宗教者が俗権から爵位を受けて、それを名誉と感ずるとは何事であるか。
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「然るに此の仏法も、初生の時より治者の党に入りて其の力に帰依せざる者なし。古来、名僧智識と称する者、或は入唐して法を求め、或は自国に在りて新教を開き、人を教化し寺を建つるもの多しと雖ども、大概皆、天子将軍等の眷顧を微倖し、其の余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚しきは政府より爵位を受けて栄とするに至れり」。
(文二二四頁、旧文一九五頁、全一五六-一五七頁)
「甚しきは」云々という表現は、前に出しました「奇観と云ふべし」といういい方と共通しています。皇室・政府が名僧知識に爵位を授けるなどということは当時の常識からみれば、「甚しきは」でも何でもない。一般の人は当り前だと思っている。これが福沢の目でみると、とんでもないことになる。宗教者が俗権から爵位を受けて、それを名誉と感ずるとは何事であるか。それぐらい宗教が俗権に対して独立性がなかったのだ、というわけです。ヨーロッパの歴史を読んでいたからこそ、こういう日本の光景が「甚しき」奇観と映ったのです。
ただ、ヨーロッパの歴史を読んだからといって、こういう俗権と宗教との関係を問題にした知識人は同時期にはほとんどいません。その例外の一人が森有礼です。森は『日本における信教の自由』(明治五年アメリカで出版)という英文の意見書で、日本には良心の自由という観念がなかったと述べています。福沢がここではっきりいっていることも、ほとんど例外的といっていい指摘です。
福沢がどこまで世界宗教としての仏教についての知識をもっていたのか、よく分かりませんが、すくなくとも原始仏教においては、こういう俗権の優位はありません。
「出家の人の法は、国王に向かひて礼拝せず、父母に向かひて礼拝せず」という言葉があります。出家者は、国王の俗権としての首長としては認めるけれども、世間超越的な価値の立場から一般俗人と同じで、とくに「えらい」とは見ないから、礼拝しないのです。原始キリスト教と似ています。
--丸山眞男「『文明論之概略』を読む(二)」、『丸山眞男集』第十四巻、岩波書店、1996年、173-174頁。
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丸山眞男さんの講義録ともいえる『文明論之概略』を読む』では、日本の宗教について福沢諭吉が言及している箇所についても精査されております。
これは丸山さん、福沢諭吉の両者に共通する問題式ですが、権力の偏重が社会というものをどのように特徴づけるのか、それが宗教の歴史的位置にシンボリックに表れるからです。
※福沢は文明論の概略で「日本文明の由来 二」の冒頭で宗教をとりあげ、丸山さんは「第十七講」、「諸領域における『権力の偏重の発現』 その一」として分析しております。
福沢は、まず、「宗教は人心の内部に働くものにて、最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存す可き筈なるに、我が日本に於ては即ち然らず」と「宗教」そのものの定義をしています。
そして、丸山さんは、それを受け「日本で『可き筈』と、ここでいえわれているような宗教の定義があったかといえば、すくなくもこうはっきりした形で良心の自由という定義があったとは思えません」と端的に指摘しております。
宗教は人間の内面性を代表し、精神的独立・精神的自由のシンボルとして存在する意義を福沢諭吉が「感得」していた点には驚くばかりですが、福沢のこのあとの叙述にも続く通り、日本宗教の歴史は、その大事なポイントを失念して展開してきたことは疑いもない事実です。
もちろん、それだけが宗教の全体性を代表するわけではありませんし、福沢や丸山さんに典型的に見られるように、ヨーロッパ世界の伝統と日本の伝統を対比することにものすごい意義があるなどとは思いません。しかし、対比云々以前の問題として、日本宗教の歴史とは、権力偏重で、個々の信仰者の「魂」の問題を軽く考えてきた伝統であり、そこが問題であることは否定できないとは思います。
ヨーロッパにおいては、俗権と教会は、それぞれが自律的な統治権を確立していくのがその歩みと大ざっぱには見ることができると思います。もちろん、世俗の独立、教会のトータル支配、そして宗教戦争の問題など、その文脈においては問題は山積しております。
