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2012年12月

現在には、究極性をいれる余地がない。未来もそうだ。

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 現在には、究極性をいれる余地がない。未来もそうだ。なぜなら、未来は、やがて現在がそうなって行くものにすぎないからである。だが、こういうことは知られていない。わたしたちの内部で、究極性とつらなっている欲求の尖端を現在にあてがってみれば、それは現在をつき破って、永遠にまで達するであろう。
 未来からわたしたちを引き離す、絶望の効用は、こういうところにある。
    --シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995年、40頁。

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2012年大晦日。

正味の所、本年は、絶望の断崖に弾劾された一年だったのではないかと思う。別に死のうとは思わないけれども、生きる意味を心と頭でもう一度、最初から考え直すことができる好機になったのではないかと思う。

別にバラ色の未来を夢想して、今を犠牲にしているんだなどとごまかす必要もないし、だからといって現状に安住……というか安住すらになっていないけれども……する必要もないけれども、やるべきことをやりながら、馴化されないように警戒心をさらに高めながら、一日一日を大切にしたいと思う年末です。

さて、本年はそういう「つらい年」であったことは否定できないけれども、さまざまな人との「不思議な」(……としか表現できないんです、ほんとうに)巡り合わせ、縁というものから、点と点、線と線がつながり、私自身が取り組んでいかなければならないことが明瞭になり、そして、もういちど、ふんばるかという機会になったことには、感謝しても仕切れません。

ほんと、今年は「不思議な」“縁”に恵まれた一年だっと思います。

ブログの方は、忙しさにかまけて、申し訳ないのですが、毎日、自身の綴りを継続することの余裕を確保することができなかったのです、新しい年は、さらにブラッシュアップをかけていければとは思いますので、読者諸兄姐、新しい年もどうぞよろしくお願いします。

みなさまに、平安が訪れますように。


筆主敬白。

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覚え書:「今週の本棚・本と人:『性愛空間の文化史』 著者・金益見さん」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚・本と人:『性愛空間の文化史』 著者・金益見さん
(ミネルヴァ書房・2100円)

◇欲望と羞恥心が育てた場所

 珍しいテーマと、女性研究者であることが話題になった2008年の『ラブホテル進化論』(文春新書)に続き、その空間の成り立ちについて社会学的な視点から論を展開した。「ハイカルチャーなものだけではなく、欲望が育てたものもまた、日本の文化なのです」と語る。
 地方紙を一枚一枚めくって広告を確かめ、決してオープンとはいえない業界の関係者のもとへ足を運んだ。地道な研究の集大成が本書となった。
 「連れ込み旅館」の成り立ちや、名称やマークの変遷、建築や内装まで紹介。事例を追っていくと、そこには「隠したい」と思う日本人独特の羞恥心があったことがよく分かる。「戦後の住宅問題や家族構成など、生活文化が密接に絡み合って発展をうながしてきた」。法律上の問題もあわせ、さまざまな事情のもとで細部の工夫を凝らすさまを、「ハングリー精神のあるアイドルが、制約があるからこそ芸を磨くようなもの」とたとえてみせる。
 米国生まれのモーテルは、「人と出会わない仕組み」を追求した結果、日本版モーテルとして独自の進化を遂げた。非日常の空間をこれでもかと提供したのは、その後にはやった西洋風の城や豪華客船などの外観。風変わりな建築には違いないが、周囲の光景とズレた西欧風ショッピングモールとも、どこか根っこは同じように思える。
 一方、一つがヒットすると、同じスタイルばかりになるのは「まねしい(まねっこ)業界」だからだと指摘する。経営するのは企業ではなく家族経営の家業。見よう見まねで経営していたからこそだという。
 最後の章で「現在」が語られる。空間はシンプルになり、情報誌でもサービスが特集されるなど、女性も抵抗感なく利用できるようになっている。今後はどんな姿に生まれ変わるのか。「もうこれまでのような発展の仕方はしないと思います。普通の企業になり、経営努力をするようになりました。居心地のよい空間をやっと追求するようになったのです。そもそもマーケティングをしたら船形にはならないでしょう」
文と写真・高橋咲子
    --「今週の本棚・本と人:『性愛空間の文化史』 著者・金益見さん」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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覚え書:「引用句辞典 不朽版 王政復古=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年12月26日(水)付。

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引用句辞典 不朽版
王政復古
鹿島茂

学ぶことをしない私たち
その先に何があるのか

 南仏のいくつかの県において、ウルトラ(超王党)派の動きは手のつけられないほどひどくなっていた。(中略)タレーランは彼らを「国内にひそむ外国人」と激しい言葉で非難していた。そして、彼らに対して歴史に残るような次の言葉を吐いたのである。
 「彼らはなにひとつ学ばず、なにひとつ忘れなかった」と。
 (ジャン・オリユー『タレーラン あるいは知られざるスフィンクス』フラマリオン書店、鹿島茂訳) =邦訳は『タレラン伝』上・下巻(藤原書店、宮澤泰訳)

 エルバ島から戻ったナポレオンが百日天下の最後にワーテルローでウェリントンに破れたとき、元外務大臣のタレーランはナポレオンを見限って再びルイ十八世をかつぎ出して宰相の座におさまったが、しかし、王の周辺にいた「王よりも王党派」のウルトラ(超王党)派の連中に策謀により、政権を追われることになった。このときタレーランが口にしたのが右の名文句で、王政復古というものの本質を見事に語っている。
 つまり、王政復古とは、本質的に「他に選択肢がない」から、一度捨てたものをもう一度拾おうとする「しかたなし」の選択なのである。しかし、「しかたなく」選ばれた者たちがそうは思わないというのもまた王政復古というものの本質である。
 さて、日本でも王政復古である。三年前、「歴史的敗北」を喫して歴史の表舞台から去ったと思われた自民党が「歴史的勝利」によって政権の座に戻ってきた。その前の小泉政権による郵政民営化選挙が自民党の「歴史的勝利」だったのだから、「歴史的」という形容詞は三、四年ごとの総選挙のたびに繰り返されるわけで、本来最大級であるはずの形容詞もずいぶん安っぽい使われ方をするようになったものである。むしろ、「定例の」とでもいいかえた方がいい。
 これは二大政党下における小選挙区制では、ある程度、予想されたことで、日本のように無党派層が最大のパーセントを占める国においては、政権党に執政があって民心がどちらかに少しでも振れれば、勝敗はオセロ・ゲームのようにひっくり返り、「オール勝ち」か「オール負け」になるほかない。自民党は敵失で勝利を得ただけなので、安部政権がすこしでもヘマをやらかせば、内閣支持率はすぐに急降下し、参議院選挙までもつかどうか。
 だが、「王政復古」して政権に戻った当事者たちはそんなふうには考えないだろう。三年前に国民に見放されて惨めに政権の座から滑り落ちた時の反省などケロリと忘れ、国民は自分たちを強く支持してくれていると思い込んでいる。
 つまり、彼らは自分たちが政権を失った理由について「なにひとつ学ばず」、政権にあった間にさんざんに享受した特権や利権のことは「なにひとつ忘れなかった」のである。いずれ、「人からコンクリートへ」というスローガンのもと国土強靱化計画が本格化すれば、膨大な利権に族議員たちが群がって、配分された巨大な予算を巡って分捕り合戦が繰り広げられることだろう。
 ようするに、自民党はなにひとつ変わらず、昔の自民党が「昔の名前で」戻ってきて王政復古となっただけなのである。野にあった三年という時間は彼らが変わるにはあまりにも短すぎた。もう一期だけ野党に止まることができたなら、その間に自民党を本当に変えようとする若い力が台頭したかもしれない。
 私はこれを深く憂慮する。古い利権誘導体質が抜け切らぬ前近代的な党のまま王政復古してしまった自民党は、本格的な二十一世紀が始まろうとするこの時代の変化に応じきれずに終わるのではないか。そのため、必ずや、前と同じ過ちを繰り返すことになるだろう。そのあげく、前と同じように国民に見放されて、三年、四年後には再び「歴史的敗北」を喫することになるだろう。そして、そのときには、もはや立ち直る余力は残されていないのである。
 いっぽう、「歴史的敗北」を喫した民主党にとっては、いまこそ「民主党強靱化計画」に着手する絶好の機会である。しかし、もしかすると、こちらもまた「空想的民主主義」の体質を改善しないままに、次の総選挙でなにもしないのに「王政復古」してしまうかもしれない。
 かくて歴史は繰り返す。そして、繰り返しているうちに、とうとう、最後の大破局がやってくる。そのことは「織り込み済み」としなければならない。ただ、予想できないのは、その大破局がどんなものかという、この一点だけなのである。(かしま・しげる=仏文学者)
    --「引用句辞典 不朽版 王政復古=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年12月26日(水)付。

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覚え書:「今週の本棚・この3冊:近代日本のスキャンダル=奥武則・選」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚・この3冊:近代日本のスキャンダル=奥武則・選

 <1><決定版>正伝・後藤新平 2(鶴見祐輔著、一海知義校訂/藤原書店/4830円)

 <2>白蓮れんれん(林真理子著/集英社文庫/700円)

 <3>ピカレスク 太宰治伝(猪瀬直樹著/文春文庫/780円)

 当事者にはだれもなりたくない。でも、他人のことなら、それが大好き。ゆえに、世に喧伝(けんでん)されるスキャンダルは尽きることがない。明治・大正・昭和各時代から一つずつ取り上げる。

 明治の相馬事件。舞台は旧相馬藩主の相馬子爵家。家令らが「瘋癲(ふうてん)」(精神障害)を理由に当主を自宅内に監禁したのが発端。相馬家旧臣を名乗る錦織剛清(にしごりたけきよ)なる人物が、当主の異母弟を担ぐ家令らの陰謀として糾弾した。当主が死ぬと、彼は「毒殺」として家令らを告発する。黒岩涙香率いる「万朝報(よろずちょうほう)」は、「相馬家毒殺騒動」の連載など大々的な紙面展開で錦織を後押しした。死んだ当主の墓を発掘して遺体を解剖するといった猟奇的な経過もあった。結局、「毒殺」は否定され、錦織は誣告(ぶこく)罪で懲役刑となる。

 『<決定版>正伝・後藤新平 2』は、第四章が「相馬事件」。後藤は錦織の支援者の一人だった。告発状や診断書など資料も豊富で、詳細に事件の経過と内容を知ることができる。

 大正の白蓮(びゃくれん)事件。柳原伯爵家に生まれた〓子(あきこ)は九州一の炭鉱王・伊藤伝右衛門のもとに嫁ぐ。彼女は歌人白蓮としても世に知られ、「大正三美人」の一人と言われた美貌の女性だった。「大阪朝日」は連載記事「筑紫の女王」でその優雅な生活ぶりを取り上げた。だが、「筑紫の女王」は経済的には豊かであるものの愛なき伝右衛門との十年に及ぶ生活を捨て、若き弁護士・宮崎龍介のもとに走る。「大阪朝日」が伝右衛門に宛てた白蓮の「絶縁状」を掲載すれば、これに対抗して「大阪毎日」は「絶縁状を読みて〓子に与ふ」と題した伝右衛門の文章を連載した。当時の新聞のフィーバーぶりはものすごい。

 『白蓮れんれん』は、門外不出だった白蓮と龍介の書簡を縦横に使った伝記小説である。練達の女性作家は、「大正」という時代の雰囲気を伝えつつ、偶像化することなく、愛に生きた一人の女性として等身大の白蓮を描いている。

