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中沢新一は、一種の超越なきパラダイス論

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超越なきパラダイス
竹田 中沢新一は、一種の超越なきパラダイス論*を立てていると思うんです。彼は天国のことや無限に微分化され続ける差違の領域というようなことを言うわけです。それは要するに、差違のパラダイスですね。ところが、それは全然まずいんです。
 なぜかというと、たとえば共産主義というのは一種のユートピア思想です。ユートピア思想というのはパラダイス思考の近代化された形態なんです。パラダイスというのは天国や夢幻郷のことで空間的な疎外感です。ユートピアは時間の果てにやってくるに違いない理想世界なんです。最後の審判なんてのもそうです。ヘーゲル的な歴史もそうですが、人類の未来に人間が参与することによって、いつかパラダイスに到達できるというのが、マルクス主義のユートピアだと思うんです。
丸山 ユートピアを将来に置く場合もあれば過去に置く場合もある。僕は進歩史観やダーウィニズムと、一見正反対の逆ダーウィニズムという言い方をするんですが、どちらも根っこは同じなんですね。
竹田 共産主義というのは、基本的にそうした人間の理想へのあこがれを組織する性格を持っていると思うんですが、これが現在はほぼ崩壊してしまった。そこで、中沢新一は、今更時間的に人間がたどりつくべき理想として、そういったユートピアを師弟できないために、人間の存在そのものの自由という形で存在論的パラダイスを持ってきたという面があるわけです。ところが、まずいと思うのは、超越論がないんですよ。で、「超越なきパラダイス」と言っているんですが、ぼくの問題意識では超越論はどうしても立てなければいけないものなんです。なぜかと言うと、人間は幻想的身体という形でエロス化された精神を持っているために、現実世界のむこう側に精神的な欲望の対象、言い換えれば審美的なものを求めざるを得ないわけです。つまり、人間の欲望の対象は、じつは〈意味〉なんです。それをぼくは超越論的な欲望と呼んでいるわけです。ぼくの言う超越とはそういうものですが、そうした人間の超越論的欲望が神様になったり、形而上学になったり、パラダイスになったり、理想社会になったりしてきたと思います。
丸山 そうすると、竹田さんはやっぱり絶対者を立てるわけですか。
竹田 いや、超越というのは絶対者ということとは全然違います。そこが超越という言葉につきまとっている誤解され易い面なんですね。それは人間においては欲望の対象が、いわゆる現実社会のむこうに〈意味〉として成立してしまうということです。だから、絶対者を対象として立てると、そのとたんに、なま臭くなって、頽落してしまうんです。
*超越無きパラダイス論 超越の領域は、ロマン的世界、イデアの世界、真理の世界である。これは、事実あるいは現実という領域からは、“幻想”に近いが、それでも、現実と同じ権利で存在しているのである。中沢新一は、この超越の領域を現代思想の考え方で説き直そうとしているが、そのことで、超越世界の領域を論理世界に対する感覚世界への領域へ還元してしまう気配がある。
        --丸山圭三郎、竹田青嗣「ソシュールとフッサールの位相」、丸山圭三郎、竹田青嗣『〈現在〉との対話2 記号学批判/〈非在〉の根拠』作品社、1985年、199-201頁。
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このところ、忙しく時間が無くて本当にスイマセン。
今日もほぼ、覚え書のような内容になってしまいますが、一応紹介しておきます。
言語学者の故・丸山圭三郎さんと、思想家の竹田青嗣さんの対談のなかで、中沢新一さんの思想に内包される問題を端的に指摘した一文が上記の引用箇所です。
※もっと紹介すべきなのですが、時間の都合上ご了承下さいませ。
私自身、中沢さんの思想における恣意性や自身の言説に対して責任を引き受けない態度(←ここでの責任とは字義通りです)にいつも「んんん????」となることが多く、そのことは、生き方の問題だけでなく、思想性にも反映しているのではないかと、著作を読むたびに思っていましたし、最近はいくつかの批判的検証を行う作品も登場し始めましたので、ああ、なるほどね!と思っておりましたが、うえにあげた批判というのも、そうした氏の思索のいくつかある陥穽を衝くもので、ほぼその初手に当たるものだと思いますので、紹介した次第です。
