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2012年9月

これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だから

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 それゆえ、教育は、児童に対して、早くから次のことを認識させねばならない。すなわち歴史によって弾劾を受け、今日もなお受けつつある因襲的、人為的な限界のほかに、われわれ各人の人間性に深く根ざした、自然的な限界が存在するということである。それは決して、運命に甘んじて忍従することをひそかに児童に強いたり、正当な野心を眠らせておくように仕向けたり、あるいは、現在の生活条件の外に目を転ずることを妨げたりすることではない。そのような企みは、われわれの社会構造の基本原理そのものと矛盾するであろう。われわれが児童に理解させねばならないのは、幸福になるための要件は、各人の能力に相応した実現可能な目標を手近なところに据え、これを達成することであって、あまりにも遠い、それゆえに決して到達し得ない目的に向かって、自らの心をいらだたせ、悩ませることではない、ということである。われわれはいつの時代にも変わることなきこの世の不正を、児童の目からおおいかくすことなく、現世のかぎりない幸福は、権力や、智力や、財力によっては得られぬことを、彼らに感得させねばならない。そして、幸福とは、様々な条件のもとで見出だしうるものだということ、われわれ各人は、喜びと悲しみとをこもごもにもちあわせるものだということ、そして大事なのは、諸個人の能力に調和しその人間性を具現できる行動目標を発見することであって、事故を酷使したり、常軌を逸した目的を無理矢理追い求めたりすることではないということ、これらのことをわれわれは児童に理解させ、感得させねばならない。これこそは、まさに学校教育が児童に植えつけねばならない心的習慣の全てである。それは、これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だからである。
    --エミール・デュルケム(麻生誠・山村健訳)『道徳教育論』講談社学術文庫、2010年、110―111頁。

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近代における生-権力の馴育の三大本山はどこかといえば、学校、工場、軍隊。そこで国家にとって有益な「サブジェクト(subject)」が鋳造される。

学校、工場、軍隊にしても、その福祉と引替に(それも削減傾向)、近代国家に有益な人材たれ、と馴致するシステムだから、まさに人間の多様性どころか「金太郎飴」の製造に奔走することになってしまう。

運動会もひとつのちいさな軍隊だ。

日本の近代化は、それを同時期にやったから、どこもかしこも軍隊式。国旗をかかげることにも反吐が出るし、紅白の両軍の競争はまさに戦闘である。
※だからといってその脊髄反射としての「みんな平等にゴール」も糞だろう。

なので私は、運動会へはいきたくないアマノジャクなのであります。

とはいえ、「学校、爆発しろ」と19世紀式の革命家ぶってもしかたがないので、それが生-権力のトリックであるということを「自覚」して接していく他ありません。

ということで?土曜日は、小学生の息子殿の運動会。

前日に、「お父さん、来るよね?」と聴かれるので、

まあ、うえのような蘊蓄を紹介しつつ、「検討しておくw」と応えたところ、

「ということは、来ないの?」

という言語ゲームを理解していたようなので、「まあ、検討の結果、いくことになりました」ということで参加した次第です。まあ、めんどくさいお父さんですいません。

ともあれ、彼自身としては一生懸命がんばっていたようで、そして、いつもの教室の給食ではなく、家族でお弁当を囲めたことに満足していたようで、それはそれで良かったのか?ということで、「これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だから」ということにしておきます。

ともあれ、その日は仕事もあり、運動会が済んでから出勤、そんでもって原稿仕事の山も山積しているのが、生-権力の道場としての「小学校」、「運動会」よりも問題なのかも知れません(つらい


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覚え書:「引用句辞典 不朽版 反日暴動=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年9月26日(水)付。

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引用句辞典 不朽版
反日暴動
鹿島茂

中国が日本並みのおとなしい国になる日

 市庁舎へやってくる……今や私は目撃者だ。……彼[パリ市総監ペルチエ・ド・ソヴィニー]は尋問される。(中略)階段の踊り場にやってきたところで、せいぜい三十人ほどの一群れが囚人を連行する国民軍兵士に襲いかかり、捕虜を引き離す。彼らは捕虜をつかまえ、引きずりまわし、殴りつける。十五歳のちんぴらが街灯の鉄棒に馬乗りになって、待ちかまえていた。綱を張るのが見えた。……(中略)諸君、おお、同国人よ! その効用によっても正当化されないあの蛮行の数々を嫌悪をもって直視するがよい。あのような行為を許しうるのは必要のみだろう。だが、果たしてそれは必要だったのか。私には判断しかねることだ。
(レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『パリの夜 革命下の民衆』上田祐次編訳、岩波文庫)

 今日では、足フェチの元祖として知られているレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、同時に類いまれな好奇心をもった同時代の風俗観察者であり、大革命前後のパリの街を歩きまわり、気づいたことを小まめに書き留めていた。
 一七九八年七月一四日、朝寝坊してしまったレチフが昼過ぎに家を出ると、群衆が槍の先に人間の頭を刺して更新している光景が目に飛び込んでくる。バスチーユ牢獄が襲撃され牢獄長官のロドネー侯爵が惨殺されたのだった。警察に追われることの多かった作家レチフは「私の胸は恐怖心でいっぱいになっていながら、そのくせあの恐るべき案山子[バスチーユ牢獄]が倒れようとするのを見る歓喜の情がまじっていた」と告白する。だが、革命の騒乱が拡大し、民衆たちが集団心理に駆られて残虐行為に走るのを目撃するに及んで抑えようのない嫌悪を感じるようになる。
 七月二二日、「おお、フランス人よ! おお、わがパリの同胞たちよ! いったいどんな妖怪がそのとき諸君に怨霊を吹きこんだのか」と嘆きながら、それでも好奇心に突き動かされ、レチフはパリ市総監ベルチエ・ド・ソヴィニーが民衆に捕まってこづきまわされる姿を追う。若く美しい女たちが窓から「しばり首だ!……街灯に吊しておしまい!」と叫んでいる。「その場にいあわせてはいたものの、この目で目撃しなかったこまごまとしたことは、いっさい話さないでおく。彼らがベルチエを吊し、その首を切り落とし、綱を振っていたとき、私は彼がまだ市庁舎にいるものと思っていたのである。……ふいに形相の変わった彼の首が目に入る。私は恐怖に駆られて逃げ出した」
 レチフがこれを記録してから、すでに二二〇年以上がたつ。だが、基本的になにも変わっていない。この間に、レチフが目撃したような破壊と殺戮が「革命」あるいは「愛国」という名の下に世界中でどれくらい繰り返されたことだろう。ごく普通に平和な日常生活を送っていた民衆たちが突如、狂気に駆られたように生け贄を探し、建物に放火する。ある人はこうした群衆を暴徒と呼び、またある人は革命的民衆と呼ぶが、その本質は常に同一である。飽和量に達していた集団の発火性の無意識が爆発してしまったのである。引火の原因は、憤激を誘うものであれば、ナショナリズムであっても経済的不満であっても、なんでもかまわないのである。
 問題はどのような条件下でこのような大爆発が起きるのかということだ。フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドによれば、人口と識字率が決定要因だという。人口爆発が起こると同時に男子の識字率が上がって若年層の生存競争が激化し、個人の不満が集団の無意識へと変化し、個人の不満が集団の無意識へと変化しているところならどこでも、国家や体制に関係なく爆発が起きるのだ。
 ただしトッド理論によれば、男子に代わって女子の識字率が伸び、女子の多くが高等教育にアクセスするような段階に達した社会においては、どんなアジテーションを行おうと爆発は起きなくなるという。いまの日本のように。
 尖閣諸島国有化をきっかけに爆発した中国の反日暴動は、中国の一人っ子政策によって生じた歪みで若年層の男子率が異常に高くなっていることに加えて、資本主義の加速で貧富の差が拡大し、都市部に貧しく若い男子が過剰につめこまれているために起きたものであり、ナショナリズムはじつはあまり関係がない。
 よって、この危機が乗り越えられれば、すでに女子が高学歴化し、少子化も加速している中国であるから、たとえば共産党政権が続いても、今後の大爆発は起きないと予想する。やがて、中国もまた少子高齢化によって日本と同じようにおとなしい国になるのである。(かしま・しげる=仏文学者)
    --「引用句辞典 不朽版 反日暴動=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年9月26日(水)付。

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覚え書:「異論反論 佐藤さん! 尖閣問題が加熱しています=佐藤優」、『毎日新聞』2012年9月26日(水)付。

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異論反論
佐藤さん! 尖閣問題が加熱しています
寄稿 佐藤優

日本は政府間対話を恐れるな
 尖閣諸島問題をめぐる日中間の緊張を、このまま放置しておくと武力衝突につながりかねない。「尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上からも明らかであり、現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって、尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しません」(外務省ホームページ)というのが、日本政府の立場だ。
 最近、筆者は尖閣関連の外交文書を精査してみたが、尖閣初頭をめぐる領有権の問題、すなわち領土問題が存在しないという政府の主張と明らかに齟齬を来す外交文書があることに気づいた。それは日中両国が相互の排他的経済水域(EEZ、領海12カイリを除く沿岸から200カイリの水域)の漁業について定めた日中漁業協定(正式名称「漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定」)だ。この協定は、97年11月11日に東京で署名され、98年4月に国会で承認され、00年6月1日に効力が発生している。協定第6条(b)に、「北緯27度以南の東海の協定水域及び東海より南の東経125度30分以西の協定水域(南海における中華人民共和国の排他的経済水域を除く。)」と記されている。まさに尖閣諸島が含まれる水域だ。しかし、協定本文には、この水域に関する規則をなにも定めていない。ただし、この条約が署名された日に小渕恵三外相(当時)が、徐敦信中国大使(同)に「日本政府は、日中両国が同協定第6条(b)の水域における海洋生物資源の維持が過度の開発によってー脅かされないことを確保するために協力関係にあることを前提として、中国国民に対して、当該水域において、漁業に関する自国の関係法令を適用しないとの意向を有している」と記した書簡を送っている。
 従って、日本は尖閣諸島周辺のEEZで操業する中国漁船を取り締まることができないのである。同日付で徐大使から小渕外相に宛て、中国政府が当該地域で日本国民に対して中国の漁業関連法令を適用しないという書簡を送っている。これを「外交上の相互主義なので問題ない」と強弁することはできない。尖閣諸島を実効支配している日本政府が自国のEEZにおける施政権の一部を中国に対して放棄する意向を示す外交文書を発出したことは、外交における大きな譲歩であり、領土問題をめぐる係争の存在を認めることになる。

交渉の席で主張し武力衝突回避を
 日本は尖閣諸島に関する政府間対話を恐れるべきではない。外交交渉の席で尖閣諸島は歴史的、国際法的に日本領であると正々堂々と主張すればよい。尖閣諸島の帰属問題を中国がICJ(国際司法裁判所)に提訴するならば、受けて立つと表明する。同時に日本は「領土問題は存在するまで、尖閣諸島への中国国民の上陸、尖閣諸島周辺領海への立ち入りを自粛する」という合意を中国から取りつけ、武力衝突回避のために全力を尽くすべきだ。
 さとう・まさる 1960年生まれ。作家。元外務相主任分析官。「スポーツ事務に通い始めました。毎日、プールの中で1時間、歩いています。小学3年の夏休みに母親に連れられて大宮公園のそばにある埼玉県営プールでの水泳教室に通ったときの記憶が、よみがえってきました。
    --「異論反論 佐藤さん! 尖閣問題が加熱しています=佐藤優」、『毎日新聞』2012年9月26日(水)付。

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「漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定」pdf→ http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/A-H12-343.pdf


関連 
http://blogos.com/article/46928/


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本来的な意味での〈語ること〉は、どんな対象よりも先に他人に対して口を開ける意味することであって、諸記号の交付ではない。

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 〈語ること〉、それは隣人に接近し、隣人に向けて「意味することの口を開く」ことである。このような〈語ること〉は、説話として〈語られたこと〉のうちに刻印される「意味の給付」に尽きるものではない。本来的な意味での〈語ること〉は、どんな対象よりも先に他人に対して口を開ける意味することであって、諸記号の交付ではない。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年、124頁。

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昨日の講義から本格的な授業が始まりました(初回はやはりガイダンスがメインになりますので)。

哲学の基本的なことがら(「哲学とは何か」)を紹介した訳ですが、哲学の語源はギリシア語の「知を愛する」ことになりますので、人間はどこからでも哲学を始めることができるわけですし、その意味では、関心や発想を自由に解き放ち、日々の事柄に驚き「それは何だろうか」「本当の○○は何だろうか」と自ら問いを発し、探究していく他ありません。

しかし義務教育で知識を積み上げることだけが「学問」であるとインプリンティングされたことが、自由に自身で探究することに対して、それが堰になっているのも事実のようで、当惑している学生さんが多いなあと思ったのも事実です。

自由に探究するとは、手順を割愛してもよいという恣意的なものでは決してありません。しかし、自身の関心を自ら塞いだり、「こう考えてみるのもアリなんじゃねえの?」って萌芽を自ら刈りとることでもありません。

そのとまどいを知ることの喜びかえていくのが教養教育における哲学の使命なんじゃないのかなあと思いつつ、授業を終えた次第です。

さて、授業が済んでから、前期から継続しているエマニュエル・レヴィナスの研究会。1時間弱、これまた1頁程度しか進みませんでしたが、濃厚なひとときを味あわせて頂き、ありがとうございました。

こちらはこちらで授業とは一見すると対極にあるような現場wになりますが、しかし、いわゆる「レヴィナスの思想とは・・・である」(←それがそれで間違っている訳ではないのですが)とするドクサをひとつひとつ腑分けしていくようで、その意味では同じ意義なのではないかと思います。

……ということで、久しぶりに授業して研究会と連チャンすると結構疲れますね。しかし、それは心地の良い疲れであることは言うまでもありません。

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覚え書:「ひと:弱者、女性の視点でインドの環境保護運動を続ける バンダナ・シバさん」、『毎日新聞』2012年9月25日(火)付。

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ひと
弱者、女性の視点でインドの環境保護運動を続ける
バンダナ・シバさん(59)
Vandana Shiva

 経済成長の一方で広がる貧富の格差や環境破壊ーー。さまざまな矛盾を抱えるインドで、貧しい人々や女性の視点に立って環境保護を訴えてきた。20年以上の運動は多くの農民に影響を与えた。
 21歳の時、故郷近くの村で、女性が木に体を縛り付け命がけで森林伐採を防ぐ「チプコ(抱きつく)運動」に出会った。「人間は地域固有の作物に生かされていることを彼女たちに教わった」という。
 カナダに渡り、哲学と物理学を学んだ。帰国後、女性たちに環境保護運動への参加を呼びかけた。91年にはNGOを設立し、地域固有の植物の種を保存する活動や、有機作物のフェアトレード(公正な貿易)運動を展開した。
 「種は命。企業や国の開発による単一品種栽培で、農家は多様性と自由を失った」
村々を回り伝えた思想は、著作を通じ世界にも広がる。93年に「もう一つのノーベル賞」と言われるライト・ブリフッド賞を受賞した。
 第23回福岡アジア文化賞の大賞に決まり、今月来日した。東京電力福島第1原発事故について「原子力は近代化と同じで、一つの方向性、価値観を唯一無二のものとして押しつけてきた。それが破綻を見せた今、日本は岐路に立っている」と考えている。
13日に福岡市で行われた授賞式のスピーチで強調した。「豊かになる方法はさまざま。これからも世界に多様性と平和を広げていきたい」
文・関東晋慈 写真・和田大典
    --「ひと:弱者、女性の視点でインドの環境保護運動を続ける バンダナ・シバさん」、『毎日新聞』2012年9月25日(火)付。

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福岡アジア文化賞の特設サイト

http://fukuoka-prize.org/campaign/2012/vshiva/

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「思想の証なんていいたくない」けれども「毎日をエンジョイした方が利口だという考え方」でもありたくない

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 人をみて法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生まれたら、あまり思想の証なんていいたくないんですよ。(中略)しかし、日本では、一般現象として観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくはあるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。
    --丸山眞男 対談「民主主義の原理を貫ぬくために」、『新日本文学』1965年6月号、152頁。

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変則的なのですが、千葉の短大で担当する「倫理学」は前期のみ開講科目なのですが、2年生の最終講義日は9月になってからの設定になりますので、本日無事終了。

特に何かという訳ではありませんが、大学で「倫理学」を学ぶとは……そして、これは授業のなかで何度も言及した点ですが……どれだけ「柔軟に発想」できるかという技能を身に付けることではないかと思います。

ただ、そうはいっても、私たちの住む日本という国土世間は「ずるずるべったり」をエートスとしますので、丸山眞男先生にならって(ぇ、少し理念の立場を強調したことは否めません。

しかし、それは、今生きている私たちと同じ悩みを抱えた過去の先達たちの思索を追体験することで、では実際に自分はどう考え、判断するか、という思考実験でもありますから、「思想の証」をたてよ!というのと同義ではない点も理解してもらえたかと思います。

生きている生活世界のなかで、少し立ち止まり、「ひとはそういうけれども、実際はどうなのだろうか?」という構えを忘れずに、籠絡をかわしながら、恬淡と自身の道を歩んで欲しいと思います。

さて、丸山眞男は、日本のずるずるべったりを指摘しましたが、同時に、観念の奴隷になってしまうことにも警戒的です。問題はこの二項対立しか浮かび上がってこないことでしょう。前者だけが「人間の世界」だと思い切ってしまうのも問題ですし、生活者の視座を失念して後者のみにあつくなってしまうのも不幸でしょう。

マイホームへの沈潜と、政治化への熱中というのは、確かに相反するベクトルですが、立ち位置に無自覚である点や、人間を人間として扱わない抽象志向@ヤスパースという意味では同根です。そしてそれが「日本的なパターン」を形作っております。

だとすれば、そうではない選択肢を選択できるようになりたいものですね。

ともあれ、皆様、ありがとうございました。

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 一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。
    --丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年、61頁。

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覚え書:「今週の本棚:『メディア文化とジェンダーの政治学』著者=田中東子さん」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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メディア文化とジェンダーの政治学
世界思想社・2625円
著者 田中東子さん

 「フェミニズム」という響きに一歩引いてしまう20~30代女性は少なくない。自身も学生時代から持っていたというフェミニズムへの違和感を出発点に、1990年代後半から現在までの研究成果をまとめたのが本書だ。「強い女性のイメージを打ち出した70年代のラディカル・フェミニズム(第二波フェミニズム)の功績は大きい。一方で、グローバル化や貧富の差の拡大が進む中で、そのモデルが古くなっている、という問題意識がありました」
 第二波は、家父長制の犠牲者としての女性達の解放を訴える制度的、政治的な側面が強かった。対して自身が共感する90年代以降の「第三波フェミニズム」は、ポピュラー文化の生産者としてさまざまな活動をする女性達の文化実践を研究対象としてきました。同時期に日本に広まった「カルチュラル・スタディーズ」ともかかわりが深い。
 女性たち自身による表現や発信に重点を置く。ネット環境の変化やコミュニケーションに与える影響を調べるため、アニメのキャラクターの衣装を身につけてイベントに参加するコスプレや、サッカーファンの女性達の活動などを実証的に調査してきた。自分のコスプレ写真をアーカイブ化して多くのファンを獲得したり、ツイッターなどを利用してイベントに人を集めたり……。そうしたさまざまな活動を、参加者の声もまじえて分析している。
 今日女性が解放され金銭的、時間的な余裕を手にした結果、「自由で充実しているけれど、『立派な消費者』として商業主義の搾取の対象になっている。他方で非正規雇用や貧困の問題も深刻」と指摘する。コスプレの調査から浮かび上がったのは、参加者に共通している、既製品よりも手作りの衣装に価値を見出す精神。消費のサイクルに収まらず独自の文化を生産していく活動に、資本主義に抗(あらが)う文化の可能性を感じたという。
 「文化を消費しながらも自ら生産もしていく。資本主義とのせめぎあいの中から新しい考え方や生き方が生まれてくると信じています」文・手塚さや香 写真・武市公孝
    --「今週の本棚:『メディア文化とジェンダーの政治学』著者=田中東子さん」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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歴史的・政治的現実に規定されているから、つまり、現実に政治が優位してるから、政治が優位すべきであるというんじゃなくて、政治が優位してるからこそ

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 人間の価値とは本来的に政治的人間ではない。(中略)〔それゆえ、政治にかかわる決断にさいしての〕価値基準は芸術とか学問とか、つまり政治的以外の価値基準の上に立って政治的選択をして行くという、パラドクシカルなものです。その意味で、政治の優位ってのを認めない。だけど、現実にかかわっている時に、認識として学問や芸術が政治と別に存在していると思うならば、現実にとりこになっている学問や芸術を肯定することになる。それが良識的知識人の盲点だとぼくは思う。つまり、芸術の自立とか文化の自立と言うことを実体化してる、ところがそういうものはないんだよ。そういうものは基本的に歴史的・社会的制約をもってるもんだ。芸術とか学問とかいうものは、深く歴史的・政治的現実によって規定されている。歴史的・政治的現実に規定されているから、つまり、現実に政治が優位してるから、政治が優位すべきであるというんじゃなくて、政治が優位してるからこそ、まさに芸術の自立を主張しなければいけないという、その緊張関係ってものが、自分のなかに生きてなければ、政治主義になっちゃうか芸術主義になっちゃう。
丸山眞男「解説対談」、『木下順二作品集』第五巻、未來社、1961年、377頁。

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丸山眞男の政治学とその実践においてキー概念のひとつになるのが「アンチノミーの自覚」ではないかと思う。人間の社会性と内面性の有機的関係と現実の相関関係を無視した、無自覚な征伐主義こそ、それがどのようなものであれ、丸山が唾棄すべき対象としたものでしょう。

上の文章がその消息をわかりやすく、そしてダイレクトに語った一文ではないかと思い、紹介した次第です。

「丸山諭吉」風にいえば、これは「惑溺を排す」ことになりますが、人間の自立も、組織体としての社会の確立の、別個の理念でも存在でもありません。両者は相互に全く絶縁されたものではないけれども、一方的な「止揚」の名のもとに対立性を解消され「融和」に収斂されることには警戒的であるべきだ!