 昭和の太宰治心中事件。心中未遂、自殺未遂を繰り返した太宰は、一九四八年六月、山崎富栄と東京・三鷹の玉川上水で入水心中した。よく知られた事件であり、「太宰文学」に関する評論も含めれば、関連書は枚挙にいとまない。

 『ピカレスク 太宰治伝』は膨大な取材をもとに、書名のように「悪漢小説」の主人公として太宰を描いている。凡人の理解を超える太宰治その人の人生(「太宰文学」ではなく)を読み解いている。
    --「今週の本棚・この3冊:近代日本のスキャンダル=奥武則・選」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121223ddm015070006000c.html

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覚え書:「新閣僚に聞く:安倍政権 復興相・根本匠氏」、『毎日新聞』2012年12月29日(土)付。

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新閣僚に聞く:安倍政権 復興相・根本匠氏
毎日新聞 2012年12月29日 東京朝刊


根本匠復興相=中村藍撮影
 ◇復興政策を総点検−−根本匠(ねもと・たくみ)氏

 −−復興庁の人員増強や組織見直しについてどう考えますか。

 ◆復興政策を総点検し、まず問題や課題を整理する。方向性を出したうえで、具体的な組織や人員を増強するのが通例で、そういう段取りで進めていきたい。

 −−東京電力福島第1原発事故があった福島県の復興の課題は何ですか。

 ◆原発災害は放射能が問題で、その前提で施策を構築しないと、福島の復興は遅れる。避難を強いられている地域や風評被害を受けている地域への対応のメニューが不十分だ。原発に起因する災害全体に対し、どう政策体系を作り上げていくかというところが欠落しており、やっていきたい。

 −−茂木敏充経済産業相や石原伸晃原子力防災担当相は「2030年代に原発稼働ゼロを目指す」という民主党政権の方針を見直す発言をしています。

 ◆その発言は聞いているが、政府全体の方針は今の段階で白紙の状態だ。「30年代ゼロ」にしても事実上、白紙だろう。福島県の原発は廃炉にすべきだ。原発の再稼働(の判断)については、原子力規制庁ができたので、完璧に安全・安心を担保できるかどうかを見てということだ。

 −−復興予算の流用問題に対し、どういう姿勢で臨みますか。

 ◆さすがに行き過ぎだと思う予算がある。当然だが、復興財源の趣旨に沿う形になるように厳しく仕分けていきたい。【聞き手・阿部亮介】
    --「新閣僚に聞く:安倍政権 復興相・根本匠氏」、『毎日新聞』2012年12月29日(土)付。

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http://mainichi.jp/select/news/20121229ddm005010063000c.html

自由民主党福島県支部連合会

http://jimin-fukushima.jp/


第46回衆議院議員総選挙(2012年11月16日の衆議院解散に伴い、同年12月4日に公示、12月16日投開票)にあたっての自民党福島県連の「応えていく。実現していく。県民への約束」(pdf)

http://jimin-fukushima.jp/_userdata/46thseisaku.pdf

(念のための魚拓)

http://megalodon.jp/2012-1230-1423-13/jimin-fukushima.jp/_userdata/46thseisaku.pdf


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書評:秋尾沙戸子『スウィング・ジャパン 日系米軍兵ジミー・アラキと占領の記憶』新潮社、2012年。

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本書は日系アメリカ人ジェームズ・T・アラキの評伝。太平洋戦争で強制収容された一人であり、陸軍情報部日本語学校の教官。惜しまれつつ除隊し、戦後日本にビ・バップを伝えたJAZZ奏者(ジミー荒木)。そして古典学者の顔も持つ。驚いた。

有刺鉄線を経て合衆国に忠誠を誓い陸軍へ。敗戦による来日後、昼は連合国翻訳通訳部、夜はジャズメンとなる。日本人ミュージシャンたちは、フレンドリーなアラキを敬愛した。軍でのエリートコースも保障され、高名な楽団からの誘いもあったが、別の道を選ぶ。

アラキが選んだのはUCLAバークレー校で日本中世文学を学ぶ道だったのである。信長で有名な幸若舞をおいかけ、研究は能、文楽、芭蕉へ広がる。井上靖の作品の英訳も手がけている。研究で何度も来日する姿は、自身を探る旅でもあったのではないか。

筆者は、日米のゆかりの地に足を運び取材を重ね、資料を丁寧に発掘している。本書は一人の北米移民の軌跡から現代史を複眼的に捉えた秀逸な一冊である。筆者の前著『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮社)と併せて読みたい。了。


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覚え書:「今週の本棚:張競・評 『名画に隠された「二重の謎」』=三浦篤・著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚:張競・評 『名画に隠された「二重の謎」』=三浦篤・著
 (小学館101ビジュアル新書・1155円)

 ◇推理小説風の仕掛けで奥深い世界を旅する

 一冊の本が絵の見方をこれほど変えてくれたのは初めての経験だ。近代絵画の奥深さはいうにおよばず、紙背に徹する批評眼と達意の文章は美術批評の極意を雄弁に語ってくれた。

 推理小説を思わせるような語りはちょっとした遊び心だが、難解な名画をわかりやすく説き明かすのにはぴったりの小道具である。冒頭から示されているのは、マネの《笛吹き》に二つの署名があるという謎だ。数回、見たことのある作品だが、一度も気付いたことはない。意表を突かれて、真相を知りたい好奇心がにわかに掻(か)き立てられた。こうした工夫は各章にちりばめられている。

 名探偵と同じように、名画の案内人は天才的な観察力を持っている。いかなる微細な違いも決して見逃さない。アングルの《パフォスのヴィーナス》に左腕が二本描かれているのもそうだが、素人ならほとんどの場合、謎があることに気付かない。さすがに美術史家は絵を見る目は鋭い。

 むろん名画探偵はここで終わるのではない。ホームズを凌(しの)ぐ推理力はむしろここから本領を発揮する。わずかな物証を手がかりに、謎解きの旅が始まる。調査を繰り返し、現場検証を積み重ねた結果、ついに重大な事実を突き止めた。

 印象派の先駆者として、マネはかねてから日本の浮世絵版画に強い興味を示した。立体感を強調する西洋画の伝統に反して、平坦(へいたん)な色面対比を《笛吹き》で大胆に試みた。しかし、この革新的な挑戦は、簡単には認められなかった。それどころか、保守派から批判の十字砲火を浴びせられた。さすがに本人も空前の技法冒険に対し、一抹の不安があったのであろう。そうした心理のわずかな揺れが絵の細部に現れた。斜めに入れられた署名には、行き過ぎた平面性への歯止めという機能が託されている。このように、一つの署名から、美術史の背景や、新しい技法をめぐる保守派と革新派のせめぎ合いが炙(あぶ)り出された。「二重の謎」とは「二重のモティーフ」であると同時に、「二重の意味作用」でもあった。

 《笛吹き》は九つのミステリー事件の一つに過ぎない。ここから著者による探偵と推理はいよいよ佳境に入る。クールベ、ドガ、ゴッホ、セザンヌなど日本でも馴染(なじ)みのある画家をめぐる謎が次々と解き明かされた。いずれの場合も謎解きは一つの仕掛けに過ぎない。一連の「事件」を通して、フランス近代絵画史の見取図が明瞭に浮かび上がってきた。そして、謎解きの過程で、神話や宗教などを主題とした「歴史画」の特徴、裸婦の寓意(ぐうい)、空間を重層化する手法など、西洋美術の基礎知識も巧みに紹介されている。

 ヴァルター・ベンヤミンの憂鬱はどうやら美術の世界でも共有されていた。写真に象徴されるように、現実世界を複製する技術の確立によって、芸術作品の真価が問われるようになった。画家たちは誰よりもまずこの危機を直感した。そこで登場したのが、絵画の虚構性や人工性の戯れであった。「もっとも美しい絵は額縁だ」という、冗談めいた名言があったが、絵画の枠取りをめぐる謎解きを読むと、冗談とばかりはいえない真実の一面が見えてきたような気がした。

 著者がいうように、絵と対峙(たいじ)するときには、「観(み)る者もそれなりの準備、心構えを要する」。画家が熟視し、練り上げたものを解きほぐし、時間をかけて追体験しなければ、絵は何も語りかけてこない。しかし、画面とじっくり対話することによって、奥深い世界が見えてくる。本書ではその優れた手本が示されている。
    --「今週の本棚:張競・評 『名画に隠された「二重の謎」』=三浦篤・著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121223ddm015070011000c.html

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「全体の未来を守るという責任性」という観点から

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 責任性の感覚というのはどういうことかといいますと、人間がみずからの命を守っていくことと同時に人間以外のすべての生あるものの未来、たとえば動物種、植物種の未来、音楽や芸術や映画といった非身体的な価値の未来、あるいは時間に対する人間の関係の仕方とか、他者への愛や思いやりの気持ち、そしてまた宇宙のなかの融合感覚、そういったもの全体の未来を守るという責任性のことです。
    --フェリックス・ガタリ(杉村昌昭訳)『三つのエコロジー』平凡社、2008年。

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ガタリによれば、種としての人間が人間自らの命を守っていくことだけに専念するのではなく、「生あるものの未来」にたいして、そういったものの「全体の未来を守る責任性」というのが「責任の感覚」になる。

たしかにこのホーリズムとも表現できる「責任の感覚」は、ポスト工業化社会において、必要不可欠な観点になることは間違いないとは思うけれども、同じように、自身の関わる人間に対して、どちらが先でどちらが後かなどと議論してもはじまらないのは現実の世界の道理ではないかと思う。

勿論両方が大切という意義でですが。

なので……?

昨日は家族で、お鮨……回るソレですが……へ行って来ました。

一昨年来より世相はどんどん悪くなるばかりですが、家人も大切にしながら、様々なものごととのかかわりを喪失することなく、新しい年も挑戦の日々でありたいと思う次第です。

少し早いですが、新しい年もどうぞよろしくお願いします。


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覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』=キルメン・ウリベ著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚:沼野充義・評 『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』=キルメン・ウリベ著
 (白水社・2520円)

 ◇時間・空間を自由に旅するバスク語の物語

 現代バスク文学の新鋭による長編の邦訳である。訳者もバスク語の世界に分け入ろうとする若手研究者で、原作者と訳者の息が見事に合って、みずみずしい出来上がりになった。バスク語からの直接訳でバスク文学が紹介されるのは、日本ではこれが初めてである。

 「バスク」について、一般に知られているのはせいぜい、フランスからスペインに跨(また)がる地方に住む少数民族で、急進派が独立闘争の中でテロ事件を頻繁に起こしてきた、といったイメージくらいではないだろうか。実際、バスク語は俗に世界で最も難しいと言われるほど特異な孤立言語で、この言語によって書かれた文学の歴史も浅い。本書の中で、語り手が「僕らバスク人(エウスカルドウノク)はずっと、自分たちは文学的にわずかな伝統しか持ち合わせていないと思ってきた。そして、バスク語で出版された本の数を数えてみれば、あまり多くはないというのが事実だ」と嘆いている通りである。

 しかし、ウリベはあえてそのバスク語で書く。本書は詩人として既に名声を得ていた彼が初めて手がけた長編小説だが、まさにバスク語で小説をいかに書くかというプロセスそのものが小説になったメタフィクションである。語り手は著者自身とほぼ等身大と思われる人物で、その名もキルメン・ウリベ。その彼が親族や関係者を尋ねて話を聞いて、漁師であった自分の曽祖母の代に至るまで家族の物語を集め、郷里の建築家や政治活動家や画家の足跡をたどっていく。登場人物の大部分は実在するので、日本流に言えば私小説的な要素を取り込んだノンフィクションといった書き方だとも説明できる。たとえば、本書の中で決定的に重要な役割を果たす画家のアルテタは(彼の代表作である「巡礼祭」という壁画のカラー複製が小説の中に挟み込まれている)、スペイン共和国政府から最初にゲルニカを題材とした作品の制作を依頼されながら、それを断り、戦争にうんざりして家族とともにメキシコ亡命の道を選んだ人物である。ちなみに、ゲルニカとはナチスによる無差別爆撃を受けて甚大な被害をこうむったバスク地方の小都市であり、それを題材にしたピカソの絵画は世界的に有名になった。

