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「手を汚したり体を使ったりする習慣」から始まる「文明の転換」

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 私が年来主張してきたことは、大型化・集中化・一様化とは対極的な、小型化・分散化・多様化の技術への転換である。太陽光発電、井戸水の利用、小川の急流を利用した小型水力発電、家畜の排泄物からのメタンガス発電、地熱や潮流を利用した発電、熱と電気を併用するコージェネレーションなど、さまざまなものが考えられる。これらは経済効率が悪いとして無視されてきた。その結果、私たちは電気やガスは大企業に、上下水道やゴミの処分は地方自治体に「お任せ」する体質が身についてしまった。スイッチひとつで操作できる便利さに慣らされ、手を汚したり体を使ったりする習慣を失ってしまったのだ。集中化すれば、急所をやられるとたちまち困難に遭遇するということを忘れて。
 小型化・分散化・多様化の技術体系の良さは二つある。
 一つは、個々の消費者が生産から廃棄まで責任を持たねばならないことから、必然的に自らの体を動かしたり、手を汚したりしなければならず、節約や節電が自然に身に付くという点である。我が家では太陽光発電を始めて一三年になるが、節電の習慣によって電気使用量が二〇%以上減少した。また生ゴミ処理をするようになって、市の清掃局に出すゴミを激減させることができた。そして何より、「お任せ」体質から脱却して自立した意識が持て、手をかけることによって自然に密着した健全な感覚を醸成した。欲望過剰な自分を反省することができるのである。
 もう一つは、天災など災害に直面したときの危機に対して強いことである。
    --池内了「文明の転換期」、内藤克人編『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』岩波新書、2011年、49-50頁。

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冒頭の一文は、世界平和アピール七人委員会の委員を務める天文学者・池内了先生の論評から。東日本大震災の発生から3ヵ月後、現地で活動を続けた医師やボランティア、そして作家や学者ら33名が、3・11の意味や復興のあり方などについて、それぞれの考えを綴った『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』との論集に収められた一編です。

震災以降、「文明論の転換」を迫る言説が多数見かけるようになりました。確かに「文明論の転換」は必要だと考えます。

「行き過ぎ」を反省し、「身の丈」にあった自身へとライフスタイルを転換してゆくことは、エネルギー量が云々、コストが云々、節約がどうのこうの、という「以前」に、「人間とは何か」を主軸においた「生き方」の問題であるからです。

これまでの「生き方」に「問題」があり、例えばそれが、メディアによって「踊らされていた」ものであったとしても、そのことを反省して、人間は自身の歩みを修正して一歩一歩前進してゆくことができる。

しかし、「文明論の転換」は、まさに混淆玉石の感があるのは否めない事実です。特に、居丈高な恫喝や、一種ストイックかつファッショな言説というのは少々気になります。

前者の代表は、石原慎太郎東京都都知事に代表される「天罰だ!」という恫喝であり(←正味、これこそ“天唾”)、後者を代表するのは、文明そのものを全否定した“自然に帰れ”というシュプレヒコール。

どちらも「人間」そのものの「反省」を促すというよりも、「人間」そのものの「全否定」というところが共通した特徴であり、「文明」の「転換」というよりも、「イデオロギー」の奴隷となれ!というアプローチ。

反省や見直しは確かに必要でしょう。しかし、こうした「極端」は本来注意深く警戒していかなければならないというのも事実です。

その意味では、アリストテレスの「中庸」や、仏教で説かれる「中道」、少し前の経済学で言えば、フリードリッヒ・シューマッハーの“Small Is Beautiful”などは、「リアリズム」と「理想主義」の交差するひとつの見本として参考になるかと思います。

さて……。
話が冒頭の抜き書きとずれていってしまいましたが、少し戻ります。

池内さんは論題通り「文明の転換」の必要性を論考で述べております。しかしこの「文明の転換」は、生活者の視座で洞察してみた場合、どこか私たち自身の生活と「かけ離れた」はるかかなたの空中戦にあるものではない、ということを丁寧に論証しており、読みながら、「ああ、なるほどね」と思った次第です。

例えば、現代文明の特徴とは何かといった場合、様々考えられるでしょうが、そのひとつは「大型化・集中化・一様化」であります。そしてその対極にあるのは何かと問うた場合、全否定ではない意味では、「小型化・分散化・多様化」への転換という選択肢が考えられると思います。

では、その「小型化・分散化・多様化」といったものは、どのように想定されるのでしょうか。社会を振り返ってみれば、電力の一元的供給から多元的選択へというトピックなども思い浮かぶと思いますが、そのことをもっと具体的に考えてみればどのようになるのでしょうか。

池内さんはその特色を2点挙げております。

すなわち、
(1)「一つは、個々の消費者が生産から廃棄まで責任を持たねばならないことから、必然的に自らの体を動かしたり、手を汚したりしなければならず、節約や節電が自然に身に付くという点である」。

(2)「『お任せ』体質から脱却して自立した意識が持て、手をかけることによって自然に密着した健全な感覚を醸成した。欲望過剰な自分を反省することができるのである」。


ライフライン、エネルギー、消費とゴミの問題、どの分野でもそうでしょうが、責任を「お任せ」することで「便利」さを「金」で買うのが現代社会です。

しかし、その責任を少し自身で引き受けた場合、様々な方途が考えられますが、スイッチひとつに委ねるのではなく、(1)「自らの体を動かしたり、手を汚したりしなければ」ならないわけですが、そのことで、(2)「『お任せ』体質から脱却して自立した意識」が到来します。

その結果、人間の考え方やライフスタイルが漸進主義的に変化すると同時に、その小水石を穿つ歩みが結果として「文明の転換」を必然たらしめていく……

石原さんをはじめとする居丈高な議論が人間の生活からかけ離れた「空中戦」だとすれば、池内さんの指摘は、生活のなかでの「改善可能な漸進主義」とその「文明の転換」論の特質を見とることが可能だと思います。

いま、必要なのはどちらでしょうか。私は後者であると思います。


http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1106/sin_k594.html

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