そして、外部存在的な制度論に関しても、個々人の思惟のレベルにおいても、その両者は相互に原理的に対立する二極として厳しく対置されると同時に、相互に他を前提しあい補完しあう水準に置いて捉える必要があろう。

こうした形で相互に交渉し、そのことで他方の極限を自己にとりこみ、それを内在化させ「新しい関係」を形成していかなければならない。それゆえに大切なのは、両者相互の、引く力と排斥する力からなるダイナミズムとしての緊張関係それ自体に自覚的であらねばならない。

……この主張が丸山政治学のひとつの肝になるかと思います。

この緊張性を「アンチノミーの自覚」と呼んでよいと思いますが、この「アンチノミーの自覚」の欠落ないしは無自覚こそ、歴史上の様々な政治実践における悲劇と問題の根本要因なのではないかと丸山の冷静な眼差しは見出すのであります。

確かに「人間の価値は本来的には政治的人間ではない」訳です。しかし人間は「深く歴史的・政治的現実に規定されている」。だから、単純に政治とは違う理念を持ち出しても、すでにその理念自体に「政治性」を深く刻印されていることを失念して「対」しようとするとそれは元黙阿弥に帰趨してしまう。

では、「現実に政治が優位しているから、政治が優位すべきである」というのも同時に早計であるという。

この両者に共通していることは何か。

それが「アンチノミーの自覚」の欠如という事態に他なりません。

その意味でここなんだろうなあと思います。

「政治が優位してるからこそ、まさに芸術の自立を主張しなければいけないという、その緊張関係ってものが、自分のなかに生きてなければ、政治主義になっちゃうか芸術主義になっちゃう」。

政治で全てが解決するというのもお花畑ですし、政治で全て解決しないからもう辞めたとおうのもお花畑でしょう。

選択というパラドクシカルな積み重ねは、単純化を退け、緊張関係に足をつっこんだまま、あきらめない地平において、初めて有効なものと機能すると思います。

昨今はネー。

もう、やめときましょう。


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覚え書:「今週の本棚:藤森照信・評 『関東大震災と鉄道』=内田宗治・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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今週の本棚:藤森照信・評 『関東大震災と鉄道』=内田宗治・著
 (新潮社・1785円)

 ◇被災当事者が残した「文字記録」が伝えるもの
 震災からしばらくして、アメリカ大使は次のように語った。

 「多くの日本人が、整然たる秩序の下に、鋭意跡始末に従事している。これは世界いずれにおいても見ることのできない大国民の態度である。これをもって思うに、日本は、必ずや近き将来において、さらに偉大な国家を顕現するだろう」

 ただし、今度の震災ではなく九〇年前の関東大震災の時。

 百年単位で見れば相次いで起こった二つの大震災を重ねて眺めることの出来る本が、このたび鉄道の分野で刊行された。鉄道が行政、社会、報道、土木、建築などなどの他の分野に先駆けたのは、この分野の日ごろの充実ぶりの成果に違いない。意外かもしれないが、鉄道は日本の専門諸分野のこれからのあり方を切り拓(ひら)いて進んでいる。鉄道分野とは、なんとなく思われているように特殊な例外ではなく手本ではないか、この一冊を読んでそう思った。

 関東大震災の時、被災地域の上を一二五本の列車が運行中であった。駅は倒壊し、鉄路は波打ち、橋は落ちる中で、客を満載した各列車はどうなったのか。

 「(下り東京発)真鶴(まなづる)行き(普通一〇九)列車が根府川(ねぶかわ)駅ホームへとさしかかった時、物凄(ものすご)い地響きと共に下からドスンと突き上げる激震が始まり、その数分後、駅の本屋(駅舎)、ホーム、官舎、線路などは列車と共に、地滑りで、海へと転落した。<中略>被災した列車に乗っていながら、奇跡的に助かった對木(敬蔵)は、この時の体験を手記に残している」

 乗客の体験談が長く綴(つづ)られた次には、鉄道省の調査記録が引用され、四人の車掌のその時の行動が明らかになる。加えて目撃者の手記などの諸記録を総合し、 「全乗客約一五〇名のうち、九死に一生を得てそのまま立ち去った乗客数名と重傷を負って早川駅で救護を受けた者が計約三〇名、付近を航海中の発動汽船に救助されて小田原で医療を受けた重傷者一三名、それ以外の約一〇〇名が死亡または行方不明となった。機関助手は行方不明、山田車掌の遺体は、事故現場から一〇キロ以上離れた国府津(こうづ)海岸で発見された」

 著者が九〇年前の実態をこれだけ克明に再現出来たのは、当時の官民の当事者たちの文字記録が保存され残されてきたおかげだが、この度の震災でも、映像記録に加え文字記録もちゃんとしなければならない。なぜなら、今回の映像記録はすべて遠くから眺めているし、当事者の内面の記録と物理的耐久性という点では文字以上の方法は無いからだ。

 マイナスの歴史的事件の陰には必ずプラスがある。出来ごとに刺激されて元気になり、見境なく行動に打って出て、後から見るとそこから新しい分野が開かれたことが分かる。建築と芸術の分野では、今和次郎と村山知義が東京の焼け跡に飛び出し、考現学やダダイズム表現を切り拓いているが、報道分野も似ていたことを本書で知った。電話も電信も途絶えた中で、各新聞社は首都壊滅の第一報を大阪まで伝える大競争を必死に展開した。半身不随の鉄道をどう使うかがポイントで、勝ったのは朝日。毎日は四時間遅れの二位。

 今回の地震では“人の不幸”が前面にでているが、日が経(た)つと、その裏で起こっていた、未来を拓きながら今は意味不明の活動や想像力の噴出のような現象が知られるようになるんだろうか。それとも、そんな現象は今回は起こっていないんだろうか。
    --「今週の本棚:藤森照信・評 『関東大震災と鉄道』=内田宗治・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120923ddm015070027000c.html

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狭隘な軍国主義的運動のため、彼らが如何に敵愾心、憎悪心を助長せられ、精神生活の歪曲と低下とを余儀なくせられて居るかを思ふ時

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 静かに青少年教育の立場から考へて、狭隘な軍国主義的運動のため、彼らが如何に敵愾心、憎悪心を助長せられ、精神生活の歪曲と低下とを余儀なくせられて居るかを思ふ時、そゞろ戦慄を禁じ得ないものがある。某々事件を殊更に宣伝の材料にした映画、読物、講演等を通じて青少年の胸の奥に刻み込まれた傷が、十年二十年の後に如何に現はれるか。その時の恐るべき結果を如何にして除かうとするのか。
矢部喜好「福音の同志の深慮に訴ふ」、『神の国新聞』六三七、一九三一年一一月二五日)
    --鈴木範久編『最初の良心的兵役拒否 矢部喜好平和文集』教文館、年、176-177頁。

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世相のきな臭くなる1931年、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が勃発し、政治的コントロールを離れた戦火の拡大は、メディアの煽りによって国民に拍手をもって迎えられた。

日露戦争のおり、「従軍して人を殺すよりは神の戒律にしたがうことに心をきめた」矢部喜好は、召集に応じず、日本で最初の良心的兵役拒否(日本には良心的兵役拒否の制度がなかったから、陸軍刑法違反)で処罰された。

それから四半世紀後の1931年、矢部は「福音の同志の深慮に訴ふ」という文章を寄せ、戦前日本の行く末に杞憂すると同時に、時流に抗する姿勢を明確に示している。

この文章では、冒頭で、「目的は手段を神聖にする」「平和の為めの戦争だ」「力は正義なり」との所論の欺瞞をしてきしたうえで、「戦争は明らかに非基督教的行為である。干戈によって正義不正義が決せられる如く考へるのは妄想も甚しいものである」から「断じてクリスチャンの採るべき道ではない」と断言した。

それに続けて、狭隘な軍国主義による敵愾心や憎悪の助長が青少年に蔓延する時流に杞憂を示したのが冒頭の引用です。

矢部は「純粋無垢なる少青年の魂を防衛せねばならぬ」として、日曜学校での取り組みなど具体策を2-3示しながら、この文章をまとめておりますが、読み直すたびに、この矢部の指摘は、今から80年近く前の「過去」の話では決してないと思うのは、私ひとりではないと思います。

このとろこの加熱した煽動まがいの報道。
そしてそれを真に受けるのでしょうか。
昨日まで「世界平和が大事☆」などといってた人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンたちが手のひらを返したかのように劣悪な愛国者になっていく姿を多々、拝見すると、矢部が危惧したような雰囲気が俄に醸成されつつあることに恐怖してしまいます。


ただ、恐怖しても始まりませんので、ひとつひとつの結び目をほぐしていくしかないのだとは思うのですけれども。

ふぅ。

いずれにしても、一九三一年から「十年二十年の後に如何に現はれるか」を想像してみてください。


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覚え書:「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『世界文学を継ぐ者たち』=早川敦子・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『世界文学を継ぐ者たち』=早川敦子・著
 (集英社新書・798円)

 ◇五作家の「翻訳不可能性」に正面から向き合う
 「アウシュヴィッツの後に、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は、その後もしばしば言い換えられ反復されてきた。9・11テロの後に……東日本大震災の後に……。芸術をすべて無効にしかねない出来事から、しかしまた新しい表現を生みだしてきた、生みださずにいられなかったところが、文学のしぶといところでもある(だからこそ野蛮なのだ)。
 世紀の変わり目あたりから、「世界文学」という語が一般にもよく使われるようになってきた。十九世紀前葉、ゲーテによって提唱された当時の「世界文学」とは、国語と国民文学の狭隘(きょうあい)な領域を超えて共有されるもの--端的に言い換えれば、世界文学とは「相互翻訳による大いなる対話」であったろう。
 しかし、現在、世界文学を語るときに強く意識されるのは、「翻訳不可能性」ということだ。『世界文学を継ぐ者たち』の著者は書く。「帝国主義の残滓(ざんし)とホロコーストという(翻訳不可能性の)衝撃的な地殻変動を経験したあとの時代にあって、『世界文学』は現在まったく異なるニュアンスで語られ始めている」「進歩と啓蒙(けいもう)の理想に突き進んできたヨーロッパが、<中略>人間の理解を超える蛮行を歴史に刻んでしまった衝撃が、自らを問い直す大きな転換をもたらした」
 植民地支配で抑圧されていた「小さきものたち」の声や、ジェノサイド(大虐殺)の沈黙から生還者を通して生まれてきた言葉を伝える、新しい世界文学の担い手として、著者はホロコースト第二世代で『記憶を和解のために』の作者エヴァ・ホフマン(ポーランド出身)、第三世代のアン・マイケルズ(カナダ)、ポストコロニアル文学の旗手アルンダティ・ロイ(インド)、「パレスチナのゲルニカ」を描いたとされるマフムード・ダルウィーシュ(パレスチナ)、異形の者との出会いを描いてきたデイヴィッド・アーモンド(英国)の五人に絞りこみ、深く論じていく。日本ではまだわりあい馴染(なじ)みの薄い作家たちだが、単なる未訳作家の紹介やブックガイドに留(とど)まらない。
 五人に共通するのは「他者との邂逅(かいこう)」をテーマに世界文学を切り拓(ひら)いてきたこと、彼らの小説がみな「喪失の物語」であること。マイダネクの収容所で死んだ少女が靴の中に残した詩に、深く胸をえぐられる。
 「むかしむかしのことでした。名前は小さなエルズーニャ ひとりぼっちで死にました。マイダネクは父さんの アウシュヴィッツは母さんの 命が消えた場所でした。ひとりぼっちのエルズーニャ その子も死んでゆきました。」
 ホフマンが親の世代が経験したことを咀嚼(そしゃく)し、自伝の執筆を通して「自分を翻訳」することで、「事実から寓話(ぐうわ)へ」「寓話から意識へ」「意識から物語へ」……という道のりをたどるとき、読者にとっても「彼らの物語」は「わたしたちの物語」となる。ホフマンは翻訳を「セラピー」とまで呼ぶ。
 しかしホロコーストを伝える文学が多々ある一方、祖国を喪失したユダヤ人によって国を追われたパレスチナ人の「ナクバ」(大惨事)を描く文学はあまりに少ない。そのことにも注意を向けねばならないだろう。また、「自らの再翻訳」を通して、西洋の理論には還元しがたい「他者」のありようを可視化していくことがポストコロニアル文学なのだと著者は言う。
 翻訳とその不可能性に正面から向き合った読みごたえたっぷりの世界文学論だ。翻訳不可能性を屈服させるのではなく、むしろ「頭(こうべ)を垂れて」異なるものに自らを屈服させることで、新しい世界に招き入れられた、と言う著者に敬意を抱いた。
    --「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『世界文学を継ぐ者たち』=早川敦子・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120923ddm015070031000c.html

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書評:テリー・イーグルトン(大橋洋一訳)『宗教とは何か』青土社、2010年。

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テリー・イーグルトン『宗教とは何か』青土社、読了。ユダヤ・キリスト教における「神」をめぐり、ドーキンスやヒッチンス等らの宗教を非科学的「妄想」として批判する科学的・合理主義的論難を快刀乱麻に斥ける。「およそ似つかわしくない人」による宗教が政治的に重要な意義を持つとの現代批評。

著者は、宗教と科学、キリスト教と進化論、信仰と理性某等々、宗教にまつわる様々な論難を取り上げ、宗教に注目する意義を語る。宗教の復活は冷戦構造の崩壊による。それまで社会主義名ナショナリズムが引き受けてきた課題を宗教が引き受けたからだ。

その過度のリアクションは宗教を「看板」にする原理主義運動だ。しかし、それは特定の宗教の専有物でもない。こうしたアクションに対して、欧米のインテリはドーキンスの『神は妄想である』のように、それを非科学的妄想として斥けた。しかし実際はどうか?

宗教が現実的諸問題をパーフェクトに解決することは不可能であろう。しかし宗教運動は、グローバル資本主義の下にある現実と向き合っている。しかし「妄想論」と斥ける論者たちはどこに定位するのか。彼等は全く無視している。ここは著者らしい眼差し。

さて、本書は「神の存在」を否定したドーキンス、ヒッチンス(著者はまとめて「ディチキンス」と表記!)らを批判する。しかし、一方で、キリスト教とキリスト教会の歴史の負荷は弁別し、特に後者の害(例えば聖職者の腐敗や暴力)も同時に弾劾する。

権力に処刑されたイエス=キリストと、原点から乖離したキリスト教会。そして西洋文明による搾取と差別の歴史に真正面から取り組む著者の姿勢と、科学の進歩の積極性のみを楽天的にとらえ、暗部を顧みない批判論者との違いは大きい。

ドーキンス等の眼中にあるのは、恐らく合衆国の原理主義的宗教運動批判であろう。そして著者が注目するのは、ヨーロッパの伝統的キリスト教であると思う。その違いもあるが、著者は、資本のトータル支配に抗う宗教の生命力に積極的に注目する。

本書は現代社会で宗教の意義を再確認する一緒であると思う。ただし著者の『~とは何か』シリーズと同様、それに答えてくれるものではない。原題は『理性、信仰、革命 ー 神論争についての省察』(訳者)。原点と流通を顧みさせてくれる好著。

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覚え書:「今週の本棚:『被災した時間 3・11が問いかけているもの』=斉藤環・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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今週の本棚:『被災した時間 3・11が問いかけているもの』=斉藤環・著

 (中公新書・840円)

 精神科医にして批評家の著者が、昨年三月より各媒体の緊急のもとめに応じ、東日本大震災の被災と原発の問題をめぐり発表した、約一年間の発言と対談をおさめる記録集。雑然たる点も多いが、あえて加筆せず「心象ドキュメンタリー」として提示することをめざしたという。
 精神科医としてとうぜん、被災のソフト面--遅れて発生するひきこもりや、医学的ケアの難しい心の領域への指摘がある。放射能を祓(はら)うべき「ケガレ」とみなし、事故の本質的追求をうやむやにする日本的感性への批判がある。菅首相による浜岡原発の停止を、人々の疑心暗鬼に迅速に反応する一種のメンタルヘルスとして評価する視野がある。〈雑〉の中に、ゆたかな提言や批評があふれる。
 他にも「支援者支援」や、今後の防災ひいては文化における「多様性」志向の重要さ、因習的な「絆」でなく、自由な個としての「連帯」の提唱についてなど、読みどころ満載。
 何より災害の記憶の風化に抗し、あの日以来今後数十年、つまり自身の残りの生は被災期間であると認識するくだりには、すでに楽観しはじめている己が鈍愚を殴られる。(叙)
    --「今週の本棚:『被災した時間 3・11が問いかけているもの』=斉藤環・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/08/102180.html


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覚え書:「つながる:ソーシャルメディアと記者 ネット上の知識を書籍化=石戸諭」、『毎日新聞』2012年09月22日(土)付。

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つながる:ソーシャルメディアと記者 ネット上の知識を書籍化=石戸諭

 今月末、一冊の本が書店に並ぶ。学習院大の田崎晴明教授(理論物理学)が書いた「やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識」(朝日出版社、1050円)だ。問題が多岐にわたる放射線について、一科学者が、何が分かっていて何が分かっていないかを、これまでの蓄積を踏まえて丁寧に書きつづった本だ。

 中身の紹介はここまで。私が注目するのは、出版されるまでの経緯だ。実は同書は既にインターネット上(http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/radbookbasic/)に無料で全文公開されており、修正点も田崎教授自身がツイッターなどで発信している。印刷することも自由にできるし、タブレット端末に取り込めば電子書籍として完成形で読める。わざわざ、紙での出版を考えたのはなぜなのか。編集を担当した朝日出版社第二編集部(ツイッター:@asahipress_2hen)に聞いてみた。

 担当編集者は、ネットにある「知識」を外に広げていくことを重視した。情報として一回読んで終わり、ではなく繰り返し読むことに堪えうるものを本にする。著者が書籍化を希望していることも後押しになった。ネットはつなげる環境が無いとアクセスすらできない。特別な機器を用意しなくても手に取れる書籍を通して基礎知識を整理したい。そんな被災者もいるかもしれない。何より有益なコンテンツをいろいろな方法で流通させることが大事ではないのか。ネットにも書籍にもあるという環境を整えることに編集者は意義を見いだす。社内から異論はでなかったという。
 ネットと既存メディアの共存はこうした形で進んでいる。ネットの言論空間では意見が近いもの同士で固まってしまい「知っている人は知っている」で議論が終わりがちだ。そこを離れて、ネット上で交わされる良質の議論を社会につなげていくことも、これからの記者や編集者の役割なのだろう。一冊の本から学べることは多い。【大阪社会部】
    --「つながる:ソーシャルメディアと記者 ネット上の知識を書籍化=石戸諭」、『毎日新聞』2012年09月22日(土)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120922ddm012070186000c.html

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/radbookbasic/

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アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。

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アマチュアリズムとは、文字通りの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。
 現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。そして、そうであるがゆえに、知識人はこう考える。もっとも専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵触したり、自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のありかたにも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格をもつのだ、と。さらに、アマチュアとしての知識人の精神は、わたしたちのほとんどが毎日無自覚なままおこなっている専門活動のなかにはいりこみ、それをかえることができる--もっともいきいきとした、ラディカルなものに。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、129-130頁。

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昨夜は、夕刻から25時近くまで、東北、東海道、中部、そして東京の友と快飲。
はじめての方も多かったのですが、何か特定の立場やものの見方によって制限されることなく、お互いに独立した一個の人間として、話し合う時間がもてたことに感謝です。

皆様、遅くまでありがとうございました。

個人的な事柄から社会的な問題にいたるまで、もういったいっどうなっているのやらん?ということが多く、考える余裕を与えない世相ですが、その襞に分け入っていく密かな挑戦というものを、また自分自身も継続していきたいなあと思います。

ほんと、皆様、ありがとうございました!!!

また、やりましょう!!!

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覚え書:「20世紀遺跡:近現代史をめぐる/26 福島県石川町・ウラン採掘場」、『毎日新聞』2012年09月19日(水)付。

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20世紀遺跡:近現代史をめぐる/26 福島県石川町・ウラン採掘場

 ◇幻の“原爆”開発
 太平洋戦争末期、アメリカは広島と長崎に原爆を投下し、非戦闘員を含む多くの人々を焼き尽くした。その蛮行は人類史に刻印されなければならない。一方で、大日本帝国も原爆開発を進めていた。福島県石川町はその最前線で、ウラン鉱石の採掘が行われていた。【栗原俊雄】

 東日本大震災で事故が起きた福島第1原発から南西におよそ60キロ。人口約1万8000人の石川町は、緑豊かなところだ。
 日本の原爆研究は1941年4月、陸軍航空技術研究所が理化学研究所(理研)に委託して始まったとされる。責任者の仁科芳雄博士の頭文字をとって「ニ号研究」と呼ばれた。44年7月、マリアナ諸島のサイパンがアメリカに占領されたことで、軍部は開発を急いだ。
 そのためにはまず、ウラン鉱石が必要だ。石川町は、戦前から多種多様な岩石、鉱石の産地として知られていた。
 45年4月から、石川中学校(現・学法石川高校)の3年生約180人が3班に分かれ、近くの飛行場整備とウラン鉱石の採掘に動員された。元小学校校長で当時14歳だった有賀究(きわむ)さん(81)の証言によれば、シャベルやつるはしで石を取り出し、もっこで運んだ。
 「炎天下でしかも腹が減っているのに、どうしてこんなことを……」と、不満を募らせる中学生たち。あるとき、軍刀を携えた将校が来て言った。「君たちが掘った石で爆弾を作る。マッチ箱一つの大きさでニューヨークを破壊できる」。有賀さんは「半信半疑だったけれど、とにかくがんばろう、という気になった」。
 しかし、東京はマリアナ諸島を基地とする米戦略爆撃機B29の度重なる空襲で灰燼(かいじん)に帰し、陸軍や理研の研究施設も被災した。仁科は、5月には原爆製造をあきらめていたという。しかし石川町での採掘は、敗戦の8月15日まで続いた。その後、米軍が鉱石や機器を持ち去ったと、地元では伝わっている。
 ウラン採掘場は町内に6カ所あったとされる。戦後は農地造成や宅地開発が進み、採掘場の遺構が残っているのは塩ノ平地区だけだ。
 町史編纂(へんさん)専門委員の橋本悦雄さん(63)が、現場を案内してくれた。作業当時、あたりははげ山だったが、今は木々が生い茂っている。それでも、当時の写真にみえる地形ははっきりと残っていた。
 橋本さんが大きな岩に線量計をあてると、ピーピーと音を立てて反応した。今でも放射線を発しているのだ。
 原爆を作るためには、ウラン235が10キロ、必要とされた。そのためには計算上、天然ウラン約1・5トンを集めなければならない。天然ウラン自体が希少であり、この時点で極めて困難だった。さらに天然ウランからウラン235を抽出するためには膨大な設備と資金、先進的技術が必要だったが、それは日本の国力をはるかに超えていた。
 それでももし、完成していたら、日本も原爆を使用しただろうか。「そのために開発していたのですから、使っていたでしょう。できっこなかったし、できなくて良かった」。有賀さんは、そう言った。
    --「20世紀遺跡:近現代史をめぐる/26 福島県石川町・ウラン採掘場」、『毎日新聞』2012年09月19日(水)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120919ddm014040009000c.html

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学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。

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ミシュレは、五一歳のとき、新たな人生(vita nuova)を始めた。新たな仕事、新たな恋愛を始めた。私は彼よりも年をとっている(この比較が親愛の情から出ていることはわかっていただけよう)が、私もまた今日、この新たな場所で、この新たな厚遇によって示された、新たな人生を歩み始めるのである。それゆえ私は、生きとし生ける者の生の力、つまり忘却に身をゆだねたいと思う。一生のうちには、自分の知っていることを教える時期がある。しかしつぎには、自分の知らないことを教える別の時期がやって来る。それが研究と呼ばれる。いまはおそらく、もう一つの経験をする時期がやって来たのである。つまり、学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。この経験には、輝かしくも時代遅れの名前がつけられていると思う。ここではあえてその名前を、まさに語源的意味の分かれ目において、劣悪感なしに採用することにしよう。すなわち、「叡智」(Sapientia)。なんの権力もなく、少しの知(サボワール)、少しの知恵
サジェス)、可能なかぎり多くの味わい(サヴール)をもつこと。
    --ロラン・バルト(花輪光訳)『文学の記号学  コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1981年、57-58頁。

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昨日は担当する後期の「哲学」講座の初日だったので、ロラン・バルトの「開講講演」を再読しました
※神学界隈ならロランじゃなくてカールを読めって話でしょうがw。

ロラン・バルトは所詮、文芸評論の二軍扱いでスルーされるフシがありますが、じっくり読むと、なかなか意義深いものがあると思います。

冒頭の一節は、バルトがコレージュ・ド・フランスに招聘された折り、その開講講義の末尾一節になります。

ちょうど最初の授業(ほとんどがガイダンスに終始してしまうのが今の大学ですが、それでも40分程度は何とか導入授業しましたが)、反応は、「面白そう!だけど難しいかも?」というアンチノミーがやっぱり多いですよね。

前者は好奇心が発露する感想であり、それと同時に提示された後者は、彼女たちがこれまで営為してきた既存の価値観が破壊されることへの恐怖だと思います。

もうなんども言及しておりますが、私自身は旧時代的教養主義orzな人間でありますし、大学は「建前」かもしれませんが、そのベースを鍛える「場」だと考えております。

だとすれば、大学で「学問」するということの特徴とは何かといった場合、まずはこれまでの「義務教育」の「学習」とは違うという認識を持つことではないかと思います。そもそも大学とは……これも「建前」と嘲笑われるかも知れませんが……「義務」で入学した訳でなく「志願」して入学し、学問しようという設定になります。

義務教育では教室や教科書でとりあえず諸学は「完成」するという設定です。これもひらたくその特徴の一つを指摘すれば、いわゆる基本的道具を揃える段階といってよいでしょう。言葉の運用、論理的精確さ、社会や自然への基礎的知識の習得……といった諸々を身につける訳ですから、そこでは詰め込みになってしまう精確があります。
※理念からすれば、ホントはちゃうやんけというツッコミは措きます

しかし大学で学問を習熟するとは、全くことなる性質を有しております。教室や教科書、参考書といったものは、ひとつのきっかけや意識づけに過ぎず、そこで得た示唆からどう展開し、どう教員や図書館を利用していくのか、ここに大きなウェイトがあると思います。そのことで自身の教養をカルチベートしていくという寸法だと思います。
※とはいえ、就職予備校と化した現実の大学教育は「キャリア教育」だの資格・試験への突破といったものを重視し、義務教育以上の「詰め込み」スタイルが全盛なのは承知しておりますが(涙

設定の違い、学ぶ意義の違いその意味で、これまでのスタイルに引きずられると「難しい」という抵抗感を抱くのも必然だとは思います。

しかし、その抵抗感をこえ、いわばエポケーして自由に挑戦していくことも、人間が学問するという意義では大事です。

その意味でバルトのいう「自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ」に注目したいと思います。

バルトはこれを教授する側から発言しておりますが、これは受け手の側も同じだと思います。私自身も、毎度、新しい学生さんを前にすると触発の連続で、これまで積み重ねてきた営為というものが木っ端みじんに砕け散る瞬間があり、「ああ、そういう発想もありか」などとビビることもあります。ですから逆も同じであるような柔軟な発想で取り組んでいくことこそ、学問が深まっていく秘訣になるのではないかと。
※もちろん、論理的整合性を無視するのではないのは言うまでもありません。

これまで身につけた知識や社会に対する構えというものをいったん「保留」にして、もう一度学び直すというのが「真理」への接近とバルトは解く。そしてこのことはスピヴァクのいうアンラーン(unlearn)や鶴見俊輔のいう「学びほぐす」という観点と同義かなと思われます。

これまでの身につけてきた既存の価値観や習慣、「まあ、そういうものだろう」というドクサをいったん「保留」し、「学びほぐす」挑戦をともにしてゆきたいと思います。そしてそれが哲学を学ぶ醍醐味もあります。

そのこで、当初は「面白そう!だけど難しいかも?」というアンチノミーは、「ほぉ、面白いなあ」になっていくと思います。


1月までの15回、どうぞ宜しくお願いします。

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覚え書:「異論反論 節目の年に日中関係が緊迫しています=木戸久枝」、『毎日新聞』2012年9月19日(水)付。

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異論反論 節目の年に日中関係が緊迫しています
両国関係と文化交流は別
寄稿 木戸久枝