 本書でウリベは時間を行き来して、北大西洋で漁をしていた祖父の代から、バスク地方にも大きな傷跡を残したスペイン内戦時代、そして現代へと時間をたどるとともに、世界の空間を自由に移動して、様々な少数言語の使い手が集まったエストニアの小村でセミナーに参加するかと思えば、スコットランドの小島を探訪するといった風で、一見とりとめのない書き方のようだが、歴史(縦の軸)と空間(横の軸)がまさに交わる点に立とうとする作家の姿勢はすがすがしい。彼は失われた過去のちょっとした民族的な身振りに対しても限りない愛惜の念を注ぎながらも(手の甲を優しく撫(な)でる「愛してる(マイテ)、愛してる(マイテ)」という仕草がなんと表現力豊かなことだろう!)、ジェット機とインターネットの時代に生きる現代作家として未来を切り拓(ひら)こうともしている。

 その意味では、本書の語りの全体が、ビルバオというバスクの中心都市からフランクフルト経由でニューヨークに向かう主人公の飛行機による旅と並行しながら展開していくのは象徴的だ。この移動の感覚は日本の多和田葉子やリービ英雄にも通ずる、極めて現代的なものである。バスクという「マイナー民族」の作家はいまや世界文学の土俵のうえで、民族を超えた交流の道に踏み出しているのだ。(金子奈美訳)
    --「今週の本棚:沼野充義・評 『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』=キルメン・ウリベ著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121223ddm015070002000c.html


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覚え書:「今週の本棚:富山太佳夫・評 『完訳 日本奥地紀行 1~3』=イザベラ・バード著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚:富山太佳夫・評 『完訳 日本奥地紀行 1~3』=イザベラ・バード著
 (平凡社東洋文庫・3150?3360円)

 ◇英国女性が見た明治の地方文化史

 年末から年の初めにかけての温泉旅行というのも悪くはないにしても、さしあたり今年は無理。その代わりに、せめてもと考えて、旅行記を読むことにしたのだが、途端にビックリ仰天してしまった。こんなくだりを眼(め)にしてしまったからだ。

 「ここにはハクスリーやダーウィン、ハーバート・スペンサーの著作の一部の翻訳書も置いてあるが、主人の話だと上級の学校に行っている若者が買っていくとのことである。一番売れているのは『種の起源』だとのことである」。その少し前のところには、「いちばん需要があるのが反道徳的な事柄をこれ以上詰め込めないほどに詰め込んだ本[好色本]であり、これがすべての階級の人々の道徳を堕落させている」という文章がある。旅行記の中でこのような文章に出会うことは普通は考えられないことなのだが、げんにそう書いてあるのだ。

 それが書かれたのは新潟でのこと。年号は一八七八年(明治一一年)。著者は女性で、名前はイザベラ・バード。その彼女の言葉によれば、「私はといえば、日本人の中で過ごし、ヨーロッパ人との接触による影響のない地域における日本人の暮らしぶりを目(ま)のあたりにした」。もう少し正確に言うと、一八七八年五月に横浜に上陸し、汽車で東京に向い、浅草などを見てまわり、日光にも足をのばし、会津を経て新潟へ向い、山形、秋田、青森を通って北海道に渡り、仕上げに伊勢や京都へも向う。「旅の手段は、ほとんどが徒歩か駄馬か<駕籠(カゴ)>と称される覆いのある竹製のかご(バスケット)か、<人力車(クルマ)>である」。同行したのは、伊藤(イト)という名の若い男の通訳ひとりであった。丸七ケ月間の日本の旅であった。

 まったく信じられない旅である。その旅行記にしても、各地の自然の風景、交通、宿の様子、食べものの話、人々の服装や振舞いの特徴、各地の祭りのこと等々、それこそありとあらゆることが書きしるされていると言ってもいいだろう。端的に言えば、この旅行記はこの時代の地方文化史でもある。今ではこの時代の日本の文化の諸相についての貴重な資料にもなるということである??それがひとりのイギリス人の女性の手によってまとめられたのだ。

 勿論(もちろん)彼女は並の女性ではない。体調の回復を目的として、日本に来る前に既にハワイやロッキー山脈にも旅して本を出し、日本を訪れたあとでは、中国、インド、チベット、ペルシャにも旅し、勿論朝鮮にも足を運んでいる(それらは『朝鮮奥地紀行』、『中国奥地紀行』、『極東の旅』として、平凡社の東洋文庫に収録されているのだが、昨今の世界ツアー・ブームの中では話題にもならないようである)。

 夏目漱石が英国留学をした折りに持っていたはずのイギリスについての知識と較(くら)べてみると、ほぼ同時代の彼女が日本について持っていた知識の量は桁違いであったように思われる。彼女は日本の総人口(三四三五万八四〇四人)や人口密度(一平方マイルあたり約二三〇人)のことを知っていただけでなく、「アイヌが一万二〇〇〇人とヨーロッパ人・アメリカ人・中国人を合わせて約五〇〇〇人いる」とも書いている。彼女は、短期間ではあるものの、アイヌの人々と一緒に暮らして、その生活や文化についても報告しているのだ。この旅行記の核心部分はそこにこそあるだろう。そして訳注--素晴らしい。全四巻となるこの旅行記は、我が国の翻訳史上の傑作となるはずである。(金坂清則訳注)
    --「今週の本棚:富山太佳夫・評 『完訳 日本奥地紀行 1~3』=イザベラ・バード著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121223ddm015070004000c.html

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国民が自分の方からわれわれに委任したのだ。……つまりは自業自得ということだ

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……自分は、国民に同情はしない。国民がみずからこの運命を選択したのであれば、なおのことだ。一九三三年、ドイツの国際連盟脱退の是非を問う国民投票が行われた時、国民は自由投票によって隷属の政治を捨て、果敢な挑戦の政治を選ぶ決断をした[この投票では四五〇〇万人の有権者の九五%が脱退に賛成したとされる]。その挑戦が今や挫折したのだ。こう述べるとゲッベルスは席から立ち上がって、つけくわえた。
 「確かにこのことは少なからぬ人々にとって驚きだろう。……しかし思い違いをしないでもらいたい。われわれはドイツ国民に無理強いしてきたわけではない。同じように私はいかなる人間に対しても、自分の部下になるよう無理強いした覚えはない。国民が自分の方からわれわれに委任したのだ。……つまりは自業自得ということだ」。
    --ヨアヒム・フェスト(鈴木直訳)『ヒトラー最期の12日間』岩波書店、2005年、65頁。

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近頃、タカ派の政治家たちが「白紙委任」という言葉を頻繁に使っていることに驚いてしまう。民主主義の手続きによって「選ばれたこと」は、イコール「白紙委任」されたということではない。

選ぶチャンスというのは、数年に一度の選挙という窓口を通してしか存在しないが、選挙で選ばれて「お任せ」されたということは、何も好き勝手をやっていいという意義ではない。
※もちろん、お任せ民主主義、ヒーロー民主主義は問題なのは言うまでもないけれども。

そもそも、政治家とは、お任せされて恣意的に動いてよいわけではない。日本の場合、憲法遵守義務が課せられているし、そもそも、有権者の「下僕」に過ぎないわけだから、有権者からの、投票行動以外のチェック機能や異議申し立てを無視してよいわけではない。

そのことを意図的に誤解して「維新」だのなんだのと甘言を弄する連中が目立つことに危惧してしまう。

さて思い出すのは、第二次世界大戦最終盤のベルリン市街戦においてのゲッペルスの言葉だ。

「確かにこのことは少なからぬ人々にとって驚きだろう。……しかし思い違いをしないでもらいたい。われわれはドイツ国民に無理強いしてきたわけではない。同じように私はいかなる人間に対しても、自分の部下になるよう無理強いした覚えはない。国民が自分の方からわれわれに委任したのだ。……つまりは自業自得ということだ」。

小気味よいものいいの政治家たちを信任するのがどういう結末を迎えるのか、ひとつの重大な事例なのではないだろうか。

「自業自得だ」なんて言われて死んでいくというオチとか嫌ですな。

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覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『俺たちが十九の時-小川国夫初期作品集』=小川国夫・著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚:堀江敏幸・評 『俺たちが十九の時-小川国夫初期作品集』=小川国夫・著
 (新潮社・1890円)

 ◇飾りのない言葉が映す「若き修行者」の苦しみ

 かつて作家を志す者たちは、一篇の作品を完成させ、世に認められるまで、発表の当てもなくただ書きたいという気持ちだけを支えに、日々原稿用紙に向かい、おびただしい草稿で行李(こうり)をいっぱいにした。苦行の内実は、もちろん自己申告である。本人が話さなければそんな伝説が広まるはずはないし、語ったら語ったで胡散臭(うさんくさ)さが残る。

 平成二十年に亡くなった小川国夫にも、「どこへ行く当てもない原稿」を書き溜(た)めていた時代があったという。反故(ほご)の山、もしくは完成しているのに発表に至らなかった言葉の山を、彼はある随想のなかで「蜆(しじみ)塚」に見立てていたが、遺品から発見された「優に数千枚に及ぶ草稿」によって、当時の創作活動が明らかになった。その中に、形になっていながら未発表に終わった原稿が含まれていたのである。

 発見の経緯については、遺稿整理を担当した編者解説に詳しい。本書に収められているのは、昭和四十年、島尾敏雄によって『アポロンの島』が激賞され、広く認められる以前に書かれた八篇。一九五二年の「おろかな回想」には、「で、私はこうして死んでいるわけですが、あの時はたしかに生きていた。今思えば、生とは夢ですな」といった戯作(げさく)調の語りが見られて興味深いのだが、他の作品で扱われている舞台や素材は、基本的に後年の方向性を示しているものばかりだ。故郷である静岡県藤枝市の周辺、フランスを中心とするヨーロッパ、そして、みずから信者でもあったキリスト教を素材にした作品群という三つの柱は、二十代の頃からすでにできあがっている。

 飾りのない線分のような言葉の行方は、酸味と熱を帯びたままあやうい均衡状態にとどまるか、抑え切れずに暴発するかのふた通りしかない。たとえば表題作の「俺たちが十九の時」が抱えているのは後者の方だが、展開の小さなつなぎに前者が介入してくるところに、のちの小説の核に当たる部分が見える。「俺は自殺だって出来るよ」という友人の台詞(せりふ)と暗示的な風景描写が、暴力の予感を増幅してゆく。主人公は夜、不安に駆られてこの友人のもとへ自転車を走らせる。

 「変電所がゆうべの電燈を消してしまって、冷い光の中に見えて来た。軽便鉄道の褐色のレールはカーブしてそこを掠(かす)めていた。変電所の肩を張ったような鉄の塔の下には澄んだ流れがあり、蛇が葦(あし)の茎を呑(の)んでしまって棒のようになった自分の体をもてあましているのを俺は見た。」

