドストエフスキーの豊かさと面白さを救い出した功績者であった。それを受け継ぐ亀山郁夫は、先行者に比べると自分の思い入れを好んで語る点がより「ロマンチスト」だが、その分読者を引き込むヴィジョンの強さでは勝っているとも言える。ドストエフスキーはこうして生き続ける。古い謎が解かれるとともに、新しい謎を生みだしながら。
    --「今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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