 今月29日、日中国交正常化40周年を迎える。本来ならお祝いムードに包まれてもいいはずだが、実際には緊迫した空気が日中間に漂っている。
 11日、政府は尖閣諸島の3島をめぐる売買契約を地権者と締結し、国有化した。中国はこれに大きく反発し、中国外務省は国有化の撤回をもとめた。中国で行われる予定だった日本関連のイベントが、相次いでキャンセルされている。今後、中国各地で反日デモや日本製品不買運動などが激化することも予測される。
 なぜ、このタイミングで尖閣諸島を国有化する必要があったのか……。先を見据えての戦略というよりも、東京都の購入を前にドタバタとした形で、後先を考えずに国有化に踏み切った印象がぬぐえない。国有化を評価する声も多いが、果たしてどうなのか。
 40年前、父は特別な思いを胸に、この日を迎えた。中国残留孤児だった父は、1970年に帰国したあとも、育ててくれた養母への思いを抱きながら会いに行けず、もどかしさを募らせていた。ようやく迎えた国交正常化に際して、父はその喜びを爆発させた手紙を養母に送っている。
 「母さん、まずは日中国交回復のお祝いを言わせてください。1972年9月29日は日中両国民にとって忘れることのできない日になるでしょう。日中国交回復万歳!」
 個人で自由に行き来できるようになるまでには時間はかかったが、国交正常化を心から喜んだのは、父だけではないだろう。会いたくても会うことができない……そんな人々が、日中間には数え切れないほどいた。

経済的に関係深まる一方好転しない対日感情
 国交正常化後、日中関係は大きく変化し、日中間を行きかう人々の数は激増した。中国は目覚ましい経済発展を遂げ、今や世界第2位の経済大国となった。経済的にも日中は深く結びついている。
 一方、ことあるごとに問題が噴出し、日中間には深い溝があると実感させられる。近づいては離れる磁石のような関係、それが日中関係なのだろう。
 日本人の中国に対するイメージは、悪くなる一方だ。約1年間、この欄で、好転しない対中感情について書いた際、多くの反論をいただいた。予想はしていたが、嫌中感情を抱く人の多さに驚いた。
 今後、日中関係が悪化していくのか、それとも何かをきっかけに好転するのかはわからない。ただ、こういうときこそ、文化的交流、スポーツなどの交流は続けていくべきだと思う。中国では今後も反日的行動が起こるだろう。だが、それに対処する必要はない。国家間の問題と文化的交流は別であるという認識を、日本人ははっきり示し続けるべきだ。
 日中友好という言葉がすっかり有名無実化している。感情論に振り回されず、国家間の問題に左右されないことこそが、真の友好ではないだろうか。
きど・ひさえ ノンフィクションライター。1976年愛媛県生まれ。今月、デビュー作「あの戦争から遠く離れて 私につながる歴史をたどる旅」が文春文庫に。11月24日に東京・立川で、日中関係についての講演をする予定。
    --「異論反論 節目の年に日中関係が緊迫しています=木戸久枝」、『毎日新聞』2012年9月19日(水)付。

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南方は集合名詞として人々をとらえなかった。あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあいを重んじた

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 第一に、「地域」または「地方」に対する双方の感覚の差である。
 南方は、定住者の立場から、地域を見た。柳田は、農政学者として、農政役人として、そして旅人として地域を見た。南方は、地方にいて地方から中央を見、柳田は中央にいて中央から地方を見たともいえる。
 第二に、南方は、世界の、そして地球の一部としての地域(エコロジーの単位)を考えたのに対して、柳田は、日本国の一部としての(政治的単位)を考えた。
 第三に神社合祀反対運動において、南方が、地方官憲に対して、対決をおそれぬ精神でぶつかっていったのに対して、柳田は正面衝突をなるべく回避して隠微にことをはこぶように忠告した。
 第四に、南方が、外国の学者へも檄をとばして、国外の世論を結集しようとしたのに対して、柳田は、そのような行為は国辱を外にさらすものだと激しく反対した。南方は、今日のことばでいえば、国をこえた民間交流を射程に入れていたのである。柳田はこのことに関して、日本国家の外に出ることができなかった。
 第五に、柳田は、「常民」を造語し、それをかれの民俗学の中心においた(鶴見、『漂泊と定住と』八八-九〇ページ。色川、『柳田国男』、三四ー三九ページ参照)。
 南方は集合名詞として人々をとらえなかった。あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあいを重んじた。
 田辺で、南方が親しくつきあった人々の職業は、種々雑多である。
    --鶴見和子『南方熊楠 地球志向の比較学』講談社学術文庫、1992年、156-157頁。

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ちょと気になることがあって、南方熊楠論の「古典」といってよい鶴見和子さんの著作を再読。

上に引用したのは、日本の民俗学の父母といってよい、柳田国男と南方熊楠の「まなざし」の違い(そして眼差しの違いは「生き方」として形をとる)をまとめた部分です。

柳田国男をフルボッコするのは、鶴見さんも、引用者の私もその意図ではありません。
しかし、同じ「地上」で生活をしながら、どのようにみていくのかで大きくライフスタイルが異なってくるのは否定できないと思います。

何が?

というわけではありませんが、このところ「政治的単位」でのみ人を断罪するもの謂い、や「国家の外に出ること」のできないドクサのようなものが、大手を振って歩くさまを、みるにつけ、辟易とします。ですから自戒をこめて、その対比を紹介させて頂いた次第です。

人間とは、そうしたカテゴライズされた一側面として生きている以前に、ただ生きている「同じ」人間である原点を忘れた恫喝と断罪が大拍手をもって迎え入れられる。

その結果はろくなものではないことは歴史を振り返ればわかるものですが、単純化という「断定」は分かりやすいのでしょうか……ねぇ。

単純化という「断定」や「政治的単位」や「国家の外に出ること」ができないひとというのは、おうおうにして、ひとびとを「集合名刺」として捉え、「あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあい」を重んることができないパターンが多いと思いますが、かくありたいとは全く思いません。


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覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著
 (新潮選書・1785円)

 ◇原作と張り合う「偶像破壊」的な集大成
 『謎とき「悪霊」』は、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によって「古典新訳ブーム」に火を付けた亀山郁夫氏による、本格的な『悪霊』論である。ドストエフスキーのこの長篇については、本書と並行して、注目すべき仕事が二つ同氏によって行われていることにも言及しておく必要があるだろう。一つは、『悪霊』そのものの新訳(光文社古典新訳文庫、二〇一〇~一一年)で、今年の二月に刊行されたその「別巻」には、「スタヴローギンの告白」と一般に呼ばれる章の三種類の異稿の翻訳が収められ、詳細に比較対照されている。

 さらに今年の四月にはロシアを代表する文学研究者の一人で、とりわけ『悪霊』研究の第一人者として知られるリュドミラ・サラスキナと亀山氏の対話と質疑応答をまとめた『ドストエフスキー「悪霊」の衝撃』(光文社新書)という本も刊行されている。日本のドストエフスキー読みが、本場ロシアの第一線の研究者とこれほどがっぷり四つに組み合ったのも、これがおそらく初めてではないか。

 今回出版された『謎とき「悪霊」』は、この小説に関する亀山氏の精力的な仕事の集大成といった性格を持つ。ただし、作家の伝記、時代背景から、小説の細部の分析、そしてテキストの表層の下に隠された謎に至るまで、あらゆる面を丹念に検討して、総合的にまとめた本としてはまったく新しい著作である。しかも、一冊の書物として、何よりも面白い。亀山氏の研究の特色は、文献の博捜、執拗(しつよう)とも言えるほど細部にこだわったテキストの読みと、慎重な研究者がその前で立ち止まるような一線を踏み越える偶像破壊的なヴィジョンの結びつきであって、この『悪霊』論もその結果、原作そのものに張り合えるくらい魅力的な、独自の価値を持つ著作になっている。
 『悪霊』は、当時のロシアの革命家グループの中で起こった「リンチ殺人事件」をモデルにした作品であり、日本の連合赤軍事件をはるか百年前に先取りした予言的小説として有名だが、それ以外にもリベラリスト、人神主義者、民族主義者などの様々な声がにぎやかに議論を闘わせる。そして小説は登場人物たちの夥(おびただ)しい死によって彩られながらも、秘められた性的欲望や陰惨なユーモアといった要素にも事欠かず、そのあまりに雑多な要素を取り込んだ構造を見ると果たして成功作なのか疑わしくなるほどだが、それだけに多くの起伏とそこに秘められた謎に満ちている。最大の謎はおそらくスタヴローギンというカリスマ的人物と、彼が犯した少女陵辱についての「告白」をどう読むかということだが、亀山氏はその謎に徹底的に分け入り、少女が犯される場面に秘められたマゾヒスティックな性的欲望の問題を大胆にえぐり出した。

 日本における「ドストエフスキー読み」の伝統は長くて深い。亀山氏の『謎とき』に直接先行するものとしては、江川卓による『謎とき「罪と罰」』『謎とき「白痴」』『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』という三冊(いずれも新潮選書)があった。江川卓こそは、形而上(けいじじょう)学ないし人生論のどんよりとしたぬかるみから、小説テキストとしてのドストエフスキーの豊かさと面白さを救い出した功績者であった。それを受け継ぐ亀山郁夫は、先行者に比べると自分の思い入れを好んで語る点がより「ロマンチスト」だが、その分読者を引き込むヴィジョンの強さでは勝っているとも言える。ドストエフスキーはこうして生き続ける。古い謎が解かれるとともに、新しい謎を生みだしながら。
    --「今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120916ddm015070005000c.html


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覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『気仙川』=畠山直哉・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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今週の本棚:池澤夏樹・評 『気仙川』=畠山直哉・著
 (河出書房新社・3360円)

 ◇「あの日」で分断された二つの時間をたどる旅
 たとえば、入学試験の結果を見に行くとする。
 結果はもう出ている。紙に書かれ、なんどもチェックされ、貼り出されるのを待っている。つまりそれは既に事実だ。しかし受験生であるあなたが自分の目で見るまで、あなたにとってはそれはまだ現実でない。
 ある写真が撮られた。しかし現像とプリントが済むまでそれは見えない。潜像のままで待っている。そういう時間がある。
 去年の三月、あの震災の直後、一人の男がオートバイで東京から陸前高田に向かった。彼はその町の出身で、肉親がそこで暮らしていて、その安否がわからない。不安な宙づりの心理状態。
 旅は困難だ。
 雪が降っているからオートバイで進むのがむずかしい。
 福島の原子力発電所から放射能が漏れたと聞いたので、遠回りをしなければならない。関越道で新潟県に出て北上、山形県の酒田を通って秋田県に入り、そこから奥羽山脈を越えて太平洋側に向かう。
 オートバイの燃料が足りない。どこまで行けるかわからない。たまたま開いているガソリンスタンドは何百メートルもの車の列。それに腹を立てながら男は「こんなに腹の立ついまここが……現実であるわけがない」と考える。
 途中で電話連絡が入る。現地にいる姉からどこかの避難所に用意された衛星電話でかかってきた電話--「かあさんもねえさんも……」というところだけが聞き取れた。この姉は生きている。しかしもう一人の姉と母はどうなのか。
 男は写真家である。
 だがこれまで自分の記憶を助けるために写真を撮ることはなかった。郷里であり母と姉たちが住む地である陸前高田を作品にしようと意図して撮ったことはなかった。
 オートバイの旅の途中で、二人の姉は無事だが母はもういないということがわかった後、かつての偶然の機会になにげなく撮ってきた町のスナップに違う意味が生じてしまった。その風景はもう亡いのだから。
 三月十一日は我々の時間を分割した。あの日を境にして「以前」と「以後」は違う時代に属する。多くの人がそう感じたが、これほどはっきりあの日の前と後を表現した本は他に知らない。
 文章と写真を組み合わせるという手法が実に雄弁。「以前」にあるのは穏やかな、美しいとも言える光景を写した日常の写真で、その間々に切迫した旅を綴(つづ)る文章が挟まれる。ページを繰るごとに両者が交互に現れる。二つは決して混じり合わない。写真を見る時には心地よさを感じるが、文章はその心地よさが失われたという戦慄(せんりつ)を伝える。
 男には友人たちの支援がある。あの日の後で被災地の人たちが体験したボランティアの支援を先取りするものだ。オートバイでは無理だということが明らかになり、友人たちの車でリレーしてもらえそうというので、酒田のスーパーで食べ物や雑貨をたくさん仕入れて雪道を歩いている時、姉からの決定的な電話が掛かってくる。
 「この六日の間に僕が頭に描いていた、母にかんするさまざまな希望的情景、友人たちと分かち合っていた、動きを伴う無数の情景が、すべて偽りであったと、いま誰かが託宣を下したのだ」というくだりを読んで、人間はいつだってこういう形で運命と出会ってきたと思った。
 陸前高田に男が到着したところで文章と共に「以前」の写真は終わる。後には被災の惨状を写した「以後」の写真が延々と続く。もう文章はない。見事な構成であり効果である。
    --「今週の本棚:池澤夏樹・評 『気仙川』=畠山直哉・著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120916ddm015070018000c.html


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覚え書:「田中正造:再び注目される思想 足尾銅山事件と福島原発事故の類似性」、『毎日新聞』2012年09月17日(月)付。

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田中正造:再び注目される思想 足尾銅山事件と福島原発事故の類似性

 日本初の公害とされる足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した政治家、田中正造(1841-1913年)が亡くなって来年でちょうど100年。鉱毒事件と東京電力福島第1原発事故の類似性に着目し、正造の思想や生き方から東日本大震災後の日本社会の在り方を探ろうと改めて注目が集まっている。【足立旬子】

 物質上、人工人為の進歩のみを以てせば社会は暗黒なり。デンキ開けて世間暗夜となれり。

 亡くなる約1カ月半前に正造が日記に書いた言葉だ。

 菅井益郎・国学院大教授(日本経済史)は「鉱毒事件を通して正造は、近代とは何か、技術とは何かを徹底的に考え抜いた。技術の進歩にのみ頼っている社会は人間を滅ぼす。技術をコントロールするモラルや哲学が必要と警鐘を鳴らした」と解説する。

 電気が普及し始め、誰もが豊かになると期待した時代に、正造はなぜ現代文明を痛烈に批判したのか。

 近代技術の粋を集めたはずの足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の土壌を汚染し、農作物や魚に甚大な被害を出した。政府は鉱毒を沈殿するため最下流地の谷中村を廃村し、遊水池とする計画を決定。正造は村民とともに最後まで抵抗したが、1906年に強制廃村された。明治初期に約2700人いた村民は、遠くは北海道に集団移住を余儀なくされた。

 福島第1原発事故後の昨年3月下旬、京大原子炉実験研のメンバーとともに放射能汚染調査のために福島県飯舘村に入った菅井さんは「現代の谷中村ではないか」と感じたという。暮らしを豊かにするはずの文明が村民から日常を奪い、1年半たった今も多くの人が故郷に戻れない。

 銅生産も、原発も「国策」として進められた。菅井さんは「日本は近代化を進めるために、何か問題があっても責任をとらない構造を作り、それが今も続く。鉱毒事件も原発事故も政府は責任をとらず、企業も『国策に沿った』と、責任をとらない。被害を受けるのは弱い立場の人々だ」と指摘する。
  ◇   ◇

 鉱毒被害解決のため足尾銅山の「鉱業停止」を訴えた正造は、道半ばで亡くなった。命日の今月4日、生誕地、栃木県佐野市にある春日岡山惣宗寺(佐野厄よけ大師)で、百回忌の法要が営まれた。

 真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし=1912年6月17日の日記

 田中正造記念協会会長の岡部正英・佐野市長は、あいさつでこの言葉を取り上げ「人権や地方自治、平和への希求、環境を尊重する思想が凝縮されている」と述べた。

 同市の市民団体などは「田中正造没後100年記念事業を進める会」を結成。今年4月には映画祭で正造の闘いを描いた映画「赤貧洗うがごとき」(池田博穂監督)を上映した。

 民を殺すは国家を殺すなり 法をないがしろにするは国家をないがしろにするなり 皆自ら国を毀(こぼ)つなり 財用をみだり民を殺し法を乱してしかして亡びざるの国なし、これを如何(いかん)

 1900年2月、鉱毒被害を訴えるため、東京へと請願のデモ行進に向かった農民たちを警察や憲兵が力で弾圧。政府が明治憲法で保障された請願権までも踏みにじったことに、正造が怒りに身を震わせて国会で演説する有名な「亡国演説」のシーンでは、約500人の観客が見入った。

 同会では没後100年に向けさまざまなイベントを企画している。坂原辰男会長は「鉱毒事件の教訓が生かされないまま福島原発事故が起きた。自然や命、平和の大切さなど多くの教訓を次世代に引き継ぎたい」と話す。=日記、演説は「真の文明は人を殺さず」(小松裕著、小学館)より
    --「田中正造:再び注目される思想 足尾銅山事件と福島原発事故の類似性」、『毎日新聞』2012年09月17日(月)付。

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 ■ことば

 ◇足尾銅山鉱毒事件と田中正造
 明治時代、栃木県旧足尾町(現日光市)の足尾銅山から渡良瀬川に流れ込んだ鉱毒が下流域を汚染し、農業や漁業に甚大な被害を与えた。衆院議員だった田中正造は帝国議会で鉱毒問題を追及し、1901年、明治天皇に直訴を試みた。
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 ◆没後100年に向けた主な行事◆

<1>29日=「アースデイ田中正造」(午前10時、佐野市文化会館)。正造と環境問題をテーマにしたミニ学習会やワークショップなど。午後3時から小出裕章・京大助教の講演「正造さんと原子力」。1200円(前売り1000円)。高校生以下無料。

<2>10月4日=田中正造100年講座(午後7時、佐野市勤労者会館会議室)。NHK市民大学「田中正造」の上映と講義。無料。

<3>10月28日=「まんが田中正造」発刊記念シンポジウム(午後1時、佐野市文化会館)。原作者の水樹涼子さんの講演など。無料。

 ※問い合わせは<1><2>が「田中正造没後100年記念事業を進める会」の坂原会長(電話0283・23・2896)、<3>は佐野市教委田中正造翁没後百年顕彰事業推進室(電話0283・22・8832)。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120917ddm016040164000c.html


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「山から銅を採って、日本の国を豊にするのは、確かに大切なことでありましょう。だが、そのために多くの農民をぎせいにすることは、絶対に許されませぬ」。

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 こうして、二十年余りも足尾銅山の鉱毒と戦い、つかれ果てた正造は、一九一三年(大正二年)の八月二日、立ち寄った栃木県吾妻村の農家で突然たおれた。そして、心配して集まってきた人々に、正造は、
 「わしの命を気づかう代わりに、みんなが心を一つにして、鉱毒をなくし、谷中村を元どおりにする運動を盛り上げてくれ。このあれ果てた渡良瀬川の流域に、一本でも多く木を植えてくれ。」
 と遺言すると、およそ一か月後の九月四日、永遠にまぶたを閉じたのである。
 このとき、正造は七十一歳。その名前のとおり正直で、一身の利益や名誉をかえりみることなく、正義のため、人道のため、何者をもおそれず戦いぬいてついにたおれた。そうれつな生涯であった。
 死後に残された正造の持ち物は、すげがさと小さなづだぶくろだけで、そのほかには何一つない。翌晩、身寄りの者が集まってそのずだぶくろを明けてみると、入っていた物は、聖書一冊と日記が三冊、それにいくつかの小石と鼻紙が少しだけであった。
    --上笙一郎「田中正造」、樺島忠夫、宮地裕、渡辺実監修『光村ライブラリー16 田中正造ほか』光村図書出版、2003年、84-85頁。

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息子殿が寝る前に、いつも本を母親に読んで貰ってから寝るのですが、先週から読み始めたのが、上に引用した『光村ライブラリー』の一冊。もともとは国語教科書に掲載したお話を、児童書にしたもので、この「16」は小学生高学年向けです。

本人には、少し難しいようですが、こちらが与えたのではなく、「つくりもののお話ではなく、ほんとうにあったお話を読みたい」ということで自分自身で選んで買い求めたので、毎晩、楽しみにしながら読んでいるようです。

もちろん、ハナから「田中正造」が目当てで選んだわけではないと思いますが、この時期に「田中正造」という骨太な生き方をした先達を自ら学ぼうとする姿勢には、少し親ばかになってしまうといいますか、なんちゅうか、ほんちゅうか(←というネタが古いですね。

さて、正造の歩みは有名ですし、過去にも何度も言及しておりますので、ここでは詳論いたしませんが、特筆すべきところは、やはり、「自然」を大切にする、「人間」を大切にするということが彼のなかで別々の問題として存在するのではなく、密接に繋がった「生命」の問題として捉えているところではないかと思います。

ものごとを全体として捉え、そして実践できる人間へと成長するひとつのきっかけになればと親としては思う次第です。

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覚え書:「今週の本棚:伊東光晴・評 『ピグー 富と厚生』=A・C・ピグー著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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今週の本棚:伊東光晴・評 『ピグー 富と厚生』=A・C・ピグー著
 (名古屋大学出版会・7140円)

 ◇信念と思想の全体像をコンパクトに
 一九世紀末から二〇世紀にかけて、世界の経済理論の中心はイギリスであり、ケンブリッジ大学のマーシャルの『経済学原理』が広く読まれていた。このマーシャルについで、一九〇八年ケンブリッジの経済学の教授職についたのが、この本の著者A・C・ピグーである。ケンブリッジ大学での経済学の教授は一人だけで、しかもピグーはこの時三十歳の若さである。
 この訳書は、かれの教授就任講演と、最初の大著『富と厚生』(一九一二年)が収められている。前者はケンブリッジ学派を貫く考え、経済学は社会的に有意な結論を導くものでなければならない--ピグーの言葉を使うならば、“経済学は果実を求めるものである”という信念が述べられ、『富と厚生』は、貧困と失業の原因を究明し、社会改良のために役立てようというものである。今日の福祉経済学をめざすものであると言ってよい。
 「思想家は、その処女作に向って永遠に完成する」という。この『富と厚生』は主著『厚生経済学』(一九二〇年)となり、第2版、3版そして最終の第4版(一九三二年)となっていくが、同時に当初の一部が、『景気変動論』(一九二七年)、『財政の研究』(一九二八年)となって独立していく。邦訳のある『厚生経済学』第4版は、それゆえに、当初の研究の一部である。
 このことについては本書の訳者の筆になる解題にあるとおりであり、それがおおうのは、資源配分論、労働経済論、分配論である。ここからわかるように『富と厚生』は、ピグーの考えの全体をコンパクトに知ることのできる本だと言ってよい。
 全体は4編からなる。序ともいうべき第1編、「厚生と国民分配分(国民所得)」、ついで「国民分配分の大きさ」、その「分配」、そして「変動」--その本論ともいうべき第2編から第4編は、それぞれピグーの名で有名な「他の事情にして等しいかぎり、国民分配分の増大は経済的厚生をます。国民分配分の改善は……国民分配分の安定は……ともに経済的厚生をます」に対応している。
 分配の改善を本書でみよう。三つの手段が示されている。労働組合の役割??師マーシャルが、シドニー・ウェッブ等の活動に期待したのと同じである。政府の政策介入??具体的には最低賃金の設定と引上げ、そして世論による社会の変化。
 ピグーのこのような主張の背後には教授就任講演でいう「社会の福利において最近見られた大前進」が存在している。これは説明を要する。それは二つである。
 第一は一九〇八~九年に問題となった、蔵相ロイド・ジョージによって提出された予算案--累進課税の導入、相続税の増額、地価の上昇への課税--である。保守党はこれを予算案ではなく革命であると言った。
 第二は、一九〇九年の王立救貧法委員会の報告にあるウェッブ等の少数派意見である。多数派意見は失業対策を恩恵としていたが、少数派意見は政府のとるべき政策として、摩擦的・季節的あるいは偶発的失業に対しては、職業紹介所の充実等、労働市場の組織化で対処し、景気変動にもとづく失業に対しては、計画された公共投資によって対処すべきとしていた。ピグーはこの立場をとっている。
 この少数派意見の考えは、ケインズ革命以前のイギリスの経済学者の間では主流で、反対者は大蔵省に所属していたホートレーぐらいであろう。訳者が解題において、ピグーもケインズと同じく不況政策として公共投資政策を重視すると書いているのは正しい。問題はなぜ二人の対立がおこったかである。対立は、マクミラン委員会で、長期構造政策として、ピグーが賃金切下げに同意したことからおこったのである。
 『富と厚生』には、市場経済がもたらすものが、社会的に見て必ずしも合理的でないという“私的なものと社会的なものの矛盾”の視点はある。かれの言葉を使うならば、“私的限界純生産物”と“社会的限界純生産物”の不一致である。これを正すために、政策介入が必要となるのであるが、両者を乖離(かいり)する現代的要因は『富と厚生』では展開されていない。それは『厚生経済学』に到(いた)って、アメリカの鉄鋼生産の街ピッツバーグを例に、今日の公害問題が展開されるのである。外部負経済の登場である。
 私の体験を書けば、第一回経済白書の著者都留重人氏は、一橋大学の経済研究所長に移り、ゼミナール講義を行った一九四九年、ピグーを引いて公害論を展開した。これに参加していた私たちは、ケインズとは異なる新古典派批判をピグーのこの外部性に見出(みいだ)した。
 最後にピグーの社会科学の体系についてふれると、教授就任講演にあるように、倫理学が基礎にあり、それが示す善を実現する手段の学として経済学があるという点で、ケインズと同じであり、両者ともアリストテレス以来の西欧学問の正流の中にあることを付け加えておこう。(八木紀一郎監訳、本郷亮訳)
    --「今週の本棚:伊東光晴・評 『ピグー 富と厚生』=A・C・ピグー著」、『毎日新聞』2012年09月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120916ddm015070026000c.html