 もてあましているのは「俺」自身、つまり作者の投影と思(おぼ)しき主人公、柚木浩の胸中なのだが、葦の茎を呑み込むような心身一体となった苦しみは、下級生の男子への眼差(まなざ)しを彼によく似た女子生徒のそれに重ねる「霜と虹」にも、中尉から関係を迫られてそれを拒むという掌篇を軸にした「少年」にも、主人公が心惹(ひ)かれている女性の甥(おい)を殺してしまう「叔母、甥」にも共有されている。

 同性・異性を問わず、誰かを強く想(おも)い、強く見つめるとき、小川国夫の主人公はどこか殉教者の衣をまとう。駿河の海が地中海に直結し、時代は一挙に古代ローマにまで遡(さかのぼ)って、主人公がみな、進んで葦の茎を呑み込んだ《あの人》と称される人物からの「試み」を受けているような印象をもたらす。末尾に置かれた「永遠の人」のユニアは、光の消えた変電所の周りを言葉で照らそうとする、ひとりの小説家でもあるだろう。

 小川国夫は最後まで十九歳の修行者だった。《初期》という限定は、その意味で、必ずしも正しいとは限らないのである。
    --「今週の本棚:堀江敏幸・評 『俺たちが十九の時-小川国夫初期作品集』=小川国夫・著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121223ddm015070012000c.html


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書評:サルヴァトーレ・セッティス(石井朗訳)『“古典的なるもの”の未来―明日の世界の形を描くために』ありな書房、2012年。

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サルヴァトーレ・セッティス(石井朗訳)『“古典的なるもの”の未来―明日の世界の形を描くために』ありな書房、2012年。

古代から現代へ至るヨーロッパ精神史を“classical”を切り口にしながら、その本質といってよい「ヨーロッパとは何か」を浮き彫りにする好著。

著者は古典的なるものの再興が果たしてきた役割を本書で検証するが、時代ごとの強調点には違いがあり、首尾一貫したものではない。

ギリシア・ローマの文明は、ヨーロッパのルーツと憧憬されるが、現在でいうヨーロッパ的要素とほど遠い要素も多いのは事実だ。しかし、それが、廃墟と美術作品を通して理想化され、ヨーロッパ化されていく構造の指摘は刮目させられる。

歴史の連続に人は注目するが、人の歴史とは、断絶を連続へと転換するものなのだろう。邦訳で二百頁未満の小著ながら、人文学の伝統とその変遷をたっぷりと味わうことのできる一冊だ。

ヨーロッパ文明とそのの根幹にあるものに触れることができる。

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覚え書:「時代の風:人口減国家の債務解消=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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時代の風:人口減国家の債務解消=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ
毎日新聞 2012年12月23日 東京朝刊

 ◇技術革新と成長不可欠

 日本にとって一番の問題は人口だ。この問題こそ国民的議論が必要だ。16日の衆院選で、日本の人口が多すぎるので1億人まで減らそうという政党があっても良かったし、年金制度や労働力を維持するために強い人口増加策を取るべきだと掲げる政党があってもよかった。人口が1億人を割るのも一つの選択肢だが、人口が減少し続けると、歯止めがきかなくなるかもしれない。急降下する飛行機に墜落しない保証がないようなものだ。人口政策には、比較的少ない人口での安定、出生率向上、移民受け入れ、女性の労働参加率向上などの戦略がある。人口増加には住宅政策や家族手当など、あらゆる社会政策が必要だ。だが私の知る限り、今回の選挙で人口政策は重要な争点にはならなかった。そのことに驚いている。

 人口が減少している日本では、将来の世代の債務負担は重くなっていく。だが債務の深刻さを直視していない。これは非常に危険なことだ。

 債務危機の表れ方は国ごとに異なる。以前は債務を抱えていたのは貧困国だったが、今は先進国だ。同じ債務国でも米国、欧州と日本ではそれぞれ全く状況が違う。米国は目もくらむほどの債務を抱えているが、無限に通貨を発行することができる。日本の債務は国内総生産の2倍だが、低金利で国内市場から資金調達ができる。だが最終的には米国は破産するかもしれないし、日本もこの状態を長期間続けることはできない。というのは、日本は国内の貯蓄すべてを国債の購入に回さなければならなくなるので、産業へ投資できる資金が減っていくからだ。一方、欧州の場合は、債務が国内総生産の8割程度と比較的少なく、人口の減少も日本ほど壊滅的ではない。

 (衆院選で勝利した)日本の自民党政権は2%のインフレターゲットを掲げている。歴史上、国家の債務を解消するには、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、国外からの援助、デフォルトの八つの戦略がある。このうちインフレは歴史的にも非常に頻繁に使われる方法だ。インフレは債務を実質的に最小限に減額する効果が期待できるが、その分のツケを誰かに支払わせる。物価が上がる分だけ人々の購買力は低下する。金利が一定なら、貨幣価値が下がる分だけ公的債務の実質額が下がる半面、債権者、預金者は損をする。

 日本のような高齢化社会では高齢者が得をし、若い世代は損をし続ける。高齢者施設を訪問する政治家は多いが、保育園を訪問する政治家は少ない。乳幼児に投票権はないのだ。本来、高齢者は孫たちのことを思う祖父母のように行動しなければならない。

 世代間格差の解消という意味では、インフレ政策は所得再分配機能を持つ。預金を目減りさせることで、若い世代より預金額の多い高齢者が損をし、預金が比較的少なくローンを抱える場合の多い若者に有利になる。

 インフレ政策とは債権者、預金者にツケを支払わせる、暗黙の債務帳消しなのだ。道徳的な問題があるにもかかわらず、債務問題の解決策として非常によく用いられてきたゆえんだ。

 ただ注意しなければならないのは、もしインフレ政策に伴って金利が上がれば、全員が損をするということだ。金利上昇分だけ、政府が支払うべき債務も膨らむ。諸外国と違い、日本の公的債務の債権者はほとんどが日本人であるため、金利の抑制は他国よりは比較的容易だ。とはいえ、もし金利が上がれば、日本にとって致命的になる。インフレ政策で公的債務を解消するには、金利の上昇を防ぐことが何より重要だ。

 通常、インフレは円の価値を下げるが、物価上昇率と為替レートは、それぞれが独立している。円が高すぎるのは事実で、輸出を促進するために円安に誘導することは重要だ。今のところ世界経済は、第二次大戦の一因となった1930年代のような通貨切り下げ競争にはなっていない。だが、今後切り下げ競争が起きる可能性は否定できない。各国の保護主義につながれば世界経済を破局に導く恐れがある。また円安は原油の輸入コスト上昇につながるため、エネルギー消費を大幅に削減することができなければ脱原発との両立は難しい。

 一方、債務の解消には経済成長も重要だ。だが公共事業の拡大は多額の公的債務を抱えた国には不適切だ。それをまかなう増税が前提となる。日本の場合、課税水準が低すぎるのは明らかで、例えば消費税率は欧州と同水準の20%前後が必要だ。

 成長のために日本が取り得る政策は、欧州と同じように、技術革新の促進だ。未来につながる神経科学やナノサイエンス、ロボット、遺伝子関連、エネルギーなどで日本は世界をリードしている。今後、日本がやるべきことは簡単で、若い研究者を育てることだ。少子化が進めば、技術革新を進める研究者がいなくなってしまうかもしれないからだ。=毎週日曜日に掲載 =石川善丈氏撮影
    --「時代の風:人口減国家の債務解消=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/opinion/news/20121223ddm002070108000c.html

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覚え書:「今週の本棚:『「移民列島」ニッポン』=藤巻秀樹著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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今週の本棚:『「移民列島」ニッポン』=藤巻秀樹著 他文化共生社会に生きる
(藤原書店・3150円)

 日本に住む「移民」と正面から向き合ったルポルタージュである。「日本にホントに移民がいるのか」とぶかる向きに、彼らの苦悩や喜びの肉声を伝え、その息づかいまで細かく描写してみせる。
 著者は日本経済新聞編集委員。日系ブラジル人が集住する保見団地(愛知県豊田市)とアジア人が多い大久保(東京都新宿区)、そして外国人妻がいる農村社会(新潟県南魚沼市)でそれぞれ1カ月間にわたる住み込み調査を行った。
 さらに東京・池袋のチャイナタウン、高田馬場のリトル・ヤンゴン、大阪・生野のコリアタウンなどにも足しげく通った。取材対象は500人を超える。これほど多様な定住外国人の密着ルポは例がない。
 その結果、見えてきたのが21世紀の縮図としての「移民列島」だ。欧米での人種的なあつれきなどで、移民にマイナス・イメージを持つ人もいるが、グローバル化と人口減少が進む日本でも、移民受け入れは避けては通れぬ重要な政治的課題である。
 日本社会は異文化、他文化にどうしたら柔軟に対応できるのか。著者は同質社会からの脱却を呼びかけ、日本人に変化を求める。
    --「今週の本棚:『「移民列島」ニッポン』=藤巻秀樹著」、『毎日新聞』2012年12月23日(日)付。

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真の自由、真の始まりがあるとすれば、それは、つねに運命の頂点にあって永遠に運命をやり直すような真の現在を要請するであろう

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 政治的な意味でのさまざまな自由は、自由な精神の内容を汲み尽くすものではない。ヨーロッパ文明にとっては、自由とは人間の運命に関するひとつの考え方を意味している。人間の運命とは、人間に行動を促す世界ならびにその諸可能性を前にした人間の絶対的自由の感情である、というのだ。〈宇宙〉を前にして、人間は永遠に自己を刷新しつづける。極論すれば、人間は歴史をもたないのである。
 それというのも、歴史とはこのうえもなく根深い制限であり、根本的な制限であるからだ。人間的実存の条件たる時間は何よりも、とり返しのつかないものの条件である。ある事柄が成就されると、それは逃れ去る現在に持ち去られて、人間の支配を永久に免れるのだが、にもかかわらず、それは人間の運命に重くのしかかる。事物の永遠の流れや、ヘラクレイトスのいう虚しい現在ゆえの憂鬱の背後には、消去不能な過去の終身性の悲劇が存していて、それはイニシアチヴを過去の継続でしかないものたらしめる。真の自由、真の始まりがあるとすれば、それは、つねに運命の頂点にあって永遠に運命をやり直すような真の現在を要請するであろう。
    --レヴィナス(合田正人訳)「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」、『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年、93-94頁。

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人間の自由とは、それに関する一覧表のようなものがあらかじめ存在して、その一つ一つが獲得されているのか・あるいは・されていないのかとか、政治的に保証されているのか・あるいは・されていないのか、を確認する作業によって、数え上げられたり、特徴を指摘したりされたりするものではないのではないか。

たしかに、人間の自由の歴史とは、いくつかの焦点に合わせて、その獲得具合を目安にすることで、その内実をはかることは不可能ではないし、そうした「保障」を狭めようとする政治的蠢動が有象無象とし始めている現下の風潮を省みるに、それに対して、抗することは無意味ではなく必要といってよいと思う。

しかし、合理的・功利的・策戦的アプローチによって、人間の自由なるものの充全性を語ることは不可能なんだと思う。

そして、その対極に位置する、ロマン主義的アプローチによっても不可能であることも明らかではないだろうか。

だとすれば、どこに存在するのか。

「真の自由、真の始まりがあるとすれば、それは、つねに運命の頂点にあって永遠に運命をやり直すような真の現在を要請するであろう」。

レヴィナスがうえの文章を書いたのは、ヒトラーが政権を獲得した翌年の1934年のこと。ヨーロッパ大陸では、人間の自由を侵害するナチズムに対して、単純な遵法闘争によってなんとかなるのではという楽観主義と、ロマン主義的悲観主義の立場から内向への撤退による自存へと、ひとびとは揺れ始めた。

