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個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない

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 個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない。世界全部を変革するのでなければ思想でないという考え方は、有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想に向かわせます。
 残虐行為をした人もいる。これも昨年だが、私は仁木靖武という人の『戦塵』という本を読んだ。私は偶然、ここにその本を一冊もっていますから、欲しいといわれる方は最初の方に差し上げます。(申し出た方にあげました)軽くして京都に帰りたいので……。この人は徳島の生まれです。彼は中国戦線に行ってこの戦争の空気の中で捕虜虐殺をする。そのことをすらっと書いている。ふつう、この虐殺のことを書く人は、自分がすまなかったとか、人道にもとるとか、今の思想に立っていろいろな言い訳を書く、その記憶が何となく、文章として具合が悪くなるんですが……。この人は自分のしたことをすらりと書く。
 なぜ、こんなことを書いたのか。この人は戦争から帰って来た。そうしたら自分のいとこの結婚した相手が死んでいたので、その人と結婚した。そして、その人には既に子供が二人いた。自分自身の子供が生まれたら、必ずその方へわけへだてするようになるから、自分の子供はつくらないと決心して、そのいとこの子供を育てた。その子供二人、自分の血のつながらない子供です。子供二人にいつか読ませたいと思い、この記録を書いたんです。その動機は、出版社に頼まれたとか、原稿料が入るとか全く関係がない。自分がそういう残虐行為をしたということは別に人に広告する必要はないでしょ。だまっていれば誰も知らない。だいたいがだまっているんです。しかし、その人は書いた。なぜか。自分の子供に戦争とはどういうものか読んでもらいたかったからです。これは驚くべき行為だと思います。こういう人がいるんです。残虐行為をその時、しなかったということだけが大事なんじゃないんです。もちろん、しない方がよいが、したことの記憶を戦後も保ち続けるということ、これは、思想のたる詰を超える行為です。
 どうして、こういうことがあり得るのか。一人の大衆としてそのことをわれわれは思想的に成し得る。塊としての大衆はあるが、完全に固まって蟻の抜け出るすき間もないというふうではない。塊としての大衆には必ずひび割れがある。そこから一人の大衆として抜け出ることができる。一人の大衆というのは矛盾した概念だが、大衆の一人といったら具合が悪い。むしろ、矛盾を避けるためにいえば、一人の普通人といっていいかもしれない。
 大衆は本来たる詰の思想として定義することもできます。そういうふうに使う人もいます。しかし、私は、そういうふうには使わない。一人の大衆という考え方を持っているから。塊の大衆とバラバラの大衆と二つの矛盾概念があると私は考えます。
    ーー鶴見俊輔「昭和精神史」、『思想の落し穴』岩波書店、2011年、13ー15頁。
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鶴見俊輔さんは「哲学とは生きるしるべ」であるという。だから「ミミズにも哲学がある」。しかし、日本はそれを受容する経緯において、「一晩で言葉を作ってしまった」。だから哲学用語に限らず学問の言葉としての「抽象語」には、生活に根がない。
対して西洋ではどういう経緯で抽象語が出てくるのか。鶴見さんは、ハーバードへ留学中、日米開戦となったため(直接にはアキナキストの嫌疑だったと記憶する)、留置場へ入れられたが、知人が暇だろうからと、プラトンの『国家』の英訳本を差し入れしてくれたそうな。
留置場では、イタリア人とドイツ人の水夫と一緒で、そのドイツ人が「おもしろそうだから貸してくれ」というので、『国家』を渡すと、その水夫は徹夜して読み切り、「おもしろかったよ」といって返してくれたという。
プラトンの『国家』なら、義務教育を受けた人間でも理解することができることに鶴見さんは驚いた。
そう。西洋において学問の言葉は2500年かけて生活世界の日常語からゆっくりと蒸留されてきた。だから、読んで理解することができる。そう、どのような抽象語でも生活に根があるということです。
それに対して、一晩で抽象語を作った日本はどうなのか。その受容と理解はうすっぺらいものとならざるを得ない。
大学の教員が、講義で平和を論じ、カントを読んでいても、いざ、兵隊にとられると、平気で二等兵をぽかぽかなぐるようになってくる。そういうことがふつうに招来されてしまう。カントを読んでいるからイコール平和主義者であるというわけではないわけだ。
*もちろん、カント主義者は、定言命法どおり、いついかなるときも正義を履行せよ、といううすっぺらい意味ではありませんので念のため。
しかし、不思議なことに、戦場では無学な人間であったとしても、虐殺を拒否した人間もちらほらでてきてくると鶴見さんはその事例を紹介します。
もちろん、これも考え方の「たる詰」を回避できた稀有なる魂の軌跡でしょう。しかし、大多数の場合はそうではない。
では、そうであるとすれば、「個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない」として諦めることがよいのでしょうかーー。それとも思想の整合性に集中し、いっぱしの運動家きどりで「世界全部を変革するのでなければ思想でない」と言い切ってしまってもよいのでしょうか--。
鶴見さんは、もちろん、諦めと極端な考え方を退けます。なぜなら「有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想に向かわせます」からです。
では、どうしようもない現場に飲み込まれてしまった場合、どう振る舞うべきかーー。
上の文章で鶴見さんが紹介している仁木さんの歩みに……おそらく仁木さんは何か特別なことをなしているという意識はないと思うのですが、それが大事だと思います……その一つの見本を見いだすことができるのではないでしょうか。
たとえば、戦時下における残虐行為に荷担したことは「黙っていた」ほうがいいし、「おれはなんて怒クソなんだ!」と後出しじゃんけんをする必要もない。そんなことをやってしまえば、「今の思想に立っていろいろな言い訳を書く」虚偽を積み重ねてしまうことになる。またその対局にある頭デッカチの思想の整合性の追求にのみ専念することは……その専念が悪いわけではないのはいうまでもない……かえって「有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想」に転じてしまうことが多い。
※勿論、盟友・丸山眞男さんが強調したように、この国土世間は、理念的なものを軽視するから「戦略」としてそちらに軸足をおくことは必要不可欠だけれども、それは「戦略」にすぎず、それを「本質」として受容してしまうと、それが嫌悪すべき対象と同じコトにもなってしまう。
だとすれば、そうではなく、その記憶をたもちつづけ、塊から抜け出していく選択をとっていく。ここに光明が見えるのだろうと思います。
鶴見さんは慎重に言葉を選びながら、「一人の普通人」として生きることと表現しますが、そのことにより感傷的な諦念に陥るのでもなければ、思想性に惑溺するのでもない、現実と理想的なるものをつないでいく創造的な挑戦ができるのでは……。
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