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書評:吉田敏浩『赤紙と徴兵―105歳、最後の兵事係の証言から』彩流社、2011年。

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最後の兵事係の証言から』彩流社、読了。一兵事係が密かに残した記録から実体を精査する一冊。村役人の兵事係は赤紙配達だけでなく、対象の資質・技能も平時から調査し、死後は戦死報告も。末端の苦悩から浮かび上がる恐るべき生-権力。決して過去の話ではない。

著者が取り上げる兵事係の西邑さん(105歳で逝去)。敗戦時、軍から資料の焼却命令が出ていたにもかかわらず処分を拒否。妻にもその事実を知らせることが出系無かった。百歳を向かえ公開。その貴重な資料を著者は丁寧に読み解き、現代への教訓として伝える。

赤紙は恣意的な抽選によって「選抜」されるわけではない。軍が周到な計画(だから平時からの調査がある)のもとで発行し、人々を戦地に送った。そして兵事係は、戦死公報の伝達だけでなく葬儀なども担っていた。余儀なくされた職員の苦悩は戦後もなお続く。

いったいどのような仕組みのもとに日本の民衆は日常の生活から切り離され戦場に送りこまれたのだろうか。本書の分析は、国民と地意識社会がどのように戦争へ組み込まれ、それが「日常」へと錯覚させられていったのか、克明に浮き彫りにする。おすすめです。了。

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覚え書:「日中歴史から考える 満州事変81年 (中) 成田龍一氏」、『毎日新聞』2012年9月16日(日)付。

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日中歴史から考える 満州事変81年 (中)
日本女子大教授(近現代日本史)成田龍一氏

政党政治、閉塞感に策無く
 満州事変(1931年)は、「大日本帝国」にとっての決定的な分かれ道だった。1920年代後半、普通選挙が実施されるにいたり、政党は人々の動向に目を向けるようになる。また政党内閣が定着して、既存の2大政党が対抗的に国のあり方をデザインしていた。たとえば民政党は「緊縮財政と国際協調」、政友会は「積極財政と対外積極外交」というふうに。ところが事変によって、帝国はそうした選択肢とはまったく違う方向へと向いてしまった。
 政友会は陸軍大将だった田中義一を党首に招く(25年)ことで、軍部と結び付こうとしたものの、米英との決定的対立は避けようとしていた。広い意味での協調外交だったと言える。ところが事変はその枠組みを壊してしまった。私は満州事変以降、アジア大平洋戦争への道を引き返すことは不可能だったと考える。時の民政党内閣(若槻礼次郎首相)は不拡大方針を決めた。これを貫くべきだったが、出先の関東軍に引きずられ事態を追認してしまった。
 当時の政党には、不拡大を貫き通すだけの可能性があったが、果たせなかった。あとは無産政党も含め軍部と組むことで自らの勢力保持、拡大を図ろうとした。
事変拡大の要因として、新聞メディアがこれをあおったという指摘がしばしばなされる。その通りであるが、もう一つかぎになったのは一般の人々の動向だ。不況が長引いて出口が見えずに、鬱屈感がまん延していた。その打開策として「満州」進出を待望していた。読者のそうした志向に応じた側面もあある。
 一つの国でも内実は複雑だ。中国も日本も全ての勢力や集団が戦争を望んでいたわけではない。社会に閉塞感がただよい、既成政党への不信感が広まると、物事を単純化したり、外部に敵を作ったりする論理が出てきて支持されやすい。そういう安易な思考の危うさを、満州事変は教えている。【聞き手・栗原俊雄】
    --「日中歴史から考える 満州事変81年 (中) 成田龍一氏」、『毎日新聞』2012年9月16日(日)付。

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偏狭主義ね。でも私が見付けた対処の仕方は--これはけっして、みなには勧めません--コスモポリタンになるのではなく、多くの家を見付つけるというものです。

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 --ちょうどこの話をしているのでお聞きします。現在、偏狭主義(パロキアリズム)を思わせるムードが爆発的に広がっていますか。イラク戦争後数ヵ月たって、大学ではどうですか。

 合衆国のことですか。大学ではそれほどでもないです。でもだれもわれわれには耳を貸しませんから。イラク戦争の後だけではありません。9・11以降、アメリカの愛国心は信じられないほどです。ところでご存知でしょうか。新聞で読んだのですが、私は愛国心のない奴(アンパトリオティック)なんだそうです。そのとおり。私には愛国心がありません。でもそれは、ジョンソン博士の定義を借りてのうえです--愛国心とは「悪党の最後の逃げ場」なのです。私の考えでは、「アンパトリオティック」は「オデシュプレミク」(自分の国(カントリー)を愛さない人物)と同じではありません。なぜなら、「パトリオティズム」は「ピトゥリブミボド」(父祖の土地)のような意味だからです。「父(パトリア)」に「主義(イズム)」がついた言葉なのです。となるとそれは、「デシュプレム」(自分の国(カントリー)にたいする愛)とはまったく違います。プレムというものはどんなものであれ、不合理なものです。さきほど法と正義について言ったのも同じことです。プレムはまさにあまのじゃくです--プレムは関心の葛藤、愛とは関心の葛藤なのです。政策の基礎に愛を置くことはできません。「デシュプレム」は「パトリオティズム」ではありません。
 思うに、合衆国でいま起きていることについて言えば、あのような想像力の死が見られるのははずかしいことです。想像力とは、他たる人たちに到達することができるものなのです。そう、マーティン・ルーサー・キングの名演説にあるように。一九六七年、リヴァーサイド教会でなされた「ヴェトナムを越えて」という演説で、キングは「私の敵と目されている人の人間性を想像することが必要だ」と言いました。もちろんそのとき、彼はキリスト教徒として語りました。私は敵を愛して敵のために死んだ人の名を借りて語ります。私はキリスト教徒ではないし、宗教的でもありませんが、キングの言葉の単独性の語り、証明不可能な語りとして解釈することはできます。そして私は、この演説から自爆行為などへ話をつなげ、その結果ポリー賞をもらいました。
 マケドニア人にはこう言いました。「愛国心は大変結構です。でもご存知でしょうか。ジョージ・W・ブッシュがあなたの政府を脅して、国際刑事裁判所への加盟を反故にするような文章〔合衆国との二国間協定。合衆国市民を国際刑事裁判所で訴追させないという内容〕に署名させたことを。ブッシュは「署名すれば共和国として認めましょう」と言ったのです。ですから、愛国心を脇に置き、それがいかに自分の弱みとなっているか考えてみてください」。ハワイの土着主義者にも同じことを言いました。「ええ、わかっていますよ。私は植民地に生まれました。あなた方ハワイの先住民が、自分の国家--真珠湾もあそこにある--での少数民族になっているという状況が、私にはよくわかります。ですからあなた方は、よくある根っからの土着主義者にはなってはいけません。自分が合衆国の一部である事実を使い、合衆国を粉砕しうる内側の批判勢力となってください。アメリカ人でありつづけ、土着主義者になってはいけません」、こういうふうにして私は、愛国心がいかに破壊的かを訴えます。愛国心(パトリオティズム)はデシュプレムとはまったく違うのです。

 --賛成ですね。最後の質問です。あなたはかならずしもインタヴューが好きではありません。インタヴューとは、いわば不意打ちで学ぶ方法であると、おっしゃることもあります。さて、この対談の最後に突飛な質問をさせてください。インタヴューとは、学術誌に掲載されるようなものではなく、みなの前で行うようなやりとりのようなものだ、複数の言語を行ったり来たりし、過去を回想できるようなものだと仮定してみてください--もしそうならば、一九六一年以来、このコルカタという都市では、コスモポリタンな感受性をある面で維持できていると思いますか。コスモポリタンな感受性のために、あなたはこの都市で居心地よく感じ、じっさい、この都市の知識人の生活--私はここに関わっており、ここで教えているからお聞きするのですが--が進んでいく道を楽観視できますか。それとも、あなたが一九六〇年代の初頭にインドを出たときから、コルカタはあまり変わっていないと思いますか。

 あなた方は私よりももっとコスモポリタンだと思います。ふざけて言っているのではありません。思うに、コスモポリタンという考えは、私の知的な趣味に合わないようです。でもこれにたいしてもまた、道徳的な立場は取りません。私という人間は……

 --でも偏狭主義にたいしては、道徳的な立場があるはずでしょう。

 偏狭主義ね。でも私が見付けた対処の仕方は--これはけっして、みなには勧めません--コスモポリタンになるのではなく、多くの家を見付つけるというものです。ある場所に入って、その場所に属するようになるわけです。ばかげた話があるんです。私は外国で道を聞かれるんです。ちょうど着いたばかりで、言語もわからないし、サリーを着ているのに。なぜでしょうか。私のなにかが、そこに住んでいることを示すに違いありません。私はそのことをとてもありがたく思います。いらいらするときもあります。なぜって、ジェスチャーを使って、なにもわからないと伝えなければなりませんから。それでも、それが私のやり方です。多くの家を見つけ、空気に根っこを下ろすというのが。コスモポリタンになるのではなくね。
 私に言わせれば、こんにち、このばらばらに分けられた世界でこういった状況におかれていれば、コスモポリタンな人物はいわば他とは違って見えます。私は道徳的な判断を下してはいませんが、自分は簡単にコスモポリタンにはならないと思うし、したがってコスモポリタンであることには躊躇を覚えます。あなた方のなかで私を外国で見かけた人がいたらわかるでしょう。ほんとうのコスモポリタンがするような会話が、私は上手にできないのです。いつも少し遅れているのです。そして心底思うのが、コルカタでは、一般的なエリートの知識人は、私よりもコスモポリタンです。

 --サリーを着ているのに道を聞かれるのは、ちょっとわかりませんね。人はすべからく間違った人物に道を聞いてしまうものです。

 私に道がわかることもありますよ。じっさい、ここに大学時代からの知人がいるかどうかわかりませんが、A・G・ストック先生のことを覚えていれば--先生と会ったのはインドを出てかなりたってからで、多分一九七五年ですね--いつ無くなったかは存じませんが、ちょうど先生が亡くなる前のこと--ラッセル・スクエアかどこかでのことです。一〇年ぶりにストック先生と会って、私と会うなり先生は「ガヤトリ、ガウアー通りってどこかしら?」。まさにこうなんです。「まあ、奇遇ね。なにをしているの」とかじゃないんです。先生にガウアー通りを教えてさしあげましたよ。だからときには、私も道がわかるんです。

 --ガヤトリさん(ディ)、もう時間がきたようです。素晴らしいお話をありがとうございました。

 こちらこそ、ありがとうございます。着てくださってありがとうございました。
    --ガヤトリ・スピヴァク(大池真知子訳)「家」、『スピヴァク みずからを語る 家・サバルタン・知識人』岩波書店、2008年、58-63頁。

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ちょっと自分自身も月末までほぼ締め切りやら何や等で缶詰状態できつい状況ですが、世界を取り巻く状況もかなりきつい状況ですね。

とくに日本をめぐる環境がきな臭いといいますか。

コメンタリーは残しませんが(……入力して疲れて果てたという話もありますが)、スピヴァクのうえの一節は、きちんと読んで置いたおいた方がいいと思いましたので、ひとつ紹介させていただきます。

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覚え書:「時流底流 中止になった写真展」、『毎日新聞』2012年9月15日(土)付。

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時流底流 中止になった写真展

 ニコンが運営している展示施設「大阪ニコンサロン」(大阪市北区)が現在休館中だ。本来なら、今月13日から19日まで、韓国人写真家の安世鴻(アンセンホン)さん=名古屋市在住=が撮影した元朝鮮人従軍慰安婦の写真展が開催されるはずだった。だが、ニコンは今年5月、東京と大阪で企画された写真展について「諸般の事情」を理由に中止を決めた。背景には、写真展に対して「反日的だ」などと中止を求める意見が、ニコン側に寄せられていたことがある。
 安さんからの申し立てを受けた東京地裁が、会場の提供を命じる仮処分を出したため、新宿ニコンサロンの東京展は開催(6月26日~7月9日)にこぎ着け、約8000人が訪れた。だが、ニコンの「良心」に期待した大阪での開催はかなわなかった。安さんは大阪展は仮処分の申し立てはしなかった。
 「新宿での写真展は来場者への持ち物検査やボディーチェックがあり、広報物の配布もできなかった。会場内(の様子)は記者だけでなく私も撮影できなかった」。今月9日、東京都練馬区のギャラリーで開かれたトークイベントで、安さんは東京展で厳しい制約があったことを明かした。
 この練馬区のギャラリーでは、「東京第2弾」として練馬区民らが中心となって安さんの写真展を開催した(8月28日~9月9日)。中国に取り残された12人の元慰安婦(8人が死亡)を01年から05年に撮影した36点を展示し、慰安婦問題などの議論もした。来場者は約1200人を数えたという。安さんは「大阪での開催に仮処分申し立てをしなかったのは、写真展を正常に行いたいという気持ちがあったからだ。写真家にとって発表の場がなくなるのは致命的だ。写真家を失望させることないような行動をニコンには望みたい」と話した。
 ニコンは取材に対し「『諸般の事情』以外の細かい理由はお伝えできない。東京での開催は裁判所の指示に従っただけだ」との説明を繰り返すだけだった。
    --「時流底流 中止になった写真展」、『毎日新聞』2012年9月15日(土)付。

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覚え書:「みんなの広場 オスプレイの安全性に疑問」、『毎日新聞』2012年9月13日(木)付。

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みんなの広場
オスプレイの安全性に疑問
高校生 17(岩手県花巻市)

 山口県岩国市にオスプレイが搬入された。地元の人のインタビューで「基地があるから仕方がない」と話しているニュースを見た。これは、地元の苦しみが凝縮された言葉だと受け止めた。積極的な姿勢で受け入れを容認するわけではないが、国同士の決定だから拒むことができない。やむを得ず現状を受け入れる、という意味と私は解釈した。
 仮に私の家の近くに、過去の試運転で死亡事故が多発している飛行機が日常的に飛ぶと想像しただけでも怖くて不安で夜も眠れない。第一、飛行機がバランスを崩すこと自体、致命的な欠陥商品だ。安全に飛行できることが十分に確認されるとか、欠陥部分が改善されるとか安心できて受け入れられるはずだ。
 オスプレイはこの後、沖縄の普天間飛行場に配備される計画だというが、一般の人たちが住む住宅の建ち並んでいる街中にある基地では一層、安全でなければいけない。海側を徹だけですまされるような問題ではない。
    --「みんなの広場 オスプレイの安全性に疑問」、『毎日新聞』2012年9月13日(木)付。

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覚え書:「記者の目:トルコなどへの原発輸出=花岡洋二」、『毎日新聞』2012年09月13日(木)付。

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記者の目:トルコなどへの原発輸出=花岡洋二

 東京電力福島第1原発の事故後、政権の座に就いた野田佳彦首相は、国内の「脱原発依存」を表明する一方で、国外へは原発を輸出する方針の継続を打ち出した。しかし、その輸出先の有力候補であるトルコとヨルダンの原発政策を現地で取材すると、反原発世論は強かった。反対世論は、受注後の工事遅延など経済的損失につながる危険があるだけでなく、二つの親日国家において対日不信を生むリスクすら伴うと感じている。
 民主党政権は、10年6月発表の新成長戦略で原発輸出を目玉に位置づけ、官民一体でトルコやヨルダンなどでの受注を韓国などと争っている。一方、内閣府原子力委員会は、国の原子力政策となる「原子力政策大綱」の改定作業を行っていて、原発輸出にかかわる政府の今後10年ほどの方針も近く決まる見通しだ。

 ◇福島事故以降 敬意が失望へ
 4月下旬、トルコの建設予定地シノップを訪れた。通訳をお願いしたセルハト・チャキルジオールさん(31)は、5月上旬に北海道電力泊原発が検査で停止すれば、54基(福島第1原発含む)の日本の原発で稼働しているのがゼロになると報道で知った。原発賛成でも反対でもなかったが「原発は必要ないのでは」と思い、トルコでの情報と議論の不足を痛感したという。
 予定地を案内してくれた反原発活動家のハレ・オウズさん(58)は「日本人はヒロシマ、ナガサキを経験したのに原発に反対せず、フクシマを経験後にシノップに原発を造ろうとするのか」と怒った。海外の人が日本人に「ヒロシマ、ナガサキ」を語る時、国土破壊から復興したことへの敬意が含まれることが多い。イスラエル占領下のパレスチナや内戦と大津波で荒廃したスリランカなどで「希望」と同義で語られるのを聞いた。こと原発問題ではこの敬意が失望へと転じているのだ。
 シノップに「ジャポン(日本)・マーケット」というスーパーがある。「日本」は高品質を印象づけるブランドだ。別の活動家のメティン・ギュルビュズさん(54)は店の前を通り過ぎながら「日本の原発が建つならば、町では日本製品をボイコットするという話になっている」と話した。
 シノップでは、原発に対する拒否感がもともと強く、市長は反原発を掲げて09年に当選した。地元が原発を誘致した事実もない。背景にあるのは、86年のチェルノブイリ原発事故と、事故後にトルコ政府が見せた「隠蔽(いんぺい)体質」だ。シノップでは、がん発症や死産が事故の影響だと信じる人に次々と出会う。政府は、がんの増加や事故との因果関係を否定する。だが地元の保健当局者は「甲状腺、前立腺、肺のがんは増えている。事故と関連付ける調査をしていないだけだ」と打ち明ける。
 政府への不信は、イスタンブールやアンカラなど大都市でも感じる。チェルノブイリ事故で放射能汚染が確認されてドイツが輸入を禁止したナッツを政府は全国の小学校に配った。それを食べたことを多くの人が覚えている。フクシマ直後にも、エルドアン首相が事故を軽視する発言をした。トルコは、1960年代から原発の建設を追求しながら、国内世論の反発などで、1基も保有していない。
 そんな中、「日本ブランド」をてこにして原発を推進したいという思惑も感じる。政府高官は技術力の高さを語る。トルコ原子力エネルギー庁(TAEK)のヤルチン元長官(78)は「フクシマが原子力のプラスイメージを破壊した。でも日本がヒロシマ、ナガサキを乗り越え、地震国であるにもかかわらず原発を54基も持っていることを強調し続けると、いずれ国民は忘れる」と話す。

 ◇日本ブランド 安易に利用
 シノップ中心部に、原発の安全性を啓発するエネルギー庁の施設があり、世界16カ国の原発を写真とポスターで紹介している。施設の説明係(38)によると、関西電力美浜原発の手前で人々が海水浴をする写真は「安全性の証拠」であり、大飯原発の外観の「美しさ」を強調しているという。しかし、発電の仕組みを図示したポスターの前で、私が「BWR(沸騰水型軽水炉)ですね」と質問したら、「技術的なことは分かりません」と申し訳なさそうに答えた。一部推進派が「日本ブランド」のイメージを原発売り込みのため、安易に使っているように感じた。
 疑念を持たれる原発輸出は長い目で見て日本の国益にかなうのだろうか。日本の「脱原発依存」が進めば再生エネルギーの技術力も格段に高まるだろう。ならば、再生エネルギー分野の技術移転を日本の長期の成長戦略の柱に据えるべきではないか。(エルサレム支局)
    --「記者の目:トルコなどへの原発輸出=花岡洋二」、『毎日新聞』2012年09月13日(木)付。

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http://mainichi.jp/opinion/news/20120913k0000m070113000c.html


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「手を汚したり体を使ったりする習慣」から始まる「文明の転換」

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 私が年来主張してきたことは、大型化・集中化・一様化とは対極的な、小型化・分散化・多様化の技術への転換である。太陽光発電、井戸水の利用、小川の急流を利用した小型水力発電、家畜の排泄物からのメタンガス発電、地熱や潮流を利用した発電、熱と電気を併用するコージェネレーションなど、さまざまなものが考えられる。これらは経済効率が悪いとして無視されてきた。その結果、私たちは電気やガスは大企業に、上下水道やゴミの処分は地方自治体に「お任せ」する体質が身についてしまった。スイッチひとつで操作できる便利さに慣らされ、手を汚したり体を使ったりする習慣を失ってしまったのだ。集中化すれば、急所をやられるとたちまち困難に遭遇するということを忘れて。
 小型化・分散化・多様化の技術体系の良さは二つある。
 一つは、個々の消費者が生産から廃棄まで責任を持たねばならないことから、必然的に自らの体を動かしたり、手を汚したりしなければならず、節約や節電が自然に身に付くという点である。我が家では太陽光発電を始めて一三年になるが、節電の習慣によって電気使用量が二〇%以上減少した。また生ゴミ処理をするようになって、市の清掃局に出すゴミを激減させることができた。そして何より、「お任せ」体質から脱却して自立した意識が持て、手をかけることによって自然に密着した健全な感覚を醸成した。欲望過剰な自分を反省することができるのである。
 もう一つは、天災など災害に直面したときの危機に対して強いことである。
    --池内了「文明の転換期」、内藤克人編『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』岩波新書、2011年、49-50頁。

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冒頭の一文は、世界平和アピール七人委員会の委員を務める天文学者・池内了先生の論評から。東日本大震災の発生から3ヵ月後、現地で活動を続けた医師やボランティア、そして作家や学者ら33名が、3・11の意味や復興のあり方などについて、それぞれの考えを綴った『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』との論集に収められた一編です。

震災以降、「文明論の転換」を迫る言説が多数見かけるようになりました。確かに「文明論の転換」は必要だと考えます。

「行き過ぎ」を反省し、「身の丈」にあった自身へとライフスタイルを転換してゆくことは、エネルギー量が云々、コストが云々、節約がどうのこうの、という「以前」に、「人間とは何か」を主軸においた「生き方」の問題であるからです。

これまでの「生き方」に「問題」があり、例えばそれが、メディアによって「踊らされていた」ものであったとしても、そのことを反省して、人間は自身の歩みを修正して一歩一歩前進してゆくことができる。

しかし、「文明論の転換」は、まさに混淆玉石の感があるのは否めない事実です。特に、居丈高な恫喝や、一種ストイックかつファッショな言説というのは少々気になります。

前者の代表は、石原慎太郎東京都都知事に代表される「天罰だ!」という恫喝であり(←正味、これこそ“天唾”)、後者を代表するのは、文明そのものを全否定した“自然に帰れ”というシュプレヒコール。

どちらも「人間」そのものの「反省」を促すというよりも、「人間」そのものの「全否定」というところが共通した特徴であり、「文明」の「転換」というよりも、「イデオロギー」の奴隷となれ!というアプローチ。

反省や見直しは確かに必要でしょう。しかし、こうした「極端」は本来注意深く警戒していかなければならないというのも事実です。

その意味では、アリストテレスの「中庸」や、仏教で説かれる「中道」、少し前の経済学で言えば、フリードリッヒ・シューマッハーの“Small Is Beautiful”などは、「リアリズム」と「理想主義」の交差するひとつの見本として参考になるかと思います。

さて……。
話が冒頭の抜き書きとずれていってしまいましたが、少し戻ります。

池内さんは論題通り「文明の転換」の必要性を論考で述べております。しかしこの「文明の転換」は、生活者の視座で洞察してみた場合、どこか私たち自身の生活と「かけ離れた」はるかかなたの空中戦にあるものではない、ということを丁寧に論証しており、読みながら、「ああ、なるほどね」と思った次第です。

例えば、現代文明の特徴とは何かといった場合、様々考えられるでしょうが、そのひとつは「大型化・集中化・一様化」であります。そしてその対極にあるのは何かと問うた場合、全否定ではない意味では、「小型化・分散化・多様化」への転換という選択肢が考えられると思います。

では、その「小型化・分散化・多様化」といったものは、どのように想定されるのでしょうか。社会を振り返ってみれば、電力の一元的供給から多元的選択へというトピックなども思い浮かぶと思いますが、そのことをもっと具体的に考えてみればどのようになるのでしょうか。

池内さんはその特色を2点挙げております。

すなわち、
(1)「一つは、個々の消費者が生産から廃棄まで責任を持たねばならないことから、必然的に自らの体を動かしたり、手を汚したりしなければならず、節約や節電が自然に身に付くという点である」。

(2)「『お任せ』体質から脱却して自立した意識が持て、手をかけることによって自然に密着した健全な感覚を醸成した。欲望過剰な自分を反省することができるのである」。


ライフライン、エネルギー、消費とゴミの問題、どの分野でもそうでしょうが、責任を「お任せ」することで「便利」さを「金」で買うのが現代社会です。

しかし、その責任を少し自身で引き受けた場合、様々な方途が考えられますが、スイッチひとつに委ねるのではなく、(1)「自らの体を動かしたり、手を汚したりしなければ」ならないわけですが、そのことで、(2)「『お任せ』体質から脱却して自立した意識」が到来します。

その結果、人間の考え方やライフスタイルが漸進主義的に変化すると同時に、その小水石を穿つ歩みが結果として「文明の転換」を必然たらしめていく……

石原さんをはじめとする居丈高な議論が人間の生活からかけ離れた「空中戦」だとすれば、池内さんの指摘は、生活のなかでの「改善可能な漸進主義」とその「文明の転換」論の特質を見とることが可能だと思います。

いま、必要なのはどちらでしょうか。私は後者であると思います。


http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1106/sin_k594.html

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覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『虫から始まり虫で終わる』=大澤省三・著」、『毎日新聞』2012年09月09日(日)付。