どちらか一方が素晴らしく、どちらかが無駄というわけではない。しかし、それだけでないところに、「自由」が定位することを認識として含意しておかない限り、後出しじゃんけん式に歴史に全体性に回収されてしまうのも事実であろう。

さて……。
本日12月25日は、エマニュエル・レヴィナス大先生のご命日(1995年)。

師の思索を、もういちど、生活のなかで、読み直しておきたいと思う。


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覚え書:「書評:社会運動の戸惑い [著]山口智美・斉藤正美・荻上チキ [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2012年12月16日(日)付。

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社会運動の戸惑い [著]山口智美・斉藤正美・荻上チキ
[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)

■フェミニズムと保守との対話

 1990年代半ばに登場した「ジェンダーフリー」という言葉は、フェミニストによって政治化され、99年の男女共同参画社会基本法成立を牽引(けんいん)した。しかし、自治体による条例づくりの過程で、保守派の反対運動が顕在化する。彼らは「ジェンダーの解消」を極端な思想と認識し、批判を展開した。本書は、2000年代のフェミニストと草の根保守の対立過程を詳細に描く。
 問題は、ジェンダーフリーという言葉の輸入プロセスに端を発する。日本のフェミニストは、米国の教育学者ヒューストンの提唱する概念として流用したが、彼女はジェンダーフリーを不適切なアプローチと主張していた。この誤読とミスリーディングが、保守派の反発を喚起する。
 草の根保守運動は、ジェンダーフリーの極端な部分にターゲットを絞り、誇張を含む形で批判を繰り返した。これは硬直化したフェミニストに違和感をもっていた一般層に届き、一定の支持を獲得した。
 フェミニストたちは、保守派の反発を「バックラッシュ」とラベリングし、反動的な無理解と一蹴した。一方、保守派も敵を巨大組織に見立て、扇動的批判を展開した。荻上が言うように「保守運動とフェミニズム運動の対立は、あわせ鏡のような構図だった」。両者が論敵を「悪魔化」し、「怖い人間」だと身構えた。恐怖心は運動を先鋭化させ、バッシングを加速させた。
 著者たちは、負の連鎖を乗り越えるために、フェミニズム側に立ちながら、保守運動の当事者と面会を重ねた。そこで見えてきたのは、運動を支える人々の温厚な人間性であり、対話の可能性だった。
 私たちは、異なる意見を持った相手に勝手なイメージを押しつけ、不信感ばかりを強化していないか。対話や理解をはじめから捨て、攻撃することに専心していないか。
 問いはジェンダーフリー論争を超えて、すべての社会運動を突き刺す。
    ◇
 勁草書房・2940円/やまぐち・ともみ 米大学教員。さいとう・まさみ 富山大学教員。おぎうえ・ちき 評論家。
    --「書評:社会運動の戸惑い [著]山口智美・斉藤正美・荻上チキ [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012121600015.html

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みんなの広場
普通の常識で見極めよう
主婦 65(大阪市生野区)

 第三極として注目された「日本維新の会」の代表代行、橋下徹・大阪市長を連日マスコミが取り上げる中で、疑問が生まれた。衆議院解散の3日後から全国遊説に回ったと伝えられたが、市民感覚として「公務はどうなっているのか」と。
 橋下氏は大阪府知事の頃から職員に対し、あらゆる事に、公務員としてどうなのか」と厳しい要求を出し、一人一人についての調査まで行った。「僕は選挙で選ばれた公選職。政治活動は当たり前」という主張は開き直りに聞こえる。まさに「心ここにあらず」。市から報酬を得ている立場としては実に無責任だと思う。
 3年前、民主党のパフォーマンスに多くの国民が「任せてみよう」と政権交代を実現させたが、その結果は周知の通り。橋下氏の言動に同じような結末を予想してしまう。混迷の時代だからこそ、普通の人の常識で、これからの生活を託すにふさわしい人物であるかどうか、しっかり見極めるべきだと思う。
    --「みんなの広場 普通の常識で見極めよう」、『毎日新聞』2012年12月21日(金)付。

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覚え書:「みんなの広場 人命に優先するものはない」、『毎日新聞』2012年12月21日(金)付。

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みんなの広場
人命に優先するものはない
会社員 60(神戸市中央区)

 福島で原発事故が起きて既に2度目の年末を迎えた。この間、原発に依存し続けるのか否か、が激しく問われてきた。今回の衆院選でも色合いの違いこそあれ、どちらを選択するのかが問われたが、両者の決定的な違いは、優先すべきは「経済」か「安全」かということに尽きる。
 金融資本主義といわれる世の中になり、貧富の格差が拡大する今日、何かが狂っているとしか思えない現実に戸惑うばかりだ。果たして、「人命」に優先する価値あるものなど存在するのだろうか。「命あっての物種」ではないのか。経済成長は本来、国民生活を豊かにするために目指すものではなかったか。
 生存すら脅かす原発だ。今の人類の知恵では制御不可能であることを率直に認め、廃炉へ向けた研究にまい進すべきである。「経世済民」の原点に今こそ立ち戻るときだ。
    --「みんなの広場 人命に優先するものはない」、『毎日新聞』2012年12月21日(金)付。

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覚え書:「書評:ヴェールの政治学 [著]ジョーン・W・スコット [評者]鷲田清一」、『朝日新聞』2012年12月16日(日)付。

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ヴェールの政治学 [著]ジョーン・W・スコット
[評者]鷲田清一(大谷大学教授・哲学)

■仏共和制の矛盾、映し出した排除

 2004年、フランス議会は、公立学校において宗教的帰属を「誇示」するアイテムの着用を禁じた法律を可決した。10年には、公共の場で顔を覆い隠す服装を禁止する法律を成立させた。標的とされたのは、ムスリム女性の、前者ではヘッドスカーフ、後者ではブルカである。ブルカを装着している女性が、フランスのムスリム人口の0・01%にも満たないにもかかわらず、である。
 人権先進国といわれるフランスが、服装の自由を否定してまで防禦(ぼうぎょ)しようとしたものはいったい何だったのか。なかでもイスラームのヘッドスカーフ(ヴェール)がまず標的になったのはなぜか。
 ヴェールは、フランス人の多くにとっては、イスラーム文化の後進性と女性に対する抑圧(家父長制の犠牲)の象徴であり、イスラーム移民の「同化」の挫折の象徴であったが、ムスリムにとってはときに個人のアイデンティティの表明方法であり、ときに集団としての抵抗の防壁でもある。いやムスリムにとってはと言うのは不正確で、とうてい一括(くく)りにはできないほど多義的なものである。
 にもかかわらず、ヴェールを一つの象徴として、イスラームを無理やり一つの型へと括ろうとするのは、それが「共和国」の理念、「ライシテ」(政治の脱宗教性)という国是の侵犯と映ったからである。
 この問題の根には、すべての個人が同じであると仮定することで成り立つフランス特有の普遍主義、いってみれば「人権」の普遍性を掲げるナショナリズムという逆説がある。著者によればこれもまたまぎれもない一つの信仰なのに、普遍性を謳(うた)うがゆえに、これに従わない人たちの存在を事前に否認し、政治という交渉の場所から排除してしまう。
 過剰な投影が錯綜(さくそう)するヴェール問題は、共和制もまた一つの信念体系であることに幕をかける。そこに透けて見えるのは、政治的平等と性的差異の矛盾という共和制の根幹の問題であり、フランス社会の歪(いびつ)なジェンダー体制であり(訳者の言うように、慰安婦問題が日本社会内部のジェンダー問題として論じられることも少ない)、深刻化する内政問題の堆積(たいせき)である。ヴェールはこれらを外部に転倒的に映すスクリーンなのであった。
 著者はここから、「同化」という、何かを共有することで成り立つ普遍化(「われわれ」の拡張)ではなく、すべての人に共通なるものこそ「差異」であるという視点を対置する。「普遍」という名の統合は差異を削(そ)ぎ落とし、多文化主義ははてしなき相対主義にはまり込む。そのあいだで排除ではなく交渉を軸とする政治が求められているというのだ。「ヴェール」はもはや彼の国の問題ではない。
    ◇
 李孝徳訳、みすず書房・3675円/Joan Wallach Scott 1941年、ニューヨークでユダヤ系の家庭に生まれる。プリンストン高等研究所社会科学部教授(フランス労働史)。英語圏におけるジェンダー歴史学の草分け的存在。著書に『ジェンダーと歴史学』など。
    --「書評:ヴェールの政治学 [著]ジョーン・W・スコット [評者]鷲田清一」、『朝日新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012121600010.html


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現にある宗教と宗教とが互いに磨き合うこと

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北森 曾我量深先生は私が尊敬する仏教学者の一人ですが、「往生と成仏」という論文で次のようにいっておられます。

 われわれはやはりキリスト教でも仏教でも、お互いに語り合うて、そうして別に仏教者がキリスト教にかわるとか、キリスト教が仏教にかわるとか、そういうことをしないでもですね、両方が互いに話し合い、両方が互いに磨いていくということが必要でなかろうかと、こう思うのでございます。(『中道』一九六七年一〇月号)

 曾我先生はここで、「磨き合う」という表現を使っておられるんですが、さきほど中村先生がおっしゃったグローバルな宗教というようなものが、もし将来見通すことが許されるとすれば、現にある宗教と宗教とが互いに磨き合うことによって到達できるのではないでしょうか。
    --中村元、北森嘉蔵「わたしのなかのブッダとキリスト」、『中村元対談集Ⅰ 釈尊の心を語る』東京書籍、1991年、247-248頁。

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『中村元対談集Ⅰ 釈尊の心を語る』(東京書籍)読んだ。この対談集には、「神の痛みの神学」で名高い、日本を代表する独創的な神学者・北森嘉蔵先生との対談が収録されている。

初出は、『季刊恒河』(秋冬号、学習研究社, 1983. 11)。両者ともに、仏教とキリスト教に徹底的に沈潜していくものの、その普遍的な眼差しを見てしまうと、もうどちらが基督者で佛教者なのか分からぬほど、卓越していて驚いてしまう。

この対談では、中村、北森両先生が、それぞれの宗教環境を含む生い立ちから学問・宗教との出会い、その核心の開陳と展望という構成になっている。

白眉は慈悲と悲。仏教の慈悲の思想、キリスト教の悲の思想(ここではまさに「神の痛みの神学」の“悲”)が語られるが、そこには宗学の狭量臭さは存在しない。

一点に集中しつつも、それだけで発想しない相互学習としての思想史の必要性へと議論は進むが、これは仏教学、神学だけに限定されない地平であろう。

北森先生は、尊敬する仏教学者の一人・曾我量深氏の言葉を紹介している。

「われわれはやはり、キリスト教でも仏教でも、お互いに語り合うて、そうして別に佛教者がキリスト教にかわるとか、キリスト教が仏教にかわるとか、そういうことをしないでもですね、両方が互いに磨いていくということが必要でなかろうか」。

中村先生は、それを受けて「古い表現では切磋琢磨なんていいますが、それは漠然と考えたものを、別の機縁を与えられてそこでパッと目が覚めて、もういっぺん反省してみて、深い構造的理解をもたらすということじゃないかと思うのです」と。

もちろん、それは狭義の仏教研究の域を逸脱するけれども、それでいい。

なぜなら、それは「人間の真理を探究するのですから」。

勿論、恣意的でOKだよと同義ではない。

しかし、宗学なりの枠組みを鸚鵡返ししていくだけでなく、真宗学がバイブルを使っていいだろうし、クリスチャンが『スッタニパータ』を学ぶことによって、より自身を深く理解することは不可能ではない。