しかし、互いに刺激を与えながら、相互に自律的な規範を生成してきたがゆえに、世俗の確立、そして精神性の独立というものも精錬されてきたことは間違いないと思います。
それに対して、日本の場合、特に仏教ということになるでしょうが(福沢も仏教を問題視しているわけですが)、その受容の経緯、国分寺の整備にみられるように、メインラインというものは、基本的に権力にそって展開されて来ました。ここに冒頭で指摘するような問題の因が潜んでいるのでしょう。
辛辣な福沢はそのことを次のように喝破しております。すなわち「仏教盛んなりと雖ども、其の教えは悉皆、政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明に非ずして、政権の威光なるが如し」、と。
丸山さんは、それが加速するのが……これは日本宗教史の定番になりますが……江戸時代になると捕捉し、宗教の自主・自立(自律)がないから、権力偏重に傾くという。宗教の自律性がないから「御定書百箇条」(幕府による僧侶に対する罰則規定)なども出てくる。
「自立の宗教、つまり世俗法に対して独立の教会法と教会政治というものがあるのならば、僧が戒律を破ったら教会(寺院)が裁くでしょう。自立していないから俗権が裁くことになる。社寺の自治法も一応ないわけではありませんが、幕府法・藩法のワクのなかで許され、『公儀之法』に従うのが原則」となる。
先に言及したとおり、受容経緯に見られるように権力偏重でありますし、その生成過程で、権力によって宗教の「威光」を増そうとするわけですから、必然といえば必然の筋道であることは明かです。
丸山さんは、この箇所の末尾を次のように締めくくっております。
※ちなみに次の節では「学問の権なくして却て世の専制を助く」。
「むろん日本宗教の大体の傾向の指摘としては、この段での福沢は鋭い太刀さばきはけっして見当ちがいではない、と私は思います」。
さて……。
福沢諭吉が『文明論之概略』を出版したのは1875(明治8)年のことになります。神道を中心に祭政一致を国家方針を示した「大教宣布」の発表が5年前の1870(明治3)年のことで、キリスト教の解禁は1873(明治6)年のこと。
しかしながら、解禁の前年に改組された組織・教部省による国民教化は1877(明治10)年まで続きます。当初神祇省による教導が試みられますが、失敗ののち、仏教者を交えた、キリスト教排斥といってもよい「国民教化」のただなかの時期に、『文明論之概略』が発刊されたのは意義深いものがあると思います。
※もちろん、その後は、「一定の留保付き」になりますが、信教の自由を「認めざるをえない」のと、教部省の運動の失敗・解体という流れですが。
何に意義深いと感じるかといいますと、通常、福沢諭吉は、『福翁自伝』の有名なエピソード(少年時代に、神社のご神体を石ころにかえた)にみられるように、宗教には淡泊で「功利主義的」なリアリストという認識があります。たしかにそれは当たっておりますが、それが福沢諭吉のすべてを代弁するわけでもないという点です。
福沢自身、確かに宗教に「淡泊」であったことは事実です。しかし、宗教そのものの実体を全くスルーするのではなく、冷静に見つめていたことも事実です。この辺りを失念してしまうと福沢を誤読してしまうでしょう。
※因みに、福沢は「宗教無用論」では全くないし、それが本来的に機能することには大賛成な人物です、念のため。
……などと書きつつ、大分錯綜してきましたがもとにもどりましょう。
福沢は日本宗教の権力依存構造を「鋭い太刀さばき」で腑分けしましたが、この後、日本宗教の流れはどうなるのでしょうか。
個々人の取り組みとしては、まさに真実回復の挑戦者たちが立ち上がることはいうまでもありません。しかしメインラインとしては、またしても偏重体質が加速していくのがその流れです。
無宗教としての「無関心」は「あり方」ですから別に問題はないと思います。しかし、「無関心」イコール「知らない」というのは、宗教の歴史だけでなく、様々な事柄についても同じかもしれません。
権力偏重体質というのは、権力の「威光」を借りて、自身の「承認欲求」を満たそうとすることで始まるのも一つの道筋でしょうが、「無関心」ってえいうのもまた同じかもしれません。
……って、うーむ。
また書き直しますわ。
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