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今週の本棚:養老孟司・評 『虫から始まり虫で終わる』=大澤省三・著
 (クバプロ・2940円)

 ◇基礎研究が実を結んだ昆虫進化学の大成果
 基礎科学という仕事は地味である。たとえノーベル賞をもらうような優れた業績があっても、それがどんな仕事だったか、一般の市民にはたいてい中身が理解できない。あるいは自分には無関係だと思われてしまう。
 著者は名古屋大学、広島大学名誉教授。リボソームの分子系統進化学を打ち立て、分子生物学と進化学を結びつけるのに大いに寄与した研究者である。本書はその自伝で、自身の一生を淡々と振り返っている。一九二八年生まれ、八十三歳。
 この年代だと中学生の頃は戦時中で、学校の状況も、ある面ではいまとはまったく違っていた。そこは現在の学生には想像がつかないと思う。著者より数年、年長の世代であれば、すでに戦場に出ていた可能性も高い。評者は著者より九歳年下だが、終戦時に小学校二年生。知っているのは空襲とB29、バケツリレーや竹槍(やり)訓練だが、それが著者の年代だと勤労動員である。このあたりの世代は、年齢が数年違うと、状況がかなり違ってしまったのである。この頃のエピソードが二、三紹介されているが、短い記述がむしろさまざまな連想を生む。評者は事情が多少なりともわかる世代だが、そうした連想が生じない世代には、感覚が及ばない面があるに違いないと思う。戦争を語り継ぐというが、そういうことがどこまで可能なのか。だから戦争について、多くの人が「黙った」のであろう。
 本書の大部分を占めるのは、著者の現役時代の研究史である。ちょうど分子生物学の勃興期で、日本にもその影響が強く及んだ。生物のいわゆる遺伝暗号が次々に解けていった頃で、著者は時代的にその真(ま)っ只中(ただなか)にいたことになる。いまその過程をふつうの人が読んだら、記述自体がまさに暗号に見えるかもしれない。著者を含めた日本の研究者たちの寄与も大きかったが、なにしろ発表する科学雑誌も外国のもので、国内の実験設備などはいうに足らず、著者もニューヨークのロックフェラー研究所で本格的な研究を開始する。
 いまの社会はTPPなどといってモメているが、自然科学の世界ははじめからTPPであり、研究条件がいかに不利で不足であっても、すべては結果勝負。米国のこうした研究所で下働きをするのは日本人ではなく、中国人に置き換わったと、かなり前からいわれている。評者自身は米国に留学することもなく、比喩的にいうならTPPの下で国産の一次産業に従事したつもりだが、どちらにしても研究の面白さには変わりはない。べつに状況が研究の本質を左右するのではない。まして他人の評価などは、本当に自分の研究に集中していれば、どうでもいいことである。
 大学を定年になった後の著者の研究は、高槻の生命誌研究館で行われたオサムシの系統進化である。これは昆虫進化学の上で画期的な仕事だといっていい。それまでのリボソームの研究が定年でできなくなったので、著者は少年時代から深く関心があった昆虫を対象に選んだ。オサムシは日本の国内で地域的に多様化する典型的な例で、この虫を調べるだけで、古い日本の地史が理解できる。どんな仕事でもそうだと思うが、一つの仕事が多くの基礎の上に成立するものであることを、著者の研究がみごとに示している。オタクが悪いわけではない。ただその仕事が「生きる」ためには、広い基礎が必要である。そこを読み取ってくれれば、基礎研究を志す若者にとって、非常によい指針となる書物であろう。
    --「今週の本棚:養老孟司・評 『虫から始まり虫で終わる』=大澤省三・著」、『毎日新聞』2012年09月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120909ddm015070013000c.html


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書評:深井智朗『思想としての編集者 現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』新教出版社、2011年。

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 かつて思想家としての編集者は存在しなかった。教会や国家がその役割を果たしていたのである。しかし近代に起こった教会と国家の世俗化と表現の自由の獲得の歴史は、編集者が思想家であることを可能にし、それを求めるようになった。しかし他方で思想は検閲や正統性というものから切り離されたので、また大学やアカデミーの外での学問が可能となったので、思想が市場に持ち込まれ、そこでふるいにかけられ、商品化されるようになった。その時、著者と読者という関係ではなく、著者と市場、市場と読者を場介する編集者が登場することになった。第一部ではその問題を近現代のドイツ・プロテスタンティズムという歴史的サンプルを通して考察してみた。そこに大きな文化的、社会的、政治的転換のみならず、思想史的な転換が生じていることを考察したのである。それが「思想としての編集者」という視点であった。編集者の思想が、編集者の政治的立場が、思想史の問題になったのである。
    --深井智朗『思想としての編集者 現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』新教出版社、2011年、170頁。

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 20世紀プロテスタント神学の歩みを「編集」の観点から考察する労作。

 バルトやティリッヒも編集者(知のプロデューサー)がいなければ存在しない! 20世紀とは、学問が広く大衆に開かれていった時代である。この拡大は出版環境への多大な影響を与えることになる。「著者-読者」から「著者-編集者-読者」という構造の転換がそれである。編集者は単なる出版「元」ではなく、市場が必要とする思想を供給する、さらには時代を生成するコーディネーターへと変貌する。このことはバルトやティリッヒをはじめとする神学、ヴェーバーといった社会思想に留まらず、ナチスの「神学」流布に関しても同じである。

 まず冒頭で、ティリッヒを取りあげ、思想のテクストとその土壌となるコンテクストの相関関係(思想・作品と編集者の関係)を緻密に分析する。そして「編集者とは誰か」「誰が編集者か」として探究される。これが本書の構成である。情報知識社会においては、どのような優れた作品であろうが、それをプロモートする「媒介」が存在しない限り、影響力を行使することは不可能であろう。だとすれば編集者が市場に敏感になるのは必然であるし、ナチスの登場は「大衆の舌を満足させる」ソフィストが過去のものでないことも明かである。

 本書は、二〇世紀前半のドイツ・プロテスタンティズムの需要と神学の正当性を主たるテーマとするが、市場の動向が公議の出版活動全体を覆い尽くすとき、何が起こるのか。この問いかけは重く受けとめるべきであろう。その意味で本書は狭義の「神学議論」ではなく、極めてアクチュアルな現代批評と捉えるべきである。本書は単なる神学思想史に留まらないし、軽薄な知識社会論でもない。近現代のドイツ思想史を取り扱いながらも、人間の活動(アレント)と思想の関係を、豊富な事例から分析する。誰もが「編集者」の現在、根源的考察の本書は広く読まれて欲しい一冊である。

なお著者はアウグスブルク大学で哲学博士号を、京都大学で文学博士号を取得し、ヴィルヘルム帝政期とヴァイマール期の神学・哲学思想を専門に研究されている。既刊の二著、『超越と認識』(創文社)では中村元賞(2004年)、『十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム--ヴィルヘルム帝政期における神学の社会的機能についての研究』(教文館)では日本ドイツ学会奨励賞(2009年)を受賞されている。

(蛇足ですが)
 しかし、軽薄な現代批評だか、歴史「ネタ」的書籍が次々と流通する中で、ひさしぶりに、一般向けの「ほんもの」の本を読んだような気がする。

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覚え書:「今週の本棚:鹿島茂・評 『パリ解放 1944-49』=A・ビーヴァー、A・クーパー著」、『毎日新聞』2012年9月9日(日)付。

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今週の本棚:鹿島茂・評 『パリ解放 1944-49』=A・ビーヴァー、A・クーパー著
 (白水社・4410円)

 ◇大国に翻弄された仏秘史を綴れ織りに
 ベルリン陥落やスペイン内戦のノンフィクションで知られるイギリス人歴史家が夫人の作家アーテミス・クーパー(イギリス人外交官ダフ・クーパーの孫)と組んで書きあげた本書は、ナチ占領からマーシャル・プランによる戦後復興までの時代を重層的に描いたフランス現代史の傑作だが、類書と違うのはソ連解体でアクセス可能となった共産党の秘密文書の解読でこの時代のフランスがソ連とアメリカという二大国の思惑で翻弄(ほんろう)されていた事実を明るみに出したことだろう。
 一九四〇年六月一七日、ドゴール准将はペタン元帥がラジオで国民に停戦を呼びかけていたとき、対独戦継続のためロンドン郊外に着陸しようとしていた。これを境にフランスは「仏・仏戦争」の時代に入る。それはヴィシー政権とドゴールの「自由フランス」との戦いのこともあれば、ドゴール派と共産党との戦いのこともあったが、いずれも国際政治が大きく関与しており、単純なドゴール神話やレジスタンス神話では解釈できない。
 たとえば、ドゴールの「自由フランス」はローズヴェルト大統領から相手にされず、ルクレール将軍の戦車部隊はパリを目の前に足踏みを強いられた。「アメリカ人司令官たちは、市に向かって前進する意欲をまったく見せていない。(中略)しかし、ドゴールとルクレールにとってパリはフランスの要であり、ふたりは共産党率いる蜂起が新たなパリ・コミューンに帰結することを恐れていた。そうしたら、アメリカが介入し、AMGOTをフランスに押しつけてくるだろう」。ちなみにAMGOTとは占領地域連合軍政府の略号。ドゴールの懸念はアメリカが「自由フランス」を正式政府と認めず、軍政を敷くことだった。ドゴールはドイツや共産党と戦う以前にアメリカと戦わなければならなかったのである。
 ドゴールのこの突っ張りはフランスを戦勝国にすることに貢献したが、一方で戦後の回復を遅らせる原因ともなった。ドイツ軍がインフラ網を破壊したのに加えてヴィシー派官僚の追放でフランスは解放直後から敗戦直後の日本にも劣らない社会的混乱に陥ったが、ドゴールを嫌うアメリカは援助に本腰を入れなかったのだ。悪いことに一九四四年の冬は猛烈な寒さだった。「解放直後、アメリカ提供の小麦粉のおかげで白パンがふたたび姿を現し、自分でなんとかするよう臨時政府の手に任されたとたんにまた消えた。食糧不足はあまりにも深刻になったので、ドイツ支配下のほうが楽だったと言われたほどだ」
 社会的危機はFFI(フランス国内軍)を支配していた共産党にとって革命のチャンスだったが、革命は不発に終わる。フランス人を軽蔑していたスターリンが共産党に革命のゴーサインを与えなかったためだ。スターリンが「悪人」として唯一評価していたのはドゴールだった。ドゴールは英米を牽制(けんせい)するためモスクワに飛んでスターリンと会談し、フランス軍を脱走してソ連に逃げ込んでいた共産党書記長トレーズへの恩赦と交換にFFIの解体を要求して共産党軍事組織の骨抜きを図る。「モーリス・トレーズは、ドゴールの留守中にフランスに到着していたが、一一月三〇日の重要な演説でフランス共産党をバリケードに召集はせず、だが、血と汗と生産力増加と国家の統一を要求した」
 冷戦開始後、スターリンは方針転換してフランス共産党に革命活動を指示したが、EUの生みの親ジャン・モネの忠告に従ったアメリカがマーシャル・プラン(ヨーロッパへの無償援助)をもって全面介入し、フランスは危機を脱する。その結果、ドゴール派も共産党も退潮に向かう。ドゴールの復活にはアルジェリア危機を待たなければならない。
 しかしながら、本書の真の魅力は、以上の概略よりも、社会のあらゆる階層の人の日記や回想から作り上げた歴史の綴(つづ)れ織りにある。解放後の対独協力者やヴィシー派への粛清は酸鼻を極めたが、その主体となったFFIには似非(えせ)レジスタンスや対独協力者が大量に紛れこんでいた。悪名高い連続殺人鬼であるペティオ医師はパリ地下鉄駅で逮捕されたときには「FFIの制服を着ていた」。
 元国際旅団の共産党員カドゥは共産党系の義勇遊撃隊の少佐から聞いた恐るべき話を書き留めている。「リヨンの法廷で無罪とされたヴィシー派の囚人は、裏切り者に対する適切な処罰として拉致される。手足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)をはめられて、日没後、飛行場に連行され、機体の爆弾倉の爆弾の上に押しこめられる。そのあと、次の出撃中に『友人たち』の上に落とされる。(中略)不気味な暴露話だったのか、それともただ人を驚かすための話だったのか、カドゥにはわからなかった」
 スターリンの無謬(むびゅう)性を信じて「論理というものが知ったもっとも恥ずべき操作」を行った知識人の醜態も容赦なく暴かれる。サルトルやボーヴォワールとて例外ではない。
 パリは解放されたが、代償はあまりにも大きかった。フランスは今日でも解放の負の遺産をひきずっているのである。(北代美和子訳)
    --「今週の本棚:鹿島茂・評 『パリ解放 1944-49』=A・ビーヴァー、A・クーパー著」、『毎日新聞』2012年9月9日(日)付。

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覚え書:「時代の風 アジア・大平洋の未来=ジャック・アタリ」、『毎日新聞』2012年9月9日(日)付。

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時代の風
アジア・大平洋の未来
ジャック・アタリ 仏経済学者・思想家

「平和と成長」世界の利益
 私は30年前、世界の重心が「大西洋」から「大平洋」に向けて移動し始めたと指摘した。重心の移動は米西海岸に端を発し、今や大平洋をはさんだ対岸(アジア)にまで達している。
 アジア・大平洋地域は急速に台頭し、経済的に極めて重要な役割を担うようになっている。韓国、日本、中国だけでなく、ベトナム、インドネシア、オーストラリアも重要な国々だ。人口も多い。だが、この地域が米国に取って代わるスーパーパワーになる資質を持っているとは思わない。
 まず、アジアは分断されている。経済的には技術大国の日本を韓国が追いかけ、国内に分裂を抱える中国が続く。ベトナムは発展が遅れ、インドネシアは混とんとしている。ロシア極東では人口流出が進み、住民は中国人の割合が多くなっている。
経済的に欧州のような共通市場を創出する状況には遠い。地政学的に見ても、アジア諸国はバラバラで、軍事紛争の瀬戸際まで行くこともある。アジアは世界経済の成長の原動力だが、地域諸国が政治的、経済的に合意する条件を整えることができない限り、次の段階に進むことはできないだろう。


 中国と日本が良好な関係を持つことが重要だろう。それがアジア地域が発展するための鍵だ。欧州では仏独間にかつて幾多の戦争があったが、今日では真の平和がある。だが、日本と中国の間ではそうではない。
 フランスでは第二次世界大戦後、人々がドイツの自動車を買おうとしなかったが、今ではそんなことは全くない。だが、中国人は日本よりも韓国を好み、日本製品よりもたくさん韓国製品を購入する。韓国の映画や漫画も好まれている。
 一方、ソ連解体によって敵を失った米国の軍産複合体は敵を必要としている。考え得る敵が中国なのだ。中国が米国の敵となるには、日本を守るという口実を得る上で、日本が中国と敵対していなければならない。今後、米国が中国とその他のアジア諸国を対立させるための口実や紛争が増えていくだろう。
 8、9両日にロシア・ウラジオストクで首脳会談が開かれるアジア大平洋経済協力会議(APEC)は極めて重要だ。そうした事態を回避し、関係諸国が本当の意味で協力するための環境を整備する手段となり得るからだ。
 中国は広大な国土を抱え、成長への潜在力を持った国だ。他国と同様に民主主義へと向かっている。現在の体制はエリート支配の一形態だが、今後、民主主義の台頭に直面しながら持ちこたえることができるとは思われない。中国のように広大で不平等な国において民主主義の台頭は混乱を招くこともあり得るのだ。
 中国が安定し、統一されていることは誰にとっても望ましい。中国の軍事力を懸念する必要はない。なぜなら、中国は本当の意味で軍事大国ではないからだ。容態名海軍、空軍を持つにはほど遠い。
 中国の歴史を振り返る時、5000年前から帝国だったかのように語られるが、うち4000年は内戦だ。中国全土を支配下に収めた皇帝は極めてまれだ。世界の中心になるには(他国を征服して領土を広げる帝国主義的な傾向を持つことが必要だが、中国の場合そうではない。
 一方ロシアは(欧州とアジアという)二つの未来の間で迷っている。極めて欧州的であると同時に、シベリアの存在によってアジアにも高大な領土を抱えている。ロシアはこの地域に参加するために中国とのバランスを取ろうとしているが、ロシアにその方法があるかどうかは不明だ。
 中国がシベリアに進出したとしても、ロシアは大したことができないだろう。すでにロシアの多くの都市はアムール川をはさんだ対岸の中国から大きな影響を受けている。中国が必要とする天然資源を擁するカザフスタンは次第に中国に傾斜しつつある。
 「欧州の大国」となるか、「アジアの大国」となるか--。ロシアは選択を迫られていると思う。だが、「アジアの大国」となるための手立てがロシアにあるだろうか。アジア地域とロシアのアジア部(シベリア)への投資となるが、当面、ロシアは実施しないだろう。


 アジアが発展し続けるには共通市場に向かわなければならない。さもなければ中国は内向きになり、不安定化する。東南アジア諸国連合(ASEAN)は長期的には単一通貨、少なくとも共通市場を実現しなければならない。アジア諸国が保護貿易主義に走るなら極めて危険だ。
 欧州は「強いアジア」を必要としている。アジアが欧州製品を購入し、欧州に観光客を送り込んでいるからだ。アジアが発展すればするほど、アジアの給与水準が上がり、欧州製品の競争力が増すことになる。アジア・太平洋地域は世界経済の原動力であり続け、この地域が平和であることが全世界の利益になるのは明白だ。【構成・宮川裕章】
    --「時代の風 アジア・大平洋の未来=ジャック・アタリ」、『毎日新聞』2012年9月9日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:中村達也・評『反転する福祉国家-オランダモデルの光と影』=水島治郎・著」、『毎日新聞』2012年09月09日(日)付。

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今週の本棚:中村達也・評『反転する福祉国家-オランダモデルの光と影』=水島治郎・著
 (岩波書店・3360円)

 ◇「政労使」合意による働き方改革の「今」
 オランダといえば、何を連想するだろうか。風車、チューリップ、ゴッホやフェルメールの絵……。本書が取り上げるのは、それとはちょっと趣が異なる。日本の福祉と労働のありようを考えるための貴重なヒントを与えてくれる国。これが本書のテーマ。一人一人の労働時間を短縮して、より多くの人に労働を分け合い失業を防ぐワーク・シェアリング。その模範国としてオランダが話題になることがあるが、著者は、そうした取り組みが、どのような社会的合意形成の中で進められてきたのかを丹念にたどり、同時にどんな課題を抱えているのかに切り込む。
 外国研究者は、研究の対象とする国を手放しで礼賛することが間々(まま)あるけれど、著者は光と影の両面をしっかりと見定めている。本書の表紙と各章の扉には一七世紀オランダの画家、レンブラントの絵が配置されている。「光と影の画家」と言われるレンブラントの絵を置くことによって、著者は「オランダモデルの光と影」を解き明かすという姿勢を表明したのではあるまいか。
 一九八二年、石油危機後の経済停滞と深刻な失業に対処するために、政労使三者による、いわば痛み分けの合意が形成された。労働側は賃金抑制を受け入れ、使用者側はその見返りに労働時間の短縮と雇用を保証する。一方、政府は賃金抑制によって低下する生活水準を維持するために減税を実施する。この「ワセナール協定」を軸に進められた数々の政策のうち、二つだけを紹介しておこう。まずは、一九九六年の「労働時間差別禁止法」。これによって、賃金・手当・福利厚生・職業訓練・企業年金など、労働条件のすべてにわたって、パートタイム労働者はフルタイム労働者と同等の権利が保障されるようになった。
 もう一つが二〇〇〇年の「労働時間調整法」。これによって働く側は、自分の希望する労働時間を選択でき、使用者側は原則としてそれを受け入れなければならないこととなった。この二つによって、働く側は、ライフサイクルのそれぞれの時期に、例えば育児や介護や学習等のために、必要に応じて労働時間や労働日数を自由に選択できるようになった。こうした就労形態の多様化・柔軟化を通じて、女性も高齢者も失業者も含めて、いわば参加を通じて福祉国家の持続可能性を確保する「オランダモデル」が形成されたのである。
 オランダは、先進諸国の中では一人当たり労働時間が最も短い国であるが、それでいて、生産性は高い。例えば、国民一人当たりGDPも、就業者一人当たりGDPも、就業者一時間当たりGDPも、日本を上回っているだけでなく、先進諸国の中でも最上位クラスに位置している。まさにオランダモデルの「光」を象徴する成果といえよう。
 しかし、労働をめぐる様々な改革によって、女性を含む多くのメンバーを「包摂」してきたその一方で、実は「排除」されてしまった人たちがいる。移民・難民である。ヨーロッパの中でも、移民・難民に対して最もリベラルで寛容であったオランダが、最も厳しい移民・難民政策へと反転したのである。もちろん、移民・難民に対して厳しい態度を取り始めたのはオランダだけではない。多くのヨーロッパ諸国に共通してみられる方向転換である。そして著者は、それを現代の経済構造、脱工業社会の経済が要請する労働力の質・能力のあり方と関連づけて説明する。とすれば、それは「オランダモデル」の影というよりは、むしろ「脱工業社会」の影というべきかもしれない。
    --「今週の本棚:中村達也・評『反転する福祉国家-オランダモデルの光と影』=水島治郎・著」、『毎日新聞』2012年09月09日(日)付。

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http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0244660/top.html

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宗教者が俗権から爵位を受けて、それを名誉と感ずるとは何事であるか。

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「然るに此の仏法も、初生の時より治者の党に入りて其の力に帰依せざる者なし。古来、名僧智識と称する者、或は入唐して法を求め、或は自国に在りて新教を開き、人を教化し寺を建つるもの多しと雖ども、大概皆、天子将軍等の眷顧を微倖し、其の余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚しきは政府より爵位を受けて栄とするに至れり」。
(文二二四頁、旧文一九五頁、全一五六-一五七頁)


 「甚しきは」云々という表現は、前に出しました「奇観と云ふべし」といういい方と共通しています。皇室・政府が名僧知識に爵位を授けるなどということは当時の常識からみれば、「甚しきは」でも何でもない。一般の人は当り前だと思っている。これが福沢の目でみると、とんでもないことになる。宗教者が俗権から爵位を受けて、それを名誉と感ずるとは何事であるか。それぐらい宗教が俗権に対して独立性がなかったのだ、というわけです。ヨーロッパの歴史を読んでいたからこそ、こういう日本の光景が「甚しき」奇観と映ったのです。
 ただ、ヨーロッパの歴史を読んだからといって、こういう俗権と宗教との関係を問題にした知識人は同時期にはほとんどいません。その例外の一人が森有礼です。森は『日本における信教の自由』(明治五年アメリカで出版)という英文の意見書で、日本には良心の自由という観念がなかったと述べています。福沢がここではっきりいっていることも、ほとんど例外的といっていい指摘です。
 福沢がどこまで世界宗教としての仏教についての知識をもっていたのか、よく分かりませんが、すくなくとも原始仏教においては、こういう俗権の優位はありません。
 「出家の人の法は、国王に向かひて礼拝せず、父母に向かひて礼拝せず」という言葉があります。出家者は、国王の俗権としての首長としては認めるけれども、世間超越的な価値の立場から一般俗人と同じで、とくに「えらい」とは見ないから、礼拝しないのです。原始キリスト教と似ています。
    --丸山眞男「『文明論之概略』を読む(二)」、『丸山眞男集』第十四巻、岩波書店、1996年、173-174頁。

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丸山眞男さんの講義録ともいえる『文明論之概略』を読む』では、日本の宗教について福沢諭吉が言及している箇所についても精査されております。

これは丸山さん、福沢諭吉の両者に共通する問題式ですが、権力の偏重が社会というものをどのように特徴づけるのか、それが宗教の歴史的位置にシンボリックに表れるからです。
※福沢は文明論の概略で「日本文明の由来 二」の冒頭で宗教をとりあげ、丸山さんは「第十七講」、「諸領域における『権力の偏重の発現』 その一」として分析しております。

福沢は、まず、「宗教は人心の内部に働くものにて、最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存す可き筈なるに、我が日本に於ては即ち然らず」と「宗教」そのものの定義をしています。

そして、丸山さんは、それを受け「日本で『可き筈』と、ここでいえわれているような宗教の定義があったかといえば、すくなくもこうはっきりした形で良心の自由という定義があったとは思えません」と端的に指摘しております。

宗教は人間の内面性を代表し、精神的独立・精神的自由のシンボルとして存在する意義を福沢諭吉が「感得」していた点には驚くばかりですが、福沢のこのあとの叙述にも続く通り、日本宗教の歴史は、その大事なポイントを失念して展開してきたことは疑いもない事実です。

もちろん、それだけが宗教の全体性を代表するわけではありませんし、福沢や丸山さんに典型的に見られるように、ヨーロッパ世界の伝統と日本の伝統を対比することにものすごい意義があるなどとは思いません。しかし、対比云々以前の問題として、日本宗教の歴史とは、権力偏重で、個々の信仰者の「魂」の問題を軽く考えてきた伝統であり、そこが問題であることは否定できないとは思います。

ヨーロッパにおいては、俗権と教会は、それぞれが自律的な統治権を確立していくのがその歩みと大ざっぱには見ることができると思います。もちろん、世俗の独立、教会のトータル支配、そして宗教戦争の問題など、その文脈においては問題は山積しております。