中村先生はかねてより、アカデミズムとしての仏教学とその始原としての宗学の訓詁注釈主義を批判してきた。

二千数百年もある仏教の歴史から見れば、日本の宗学だなんて、たかだか七百年(鎌倉仏教)でしょう、というわけで、まさに「伝言ゲーム」(植木雅俊)の最後のところだけで喧々囂々やってもはじまらない。

もちろん、独りよがりとか独り超越は避けるべきことは言うまでもないが、異なることと向き合うことによって、それ自身がより深く明らかになることのほうが多いのではあるまいか。


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覚え書:「【書評】江戸の読書会 前田勉著」、『東京新聞』2012年12月16日(日)付。

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【書評】江戸の読書会 前田 勉 著 

◆異見を認める自由な精神
[評者]姜 信子 作家。著書に『棄郷ノート』『うたのおくりもの』など。

 明治維新から百五十年このかた、日本の近代のはじまりを告げた御一新にあやかって、なにかと維新を叫ぶ人々が繰り返し出てくるが、さて、そもそも「維新は何によって維新たりえたのだろうか」。本書に引用されているこの問いは、明治維新百年の際に思想史家藤田省三が発したものであるが、同時に本書を貫く問いでもある。
 本書がその一つの答として差し出すのが、江戸の「会読の精神」だ。会読とは、俗世間の身分や先入観にとらわれることなく、対等に虚心に議論を戦わせ、異見を尊重しあう読書会。それは、江戸の厳格な身分制社会にあって、タテ社会の障壁や地域の隔たりを横断して新たな関係を結んでゆく自由な精神の空間だった。荻生徂徠によって儒学の学びの場に本格的に取り入れられて以来、会読は儒学の私塾、幕府の昌平坂学問所、藩校、さらには国学、蘭学でも盛んに行われたという。
 何よりここで注目すべきは、一見近代精神とは相容(あいい)れないように見える朱子学に、実はリベラルな会読の精神が宿っていたということ。そして、科挙という制度を持たない江戸の社会では、学問が立身出世のための実利の道具にはならなかったということが、むしろ会読の精神を豊かに育み広げていったという逆説なのである。
 学芸の核心を成す自由な精神に満ちたこの会読こそが、明治近代国家の礎となる「政治的公共性」を準備し、自由民権運動の民主主義の精神の母胎にもなった。その一方で、明治の学制により学問が立身出世の道具となったとき、会読の精神が見失われることになったというもう一つの逆説…。
 はたして、新たなはじまりをもたらす自由な精神は、混沌(こんとん)たる今を生きる私たちのもとにあるのか? 実利とは異なる喜びと豊穣(ほうじょう)をもたらす学芸の精神を私たちは見失ってはいないか?
 江戸の読書会の風景を前に、湧きいずる痛切なる問いである。
まえだ・つとむ 1956年生まれ。愛知教育大教授、日本思想史。著書『近世神道と国学』など。
(平凡社 ・ 3360円)
<もう1冊>
 田村俊作編『文読む姿の西東』(慶応義塾大学出版会)。絵画に描かれた読書の情景から、文化的装置としての書物の歴史を読み解く。
    --「【書評】江戸の読書会 前田勉著」、『東京新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012121602000176.html


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覚え書:「私の社会保障論 投票を促すことの難しさ=湯浅誠」、『毎日新聞』2012年12月21日(金)付。

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暮らしの明日
私の社会保障論
投票を促すことの難しさ
湯浅誠 反貧困ネットワーク事務局長

求められる「共感の技法」

 昨年の震災・原発事故以来初となった今回の衆院選は、終わってみれば自民党への再度の政権交代をもたらし、投票率は戦後最低だった。低当票率をもって「自民党を支持した人は決して多くない」と言う人がいるが、他の政党はさらに低い支持しか集められなかったのだから、自民党の相対的優位は変わらない。むしろ今回は「いかに一人一人を投票へと促すことが難しいか」を痛感した。


 投票期間中、主にインターネットを活用しながら、投票を呼びかけたり政策を比較したりするサイトが多数できた。運営した人たちはそれぞれ一生懸命だったあし、私も少しだけ協力させてもらったが、期待した結果は生まれなかった。もちろん、それらの努力がなければ、さらに低い投票率になっていた可能性があるのだから「意味がなかった」ということはない。ただ、ネット上の呼びかけに「もちろん行くよ!」と力強く答える人たちを見ていると、この人たちは、呼びかけられなくても積極的に投票に行く人たちなのかもしれない、と思う。
 問題は、そもそも選挙に関心のない人は、なかなかこうした呼びかけにも反応してくれない、ということだろう。テレビや新聞などで報じられても、関心のない人はそもそも見ていないし、見ても記憶にとどめてくれない。それは、私が貧困問題を訴える中で数限りなく経験してきたことだ。関心のないところに関心を呼び起こすことは、本当に難しい。
 社会保障に対する関心や理解も同じだ。病院通いを欠かせない人は、医療費の増減に気をもむだろう。しかし、健康体の人に「関心を持ってほしい」といっても、その大変さは想像しにくい。子育て支援の充実は、すでに子育てを終えた人たちにはなかなか響かない。高齢者の将来への不安は、若者の理解を得にくい。
 人は誰でも、自分の生活実感に基づいて社会を見ている。それを超えてもらうためには「共感の技法」が必要だ。押し付けがましく説教しても、相手は逃げるだけだ。


 選挙にしろ、社会保障にしろ、訴えるべき核となる部分は大事にしつつも、さまざまな背景や価値観を抱えた多様な人々が、自身の生活実感のリアリティーと結びつけて共感しやすいように、他面的な呼びかけをネットワーク型で構築する必要がある。
 もし、今回投票した59%の人たち一人一人が、関心のないもう一人を投票に赴かせることができれば、投票率は100%になる。「そんなことはあり得ない」と言わずに、参院選までの約8カ月という時間を意識していきたい。社会保障のありかたを考える上でも、参院選は再び大事な選挙になるのだから。

今回の衆院選結果 12党による乱戦の結果、自民党が294議席と圧勝。公明党を加え衆院選で3分の2の勢力を確保した。民主党は57議席の惨敗で野党に転落した。ただ、自民党の投票率(比例代表)は27.6%で前回(26.7%)並み。小選挙区の投票率は59.32%と戦後最低となり、低当票率と政党の乱立による票の分散が、自民党に有利に働いたとの見方もある。
    --「私の社会保障論 投票を促すことの難しさ=湯浅誠」、『毎日新聞』2012年12月21日(金)付。

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覚え書:「みんなの広場 考えさせられた初の総選挙」、『毎日新聞』2012年12月18日(火)付。

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みんなの広場
考えさせられた初の総選挙
学生 20(横浜市南区)

 私にとって初の総選挙はいろいろなことを考えさせられるものとなりました。初当選した議員は晴れて政治家になれたこと、再選された議員は地位を守れたことを喜ぶよりも、投票率の低さを悲しむべきです。そして、悲しむだけでなくこれが何を表しているのか考え、どのような行動を取るのかを国民に宣言すべきです。さらに宣言の後、行動に移すべきです。
 私と同世代の人が、期日前投票に行った際に、選挙管理委員会の人たちから「ああいう子でも投票しに来るんだ」と言われ、笑われたそうです。若者は政治に無関心だと言われていますが、それは大人たちがそのように解釈することで、若者の意欲をそいでしまっているように感じます。
 しっかりした意見をもっている中高生もいます。政治家には、そのような若者の意見を聞く機会をぜひ持ってほしいと思います。そしてこの当初が政治家の目にとまり、実際にそのような機会が設けられることを願っています。
    --「みんなの広場 考えさせられた初の総選挙」、『毎日新聞』2012年12月18日(火)付。

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「さいきんのわかいものは」よく考えている

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 長谷川平蔵の足どりがゆらゆらとゆれはじめた。気もちがよかったので、二人がのんだ酒は相当の量であり、平蔵がこれなのだから、忠吾のほうはたまったものではない。
 「ああ、たまりませぬ。ああ、もう……ご、極楽でございます……こ、こうなるともう、やはり、女より酒でございますな、長官……」
 ふらふらと山間をぬけ、嵯峨野の西端へ出たところで、
 「う、ひゃあ……」
 またも忠吾が大仰な嘆声を発した。
 あたり、いちめんの菜の花であった。
 嵯峨野は春たけなわの午後の陽ざしにぬれ、高らかに雲雀が鳴きわたってゆく。
 春の木々、春の草のにおいの中を泳ぐようにして歩むうち、よろりと、長谷川平蔵が腰を落として、
 「忠吾(うさぎ)、昼寝だ」
 そのまま、仰向けに若草の中へうち倒れた。
    --池波正太郎「兇剣」、『鬼平犯科帳 二』文春文庫、2000年。

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さて、木曜日は、年度末ではなく、年内の最終講義。
授業が済んでから、前期から、エマニュエル・レヴィナスの勉強会を一対一でやっている学生さんと、軽くのつもり(が例のごとく、重くなるというw)の忘年会。

時間としては、がっつりという感じではありませんでしたが、すてきなひとときをありがとうございました。

ホント、大人達は、「さいきんのわかいものは」などとしたり顔をして、さも、社会だの世間だのを「俺たちは良く知っている」と風を切る。

しかし、若い学生さんたちと時間を共有すると……そして、私の場合、うんこのような「非常勤」なので、いろんな連中から、もうぼろくそ批判されるけれども、そういう非常勤であったとしても、若いひとたちと時間を共有することができるという環境には感謝……、実際のところ「さいきんのわかいものは」というのは、そうではない。

「さいきんのわかいものは」……という連中こそ、何も考えていなくて、「さいきんのわかいもの」こそが、物事をよく考えいると思う。

ともあれ、授業も勉強会も、一段落。

新年あけての最終講義、そして勉強会も新しい挑戦への出発へとしていければと思います。

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覚え書:「みんなの広場 石原代表の核兵器発言を危惧」、『毎日新聞』2012年12月18日(火)付。

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みんなの広場
石原代表の核兵器発言を危惧
無職 75(京都府精華町)

 衆院選で3番目の議席数を獲得した、結成して間もない日本維新の会。その代表である石原慎太郎氏が公示前に日本外国特派員協会で講演した際の発言に危惧を抱いています。
 「日本は核兵器に関するシミュレーションぐらいやったらいい。これも一つの核抑止力になる。持つ、持たないのは先の話だ」と述べ、核兵器保有について研究すべきだとの考えを示しました。尖閣諸島の東京都買い取り発言に続き、大変驚かされました。諸外国との関係が悪化し、日本国民が軽蔑されるだけでなく、再び日本企業などへの悪影響が心配です。また国益が損なわれる恐れがあります。
 私は日本国憲法をじっくり読み直しました。現憲法と非核三原則は、日本の在るべき姿の基本中の基本だと信じています。日本は被爆国として核の廃絶を求め続けています。今後も世界の平和に貢献すべきです。原発事故による放射能汚染にいまだ翻弄されている中でこのような発言をする石原代表に反省を求めます。
    --「みんなの広場 石原代表の核兵器発言を危惧」、『毎日新聞』2012年12月18日(火)付。

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覚え書:「記者の目:安倍政権と歴史問題=西川恵(外信部)」、『毎日新聞』2012年12月18日(火)付。

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記者の目:安倍政権と歴史問題=西川恵(外信部)

 日本の右傾化が内外で話題となる中、その空気を体現するように党内右派の安倍晋三氏率いる自民党が総選挙で圧勝した。安倍新首相の外交における重要なポイントは、前回と同様、歴史問題をどう管理するかだと思われる。

