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専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)を退けつつ、同時に「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」を排していく意義について

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 専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)について、ひきつづき考察してみたい。そして、知識人はどのように権力と権威の問題にかかわるかについても考えてみたい。一九六〇年代なかば、ヴェトナム戦争反対の声が高まりと広がりをみせはじめる直前の頃のこと。コロンビア大学でわたしのセミナー希望の学生に面接をおこなった際、わたしは、ふけた感じのする学部学生と相対(あいたい)することになった。その学生について知りえたことは、彼が退役軍人であり、ヴェトナムで空軍に勤務していたということである。彼との雑談のなかで、わたしは、プロフェッショナル--この場合は熟練パイロット--の陥穽とはいかなるものかについておぞましくも魅力的な実例を垣間みることができた。なにしろ自分の仕事について語る彼の語彙たるや、まさに「隠語」と称してかまわない体(てい)のものであったのだから。そんななか、「軍隊で君は実際になにをしてきたか」というわたしの執拗な問いに対して、彼がいきなり「目標捕捉」と答えたときの衝撃を忘れることはないだろう。彼が爆撃手であり、その職務は、まあ、いうなれば爆弾を落とすことだとわかるまでに、わたしはさらに数分を要した。この単純な事実を、彼は専門用語にすっぽりとくるんで語ったわけで、専門用語とは、ある意味でアウトサイダーのあけすけな詮索をこばんだり、はぐらかすために意図されたものといえよう。ちなみに、わたしは彼をセミナーに入れることにした--彼について観察できるという心づもりがあったのかもしれないし、できるならば、その恐るべき専門用語癖を棄てさせようと考えたのかもしれない。まさに「目標捕捉」である。
    --エドワード・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、133-134頁。
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今日の授業は、大学祭明けで一週飛んでの授業でしたが、なんとか「哲学とは何か」という導入部分の講座のまとめが終了しました。
参加された皆様ありがとうございます。
いろいろと話をしましたが、そのなかのひとつは、哲学という学問は「専門」“学”ではなく「根本」“学”だという話をしましたが、そのことについて少しだけここでも話をしておこうと思います。
古代ギリシアにおいては、「哲学」という学問しか存在せず、数学も天文学も、そして音楽も哲学のなかにふくまれる諸学として位置づけられ、その翠点として「哲学」が存在しました。学の近代的な分化は18世紀まで待つほかありませんが、以降、「学」の細分化が始まると同時に、哲学の「凋落」もはじまります。
その意味では、「第一学」と任じた哲学の驕りと負荷は確かに反省されてしかるべきでしょうが、「根本」学としての意義を否定することはできません。
それを象徴するのが、カントの次の言葉でしょう。すなわち「哲学を学ぶことはできない。ただ哲学することを学びうるのみである」。
諸学を「学ぶ」ことは可能です。しかし「哲学」に関して言えば、その意義での「学ぶ」は、哲学を学ぶことの本質ではなく、中心命題は「ただ哲学すること」を学ぶことであるという点は留意して欲しいと思います。
※とはいえ、哲学も「学」として「確立」するなかで、「専門用語覚えて理解しろや、ゴルァァァ」が現状ですよね!ってツッコミは、ちょっとこの場合、お許し下さいませ(汗
だからですけれども、プラトンやアリストテレスの著作をひもとくと、ギリシア語特有の言い回しや意義は散見されますが、特定のジャーゴンはほとんど出てきません。専門学ではありませんから、専門用語は不必要な訳です。
しかし、現代は、専門化(専門家)の時代。
あらゆる議論が専門用語によって煙に巻かれる時代といっても過言ではないと思います。それがすべて諸悪の根元だ!と20世紀の革命家になろうとは思いません。しかし、仮象にしか過ぎないこととして相対化することは必要だと思います。それが籠絡から解放される流儀になりますから。
サイードの指摘する通り、専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)は、容易に権力におもねります。それは必然といってよいでしょう。
その意味では、専門用語に頼らず、日常言語で思索を深め、他者とのやりとりを深めていくという「哲学」の原初の意義は、それにあらがう行為でもあります。そこに哲学を学ぶ意義が存在することを、ポケットのどこかに入れておいて欲しいとは思います。
そして、専門用語の権力性の問題だけでなく、哲学を学ぶもうひとつの意義がどこにあるのかといえば、今日は、皆さんと「こんなこと、考えるに値しないや」と思われることをあえて、一緒に考えてみましたよね。
例えば「鉛筆とは何か」、「りんごとは何か」からはじまり、「美とは何か」、「正義とは何か」に至るまで、「自明の事柄」として流通している事物や概念というものが山のように存在します。
「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」
ってものが沢山存在します。
しかし、それを①あえて自分で考えてみる、②そして他者とそのことをすり合わせてみるってことは大事です。
先に哲学の対極に存在する専門化(専門家)の陥穽を指摘しましたが、実は、この「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」と考察を「中断する」ことも、実は同じ落とし穴なんです。
自明のように思われている事柄にこそ、権力性や現在の不正や不義を隠蔽する小細工が仕込まれております。だからこそ、あえて考えてみる挑戦というものは大切になってきます。
そしてそういうひとびとが、横断的に繋がることが可能となれば……。
それは新しい時代の始まりでしょう。
ということで「哲学を学ぶ」ではなく「哲学すること」を深めていきたいと思います。
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