しかし、互いに刺激を与えながら、相互に自律的な規範を生成してきたがゆえに、世俗の確立、そして精神性の独立というものも精錬されてきたことは間違いないと思います。

それに対して、日本の場合、特に仏教ということになるでしょうが(福沢も仏教を問題視しているわけですが)、その受容の経緯、国分寺の整備にみられるように、メインラインというものは、基本的に権力にそって展開されて来ました。ここに冒頭で指摘するような問題の因が潜んでいるのでしょう。

辛辣な福沢はそのことを次のように喝破しております。すなわち「仏教盛んなりと雖ども、其の教えは悉皆、政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明に非ずして、政権の威光なるが如し」、と。

丸山さんは、それが加速するのが……これは日本宗教史の定番になりますが……江戸時代になると捕捉し、宗教の自主・自立(自律)がないから、権力偏重に傾くという。宗教の自律性がないから「御定書百箇条」(幕府による僧侶に対する罰則規定)なども出てくる。

「自立の宗教、つまり世俗法に対して独立の教会法と教会政治というものがあるのならば、僧が戒律を破ったら教会(寺院)が裁くでしょう。自立していないから俗権が裁くことになる。社寺の自治法も一応ないわけではありませんが、幕府法・藩法のワクのなかで許され、『公儀之法』に従うのが原則」となる。

先に言及したとおり、受容経緯に見られるように権力偏重でありますし、その生成過程で、権力によって宗教の「威光」を増そうとするわけですから、必然といえば必然の筋道であることは明かです。

丸山さんは、この箇所の末尾を次のように締めくくっております。
※ちなみに次の節では「学問の権なくして却て世の専制を助く」。

「むろん日本宗教の大体の傾向の指摘としては、この段での福沢は鋭い太刀さばきはけっして見当ちがいではない、と私は思います」。

さて……。
福沢諭吉が『文明論之概略』を出版したのは1875(明治8)年のことになります。神道を中心に祭政一致を国家方針を示した「大教宣布」の発表が5年前の1870(明治3)年のことで、キリスト教の解禁は1873(明治6)年のこと。

しかしながら、解禁の前年に改組された組織・教部省による国民教化は1877(明治10)年まで続きます。当初神祇省による教導が試みられますが、失敗ののち、仏教者を交えた、キリスト教排斥といってもよい「国民教化」のただなかの時期に、『文明論之概略』が発刊されたのは意義深いものがあると思います。
※もちろん、その後は、「一定の留保付き」になりますが、信教の自由を「認めざるをえない」のと、教部省の運動の失敗・解体という流れですが。

何に意義深いと感じるかといいますと、通常、福沢諭吉は、『福翁自伝』の有名なエピソード(少年時代に、神社のご神体を石ころにかえた)にみられるように、宗教には淡泊で「功利主義的」なリアリストという認識があります。たしかにそれは当たっておりますが、それが福沢諭吉のすべてを代弁するわけでもないという点です。

福沢自身、確かに宗教に「淡泊」であったことは事実です。しかし、宗教そのものの実体を全くスルーするのではなく、冷静に見つめていたことも事実です。この辺りを失念してしまうと福沢を誤読してしまうでしょう。
※因みに、福沢は「宗教無用論」では全くないし、それが本来的に機能することには大賛成な人物です、念のため。

……などと書きつつ、大分錯綜してきましたがもとにもどりましょう。

福沢は日本宗教の権力依存構造を「鋭い太刀さばき」で腑分けしましたが、この後、日本宗教の流れはどうなるのでしょうか。

個々人の取り組みとしては、まさに真実回復の挑戦者たちが立ち上がることはいうまでもありません。しかしメインラインとしては、またしても偏重体質が加速していくのがその流れです。

無宗教としての「無関心」は「あり方」ですから別に問題はないと思います。しかし、「無関心」イコール「知らない」というのは、宗教の歴史だけでなく、様々な事柄についても同じかもしれません。

権力偏重体質というのは、権力の「威光」を借りて、自身の「承認欲求」を満たそうとすることで始まるのも一つの道筋でしょうが、「無関心」ってえいうのもまた同じかもしれません。

……って、うーむ。
また書き直しますわ。

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覚え書:「今週の本棚:池内紀・評 『私はホロコーストを見た 上・下』=ヤン・カルスキ著」、『毎日新聞』2012年09月09日(日)付。

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今週の本棚:池内紀・評 『私はホロコーストを見た 上・下』=ヤン・カルスキ著
 (白水社・各2940円)

 ◇世界に届かなかった「虐殺」真実の証言
 ヤン・カルスキは本名ヤン・コジェレフスキ。一九一四年、ポーランド中部の工業都市ウッチの生まれ。大学で法学と外交学を専攻、優秀な成績で卒業後、ポーランド軍予備士官学校、そのあとスイス、ドイツ、イギリスに留学。ワルシャワにもどり、外務省第一級職員として同期トップで正式採用。将来を約束された俊才だった。
 「一九三九年八月二十三日、わたしはとても愉快な夜会に招かれていた」
 上下二巻、六〇〇ページ余の記録の書き出しである。ワルシャワ駐在ポルトガル大使の息子の主催。おいしいワイン、美しい女たち、ワルツやタンゴ、選ばれた若者たちの陽気なパーティ。だが、その夜にすべてが暗転する。秘密の動員命令により所属部隊に集結。九月一日、ドイツ軍、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。十七日、ソ連軍、ポーランドに侵攻。独ソ不可侵条約の秘密条項により、両国でポーランドを分割した。
 「事件は理解の限度を超えていて、わたしたちから意思というものをすべて奪ってしまった」
 いまやポーランド軍最高司令部もポーランド政府も存在しない。ポーランドそのものが消え失(う)せていた。「二十日間でこの変わりようは!」
 敗北、ソ連抑留、捕虜交換と脱走、荒廃のポーランド--章名は歴史的経過を告げるとともに、奪われた「意思」を取りもどす過程である。元ポーランド外務省の優等生が、たくましいレジスタンスの闘士に変貌していく。上巻の終わりは、ゲシュタポの拷問、病院にて、救出。全体の最終章は「世界に向かっての証言」。
 まさに世界に向けての証言として、この貴重な実録が生まれた。一九四四年のわずか数カ月のこと。ポーランド亡命政府から密使としてアメリカへ派遣され、滞在先のニューヨークのホテルで書いた。ヤン・カルスキは三十歳になったばかり。頼れるのは、ほとんど自らの記憶だけ。
 そのような状況で、これを書き上げた強靱(きょうじん)な精神力に驚く。当事者に被害の及ぶことを恐れ、しばしばカモフラージュをほどこした。アメリカの出版社は文体にまで介入してくる。連合国とともに戦っているソ連批判は許されない。その上で真実性を失わず、本来の証言者の役割を果たすこと。もののみごとにやりとげたのは、青年が一身におびていた強烈な使命感だったにちがいない。
 ヤン・カルスキは二つのことを克明に語っていく。一つは祖国ポーランドのこと。地図から消し去られたが、社会総体の支持を受けた亡命政府、国内にのこる政党代表、レジスタンスという戦闘軍団、すべてにおいて権威ある民主国家であること。もう一つは、ポーランドにおいて歴史上類をみないホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が進行していることの告発。彼はワルシャワのユダヤ人代表の要請でゲットーに入り、また看守になりすまして絶滅収容所の一つをつぶさに見た。
 どちらの証言も「世界」に届かなかった。アメリカ、イギリスとも複雑な政治的思惑からユダヤ人救済に手をかそうとはしなかったし、戦争終結とともにポーランド亡命政府を無視して、親スターリン派によってワルシャワに樹立された傀儡(かいらい)政府と国交を結んだ。
 以後、ヤン・カルスキは四十年に及ぶ沈黙に入り、つましい大学教授として生きた。いちどは忘れられた記録が、詳しい注・解説つきで現われるのは二〇一〇年であって、訳書はそれによる。いうまでもないことながら、真実を知るのに遅すぎるということはない。(吉田恒雄訳)
    --「今週の本棚:池内紀・評 『私はホロコーストを見た 上・下』=ヤン・カルスキ著」、『毎日新聞』2012年09月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120909ddm015070019000c.html

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そして生き甲斐などと、ひと口に言えば大変なものも、仔細に眺めれば、こうしたひとつひとつの小さな生活の実感の間に潜んでいる

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長い間勤め人として暮らしてきたので、やめるには相当の決心が必要だったが、もともと頑健とはいえない身体で、会社勤めと小説書きを兼ねる生活は、そう長くは勤まるまいという予感があったので、そう深刻には悩まないで済んだ。
 しかし長年の生活習慣を、一ぺんに変えるというのはなかなか大変なことで、当座私は芒然と日を過ごしたりした。人はその立場に立ってみないと、なかなか他人のことを理解できないものだが、その当時の私は停年になった人の心境が少し理解できた気がしたものである。
 われわれの日常は、じつに多くの、また微細な生活習慣から成り立っている。そして生き甲斐などと、ひと口に言えば大変なものも、仔細に眺めれば、こうしたひとつひとつの小さな生活の実感の間に潜んでいる筈のものである。長年の生活習慣を離れて、新しい生活習慣になじむということは、私のような年齢になると、そう簡単なことではない。
 多分そういうとまどいのせいだろう。勤めている間は、会社をやめてひまが出来たらあれも読み、これも書きいろいろと考えるところがあった筈なのに、それではその後何か計画的な仕事をしたかとなると、どうも漫然と流されて一年経ってしまったような気がする。しかも会社勤めをやめたらひまが出来るものと信じこんでいたのに、意外にそのひまがない。身体は楽になったが、精神的にはだらだらといそがしい日が続いている。
    --藤沢周平「あとがき」、『冤罪』新潮文庫、昭和五十七年、419-420頁。

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疲れたときとか、もうだめだなぁ~と思うときに読み返すのが、藤沢周平さんや池波正太郎さんの時代小説です。

時代小説と言えば、まあ、「現代の人間が過去を舞台に『創作した』“お話”ですよね!」って言葉を耳にすることがよくあります。

もちろん、そういうものも存在するとは思いますが、簡単にそう片づけてしまうことほど「お花畑」はないのも事実であると思います。

藤沢さんや池波さんたちが、生活の中で汗を流し、食に希望の灯火を点火され、不正に対する怒りを忘れず、人間を愛し続ける中で、生命をすり減らすように、その思念を「言葉」にかえていった訳で、そこには創作というカテゴリーや時代という制約に制限されない、何か普遍的な営みを感じてしまうのは僕だけではないでしょう。

さて……。冒頭に紹介したのは藤沢さんの初期短編小説集の「あとがき」です。直木賞を受賞した(1973年)の翌年から3年の間に発表した作品群になります。

氏自身が言及している通り、ちょうど、勤め人と作家の二重生活を辞めた時期にも重なりますが、注目したいのは、次の一節です。

「われわれの日常は、じつに多くの、また微細な生活習慣から成り立っている。そして生き甲斐などと、ひと口に言えば大変なものも、仔細に眺めれば、こうしたひとつひとつの小さな生活の実感の間に潜んでいる筈のものである」。

いわゆる「青い鳥」というのはどこにいるのかといえば、結局は自身の生活のなかに潜在しているということ。

だからでしょうか……。

藤沢さんや池波さんの作品に眼を通すと、大文字の政治文化とは違うけれども、そして生活への後退とも違うけれども、この世でもういちど、「挑戦しよう」というのが私の感慨です。

……って私だけではないのだとは思いますが。。。

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覚え書:「ひと 福岡教育大講師になった韓国人視覚障害者 韓星民さん」、『毎日新聞』2012年9月8日(土)付。

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ひと 福岡教育大講師になった韓国人視覚障害者
韓 星民(ハン スンミン)さん(41)

 「視覚障害者教育の支援に役立つけんきゅうがしたい」。20年前の来日後、目に合うルーペとの出合いで生活が一変し、支援機器の重要性を実感した経験がそう語らせる。今春出版した「情報福祉論の新展開」(明石書店)で、機器開発の技術者とユーザーの間に立つ人材の必要性を説き、8月に福岡教育大特別支援教育講座の講師に就任した。来月から始まる授業を前に、「指導技術はもちろんだが、障害当事者のニーズを理解できるニーズを理解できる学生を育てたい」と意気込む。
 中学生の頃、緑内障で弱視に。日本でしんきゅうの国家資格を取るために来日し、言葉の問題を理由に入学を渋る京都府立盲学校に3日間、通い詰めて説得した。日本語は独学。使い始めたルーペで漢字を一から覚えた。異国での国家資格取得に自信を深め、夢だった大学に進学。心理学研究者を目指して大学院修士課程まで進んだが、能力の限界を感じて視覚障害者向けの支援機器メーカーに就職した。だが、博士号を持つスタッフの姿に刺激を受け、再び研究者の道へ。立命館大大学院で障害学を学び、昨年、博士号を授与された。
 メーカー時代、録音図書再生機などの開発に携わったが、ほとんど売れなかった。大学院で学んで、理由が分かった。視覚障害者が抱えるさまざまな思いをくみ取れていなかったと。だから、「障害者と言っても、いろいろな人がいて、一人の人間として接することが大切だと学生に伝えたい」と話す。(文・佐木理人 写真・野田武)

韓国・釜山市近郊で医師の長男として生まれる。09年に日本の永住権を取得した。八丈島など離島巡りが趣味。
    --「ひと 福岡教育大講師になった韓国人視覚障害者 韓星民さん」、『毎日新聞』2012年9月8日(土)付。

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書評:坂本義和『人間と国家 ある政治学徒の回想』岩波新書、2011年。

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坂本義和『人間と国家 ある政治学徒の回想』岩波新書、読了。戦後日本の進歩的知識人の一人で国際政治学をリードしてきた著者の、上下二巻にわたる自伝的回想。中国で生まれ戦中日本で教育を受けた氏は、国家とどう向き合うかが課題だった。その格闘の思想形成歩みが丁寧に叙述されている。★4

坂本氏の父は上海の東亜同文書院の教授。少年時代は様々な外国人に囲まれて暮らした。氏の名前も「義和団」に由来するという。中国民衆への愛着と軍部に対する嫌悪感を暮らしのなかで身につける。ここに氏の「国家権力の脱神話化」の原点が存在する。

高坂正堯氏との論争についての言及もある。面談は実際にあったようで、東大近くの喫茶店で話し合いを3時間したそうな。高坂氏が空襲を経験していない点が、氏の上海での壮絶な戦争体験と対照的(負傷兵の死に行く光景)。両者の違いは戦争体験に由来する。

岩波書店のmoreinfo http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1107/sin_k599.html

その人間がどういう経緯でなにがしかの思想を懐くのか。その経緯を学ぶことのできる素晴らしい自伝です。了。

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覚え書:「遊覧・もうひとつの現代史 東京都江東区亀戸周辺=苅部直」、『毎日新聞』2012年9月5日(水)付。

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遊覧・もうひとつの現代史
東京都江東区亀戸周辺
苅部直

追悼碑と記念碑
 この9月1日は、関東大震災が起こってから八十九年となる日。ぞろ目の八十八と切りのいい九十との間の地味な間合いではあるが、この震災で大きな被害を受けた亀戸近辺に行ってみようと思いついた。
 それというのも、昭和の戦前から戦後にかけてジャーナリズムで活躍した社会学者、清水幾太郎の震災に関するいくつかの回想記を、前から興味ぶかく読んでいたからである。最近ちくま学芸文庫で刊行された『流言蜚語』にその一部が納められているが、そのころ清水家が住んでいたのは柳島横川町、亀戸天神から横十間川をへだててすぐのあたりであった。
 震災のとき、清水はまだ旧制の中学生である。その数年前に家業が傾き、日本橋区薬研堀町(現、東日本橋)から転居したのであった。商家が古くから並んでいた下町から「場末」への、都落ちのような気分だったという。柳島横川町には、明治時代以降、近辺に立ち並んだ工場を目あてにして、地方から流入した貧しい労働者が生活する場所であった。震災によって自宅が全壊したあと、清水一家は工場廃水のたまった泥沼を通り、天神橋を渡って川をこえ、亀戸の方へ避難している。
 もしも橋が落ちていたら、大火にまきこまれて死んでいたと清水は述懐する。いまその近辺を歩いてみると、それほど車がたくさん通るわけでもないのに道幅がとても広い。大震災のあと、地区改正が徹底して行われた痕跡であろう。
 また、どこでも道が上り坂になったあとで橋を渡り、川をこえると下り坂になる。もともと地面が低いので、橋は川面を飛びこえるような格好になるのである。関東大震災のとき、大津波が来るというデマが流れたのも、現地に立ってみるとその不安を実感できる。
もう一つ、震災時にこの地域を襲ったデマは、朝鮮人や社会主義者が破壊活動を行っているというものであった。そのせいで、この近辺でも多くの朝鮮人や中国人が殺傷されているが、なかでも有名なのは、日本人の労働組合活動家十名が兵隊によって殺された亀戸事件である。
 付近にあった紡績工場は、大正時代にもりあがった労働運動の一大拠点でもあった。もちろん、パニック状態のなかでそうした人々を犠牲にしてしまう心理は、想像で追体験しようとも思わないのだが、当時の官憲や住民にとって、不穏な活動が渦まく地域という印象があったことも、おそらく確かなのだろう。
 亀戸事件の現場である警察署の跡地は、いまや古びた商店街であり、事件の跡を示す掲示などはない。代わりに近くに浄心寺の境内に「亀戸事件犠牲者之碑」がある。事件の追悼実行委員会が1970年に建てたもので、いまでも毎年、追悼集会が行われているそうであるが、その存在を示す説明板ば外にないので、前もって知っていないと分からない。追悼碑それ自体はきれいに掃除され、ひっそりとたたずんでいる。
 今回はさらにもう一つ、近代の石碑を訪ねてみた。藤の花で有名な亀戸天神の境内にある「中江兆民翁之碑」である。自由民権運動を担ったこの思想家の、おそらく七回忌を記念して、板垣退助や大隈重信らが建てた。大きな石碑で、みずからの葬儀も拒否する唯物論者だった兆民が見たら、苦笑するのではないか。
 しかし当人は、自由と人権の普遍的な理念を日本に根づかせようと格闘し、差別された人々にも寄り添った人物である。その記念碑があるすぐそばで殺害事件が続発するとは、何ともいやな気分になる皮肉である。
 兆民の碑は亀戸事件の追悼碑と同様に、現地に案内板があるわけでもなく、亀戸天神のウェブサイトにすら紹介されていない。しかし日本の近代の光と影をともに知るよすがとして、その存在がもっと知られていいと思う。(かるべ・ただし=東京大学教授、日本政治思想史)
    --「遊覧・もうひとつの現代史 東京都江東区亀戸周辺=苅部直」、『毎日新聞』2012年9月5日(水)付。

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『テロリズム』とは、自分の国以外のものがとる行為についてかぶせる言葉だ

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 「テロリズム」という言葉の使い方を彼(引用者注……ノーム・チョムスキーのこと)は分析して、国家権力の責任者が、自分たちの側の活動について、この言葉をかぶせないという特色をあげる。
 もともと、テロの支配という言葉は、フランス大革命について使われる。しかしそれは後の時代に定着した用例であって、フランス大革命の推進者たちは、自分たちがテロリズムを実行しているとは思いはしなかった。
 ナチスも、自分たちがしていることを、テロリズムとして特徴づけることをしなかった。
 二度の大戦において、ヨーロッパ諸国の支配層は、自分たちの方法をテロリズムとは言わなかった。
 そしてアメリカ合衆国も、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争に際して、自分たちの方法をテロリズムとは言わない。もともと、その前から、アメリカ合衆国がラテンアメリカに対して用いている計画的暴力行為をテロリズムと呼んだことはなく、アメリカ合衆国国民は、自分たちの国がテロリズムを実行しているとは考えなかったし、そう言いもしない。
 「テロリズム」とは、自分の国以外のものがとる行為についてかぶせる言葉だ。
    --鶴見俊輔「監修者あとがき ノーム・チョムスキーについて」、鶴見俊輔監修、チョムスキー『Noam Chomsky ノーム・チョムスキー』リトル・モア、2002年、158-159頁。

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ちょとすいません。このところ割と締め切り関係の案件の山積と、体を動かし時間を圧迫するリアルな仕事も忙しく、ちょとしたことだけしか言及できませんが、お許し下さいマシ。

2011年9月11日の同時多発テロ事件の翌年、チョムスキーの講演、質疑応答、インタビューをまとめた本の解説からなのですが、この解説が監修者・鶴見俊輔さんの手によるものです。

そのこと自体にも瞠目するのですが、半世紀近く前のヴェトナム戦争の頃、詩人の谷川雁が東京にチョムスキーを招き、「谷川雁は機転のきく男だった。びっしりつまった予定表をかえて、急に私に電話してきて、チョムスキーと食事をする機会をつくった。チョムスキーと親しく会ったのはこの時だけである」(157頁)ということになったそうです。

この日から鶴見さんは「彼が、自分の立場をあきらかにするだけでなく、本気でやる姿勢をもつ人」(157頁)であると知ったと記しております。

さて、解説のなかで、チョムスキーの思想と実践の核のひとつである部分を鶴見さんが指摘したのがうえに引用した一節です。

「国家権力の責任者が、自分たちの側の活動について、この言葉をかぶせない」もののひとつが「テロリズム」。

本来的にはそれでありながら、そうではないという欺瞞で馴化していくのが権力の本質ですから、その意味では、これはそう/これは違うという権力の言語設定ほど、恐ろしいものはないのかも知れません。

あらゆる暴力が「テロリズム」の一形態とすれば、どのような「大義」をかかげようとも、五十歩百歩は免れない。

「『テロリズム』とは、自分の国以外のものがとる行為についてかぶせる言葉だ」

……って寸法です。

チョムスキーは、ヴェトナム戦争以来、アメリカの軍事介入の「正義」の欺瞞を指摘して、利権がらみの「テロリズム」と喝破しましたが、これはテロや暴力の問題だけに限定されるものでもないし、アメリカだけに限定されるものでもありません。

あらゆる「正義」の「ラッパ」には懐疑すべきかなぁと。

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覚え書:「みんなの広場 維新の会政治塾は矛盾している」、『毎日新聞』2012年9月3日(月)付。

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みんなの広場 維新の会政治塾は矛盾している
無職 65(神戸市兵庫区)

 橋下徹・大阪市長率いる大阪維新の会が次期衆院選をにらんで始めた政治塾に少なくとも68人の現職地方議員が参加し、さらには国家公務員・地方公務員も20人と報じられた。はてさて、これはどういうことであろうか。
 橋下市長といえば、公務員の政治活動はまかりならぬという考えではなかったか。現に大阪市においては勤務時間の内外を問わず職員の政治活動を規制する条例を7月に成立させ、免職を含む懲戒規定を設けた。橋下市長は、国家公務員が特定の政治団体に所属して活動してもいいと考えているのだろうか。大阪市外の地方公務員は大阪の政治塾に加わって国政を目指す活動をしてもよいというのだろうか。
 私は公務員もその地位を利用せずに休日などに政治活動をすることは認められるべきだと思う。しかし、大阪の公務員の政治活動の自由を奪っておいて、自らの政治塾には公務員を参加させることの矛盾は明らかだ。大阪維新の会は別格の存在とでもいうのだろうか。
    --「みんなの広場 維新の会政治塾は矛盾している」、『毎日新聞』2012年9月3日(月)付。

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書評:玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢』平凡社新書、2012年。

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大川が所長を務めた東亜経済調査局附属研究所(通称「大川塾」)。本書はその卒業生を取材し、戦前戦中昭和の東南アジアとの関わりを描き出す。理念と現実の格闘、善意と押し付けの間で揺れる人々の軌跡を活写する。

吉野作造関係で(大川の学位取得に吉野は奔走)手に取った。大川はイスラム学の先駆者として有名だが、予想以上に東南アジアに対する知見が深かったことに驚く。「アジア解放」を謳う大川の眼差しはアジア全体に注がれていたことが理解できる。

さて、大川塾は軍事・外交の手先として利用され「スパイ養成機関」との通評は否定できない。ただ卒業生の声に耳を傾けると、そう単純でもない。そこで学んだ人間たちには「アジア独立」を純粋に信じていたのは事実である(だから現実の壁も存在する)。

大川は「諸君の一番大事な事は正直と親切です。これが一切の根本です」と語ったという。「正直と親切のアジア主義」の理想を懐く塾生たちは現実に直面する。現地の軍部によって裏切られていくからだ。本書は日本の矛盾に嫌悪すら懐く事例を数多く紹介する。

彼らの善意に耳を傾けず、頭ごなしに否定することは無意味だが、実際の歴史の経過を無批判に礼讃することもできない。論争の喧噪を超え、歴史の両義性をどううけとめるのか、考えさせる一冊というのが正直な感想。単純な評価で目を閉ざさない矜持が必要か、了。

余談ですが、先に吉野作造と大川周明の関係に言及しましたが、通評の右でいえば、大川だけでなく、吉野は、笹川良一とも会っているし、徳富蘇峰も利用するし、上杉慎吉とは親しい付き合いもある。と同時に、大杉栄との交流もある。ここに(この言葉は苦手ですが)「人間主義」を考えるヒントがある。

※忙しくてブクログの転載ですいません。

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/viewer.cgi?page=browse&code=85_651


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覚え書:「『メディアと知識人 ーー清水幾太郎の覇権と忘却』中央公論新社 著者 竹内洋さん」、『毎日新聞』2012年9月2日(日)付。