 ◇国際的公共益を念頭に外交を

 右こそ右を抑えられるといわれるように、首相時代(2006年9月-07年9月)、安倍氏は信念の靖国神社参拝を自制し、小泉純一郎政権下で悪化した中韓との関係改善を果たした。今回、領土問題で再び中韓、特に中国との関係が最悪に陥る中で再登板するめぐり合わせとなった。

 前回のように巧みにさばいてほしいが、衆議院で公明党と合わせ3分の2を超える議席を獲得し、独自色を打ち出すチャンスと安倍氏が捉える可能性もある。ここで歴史問題全般に触れる余裕はないので、私が一つの懸念材料とみている従軍慰安婦問題を取り上げる。

 ◇河野談話見直し表明した安倍氏

 安倍氏は、この問題で「おわびと反省」を述べた河野(洋平)官房長官談話(1993年)を見直す考えを明らかにしている。「狭義の強制(いやがる女性を無理やり連行したこと)はなかった」とし、「これを正さないと将来の日本の人々に申し訳ない」という趣旨のことを述べた。

 私は以前、オランダで従軍慰安婦問題をかなり深く取材した。日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを占領した際、オランダ人女性を慰安婦にした問題だ。

 安倍氏は従軍慰安婦に対して不特定多数を相手にした公娼(こうしょう)所にいた女性のイメージを抱いていて、貧しさなどから働くようになった人もいて「狭義の強制はなかった」と言いたいのだろう。

 しかし、女性たち全員が公娼所のようなところにいたわけではない。河野談話に基づいて95年に設立されたアジア女性基金は、韓国、台湾、フィリピン、オランダを対象に従軍慰安婦への償い事業を行った。オランダでは女性75人を従軍慰安婦と認定したが、中には日本人将校の愛人にされた人妻や、13歳の時に日本人将校に愛人にされ、子供を産んだ女性もいる。

 また当時、日本兵のホモセクシュアルの相手をさせられたオランダ人少年4人がいた。アジア女性基金はこの4人も従軍慰安婦のカテゴリーに認定し、女性と同様に福祉・医療費支援を行った。つまり従軍慰安婦といってもさまざまで、少女や少年もいた状況にあって、狭義か広義かの区分は意味をなさない。

 「愛人にされた女性は本来の従軍慰安婦ではない」との反論もあろう。しかし今日、欧米は従軍慰安婦問題をすぐれて女性の人権にかかわる問題として捉えている。強制連行があったかどうかに関係なく、女性を嫌悪すべき状況に置いたこと自体を人権違反と捉えている。

 ◇独りよがりでは日本は孤立する

 すでに07年、米下院本会議で日本に対し、慰安婦問題で謝罪を要求する決議案が採択された。オランダ、カナダ、欧州連合(EU)も続き、同種の決議が議会で採択された。領土問題で国際社会の支持とりつけに走り回っている日本外交にとって、この二の舞いは大きな打撃である。

 最近の右傾化の空気で私が危惧するのは、国際社会の共通認識や価値観と乖離(かいり)したところで、独りよがりともいえる議論が時折、目につくことだ。これは個人的な心情や倫理観を位相の異なる政治の場で扱おうとする態度にもつながっている。

 米国のある識者は「右傾化によって、日本は短絡的な見方しか持てなくなっているように感じる」と指摘した。反中感情があおられ、長期的ビジョンを練る余裕がなくなっているというのだ。

 戦争の惨禍をアジアに及ぼした日本は二度と排他的利益を求めず、国際的な公共益に沿ったところで自国の国益を追求していくことを課せられていると思う。ドイツが機会あるごとに「ドイツの欧州にはしない。欧州のドイツになる」と言うのと同じ脈絡だ。

 政府開発援助(ODA)や国連平和維持活動(PKO)はまさに国際的な公共益に貢献しつつ、日本の国益を広げてきた格好の政策である。国際社会が日本に抱く好印象と高い期待も、国際的公共益を常に念頭においてやってきたことの結果といえるだろう。

 先の従軍慰安婦問題も女性の人権という公共益の中に位置付け、日本が主導権をとる形で解決できるはずだ。アジア女性基金というノウハウも持っている。国際的な公共益に背を向けるような「狭義の強制はない」といった主張は、日本を孤立させかねない。
    --「記者の目:安倍政権と歴史問題=西川恵(外信部)」、『毎日新聞』2012年12月18日(火)付。

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http://mainichi.jp/opinion/news/20121218k0000m070096000c.html

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覚え書:「みんなの広場 開戦の日に平和を強く望む」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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みんなの広場
開戦の日に平和を強く望む
無職 80(鹿児島県出水市)

 12月8日は太平洋戦争が始まった日である。あれから71年が過ぎた。戦争の記憶が風化するのが怖い。
 1941(昭和16)年のこの日、午前6時の大本営発表を告げるラジオで開戦を知った。私は国民学校の3年生。記憶に間違いがなければ終戦間際は徴兵年齢が引き下げられ、17歳前後の少年も敵国と戦った。少し下の我々は一丸となって戦う心構えをたたき込まれた。上限も45歳に引き上げられ、銃後の守りは老人と女性、子供だった。
 今や死語となった食料などの配給や供出で生活は苦しかった。食べたいものも食べられず、着たいものも着ることができない。今は賞味期限切れの食料品を捨てたり、給食の食べ残しが多いと聞く。私にはもったいなくてできない。時代が変わっても悲惨な戦争は起こしてはならない。世界中の人が肝に銘じてほしい。恒久平和を強く望む。
    --「みんなの広場 開戦の日に平和を強く望む」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:井波律子・評 『われらが背きし者』=ジョン・ル・カレ著」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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今週の本棚:井波律子・評 『われらが背きし者』=ジョン・ル・カレ著
 (岩波書店・2730円)

 ◇世界を包む謎、実感させる「巨匠」最新作

 『寒い国から帰ってきたスパイ』など、スパイ小説で知られる英国ミステリーの巨匠ジョン・ル・カレの最新作。ル・カレは原著が出版された時(二〇一〇年)、七十九歳だったが、その重厚かつ緻密な語り口と物語展開はますます成熟の度を深め、読者を堪能させてくれる。

 物語は、オックスフォード大学の英文学教師ペリー(三十歳)が自分の生き方に疑問を感じて、学問の世界を離れようと決心し、区切りをつけるべく、聡明で美しい恋人の弁護士ゲイルとともに、カリブのアンティグア島に赴き、一世一代の豪華なバカンスを過ごすところから幕を開ける。しかし、ここで怪しげな雰囲気を発散するロシア人実業家ディマとその家族と知り合ったことから、事態は思わぬ方向に展開する。ディマはテニスを通じて親しくなったペリーを信頼して重大な秘密を打ち明け、彼に援助を求めたのである。

 その話によれば、ディマは若いころからロシアの犯罪秘密結社ヴォーリーのメンバーであり、冷戦後はロシアのマネーローンダリング(不正な資金をさまざまな手段で浄化すること)のボスとして暗躍してきたが、ヴォーリーのリーダーによって、愛弟子夫婦を殺され、身の危険を覚えたため、家族ぐるみ英国に亡命したいとのこと。ちなみに、ディマの家族は浮世離れのした妻タマラ、妻との間に生まれた双生児の少年、その異母姉の美少女、愛弟子夫婦(妻はタマラの妹)の遺児である二人の少女という、複雑な構成である。壮絶な経験を経てきたディマの雄々しい姿に魅了されたペリーと、暗い表情の少女たちに心ひかれたゲイルは、このディマの困難な依頼を引き受け、陰謀の渦に巻き込まれてゆく。

 帰国後、ペリーはつてをたどって英国諜報(ちょうほう)部と接触し、ディマの依頼を伝えるが、ここからはル・カレの独壇場、渋い魅力を放つ諜報のベテランが次々に登場する。かつては世界を股にかけたスパイだったが、今は冴(さ)えない窓際族のルーク、その上役の度胸満点のヘクター、ヘクターとルークの助手をつとめる万能裏方仕事師のオリーといった面々である。これに、出世主義者の諜報部事務局長のビリーが絡み、事態は複雑の度を増す。

 ペリーとゲイルは何度もヘクターやルークの事情聴取を受けるが、このやりとりはスパイ小説とは思えない、一種、入り組んだ心理劇のような綿密な構成をもって描かれている。なかでも、冴えない老いたスパイ、ルークの屈折した心理の描写は圧巻というほかない。

 こうしてえんえんとつづく事情聴取、および周到な準備工作のはてに、ようやく事態は進展し、ペリーとゲイルはルークらとともに、パリからスイスのベルンに向かい、ディマ一家の救出にとりかかる。直接、彼らをロンドンに移動させるのは危険であり、ルークがベルンのホテルで、かつて英国諜報部に所属し今は政界入りしている大物も加わる会合に出席するディマを脱出させ、ペリーとゲイルがひとまず家族を郊外の隠れ家に運ぶという段取りである。紆余(うよ)曲折はあったものの、両面作戦は成功し、ディマ一家は首尾よく一堂に会することができた。しかし、なかなかロンドンへの出発は果たされない。

 彼らは念願どおりロンドンに飛びたつことができたのか。誰が「背きし者」なのか。最後にスリリングなドンデン返しも仕掛けられており、息づまる展開がつづく。世界は深い謎に包まれていると実感させられる、文字どおり上質のエンターテインメントである。(上岡伸雄・上杉隼人訳)
    --「今週の本棚:井波律子・評 『われらが背きし者』=ジョン・ル・カレ著」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121216ddm015070029000c.html


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書評:フレデリック・マルテル(林はる芽訳)『メインストリーム 文化とメディアの世界戦争』岩波書店、2012年。

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 第三の要因(引用者注……ヨーロッパ文化の衰退)として考えられるのは、ヨーロッパ的な文化の定義--文化を過去からの遺産として常に歴史的にとらえ、しばしばエリート主義的で反メインストリームの文化論に直結する--が、グローバル化とデジタル化の時代に対応しきれなくなっていることだ。コンテンツという視点から考えると、ヨーロッパ的な定義による「文化」はもはや国際標準の文化とは言えない。文化市場としてのニッチ製品としては重要だが、マスカルチャーの製品ではないのだ。ヨーロッパは今なお造形芸術、クラシック音楽、現代舞踊、前衛的な現代詩などの分野で卓越性や質を追求する世界のリーダー役だ。だが、これらの芸術作品が国際市場で流通する量はブロックバスター、ベストセラー、ヒット曲などにくらべれば、実に微々たるものである。アメリカと違って、ヨーロッパは文化の受容や供給をあまり気にしないのだろうか? 経済の非物質化とグローバル化が進む現在、芸術をあまり狭く定義すると作品の制作や発信を妨げることになるのではないか? ムンバイやリオをはじめ、世界中いたるところでジャンルが混じり合い、文化の定義が一つだけではなくなっている今日、卓越性の追求と商業化の拒絶を基幹とする、高踏的であまりに厳格な文化的序列はすでに意味を失っているのではないか? 芸術文化を技術と厳密に区別すること自体、インターネットの時代にそぐわないのではないか? グローバル化する創造産業やコンテンツはこうした文化の序列や区別にほとんど無頓着で、芸術文化を否定も肯定もせず、一切の評価を下さない。文化は市場や経済活動の「外部」に位置することではじめて価値あるものになるのだろうか?
    --フレデリック・マルテル(林はる芽訳)『メインストリーム 文化とメディアの世界戦争』岩波書店、2012年、452-453頁。

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テーマは世界の文化とメディアの地政学。メインストリームとは多様な消費文化を指すが、「みんなが好きな文化」のこと。エンターテイメントを巡りアメリカの覇権とそれに挑戦する新興勢力台頭の現状を世界各地の調査から報告する。

