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「『お前の究極の立場は何か』というような、万事につけて信仰告白を要求する傾向」は過去よりも現在に多いのではないだろうか

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 私自身についていうならば、およそ政治制度や政治形態について、「究極」とか「最良」とかいう絶対的判断を下すことに反対である。(この点、本書の「ある自由主義者への手紙」〔本集第四巻……引用者注、『丸山眞男集』岩波書店のこと〕参照。ただしそこでも「僕は少くも政治的判断の世界においては高度のプラグマティストでありたい」とわざわざ傍点までつけたのに、保留ぬきで丸山は自分をプラグマティストと規定していると即断する批評が間々ある。私は哲学的なプラグマティストでは必ずしもない。ついでにいうならば、何かというと「腹を割」ったり、「肝胆相照」らしたりするストリップ趣味と、でき合いのイズムに帰依することがすなわち「世界観」を持っていることのように考えられる精神的風土と、こういう二つの背景からして、「お前の究極の立場は何か」というような、万事につけて信仰告白を要求する傾向が「思想好み」の人々の間にある。こういう問いには、私はどんなに傲慢に思われようと、「私は丸山イズムです」と答えることにしている。人生の究極の問題にたいする信条は「私の思想は何々です」というような形で本当に表現できるものではない。ある人間の思想がどこまで論理的に一貫しているかどうかは、彼のあらゆる労作の綿密な吟味を通じてはじめて明らかになることであり、また彼の行動がその思想によってどこまで律せられているかは、究極には「棺を蔽うて定まる」問題である)。私は議会制民主主義の理想の政治形態とはけっして考えていない、しかしその反面、来たるべき制度、あるいは無制度のために、現在の議会制民主主義の抽象的な「否認」をとなえることには、政治的--議会政治的だけでなく--無能力者のタワゴト以上の意味を認めがたいのである。
    --「現代政治の思想と行動 第三版増補版追記」、『丸山眞男集』第9巻、岩波書店、1996年、172-173頁。

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丸山眞男の足跡は、戦後民主主義の理論と実践のスタアとして評価することは簡単でしょうが、丸山の業績や発言を検討すると、思想家とか運動家というそれではなく、氏自身はどこまでも「思想史家」に徹しようとしたことは忘れてはいけないと思う。

そしてうえに紹介した通り「『お前の究極の立場は何か』というような、万事につけて信仰告白を要求する傾向」に反した人間でもあった。この点も忘れてはならないでしょう。

人は、何らかの立場や拠って立つ思想によって人間を判断するし、それでその全人性を理解したつもりになる。しかしそれは人間の全人性においては氷山の一角に過ぎないし、同じ思想を保つ者でも、強弱柔硬の違いもあるし、それを保持しているからといって、そのことを死ぬまで矛盾無く生きているものでもない。
※もちろん、そうではない稀有な事例も存在することは承知ですが、一歩間違うとそれは奴隷ロボットと表裏一体でもある。

それは「究極には『棺を蔽うて定まる』問題である」。

丸山は常日頃から、冒頭で紹介した文章の通り、○○イストと評されることに極度の警戒と嫌悪を持ち、意識的に、自身の立場をずらしながら、骨太の人生を生き抜いたことは有名です。

しかし、そのずらしを誤読した人間は、それを変節だの、プラグマティストだと揶揄してしまう。

しかし、丸山の臨機応変は紆余曲折でもないし、プラグマティックというのもご都合主義としてのそれでもない。丸山のいう臨機応変とか、プラグマティックというのは、丸山自身が、思想を語るときにもまた方法論を提示するときにも、個別を通じて普遍への道をとることに由来する。

それが丸山の思考特有の柔軟構造であり、福沢諭吉から受け継いだ「惑溺」を避ける生き方と氏特有の諧謔とユーモアでもある。
※ここを失念してしまうと、おそらく丸山自身の関心の高大さと探究の深さというものが、却って読み手の脳内で乱射を繰り返し、触れれば触れるほど錯綜していくことになる。

さて、根本的には、それがどのように善い思想や信条であろうが、それによって万事が解決できるという思想の安売りと惑溺をさけるというのが氏の生き方の一つの特徴でしょう。だから形而上からいきなりファイナル・アンサーを提示するという野暮はやってはいけないのが氏のエチケット。

現実の格闘のなかから、そして過去の先哲の千差万別の失敗と成功に耳を傾けながら、新しい普遍的なものを共同討議によって構成していく。これが丸山のはにかみを含んだ慎ましさと評することができると思う。


「人生の究極の問題にたいする信条は「私の思想は何々です」というような形で本当に表現できるものではない」。

この一種の諦念がない限り、「腹を割」ったストリップ趣味は呪縛へと転換し、「でき合いのイズムに帰依する」ことは、自己省察を割愛しているから、「信仰告白を要求する傾向」態度へと現れ、思想警察や異端狩りへと傾いてしまう。

それは他人事だろう、インテリだけの話題でしょうと思う向きもあるかもしれないが、少し前の日本でもフツーに見られた減少だし、吊し上げゲームは非インテリの方が動員現象としては上を行く。

だとしても「それは過去の現象、大戦下とまではいいませんが、安保や学生運動で終焉したでしょう」と人は思うかも知れない。

しかし、それは私は否だと思う。

昨今ほど、「腹を割った」だの「信仰告白を要求する」傾向を強く感じるのは私だけではないと思う。

よりソフィスティケイトされた形で、じわりじわりと、進行しているのではないだろう。

杞憂であればそれでいいのですが……ね。

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