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「メディアと知識人 ーー清水幾太郎の覇権と忘却」中央公論新社・2415円
著者 竹内洋さん

転向論の枠組み超えて
 清水幾太郎の名は、ある世代以上には広く知られていよう。社会学者で、戦後の講和論争や「60年安保闘争」を代表する知識人。なおかつ、晩年に核武装論を唱えるなど大きく「右旋回」した人物だった。
 こうした思想の変化は従来「迎合」か「抵抗」かという転向論の枠組みで説明されてきた。だが、それでは隠れてしまう面があると著者はいう。
 清水の場合、キーワードは「差違化」だ。若い頃に東大教授への道を断たれた彼は、丸山真男のような「正系」知識人に対抗する必要があった。戦前から新聞・雑誌に執筆した清水は、戦略的に「華々しい」言論を展開していったとみる。
 「知識人にも、社会の中での『立ち位置』があります。自分の位置を高めようとゲームを戦っている面があり、政治的な駆け引きもあるのです」
 清水の行動を知識人界の覇権を目指す「転覆戦略」として読み解くあたりは、圧巻の面白さだ。背景として昭和初期以降、官学教授らアカデミズムの知識人よりも、ジャーナリズムを舞台に活躍する「メディア知識人」が権威をもつようになったという指摘も目を引く。
 「今はコメンテーターなどテレビ文化人のほうが影響力があるかもしれません。彼らを知識人と呼べるのかは疑問ですが」
 執筆の動機には、ある種の義憤もあった。同時期に論壇で活躍した丸山や福田恆存、吉本隆明らと清水を比較し知識人を類型化しているが、「神格化」された丸山らに対し、清水は単に「転向知識人」として批判を一身に浴びた。
 「実は、日本の左翼インテリの多くが高度経済成長を通じ、実質的にはてんこうしました。それなのに、清水だけが『いけにえ』のように指弾されたのは気の毒です。書いたものをよく読むと、それぞれの時点で彼は、自分なりに総括したうえで主張を変えています」
 社会学の分析手法を駆使しつつ、文章は自在で読みやすい。資料の奥に人間・清水の息遣いを探る姿勢が印象的だ。
    --「『メディアと知識人 ーー清水幾太郎の覇権と忘却』中央公論新社 著者 竹内洋さん」、『毎日新聞』2012年9月2日(日)付。

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覚え書:「気になる現場学 第6回 東京都渋谷区、福島県いわき市=開沼博 伝統的な宗教 今も救い」、『毎日新聞』2012年9月2日(日)付。

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気になる現場学 第6回 東京都渋谷区、福島県いわき市
開沼博
伝統的な宗教 今も救い
不安な時代の小さな灯

 「難しそう」「表立って話題にしづらい」ーー。日本社会に暮らす多くの人にとって、「宗教」はとっつきにくいものかもしれない。しかし、世界中どこでも宗教は生活の重要な要素だ。日本にだって、お盆やクリスマス、葬式や結婚式などに「薄められた」宗教は満ち満ちている。若者の間でも、うらないやパワースポット巡りといった「スピリチュアル」なものへの関心は決して低くはない。キリスト教や仏教といった伝統的な宗教は今、どうなっているのか。大都会、東京都渋谷区と東日本大震災の被災地、福島県いわき市を訪ねた。

 「この町内会の住民は私の一家族だけなんです」と話すのは、プロテスタントの日本基督教団美竹(みたけ)教会の上田光正牧師(70)だ。
 JR渋谷駅から原宿・表参道方面に徒歩5分。飲食店やオフィスビルが建ち並ぶ路地に美竹教会はある。表通りの騒がしさも教会の周りは遠慮しているかのように静か。
 「ここにも昔は住宅がありましたが、ドーナツ化が進んで小学校も廃校。今は神奈川県や埼玉県から礼拝に通う人が大部分です」と話す。
 上田さんは28年前、この教会に来た。大学を卒業し、ドイツに留学後、金沢市などの教会を回ってからのことだ。キリスト教に関心を持ったのは小学5年生のころ。「『神がいる』と聞いてうれしかった」のだという。家族に信者がいたわけではない。家業の病院のこともあり、東京大3年から医学部に進んだ。しかし、その初日「あと4年もここにいなくてはならないのか」と思い、その夜真剣に祈った末、神様に導かれ、牧師になる決意をした。それから50年。教会に来る人々の意識はどう変わったのか聞いてみた。
 「かつては生き方や人生の意味を真っ正面から問う青年たちが多かった。今の人の関心はもっと実際的。家庭に入った女性が、しゅうとめとの関係や子育てに悩んで教会のドアをたたくこともある。この前は、会社で重大なミスをした、と相談に来た方もいました。幸せな結婚をしたいからお祈りさせてくださいという男女が来ることもあります」との答え。
 「教会に行けば何か救いがあるはず」という感覚は日本人に浸透したようだが、「人生の究極の問いへの究極の答えが教会にあるとは思われていない」と言う。でも、「人間は必ず、絶対的なものと確かにつながることによる平安を求めるはず。長いスパンでみる必要がある」
 日本史上、「キリスト教ブーム」は3回あったそうだ。初めてキリスト教がもたらされた戦国時代と明治初期、そして第二次大戦後。いずれも「キリスト教で国の将来が明るくなる」というかすかな期待があった時期だ。「戦後のブームは高度経済成長と共に収束しました。しかし、今は日本がどうなれば良いか、新聞社も政治家も知識人も大衆も答えを持っていない時代。だが、唯一の被爆国で、平和を愛し豊かな文化を持つ日本には、重要な使命があるはず。そう考えれば、キリスト教にも今後の出番がある」
 ただし、今後20~30年は、少なくとも日本基督教団にとって、かなり厳しい時代という。1970年代から内部で続いた激しい意見対立の余波があるからだ。当時は、社会全体が「政治の季節」だった。教団内にも、礼拝中心の在り方を重視する人たちに対して、より実践的な運動を重視する傾向が生まれた。「不毛なエネルギーを使い、伝道が滞った。ようやく最近落ち着いて、皆が伝道を大事にし始めました。教会は、危機を自覚する時に最も力を発揮します。まだしばらく、厳しい時期が続くのはやむを得ませんが、ありがたい試練だと思います。明るい50年後の兆しが、少しずつ見え始めています」。美竹教会のウェブサイトは説教などが充実し、伝道を重んじる姿勢がうかがえる。このサイトを見て教会を訪れる人もいるという。
 他方で最近は第三世界から来た外国人同士が新たな教会を作る例もある。戦後日本のキリスト教の歩みには、どこか社会の移り変わりをそのまま反映したような面がある。


 東京電力福島第1原発から約40キロの距離にある広地山地蔵院高久寺の住職、登嶋弘信(76)は、真言宗智山派福島第1教区の教区長を務める。教区内の89ヵ寺には、原発事故による立ち入り禁止区域内にある寺もある。
 「住職にとって自分の寺で毎日お経を読めないほどつらいことはない。檀家さんもお墓に行けない。ご位牌だけを抱えて避難した方もいます」
 登嶋さんは大学在学中に成田山で修行後、地元で中学校教師をしていた。親から住職を継いだのは83年だ。
 「当時の檀家さんは100軒ほどでしたが、努力して一時は200軒ほどまで増えました。9割方この地区に住んでいる方です。ただこの地域は農業主体なので、どうしても人口は減りつつあります」
 日本に住む多くの人と同様、私にも仏教は最も身近な宗教の一つ。だが、「寺がどう運営されているか」を知る機会はほぼなかった。そのあたりの過去と現在を聞くと……。
 「昔のお布施は、お金ではなかった。檀家さんが、自分の家で作った米や野菜、お彼岸にはぼたもちを何箱も持ってきて寺を支えてくれた。小さな寺は自分でも農業をして、自家消費分以外を売って現金にしたり、お布施を保存して後から食べたり。檀家さんの数が少なくても運営に困らなかった。近所に以前あった寺は、7軒の檀家さんでやれていました」
 しかし、地方でも1次産業は衰退して都市化が進んだ。その過程で布施は現金化する。寺院も専業かし、檀家の数が足りないと寺を維持できなくなった。教区内の89ヵ寺中、いま実際に住職が住む「正住寺院」は62ヵ寺。残りは他の寺と兼務のお坊さんが支える。
 とはいえ、「寺院の危機」と聞いてもいささかピンとこないのも正直なところ。私自身、今後、葬式や法事以外で仏教に関わる機会はないかもしれないのだから。キリスト教と比べてもさほど意識されず、半ば慣習として生活の中に存在してきた日本仏教は、今後どうなるのか。
 「今年のお盆は、これまでより若い人が多く寺にいらした印象です。唯物的な感性で捉えきれない、不安な気持ちを抱えた方が増えてきたのかもしれません。生きていれば、思うようにならないことはある。先日も赴任で悩むご夫妻が拝んでいかれました。神仏に家族の幸せや自らの極楽往生を願って安らぎを得る人は決して減らないでしょう」
 なるほど。その感覚であれば、分かる。
 

 死や病の苦しみ、招来の見通し、かなわぬ願い--。いくら努力しても考え抜いて決して解けない問い。宗教は、その「答えなき問い」に向き合う人々に、救いをもたらしてきた。その役割は、むしろ現代においてこそ重要さを増している。時に軽薄にも見える「スピリチュアル」ブームの陰で、伝統的な信仰を守る宗教者たちに、エールを贈りたくなった現場学だった。
(かいぬま・ひろし=社会学者、福島大特認研究員。「『フクシマ』論」で毎日出版文化賞)
    --「気になる現場学 第6回 東京都渋谷区、福島県いわき市=開沼博 伝統的な宗教 今も救い」、『毎日新聞』2012年9月2日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:川本三郎・評 『ウッドストックへの道』=マイケル・ラング著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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今週の本棚:川本三郎・評 『ウッドストックへの道』=マイケル・ラング著
 (小学館・2940円)

 ◇伝説のヴェトナム反戦「野外音楽フェス」の青春
 一九六〇年代に青春を送った者は、たとえどんなに意見が対立していてもウッドストックのことを思い出せば心がひとつになれる。
 一九六九年の八月、ニューヨーク郊外ベセルの町の農場で三日間にわたって行なわれた、平和と音楽の祭典。約五十万人もの若者が集まりながら、大きな混乱はなく平和のうちに終った奇蹟(きせき)のような野外フェスティヴァル(ただしあまりに人数が多すぎて正確な数字は分らない。七十万人説も)。
 そんなものは幻想さと笑うことは出来るだろう。しかし、あの時、ヴェトナム戦争に反対する若者たちの気持がひとつになったことは確かだ。彼らの音楽を愛した日本の若者も含めて。
 主催した、当時まだ二十代だった若者(一九四四年生まれ)が、あのいまや伝説となった野外フェスを振返る。
 ヴェトナム戦争が泥沼化していた。キング牧師が、ロバート・ケネディが暗殺された。アメリカ社会は混乱の極にあった。若いマイケルは、音楽でひどい状況を変えようと野外フェスを思いつく。幸い、同じ二十代の資金提供者が現れる。若者たちは一気に夢に向かって走り出す。この点では前世代のアメリカン・ドリームを継承している。
 夢といっても足元の現実は見なければならない。会場はどこにするか。どのミュージシャンを呼ぶか。ギャラは、入場料は。次々に問題が出てくる。一方、若者たちの熱意に応え次々に大物ミュージシャンが参加を表明する。ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、CCR、ザ・バンド、ジミ・ヘンドリックス。規模がどんどん大きくなる。
 ニューヨーク郊外のウッドストックで行なうのが理想だったが、いい場所が見つからない。次にウォールキルという町を候補にしたが、ヒッピーや長髪の若者を嫌う保守的な町民たちに土壇場で拒否されてしまう。
 切羽詰まった時、救いの主が現われる。ベセルの町で広大な農場を営むヤスガー夫妻。若者たちの夢に手を貸すのが大人の役割だと、喜んで会場を提供することになる。この中年の農場主夫妻の寛容が本書を温かいものにしている。
 会場が決まるが、その後も次々に難題が待受けている。トイレはどうするか。食料は。警備は。救護施設は。夢の実現のために現実と格闘しなければならない。舞台裏の苦労が続く。
 そして開幕前日から予想をはるかに超える若者たちが集まってくる。人、人、人の波。ついには入場料を取るすべもなくフリー・コンサートにせざるを得なくなる(だからあとで経済的には大変なことになる)。
 さらに悪いことに連日、雨にたたられる。会場は泥の海。嵐も襲ってくる。照明のタワーが倒れそうになる。舞台ではミュージシャンの身体に電気が走る。
 最悪のコンディションのなかで、しかし混乱は起きない。若者たちはずぶぬれになりながら互いに助け合う。泥や雨を楽しんでしまう。何よりも演奏される音楽が心をひとつにする。
 町の人たちの協力も大きい。婦人団体や宗教団体が食料を差し入れてくれる。高校が病棟になる。医師たちが駆けつける。農場主のヤスガーは支援を続けてくれる。
 ヴェトナム戦争によって国が荒廃していた時に、一瞬とはいえ、こういう疑似家族が生まれたのは奇蹟というしかない。そしてこれは日本にも大きな影響を与え、現在の野外フェスにつながってゆく。
 絶望や挫折で語られることの多い一九六〇年代の青春だが、こういう幸福な一瞬もあったのだと忘れてはなるまい。あの時代を知る好著。(室矢憲治訳)
    --「今週の本棚:川本三郎・評 『ウッドストックへの道』=マイケル・ラング著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120902ddm015070057000c.html

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書評:坂本義和『人間と国家 ある政治学徒の回想』岩波新書、2011年。

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坂本義和『人間と国家 ある政治学徒の回想』岩波新書、読了。戦後日本の進歩的知識人の一人で国際政治学をリードしてきた著者の、上下二巻にわたる自伝的回想。中国で生まれ戦中日本で教育を受けた氏は、国家とどう向き合うかが課題だった。その格闘の思想形成歩みが丁寧に叙述されている。★4

坂本氏の父は上海の東亜同文書院の教授。少年時代は様々な外国人に囲まれて暮らした。氏の名前も「義和団」に由来するという。中国民衆への愛着と軍部に対する嫌悪感を暮らしのなかで身につける。ここに氏の「国家権力の脱神話化」の原点が存在する。

高坂正堯氏との論争についての言及も。坂本氏の「中立日本の防衛構想」(『世界』)に対して高坂氏「現実主義者の平和論」(中央公論)でもって応じた。この対照軸が戦後の外交論のひとつとなったことは有名である。

両者の話し合いは、一歩手前で中断されたというが、面談は実際にあったようだ。東大近くの喫茶店で話し合いを3時間したそうな。高坂氏が空襲を経験していない点が、坂本氏の上海での壮絶な戦争体験と対比的(負傷兵の死に行く光景)。両者の違いは戦争体験に由来するといってもよい。

その人間がどういう経緯でなにがしかの思想を懐くのか。
著者の立場に正反あろうかとは思う。しかしながら、そうした人間の経緯を学ぶことのできる意味では、素晴らしい自伝ではないだろうか。


http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1107/sin_k599.html


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覚え書:「今週の本棚:張競・評 『文明--西洋が覇権をとれた6つの真因』=ニーアル・ファーガソン著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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今週の本棚:張競・評 『文明--西洋が覇権をとれた6つの真因』=ニーアル・ファーガソン著
 (勁草書房・3465円)

 ◇西洋文明は果たして没落するか
 十六世紀からおよそ五百年のあいだに、西洋文明は世界制覇を実現した。スペイン、ポルトガル、イギリス、アメリカへと主役が交代し、また競合する文明の相手も同じではない。しかし、欧米がつねに勝利を収めたことに変わりはない。西洋はなぜ非西洋文明を打ち負かし、世界支配を成功させたのか。これまでにも多くの説があったが、著者は競争、科学、所有権、医学など六つの要因を挙げ、まったく新しい視点からこの問題を論証した。
 欧州の国々が暗黒の中世から抜け出したとき、明(みん)王朝は世界で屈指の強国であった。しかし、ヨーロッパ文明は瞬く間に中華文明を追い越し、植民地経営において優位に立った。勝敗を分けたのは競争の仕組みがあるかないかだ。中華帝国は統治においても経済においても動脈硬化を起こしたのに対し、欧州では国と国、企業と企業のあいだに競争の体制が整えられ、革新はたえず行われた。
 文明対決の中で、オスマン帝国の支配ほど西洋人にとって衝撃的なものはなかった。だが、ほどなくしてイスラムの超大国はヨーロッパ大陸から姿を消した。その原因は軍事的敗北だけではなく、長年にわたって科学にそっぽを向いていたからだ。
 十七世紀以降、西洋の内部でも新旧交代が起こり、より優れた組織と制度を持つ国が新たな旗手となった。北米と南米のあいだに文明の衝突はなかったが、英国文化を移植した北米が成功し、スペインとポルトガルの文化を取り入れた南米が後れを取ったのは、法の支配と代議制の確立、その根底にある私的所有権の有無による結果だ。
 十九世紀から目覚ましい進展を遂げた現代医学によって熱帯病が制圧され、人類は徐々に病原菌の脅威から解放された。ナチスドイツのように、医学知識が悪用された例もあったが、アフリカをはじめ非西洋の世界でも西洋医学が広がり、乳幼児の死亡率の低下や平均寿命の延長はいずれも近代化に役立った。
 本書の特徴は西洋が世界を制覇する原因を解き明かしながら、文明史の輪郭を時系列に沿って明晰(めいせき)に描き出すことだ。世界支配の五つ目の要因として挙げられた「消費」についても近代史の文脈で捉えられている。一九九〇年代後半になって、西洋がなおも世界をリードできたのは、工業生産と大量消費という西洋モデルを作り上げたからだ。そして、最後の要因は労働倫理である。資本主義の精神を支える勤勉と倹約は西洋文明の全盛を可能にした。
 だが、過去を振り返るのは栄光の残夢に陶酔するためではない。ましてや西洋中心主義を鼓吹するものではない。本書の執筆動機はむしろその正反対である。すなわち、アメリカを代表とする西洋文明はこれから没落するのか。一世紀前から欧米の知識人につきまとう恐怖であったが、二十一世紀に入ってから現実味を帯びてきた。というのも、著者がいう六つの秘密兵器は出自こそ西洋だが、ほかの文明もそのまま応用すれば、成功の岸辺にたどり着くことができる。それどころか、欧米を超えることも不可能ではない。著者がいうには、文明とはきわめて複雑で、数多くの構成要素が不規則に絡み合っている。短期間であれば均衡を保ってうまく機能できても、ときに「臨界に達する」ことがある。ハンチントンがいう「文明の衝突」の可能性は低く、ある日突然「文明の崩壊」が起きる危険性のほうが遥(はる)かに高い。西洋文明も例外ではない。外部の脅威を心配するより、むしろ内部崩壊の兆しに気を付けるべきだ、と著者は警鐘を鳴らした。(仙名紀訳)
    --「今週の本棚:張競・評 『文明--西洋が覇権をとれた6つの真因』=ニーアル・ファーガソン著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120902ddm015070024000c.html


http://www.keisoshobo.co.jp/search/index.php?page=2&new_status=true


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政治的に言えばふみにじる者が悪いのではない、ふみにじられる者が悪いのだ

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 今日の選挙界で一番つよく物言うものは金力と権力である。選挙は人民の意嚮を訊ねるのだという。理想としては彼らの自由な判断を求めたいのである。人民大多数の支持が期せずして集まったというところに、冒しがたい強みもあれば退けたい正しさもあるのだ。それを金と権とでふみにじるのだから堪らない。しかしこれは政治的に言えばふみにじる者が悪いのではない、ふみにじられる者が悪いのだ、何となれば金で誘われ権で圧えられても選挙民はこれに聴くの必要なく、聴かなくても格別の迷惑を蒙ることはない筈であり、否これを聴かないのが国家奉公の義務でありまた結局自ら安んずる所以でもあるからである。選挙民さえ確(し)っかりして居れば、幾ら金を使おうが彼らの権力で推して来ようが、選挙の結果に穢れはない。政界百弊の根源は金にありというのは、選挙民が軽々しく金に動き、その効果を期待して候補者が金を使うという事実を前提にしてのみ承認し得る。一言にしていえば罪は選挙民にある、問題の根本解決は選挙民の道徳的覚醒を措いて外にない。これを高閣に束ねて改革諸案は畢竟砂上の楼閣に過ぎぬ。
    --吉野作造「選挙と金と政党」、『中央公論』1932年6月。

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吉野作造が亡くなる前年、そしてこの評論を発表してから間もなく五・一五事件が起こりますが、有権者さえ、しっかりしていれば、金力も権力の結果を左右できない、それ故に事の根本解決は「選挙民の道徳的覚醒」以外にはあり得ないとした、その所論は、今でも有効なんじゃないかと思います。

もちろん、ガチで「金」と「権」の力がストレートに発動した戦前の普通選挙と、戦後のそれは質的な違いはあると思いますが、この「金」と「権」というものを「マニフェスト」や「公約」(……「アジェンダ」つうのもあったナー・・・遠い目)というものに言い換えれば、きちんと収まるかと思います。

しかし、「金」や「権」にしても「マニフェスト」や「公約」にしても、「政治家」の側から「投下」されるもの。これに右往左往してしまうだけでは問題があるのか知れませんね。

吉野は「金」や「権」で“釣る”人間よりも、“釣られる側”を問題にした。もちろん、だからといって“釣る”人間が「無罪」という訳ではありません。より以上に問題であることは言うまでもありません。

そしてその現在の“餌”としての「マニフェスト」や「公約」というものをひとつの参考にすることは現状として有り得るでしょうが、それ「だけ」を材料にしてしまうと、結局「ふりまわされて」気が付いたら「反故」にされて、「裏切られたぜ、こんちくしょうー」ってなって、もう「政治はどうでもいいや」ってなるのは大いなる不幸だと思います。

別に意識高くあれ! ということではなく、そろそろ、そういう餌に対する「下請け」意識というものを相対化することも必要なのじゃないの?

