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覚え書:「異論反論 節目の年に日中関係が緊迫しています=木戸久枝」、『毎日新聞』2012年9月19日(水)付。

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異論反論 節目の年に日中関係が緊迫しています
両国関係と文化交流は別
寄稿 木戸久枝

 今月29日、日中国交正常化40周年を迎える。本来ならお祝いムードに包まれてもいいはずだが、実際には緊迫した空気が日中間に漂っている。
 11日、政府は尖閣諸島の3島をめぐる売買契約を地権者と締結し、国有化した。中国はこれに大きく反発し、中国外務省は国有化の撤回をもとめた。中国で行われる予定だった日本関連のイベントが、相次いでキャンセルされている。今後、中国各地で反日デモや日本製品不買運動などが激化することも予測される。
 なぜ、このタイミングで尖閣諸島を国有化する必要があったのか……。先を見据えての戦略というよりも、東京都の購入を前にドタバタとした形で、後先を考えずに国有化に踏み切った印象がぬぐえない。国有化を評価する声も多いが、果たしてどうなのか。
 40年前、父は特別な思いを胸に、この日を迎えた。中国残留孤児だった父は、1970年に帰国したあとも、育ててくれた養母への思いを抱きながら会いに行けず、もどかしさを募らせていた。ようやく迎えた国交正常化に際して、父はその喜びを爆発させた手紙を養母に送っている。
 「母さん、まずは日中国交回復のお祝いを言わせてください。1972年9月29日は日中両国民にとって忘れることのできない日になるでしょう。日中国交回復万歳!」
 個人で自由に行き来できるようになるまでには時間はかかったが、国交正常化を心から喜んだのは、父だけではないだろう。会いたくても会うことができない……そんな人々が、日中間には数え切れないほどいた。

経済的に関係深まる一方好転しない対日感情
 国交正常化後、日中関係は大きく変化し、日中間を行きかう人々の数は激増した。中国は目覚ましい経済発展を遂げ、今や世界第2位の経済大国となった。経済的にも日中は深く結びついている。
 一方、ことあるごとに問題が噴出し、日中間には深い溝があると実感させられる。近づいては離れる磁石のような関係、それが日中関係なのだろう。
 日本人の中国に対するイメージは、悪くなる一方だ。約1年間、この欄で、好転しない対中感情について書いた際、多くの反論をいただいた。予想はしていたが、嫌中感情を抱く人の多さに驚いた。
 今後、日中関係が悪化していくのか、それとも何かをきっかけに好転するのかはわからない。ただ、こういうときこそ、文化的交流、スポーツなどの交流は続けていくべきだと思う。中国では今後も反日的行動が起こるだろう。だが、それに対処する必要はない。国家間の問題と文化的交流は別であるという認識を、日本人ははっきり示し続けるべきだ。
 日中友好という言葉がすっかり有名無実化している。感情論に振り回されず、国家間の問題に左右されないことこそが、真の友好ではないだろうか。
きど・ひさえ ノンフィクションライター。1976年愛媛県生まれ。今月、デビュー作「あの戦争から遠く離れて 私につながる歴史をたどる旅」が文春文庫に。11月24日に東京・立川で、日中関係についての講演をする予定。
    --「異論反論 節目の年に日中関係が緊迫しています=木戸久枝」、『毎日新聞』2012年9月19日(水)付。

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