試験のための読書だった。人と会話するときの話題のための読書だった。知識のための読書だった。それが、ここでは楽しみのために読書するようになった。
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ベイトマンはどさりと椅子に座り込んだ。
「君が理解できない」
「変化は僅かずつやってきたんだ。ここの生活が次第に気に入ってきた。のんびりとして気楽だ。住民は人がいいし、幸福な微笑をいつも見せている。僕は考えるようになった。以前は考える余裕がなかったね。読書も始めた」
「君は以前だって読書していたよ」
「試験のための読書だった。人と会話するときの話題のための読書だった。知識のための読書だった。それが、ここでは楽しみのために読書するようになった。話すことも学んだ。会話が人生で最大の楽しみの一つだって、君知っている? でもね、会話を楽しむには余暇が要る。以前はいつも忙しすぎた。すると次第に、大切に思えていた人生がつまらない、下卑たものに見えだした。あくせく動き回り懸命に働いて、一体何になるというのだろう? 今ではシカゴを思うと、暗いー灰色の都会が目に浮かぶよ。全て石で出来ていて、まるで牢獄だな。絶え間ない騒音も聞こえてくる。頑張って活躍して、結局何が得られるというのだ。シカゴで最善の人生を送れるのだろうか? 会社に急ぎ、夜まで必死に働き、急いで帰宅して夕食を取り、劇場に行くーーそれが人がこの世に生まれてきた目標なのか? 僕もそのように若い時期を過ごさねばならないのか? 若さなんて、ごく短い間しか続かないのだ。年を取ってから、どういう希望があるのだろう? 朝家から会社まで急ぎ、夜まで働き、また帰宅して、食事をして劇場にゆくーーそれしかないじゃないか! まあ、それで財産を築けるのなら、それだけの価値があるのかもしれないね。僕には価値はないけれど、人さまざまだな。だが、もし財産を築けないなら、あくせくすることに価値があるのだろうか? とにかく、僕は自分の一生をもっと価値あるものにしたいのだ」
「君は人生で何が価値あるものだと思うかい?」
「笑わないでくれよ。真善美だ」
--サマセット・モーム(行方昭夫訳)「エドワード・バーナードの転落」、行方昭夫編訳『モーム短篇選 上』岩波文庫、2008年、58ー59頁。
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今日の哲学の授業では、読書をする意義について1コマ割いてお話をしました。
どうして哲学で?
……というような野暮なツッコミはご容赦くださいませ。哲学にせよ、そして文学にせよ、歴史にしてみても、人文科学(のみらず総じて学問)とは、対象を丁寧に読まないと「はじまらない」からです。
ですから、時間を割いて、どうして読む必要があるのか、何をよむべきか、そして読むうえでの留意点を少々、紹介した次第です。
さて、学生さんたちと……
「今までで読んだものののなかで、友人に一番すすめたいものはどれ?」
「その理由は?」
「いい本とは何だろう?」
「わるい本とは何だろう?」
……さまざまなやりとりをしながら、そういうことをお互いに考えてみました。
さて……
必要性とかコツに関してはこれまで何度も言及しているので再論しませんが、今回は別の角度から少し読書事情を伺ってみようかと思います。
総じていえるのは、やはり学生さんたちは、読む子も読まない子も含めて「読んだ方がいい」というのは何となくわかっている……この認識だけはいつも「ああ、やっぱりそうなんだな」と毎年思います。
単純に「読まないよりは読んだほうがいい」ことは、それが功利的な動機であれ、何かのステップアップのため……というキャリア的な眼差しは大嫌いなのですが……であろうが、はたまた純粋に「読むのがすき」という立場であれ、「まあ、そうなんだよな」というのは一人一人が理解している。
しかし、やはり、そこには、……そしてそれを全否定するわけではありませんが……「功利主義的打算」が大きく働いていることは否めないようなことも実感します。たしかに、人間をつくるという上では「読書」は必要不可欠です。しかし、人間がつくられるということによる「利益」を意識したものであることは、その動因として否定することもできません。
まあ、とにかく読めばいいんだろ、ドヤっていわれてしまうとそれまでなのですが、思い返せば、授業中に、学生のみなさんと、ただ「本」について話あう時間を、今回は何度かもうけましたが、そのとき、私自身もそうですが、後からリアクションペーパーを確認すると、「ただ、楽しかった」という反応が予想以上に多くありました。
何らかの利益によって読むのではなく、ただ純粋に「本のお話」ができたことは、私にとっても学生さん一人一人にとっても「楽しかった」のではないかと思いました。
その意味では、功利主義的な事実に誘発された場合であろうが、道学的教養主義の人間形成論の発露であったとしても、ひとまずは、読む中で、「読む楽しみ」というものを大切にすることも必要なのではあるまいか……などと思った次第です。
これまでの読書経験は「試験のための読書だった」し、社会に出てからは「人と会話するときの話題のための読書」や「知識のための読書」の比重が大きくなることは否定できません。
だとすれば、「読書する暇を」とよく言われますが、大学時代ぐらいは、その「暇」すらをも大切する時間であって欲しいなーなどと考えた次第です。
冒頭に掲げたのはサマセット・モームの傑作短編集の中からのご紹介。
知人が、再起を決意し南島へ移り住んだものの、そこでがむしゃらサラリーマンを超脱して、自由人になってしまった。そこへ「あいつ、どうしてるんだ?」と訪ねていくわけですが、そこでのやりとりです。
もちろん、文明orz、非文明万歳という単純な認識や一方の全否定がモームの真骨頂ではありません。どこにいようとも、何かを、そして自分自身を相対化してしまうような「暇」を、せめて大学在学中ぐらいは、読書時間の中につくっていきたいものではあります。
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