……ただ、そう思う訳でして、政治家のていたらくに対して「なんじゃ、ごりゃ」ってなるのは承知ですが、待ち受けではなく、「こう未来をデザインしたい」というものを、そろそろこちらの側から……それが大きな問題であれ、小さな問題であれ……投げかけていくことが必要なんじゃないのかとも思う。

驚かれるかも知れませんが、僕自身は割と、政治家とのチャンネルというものは、……それが地方議会であれ国政であれ……わりと大事にしております。

もちろん、「そんなこと、できませんよ」……ってことの方が殆どですが、直接「声を届ける」というのは大事なんじゃないかと思う。

メディアが、その語義通り「媒介」を意味したように、これまで、その「声を届ける」をレプリゼントして来たのは事実だと思う。しかしそれはウソッパチの談合だったことも明らかにされている。

だとすれば、様々なアクション……例えばデモなんかもそうでしょうが……を想定するなかで、一人ひとりの政治家に対して「こういうのはどうでしょうか」と提案してくのも大切なことになってくるのではと思う。

先に言及したとおり、相手にされないことがほとんどかもしれません。しかし、そこで終わらせ・あきらめることほどもったいないのじゃないのかなー。

「政治オワタ」
「民主主義機能不全乙」

……などと言うのは早いし、ぶっちゃけたところ、民主主義を破壊しようとするネトウヨ諸氏みたいなのが政治家を突き上げるような時代。そういう時代だからこそ、これは必要なことだと思う。

待ち受けよ、さようなら。

※昨日のエントリーとは「逆じゃん」と言われそうですが、僕は、単純な運動論ですべてが解決するという意味では、同じだと考えますし、智慧をしぼって挑戦することと、現実の悩みと理想で引き裂かれ佇むことの両方は必要だと考えます。

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覚え書:「今週の本棚:丸谷才一・評 『チチェローネ 建築篇・絵画篇』=ヤーコプ・ブルクハルト著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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今週の本棚:丸谷才一・評 『チチェローネ 建築篇・絵画篇』=ヤーコプ・ブルクハルト著
 (中央公論美術出版・3万9900円、3万4650円)

 ◇暮しを立てる為の旅行案内が不朽の名著に
 小林秀雄がはじめて奈良へ行ったのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』(一九一九)に刺戟(しげき)されてだろうというのは、三浦雅士の推定である。おもしろくて説得力に富む新説だ。しかしニーチェがイタリアへゆくとき、ブルクハルトの『チチェローネ』(一八五五)をたずさえていたにちがいないというのは、もっと確実な話だろう。ニーチェはバーゼル大学で彼の同僚であり、講義を聴き、自分の著書を毎回、熱烈で恭しい尊敬の挨拶(あいさつ)を添えて送り、そして歴史学者のほうはいつも礼儀正しくてしかし冷淡だった。
 ブルクハルトは、ベルリン大学からランケの後任として招かれたほどの碩学(せきがく)で(ただしバーゼルへの愛着を理由にして断ったけれど)、彼の『イタリア・ルネサンスの文化』(中公文庫)は名著のなかの名著である。これはそういう偉大な学究となる人が若年のころ、学制改革のため一時職を失ったとき、生計のためにものしたガイドブック(副題は「イタリア美術作品享受の案内」)で、「建築篇」「彫刻篇」、「絵画篇」の三部から成る(第二部は未訳)。その種の本でこれほど高い位置を占め、長く売れつづけているものはほかになかろう。実用書が不朽の名作となり、大古典が現在もなお有用であるのはなぜか。
 第一に親切な書き方で、実際に役に立つ。たとえばレオナルドがミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂に描いた「最後の晩餐(ばんさん)」について「最良の光は正午頃か」と言い添える。さらにラファエロがユリウス二世とレオ十世のために制作したモニュメンタルな仕事では「ヴァティカンの部屋」の絵画を推奨し、「手引き書が述べていることや作品を見れば自(おの)ずからわかることなどには言及しない」と断った上でこう記す。
 ラファエロがこの仕事のために招聘(しょうへい)されたとき、この部屋部屋はすでに存在し、部分的には(ペルジーノやソードマなどにより)壁画も描かれていた。部屋の設計は全く模範的なものではなく不規則で(例えば署名の間の穹窿(きゅうりゅう)など)照明も恵まれていない。大抵人々は午後見に行くが午前もよく、背後の鎧(よろい)戸が開いていると本質的に違った印象を与えられる。
 題の「チチェローネ」とはもともとローマの哲人キケロのことだが、彼の雄弁のせいで「案内」という意味が派生した。しかしここでわれわれが出会うのは案内人よりもむしろ誘惑者である。読者は彼の説明に魅了されて、いつかの日の午前「ヴァティカンの部屋」を見にゆこうと決意する。それほど彼の文章は巧みで、話術は洗練を極めている。これが第二の特質である。
 第三に、彼が芸術を愛すること深く、美に対して鋭敏だったから。「絵画篇」第五章の冒頭で、ブルクハルトは挑戦的な口調で言う。
 十五世紀最初の数十年間に西洋絵画に新しい精神が訪れた。西洋絵画は教会への奉仕を続けながらも、それからは純粋な教会の課題とは無関係な原理を展開した。芸術作品はまず教会が要求する以上のものを与える。宗教的関係以外にいまや現実世界の模像を与える。芸術家は物の外的現象の研究と描写に没頭し、人間形態からも空間的環境からも、すべての現れ方を次第にかち取って行く(中略)。外面的現実をすべてのディテールまで追求せず、高度の詩的真実が損なわれない限り追求するその拍子(タクト)は、芸術はそもそもの初めから天の恵みとしてもっていた。
 そして第四に、彼の史観はもともとこの本を書くのに向いていた。その好例は『世界史的考察』(ちくま学芸文庫)で偉人について論じた箇所。ナポレオンの出現のせいか、偉人論は十九世紀の好話題だったが、最も有名なのはヘーゲルの「世界史的個人」だろう。彼は、アレクサンダー大王やカエサルの名誉欲や征服欲について云々(うんぬん)するのは、世界精神の事業遂行者という彼らの使命を知らないやからだと軽侮した。ランケが政治史的英雄を重んじたことは言うまでもない。一方ブルクハルトは、コロンブスの偉業を絶讃したあとで、「アメリカはたとえコロンブスが揺り籠の中で死んだとしても、遅からず発見されたであろう」、しかしもしラファエロが幼児期に死んでいたら「キリスト変容図」は描かれなかったと付け加える。発見者の場合、偉大さは発見された対象にあるので、発見した当人にあるのではないが、詩人や芸術家たちが偉大なのは彼ら自身のせいである。こうして文化史は単なる出来事の生起をたどる一般史よりも上位に立つ。『チチェローネ』にはナショナリズムの世紀、英雄崇拝の時代における異端の書という局面がある。(瀧内槇雄訳)
    --「今週の本棚:丸谷才一・評 『チチェローネ 建築篇・絵画篇』=ヤーコプ・ブルクハルト著」、『毎日新聞』2012年09月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120902ddm015070048000c.html

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時代の切断は私たちが「事件」をそれ以前から続く「生活」との連続性において捉え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない。

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 被災者にとって、被災地は「生活」の場だが、それ以外の者にとって、被災地は「事件」の場だ。「事件」の現場と思って赴くと、そこには「生活」がある。あたりまえのことに不意に衝かれる感覚。阪神・淡路大震災という事件が、地下鉄サリン事件という新たな事件に取って代わられたように、「事件」はつぎの新たな「事件」に取って代わられる。被災地外は「事件」から「事件」へと飛び移るが、被災者は、どれだけ物理的に移動しても、それぞれの「生活」から離れることはできない。被災地と被災地外とのさまざまなギャップは、ここに起因する。
 今回の大災害が、さまざまなものの転機になってくれればと私自身も思う反面、壮大な文明史観を持ち出すような前のめりの言説に違和感を抱くのは、それが「事件」の切断面にのみ着目しているように見えるからだ。
    --湯浅誠「被災地には生活が続いている--『復興』への視点」、内藤克人編『大震災のなかで  私たちは何をすべきか』岩波新書、2011年、213-214頁。

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あんまり言及したくはなかったのですが、やはり雑感として残しておきます。

たしかに現実の政治が、もうむちゃくちゃで、それをマネジメントする政治家やその背景に見え隠れする官僚たちのていたらくぶりには、もう「なにがなんだか」となってしまうことは否定できません。

また、震災や原発事故に関しても、東京電力株式会社と政府やその他諸々のコングリマリットの声を「スルー」するやり方には、涙もちょちょぎれない次第であることは謂うまでもありません。

それらはたしかに現在進行形の事件であり、「なんじゃコリゃア」と思わざるを得ません。

だから「ゴルァ!!!」ってなるのも承知の介ですが、果たして「ゴルァ!!!」って「言及」するだけで、事象の改善も行われないわなーというのも実感なんです。

勿論、これまで「わたちは無関心のノンポリなので、すべてどーでもいいんですよん」式のソレいうまでもなく論外でしょうが、『一般意志2.0』時代の「総言及」化というものも、実際のところは、なにかを変化させよう、なにかを守っていこう、という意味では、実際のところあんまりうまく機能しないのではないか、と感じてしまうんですね。

だからといって、そういう問題に対して「No!」と声を上げることが「無駄」だということではありませんし、それは大事なんだろうとは思います。

しかし、何か違和感も存在する。同じ立場に立ちつつですよ。政治家や官僚、ひのと不幸の上に自身の蓄財を決め込むことを恥ずかしいとも思わない連中を「許す」わけでもありませんし、同じ立場に立とうとも思いません。

しかし、奥歯に何が挟まったような違和感もあるんです。

んーーーー。

何といいますか、こういうだらしなさっていうのが、何かを「よくしよう」という善意の人々からすれば、「お前こそ革命の敵」だと吊し上げられるかもしれませんが、そうなんですよ。

じゃあ、どすりゃいいのって謂われると佇んでしまう訳ですが・・・。

うーむ。

両義的な眼差しというものがなくなってしまうと、実際のところ、権力の立場からも、そして、何かをよくしようという立場からも、そこから「置き去り」にされる「サバルタン」を拡大再生産してしまうだけなんじゃないのかなー。

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 大災害という「事件」を時代の画期にするには「事件」がもたらした生々しい切断そのものではない。時代の切断は私たちが「事件」をそれ以前から続く「生活」との連続性において捉え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない。その意味では、大災害をめぐる膨大な関連報道、深い自粛ムード、文明論の見直しを求める大上段の諸言説といった、切断を印象づける各種の喧騒にもかかわらず、そして被災地の内外を問わず、私たちは相変わらず震災前から続く問いの前にいる。どこにも便乗しない、私たち自身の「生活の復興」が求められている。
    --湯浅誠「被災地には生活が続いている--『復興』への視点」、内藤克人編『大震災のなかで  私たちは何をすべきか』岩波新書、2011年、221頁。

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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 生活保護『見直し』の意味=湯浅誠」、『毎日新聞』2012年8月31日(金)付。

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くらしの明日 私の社会保障論 生活保護「見直し」の意味
湯浅誠 反貧困ネットワーク事務局長

「生きられる社会」をあきらめない
 8月17日に、13年度予算の概算要求基準が閣議決定された。その中に次の一文がある。
 「特に財政に大きな負荷となっている社会保障分野についても、これを聖域視することなく、生活保護の見直しをはじめとして、最大限の効率化を図る」
 「見直し」が、生活保護予算の削減・抑制を意味することは明らかだ。
 削減・抑制の手段として、三つの可能性が想定される。基準の切り下げ、医療費の自己負担導入、現物給付の導入だ。


 生活保護基準は平均的な世帯の生活水準の70パーセント程度となっているが(水準均衡方式)、デフレが続いて平均世帯収入が減少し続ける中、保護を受ける世帯の収入が結果として浮き上がってしまっている可能性が高い。年金受給額や児童扶養手当ての支給額なども、物価スライドの影響で今年度から切り下げられており、生活保護だけ基準を死守するのは困難だと言われている。
 医療の自己負担導入は従来、生活保護予算削減の「切り札」とされてきた。保護費の約半分を医療費が占めるためだ。医療費が無料だから、医者も患者も支出に無頓着になる。自己負担を導入すれば、患者は不要な薬を断てるようになる、という論理だ。
現物給付は、保護費がパチンコや酒代に浪費されるのを防ぐためだと主張されている。使途を食費や日用品に限る券の発行も、選択肢にあるのかもしれない。
 背景には、生活保護受給者が増えているのは「受給者のモラルが低下しているからだ」という憶測がある。受給者の増加については、「もらわなければ損」と考える「便乗組」が増えた結果だと少なからぬ人たちが見ており、生活保護制度は便乗組にたいして無防備な、欠陥のある制度だという見方をされてしまっている。
 保護費の削減・抑制策には、モラルの低下に対する対抗措置の色合いがにじむ。こうした見方に乗じて有権者の支持を得ようとする政治家もいる。その「勢い」というのは恐ろしいものだ。私には、その「見え方」と切り結び、うまく対話する方法が見つからない。


 だが、人は生きなければならない。雇用と社会保障、収入と支出の両面から、いかに「生きられる社会」を担保するが大切だ。
 国民生活基礎調査の結果では「生活が苦しい」「やや苦しい」と答えた世帯は過去最高を更新し続けている。その苦しさと向き合えなければ、やがては他者と事故を傷つけるに至るほかない。
 ともに生きられる社会を「共生」社会という。その難しさを受け入れつつ、いらだちに任せず打開策を探り続けたい。

水準均衡方式 生活保護のうち、食費や医療費、光熱水費などとして支給される「生活扶助」の基準額を改定する際に用いる算定方式。一般世帯の前年度までの消費実態や、その年度に想定される消費動向を踏まえて調整する。84年からこの方式が採用されている。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 生活保護『見直し』の意味=湯浅誠」、『毎日新聞』2012年8月31日(金)付。

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書評:岩本潤一訳著『現代カトリシズムの公共性』知泉書館、2012年。

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カトリック中央協議会に勤務する著者による訳著。カトリックの現代世界の諸問題に対する見解を幅広くまとめた一冊。全体として、第2バチカン公会議以降、カトリックは何を目指すのか、著者の主張も交え、その全体を素描する。極めて現代的な話題が多く、大変興味深い。

冒頭で生命倫理を取り扱う。カトリックの生命観を紹介した上で、ES、iPS細胞研究の倫理的問題、植物状態における栄養補給の問題が取り上げられている。次で、同性婚と同性愛の傾向をもつ人の神学校への受け入れ、叙任の問題。

中盤では、ニューエイジ、裁判員制度、平和論が取り上げられる。政治的無関心を標榜するニューエイジの傾向は全体主義を開くとの指摘は興味深い。裁判員制度に関しては聖職者の参加は否定されるが、一般信徒は公共善の立場から推奨されている。平和論は、カトリックの伝統的な戦争に対する立場と平和創出論の紹介。終盤はヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の生涯と著作のまとめという構成である。

カトリックは先端の自然科学や社会科学に関する情報を収集し、神学的・哲学的考察を続けてきた。その成果を一冊に纏めたという意味で非常に便利な一冊である。バチカンからの提言に冷静に耳を傾けることは、現代世界を理解する上で有益であるから、必携の一冊か。

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覚え書:「引用句辞典 不朽版 政治家・橋下徹 鹿島茂」、『毎日新聞』2012年8月29日(水)付。

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引用句辞典 不朽版 政治家・橋下徹 鹿島茂

この男は常に大衆を味方に持つであろう。この男は宇宙に確信を持っているように自分に確信を持っているからだ。それが大衆の気に入ることなのである。大衆は断言を求めるので、証拠は求めない。証拠は大衆を動揺させ、当惑させる。大衆は単純であり、単純なことしか理解しない。大衆に対しては、いかにしてとか、どんな具合にとか言ってはならない。ただ《そうだ》、あるいは《そうではない》といわなければならない。
(アナトール・フランス『エピクロスの園』大塚幸男訳 岩波文庫)


確信と断言を大衆は求め
懐疑主義は影を潜める

 長い間、日本の大衆にとって、政治は「どうでもいいこと」のひとつであった。選挙に行こうが行くまいが、自民党に投票しようが社会党に投票しようが、結果はいつも同じ自民党単独政権。変化は目だったかたちでは現れず、だったら、選挙なんか行くだけ無駄ということになったのである。
 変化が現れたのは、衆議院が小選挙区制に変わり、小泉政権が誕生してからである。
小泉純一郎元首相は、白か黒かのオセロ・ゲームとなる小選挙区制を最大限に利用する術を心得た日本では珍しいタイプの政治家であった。
 というのも、問題設定を「《そうだ》、あるいは《そうではない》」という二者択一に落としこむことを得意とし、「いかにしてとか、どんな具合にとか」いう問いの設定は意図的に回避したからである。
 この「《そうだ》、あるいは《そうではない》」というかたちの問題設定が、自民党か民主党かという小選挙区にぴったりとフィットしたのだ。マスコミを巧みに誘導して、テレビに年中顔を出し、わかりやすい敵(派閥とか抵抗勢力)をつくり、その敵に合わせて自分のイメージをその都度、自在につくりあげた。
 しかし、なによりも大衆をひきつけたのは、なんだかわからないが、やたらに「確信を持って」いることと、歯切れのよい「断言」を連発したことだろう。
 ここにおいて、大衆はようやく「わかりやすい政治家」「結果を出そうとする政治家」を見いだして喝采を送ったのである。その結果が自分たちの利益に反するものであることなどまったく意識に入れずに。
 さて、民主党政権も三年となり、今秋か、さもなければ来年早々にも総選挙ということになりそうな気配であり、橋下新党、小沢新党を含めて、それぞれの政党や党派が選挙態勢に入りつつあるが、「大衆を味方」にひきつけるー点において、橋下徹大阪市長はやはり一頭地を抜いている。「大衆は断言を求めるので、証拠は求めない」ものだからである。民主党の打ち出したマニフェストが全部空手形に終わった苦い経験などコロリと忘れて、有権者は橋下新党の目新しい製作に快哉を叫ぶかもしれない。
 だが、そうした点ではたしかに有利だとしても、橋下新党には決定的な弱点がある。手駒がそろわないということである。民主党や自民党でさえ人材難なのである。橋下新党に人材が集まるとは思えない。その他の政党からの流入者はかなり出るだろうが、衆議院の多くの選挙区で候補者を擁立するとなると、そう簡単にはいくまい。
 であるからして、そこから割り出される結論は次のようなものである。橋下新党はかなり躍進するだろうが、マスコミが囃し立てるような「一気に政権交代」などということは起こらず、民主とじみんの痛みわけという、おもしろみに欠ける結果に終わるのではないか? さらにいうなら、民主党政権三年という「慣れ」の感覚により、民主党を「保守」と見なす風潮がすでに現れてきているから、「とりあえず現状で」という思考が働いて、民主党が第一党という以外な答えが出てくるかもしれない。
 アナトール・フランスはエミール・ゾラとほぼ同時代の作家だが、文学史的には二十世紀文学に分類され、深い教養に裏打ちされた懐疑主義を特徴とする。そのアナトール・フランスの面目躍如なのが『エピクロスの園』の「懐疑主義者」についての箴言である。
 「われわれはわれわれの精神とは異なった具合に出来ている精神を持つ人々を危険人物と呼び、われわれの道徳を持たない人々を不徳漢と呼ぶ。われわれはわれわれ自身の幻想を持たない人々を懐疑主義者と呼ぶ、それらの人々はわれわれのとは別の幻想を持っていないかどうかを考えもしないで」
 断言と懐疑だったら、私はアナトール・フランスにならって、断固、懐疑を選ぶだろう。(かしま・しげる=仏文学者)
    --「引用句辞典 不朽版 政治家・橋下徹 鹿島茂」、『毎日新聞』2012年8月29日(水)付。

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「『お前の究極の立場は何か』というような、万事につけて信仰告白を要求する傾向」は過去よりも現在に多いのではないだろうか

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 私自身についていうならば、およそ政治制度や政治形態について、「究極」とか「最良」とかいう絶対的判断を下すことに反対である。(この点、本書の「ある自由主義者への手紙」〔本集第四巻……引用者注、『丸山眞男集』岩波書店のこと〕参照。ただしそこでも「僕は少くも政治的判断の世界においては高度のプラグマティストでありたい」とわざわざ傍点までつけたのに、保留ぬきで丸山は自分をプラグマティストと規定していると即断する批評が間々ある。私は哲学的なプラグマティストでは必ずしもない。ついでにいうならば、何かというと「腹を割」ったり、「肝胆相照」らしたりするストリップ趣味と、でき合いのイズムに帰依することがすなわち「世界観」を持っていることのように考えられる精神的風土と、こういう二つの背景からして、「お前の究極の立場は何か」というような、万事につけて信仰告白を要求する傾向が「思想好み」の人々の間にある。こういう問いには、私はどんなに傲慢に思われようと、「私は丸山イズムです」と答えることにしている。人生の究極の問題にたいする信条は「私の思想は何々です」というような形で本当に表現できるものではない。ある人間の思想がどこまで論理的に一貫しているかどうかは、彼のあらゆる労作の綿密な吟味を通じてはじめて明らかになることであり、また彼の行動がその思想によってどこまで律せられているかは、究極には「棺を蔽うて定まる」問題である)。私は議会制民主主義の理想の政治形態とはけっして考えていない、しかしその反面、来たるべき制度、あるいは無制度のために、現在の議会制民主主義の抽象的な「否認」をとなえることには、政治的--議会政治的だけでなく--無能力者のタワゴト以上の意味を認めがたいのである。
    --「現代政治の思想と行動 第三版増補版追記」、『丸山眞男集』第9巻、岩波書店、1996年、172-173頁。

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丸山眞男の足跡は、戦後民主主義の理論と実践のスタアとして評価することは簡単でしょうが、丸山の業績や発言を検討すると、思想家とか運動家というそれではなく、氏自身はどこまでも「思想史家」に徹しようとしたことは忘れてはいけないと思う。

そしてうえに紹介した通り「『お前の究極の立場は何か』というような、万事につけて信仰告白を要求する傾向」に反した人間でもあった。この点も忘れてはならないでしょう。

人は、何らかの立場や拠って立つ思想によって人間を判断するし、それでその全人性を理解したつもりになる。しかしそれは人間の全人性においては氷山の一角に過ぎないし、同じ思想を保つ者でも、強弱柔硬の違いもあるし、それを保持しているからといって、そのことを死ぬまで矛盾無く生きているものでもない。
※もちろん、そうではない稀有な事例も存在することは承知ですが、一歩間違うとそれは奴隷ロボットと表裏一体でもある。

それは「究極には『棺を蔽うて定まる』問題である」。

丸山は常日頃から、冒頭で紹介した文章の通り、○○イストと評されることに極度の警戒と嫌悪を持ち、意識的に、自身の立場をずらしながら、骨太の人生を生き抜いたことは有名です。

しかし、そのずらしを誤読した人間は、それを変節だの、プラグマティストだと揶揄してしまう。

しかし、丸山の臨機応変は紆余曲折でもないし、プラグマティックというのもご都合主義としてのそれでもない。丸山のいう臨機応変とか、プラグマティックというのは、丸山自身が、思想を語るときにもまた方法論を提示するときにも、個別を通じて普遍への道をとることに由来する。

それが丸山の思考特有の柔軟構造であり、福沢諭吉から受け継いだ「惑溺」を避ける生き方と氏特有の諧謔とユーモアでもある。
※ここを失念してしまうと、おそらく丸山自身の関心の高大さと探究の深さというものが、却って読み手の脳内で乱射を繰り返し、触れれば触れるほど錯綜していくことになる。

さて、根本的には、それがどのように善い思想や信条であろうが、それによって万事が解決できるという思想の安売りと惑溺をさけるというのが氏の生き方の一つの特徴でしょう。だから形而上からいきなりファイナル・アンサーを提示するという野暮はやってはいけないのが氏のエチケット。

現実の格闘のなかから、そして過去の先哲の千差万別の失敗と成功に耳を傾けながら、新しい普遍的なものを共同討議によって構成していく。これが丸山のはにかみを含んだ慎ましさと評することができると思う。


「人生の究極の問題にたいする信条は「私の思想は何々です」というような形で本当に表現できるものではない」。

この一種の諦念がない限り、「腹を割」ったストリップ趣味は呪縛へと転換し、「でき合いのイズムに帰依する」ことは、自己省察を割愛しているから、「信仰告白を要求する傾向」態度へと現れ、思想警察や異端狩りへと傾いてしまう。

それは他人事だろう、インテリだけの話題でしょうと思う向きもあるかもしれないが、少し前の日本でもフツーに見られた減少だし、吊し上げゲームは非インテリの方が動員現象としては上を行く。

だとしても「それは過去の現象、大戦下とまではいいませんが、安保や学生運動で終焉したでしょう」と人は思うかも知れない。

しかし、それは私は否だと思う。

昨今ほど、「腹を割った」だの「信仰告白を要求する」傾向を強く感じるのは私だけではないと思う。

よりソフィスティケイトされた形で、じわりじわりと、進行しているのではないだろう。

杞憂であればそれでいいのですが……ね。

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覚え書:「異論反論 発達障害への理解が求められています=雨宮処凛」、『毎日新聞』2012年8月29日(水)付。

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異論反論 発達障害への理解が求められています
寄稿 雨宮処凛

排除より受け皿整備を
 先月末、大阪地裁の裁判員裁判で下されたひとつの判決が波紋を広げている。
 ある殺人事件を巡っての裁判だ。被告は42歳の男性。殺されたのは、46歳の安。小学5年生の頃からひきこもっていたという男性は、自立を求めた姉を包丁で刺して殺害してしまった。逮捕後、男性は発達障害のひとつであるアスペルガー症候群であると初めて判断されたという。
 裁判では懲役16年が求刑されたのに対し、言い渡された判決は懲役20年。その理由に、言葉を失った。障害に「対応できる受け皿がなんら用意されていない」「再犯の恐れが強く心配され、許される限り、刑務所への長期収容が必要」等。
 つまり、日本には彼のような人がいられる場所などなく、「危険」なのでとにかく長く刑務所にブチ込んでおきましょう、ということだ。

ホームレス問題の背景に隠れている「障害」の問題
 発達障害への理解は進んでいるとは言い難い。最近では、大阪維新の会大阪市議団が条例案に「発達障害は愛情不足が要因」などと誤った記述をした。
 貧困の現場を取材していても、「発達障害」という言葉と出くわす機会は少なくない。例えば、私が出会ったホームレス状態の若い男性。出会ってすぐに彼は支援者の助けで生活保護を受けられるようになったのだが、そのことでやっと医療を受けられるようになり、初めて発達障害であると診断された。学校ではいじめに遭い、社会に出てからは職場で人間関係を作れず、すぐにクビになってしまう繰り返し。結局、彼がホームレスにまでなった背景には、「発見されなかった障害」が隠されていたのである。それまでの三十数年間、彼はどれほどの生きづらさに苦しんだだろう。
 支援者と話しても、やはり「発達障害が疑われるホームレス状態の人」は少なくないという印象だ。ちなみに障害ということで謂えば、都心に暮らすホームレスの約3割に知的障害の可能性があり、約4割にうつ病やアルコール依存症などの精神疾患があることを指摘している団体もある。実感として、その数字は納得できるものだ。つまり、障害が発見されず、福祉につながらないまま成人した人たちの「受け皿」がこの国にはないのだ。ホームレス問題の背景には、時に「障害」の問題も隠されている。
 そんな問題を追いかけてきた身として、この判決理由の文言は到底納得できるものではない。最初から「排除」を前提としているからだ。「危険」に見えるもの、よくわからないものに「臭いものに蓋」のように遠ざける。しかし、被告の発達障害がもっと早く発見され、適切な支援を受けられていれば、ひきこもりが長引くこともなく、このような事件が起こることもなかったのではないだろうか。「受け皿がない」という「社会の不備」をそのまま肯定し、そのせいにするのは思考停止だ。この判決理由には、日本という国の病理が潜んでいるように思える。

あまみや・かりん 作家。反貧困ネットワーク副代表なども務める。「今年の夏は官邸前の抗議行動や東京・代々木公園のデモなど、とにかく『脱原発の夏』でした。9月には久々に北海道に帰省するので、少しゆっくりしてこようと思います」
    --「異論反論 発達障害への理解が求められています=雨宮処凛」、『毎日新聞』2012年8月29日(水)付。

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大阪地裁の判決要旨(pdf)
→ http://www.jngmdp.org/wp-content/uploads/20120730.pdf

日本児童青年精神医学会 「2012.08.07  大阪地裁判決に関する緊急声明」

→ http://child-adolesc.jp/topics/2012.08.07%E3%80%80-%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9C%B0%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%B1%BA%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%B7%8A%E6%80%A5%E5%A3%B0%E6%98%8E.html


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