※また、丸山さんのソシュール解釈(→ソシュール解釈というよりも、丸山言語学なのですが)や、竹田さんの現象学も「竹田現象学」という側面がありますが、これは本論ではないので横に置きます。私自身は、負荷を踏まえた上で、その独創性は積極的に評価してよいと思っておりますが・・・
……って注で云々かんぬんしてもはじまらないので戻ります。
さて、竹田氏が端的に指摘するのは、「一種の超越なきパラダイス論」。
*の脚注の方が本文よりズバリその本質を衝いておりますが、「一種の超越なきパラダイス論」とは何か。
すなわち、「超越の領域は、ロマン的世界、イデアの世界、真理の世界である。これは、事実あるいは現実という領域からは、“幻想”に近いが、それでも、現実と同じ権利で存在しているのである。中沢新一は、この超越の領域を現代思想の考え方で説き直そうとしているが、そのことで、超越世界の領域を論理世界に対する感覚世界への領域へ還元してしまう気配がある」。
日本の思想世界、とくに現代思想を扱うジャンルの問題と併走・同根だと思います。
日本における哲学的思索の端緒は、西洋における営為の移植から始まりますが、これを明治に設定しても、そして仏教や儒教の受容に設定しても同じなのですが、結局は、(一般論としてですが、個別の例外は勿論あります)、その翻訳・紹介に熱心になりすぎるあまり、受容・咀嚼がおろそかにされ、新しい思想が次々と入ってくる、そして先端にいることが「エライ」と錯覚された問題がまずあると思います。
その場合どうなるのか。結局は思想・哲学というものはブームに過ぎませんから、「古く」くなると棄てられていく。対峙が欠如してしまう訳です。
明治以降、西洋の近代設計が国家を挙げて導入される。しかしその近代設計とは、本家においては、キリスト教会からの独立、国民国家の創造、そして啓蒙主義による世界理解、それへの反発としてのロマン主義、そしてその反省としての現代思想という流れがあります。
が、その反発・受容・展開というものがばっさり抜けおちたまま、導入された故でしょうか--。どの批判も結局は「新しい」が規準になりますから、咀嚼がなされないまま次へ「移項」する。
だから、本物の啓蒙的思索もなければ、ロマン主義的反動もなければ、本質主義批判としての「脱構築」もブームにすぎない「軽薄」なものとなってしまう。
中沢さんの思索はその意味では、独創的なものはあったと思う。しかし、なぜか時流の影響をもろにうけ、右にふれては、左に旋回する。そしてその転回点における決着と出直しという心機一転のまき直しの「説明責任」はスルーされたまま。
そうした日本的態度というものもモロにうけているからそうなるのでしょうか。
確かに「超越の領域」は、世俗世界における認識と存在の交差という意味では、「ロマン的世界」、「イデアの世界」(「真理の世界」)から設定可能である。しかし生活世界(フッサール)の眼差しからは「幻想」と定位されるでしょうが、だからといって、それは、ひとつもののウラとオモテにすぎないから同じ権利で存在している。しかし中沢さんの場合はどうか。ひとつもののウラとオモテという認識よりも「対(抗)」概念的受容が濃厚だから、「超越世界の領域を論理世界に対する感覚世界への領域へ還元してしまう気配」となってしまう。
まさに「論理世界」に「対する」ではないが故に、「超越世界」と「事実あるいは現実という領域」は「同じ権利で存在している」。
しかしながら、そこを「感覚の世界」でやられてしまいますと・・・ね。
……ってことです。
この本が出版されたのは、1985年。この時点で中沢さんの代表的著作は、1983年の『チベットのモーツァルト』(せりか書房)、1981年の翻訳、『虹の階梯ーチベット密教の瞑想修行』(平河出版社)になります。
しかし、竹田さんの批判は、両書に対する早い段階での応答だけれども、ある意味でひとつの本質を衝くものじゃないのかとは思います。
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