筆者の調査は世界30カ国5年に及ぶ。各国の急速な台頭にもかかわらずアメリカの文化支配は圧倒的だ。第一部はその経緯を明らかにする。それはハードとソフトの両面で世界に通用するモデルを提示し続け、発信元の現場を大切にするからである。

そして、アメリカ文化の源泉は「教育・人材育成、イノベーション、リスク負担、創造性、大胆さ」。一人一人の創作者の文化的な創造性を保証するところに強さがある。またアメリカの一人勝ちは、押しつけではなく状況対応に迅速であることも理由の一つである。

アメリカの強さが資金や物質的な豊かさにのみに見出すことこそ警戒すべきであろう。第二部は、「文化とメディアの世界戦争」。コンテンツをめぐる熾烈な「世界戦争」の現象が紹介。アラブや南米など各国の地域文化に基づく挑戦も興味深い。

著者はフランス人。ただし嫌米的な冷淡さは全くなくクールに現状をレポートするし、アメリカ的画一化との展望は退け、将来に対しても悲観的ではない。デジタル化とグロバール化は、文化の細分化と画一化の両方をもたらすからだ。

「国境の内側に引きこもり、単一のアイデンティティを堅持したところで自分たちの影響力を増すことなどできるはずがない」。確かにアメリカ文化は圧倒的だ。しかし唯一のメインストリームを創る国ではなくなるだろう、と結ぶ。文化産業の現状を詳細に概観する興味深い一冊、了。


http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0249510/top.html

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覚え書:「今週の本棚:池内紀・評 『フランス組曲』=イレーヌ・ネミロフスキー著」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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今週の本棚:池内紀・評 『フランス組曲』=イレーヌ・ネミロフスキー著
 ◇池内紀(おさむ)・評

 (白水社・3780円)

 ◇誇り高く優雅な「占領下の観察」

 連作にあたる小説二編と作者ノートなどがついて計五六五ページ。強力な磁石にすいよせられるようにして読みふける。その魅力の秘密は何だろう?

 語られる状況、経過、人物の動き? たしかにそれもある。一九四〇年六月が初まりだ。第二次世界大戦に突入して二年目。五月、ドイツ軍は西部戦線に総攻撃をかけてルクセンブルク、オランダ、ベルギーを席捲(せっけん)、フランス軍の守りの要マジノ線を突破。パリ陥落目前である。「大砲の音はまだかなり遠くで鳴っていたが、やがて近づき始め、それにともなって窓ガラスがふるえ出した」

 いまや通りに人影はない。店は鉄の鎧戸(よろいど)をおろしている。死のような静けさのなか、またたくまに噂(うわさ)がひろまった。ドイツ軍がセーヌを渡ったという。静けさが破れ、通りに人の波があふれ出た。いっせいにパリを捨てる。われ先に街から逃げる。一作目の「六月の嵐」は、嵐のようなパリ市民たちの大脱出(エクソダス)を語っていく。

 歴史的経過をまじえると、六月十四日、ドイツ軍、パリ入城。十六日、対独協力のペタン内閣成立。二十二日、独仏休戦協定調印。フランスはドイツ軍占領地区と非占領地区に二分された。

 二作目の「ドルチェ」は、占領地区の小さな町の一年を述べていく。主だった家や農家が占領軍の宿泊所になり、ドイツ軍将校たちがフランス人家族と一つ屋根に住み、日常をともにする。夫が出征して留守を守る美しい妻と、教養に富み、礼儀正しく、音楽好きのドイツ人青年中尉。タイトルは音楽用語で「甘く、やわらかに」の意味。

 裕福なブルジョワ一家、名の知れた作家と愛人、銀行幹部、同じ銀行の会計係夫婦。あるいは小さな町の名士の屋敷、町外れの農家、避難地の夫婦とその隣人……。いくつもの家族の経過が時間をたて軸とし、短いシーンの組み合わせを横軸としてオムニバス映画のようにえがかれていく。語り口、スピーディなテンポ、それもまた強力な磁石の役まわりだが、やはりそれだけではないだろう。魅力のありかは、あきらかに素材や形式をこえている。ただこの作者ひとりにあって、とうていほかでは見出(みいだ)しえないもの。ひとことにしていうと、精神の緊張と偉大な優雅さ。

 巻末につけられたノートや資料にあたるとわかる。「六月の嵐」は、まさに嵐の渦中で書きつがれ、占領下の小都市の経過は、占領下の小さな町で書き上げられた。作者イレーヌ・ネミロフスキーには、ほかにどんな手だてがあっただろう。ロシアに生まれたユダヤ人銀行家の娘は、ロシア革命とポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れてパリに移り、二十六歳で才気あふれる女性作家としてデビューした。以来、十年あまり。才能がまさに大輪の花を咲かせる矢先に世界大戦の大波が押しよせてきた。生活、信仰、信条すべて非の打ちどころのないフランス市民だというのに、フランス政府は早々と白旗をかかげ、昨日までの隣人が「私を突き放したあの者たち」に変貌した。作者ノートの書き出しにある。「国が私を拒絶するなら、こちらは国を平然と観察し、その名誉と生命が失われていくのを眺めていよう」

 一九四二年七月、フランス人憲兵がユダヤ人検挙にやってきた。同じ運命を覚悟した夫の手で原稿は小型トランクに詰められ、幼い娘に託された。世に出るのは六十二年後のことである。文学のフシギさ。怨念(おんねん)をこめた「観察」が、書きつづられるうちに変貌をとげ、卑しさを押しのけて人間の尊厳があらわれ、誇り高い矜持(きょうじ)が組曲の旋律のように流れている。(野崎歓・平岡敦訳)
    --「今週の本棚:池内紀・評 『フランス組曲』=イレーヌ・ネミロフスキー著」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121216ddm015070030000c.html


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人類を愛するなんてね……、そんなことはできないですよ。隣のオッサンだって愛せないことがあるのに(笑)

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加藤 これは『夕陽妄語』に書いたこともあるし(「近うて遠きもの・遠きて近きもの」、『朝日新聞』一九九九年一〇月二〇日付夕刊)、書かなかったこともあるんですが、核エネルギー、原子力の問題は「戦争」か「平和」か、という単純な図式に当てはまらないと考えたわけです。
 反核兵器運動がそのまま戦争がない平和に結びつくかといえば、戦後、核兵器なしの戦争が何度起きたでしょうか。核廃絶は、戦争一般の否定にはつながらない。
 それから、いきなり、「世界平和」に話を持っていくと、本当の問題から話をそらすことにつながる可能性がある。「世界平和」の実現は、ほとんど不可能でしょう。不可能なことを抽象的に掲げることで、具体的に可能なことへ努力を集中することを妨げてしまう。
 二一世紀の日本人および日本政府の使命は、例えば、東アジアの安全への努力でしょう。中国や韓国、朝鮮半島との間の緊張関係をやわらげる。そして、例えば、国境付近の領土問題で仮に紛争が起こっても、どちらも武力を持ち込まないという程度に、国家間の信頼関係を築くことに全力を尽くすべきである。こういう具体的な目標はいいと思うんです。
 ところが、そういう具体的に取り組める問題に触れることなく、「世界平和」と来ると、現実には、話をそらすことに作用するんじゃないかと思うんです。「世界平和」は、ほとんど可能性がない。現にいまでも地球上では戦争が進行している。すると、「世界平和」という抽象的な理念は、事実上は何もいっていないことに等しいんじゃないでしょうか。
 それから、「人類皆兄弟」とか、「人類は皆愛し合う」というのも怪しいですね。人類が愛し合うなんていうことは永久に来ないんじゃないでしょうか。少なくとも、われわれが努力して達成できる範囲ではない。計画にはある程度の実現性がともなわなくてはならない。
 人類を愛するなんてね……、そんなことはできないですよ。隣のオッサンだって愛せないことがあるのに(笑)。いやなヤツはいくらでもいるでしょう。隣人の話をすっとばして、いきなり人類愛というのは、ずいぶん遠いですからね……。
    --加藤周一、凡人会「原子力と『世界平和』」、『いま考えなければならないこと 原発と震災後を見据えて』岩波ブックレット、2012年、19-20頁。

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中央線沿線の市民の読書座談会に呼ばれて、今から10年以上前に、加藤周一さんが語った文章を読んでいます。

ちょうど阪神・淡路大震災、それから東海村JCO臨界事故を受けて、こうしたものにどう向き合っていくのか、という点を論じたものですが、その切れ味に驚いてしまいます。

加藤さんは別に、「世界平和なんてザレゴトですよん」と世の中を斜視しているわけではありません。言うまでもない話ですけれども。

しかし、その純粋な「希求」“だけ”というのは、往々にして、「不可能なことを抽象的に掲げることで、具体的に可能なことへ努力を集中することを妨げてしまう」というのは、怜悧な現実ではないでしょうか。

その意味で、釘刺すアイロニーとしての「いま考えなければならないこと」は、真剣に引き受ける必要があると思う。

たしかに、「『人類皆兄弟』とか、『人類は皆愛し合う』というのも怪しいですね」。

レヴィナス老師が喝破した通り、愛とは序列を生むものであり……誰かを愛するということを想像してみてください……必然的に全員を等しく愛することなんて不可能です。しかし、だからといって、ケ・セラ・セラ~♪というのが加藤さんやレヴィナス老師の本意ではありません。

ケ・セラ・セラ~♪は論外ですけれども、それでも稚拙に「世界平和ガー」と熱くなっても、「現実には、話をそらすことに作用する」……。

とすれば、どうするか……って話になります。

具体的な目標と、抽象的な目標を私たちは相互に関係し合わない別々のものと考えてはいないでしょうか。

本来それは両者が双発的に影響を与えることで、有効に機能する筈ですから、理念に惑溺する熱血革命家のお花畑でもなく、シニシズムで嘯くのでもない、毎日できるような地に足をつけた挑戦をやっていくしかないんだろうと思う。

これは、平和だけの問題ではないですよね。

3.11以降の高踏的批評の限界は……もちろん、それが全て無意義という短絡ではありませんので、念のため……実際のところ、20世紀の変革理論の隘路から抜け出せていないのではないか、そういうことを最近、痛感いたします。

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覚え書:「今週の本棚・この3冊:ジョン・ル・カレ=池澤夏樹・選」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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今週の本棚・この3冊:ジョン・ル・カレ=池澤夏樹・選

 <1>スマイリーと仲間たち(村上博基訳/ハヤカワ文庫/1470円)

 <2>リトル・ドラマー・ガール 上・下(村上博基訳/ハヤカワ文庫/品切れ)

 <3>ロシア・ハウス 上・下(村上博基訳/ハヤカワ文庫/品切れ)

 丸谷才一さんはミステリが好きだった。

 スパイ小説はミステリの一分野であり、二十世紀後半のイギリスで最高のスパイ小説を書いたのがジョン・ル・カレである以上、丸谷さんがこれを読んでいないはずはないと思っていた。しかし、新刊の『快楽としてのミステリー』(ちくま文庫)の中にエリック・アンブラーやイアン・フレミングやグレアム・グリーンは論じているのにル・カレについてはほとんどないに等しい。

 『猫のつもりが虎』(文春文庫)の二ページにわたる記述を見落としていたのだ。「冬のアイス・クリーム」の章で『ロシア・ハウス』の中でアイスクリームを食べる場面のことを実に楽しそうに書いておられた。丸谷さん、やっぱりお読みでしたかとこちらも嬉(うれ)しくなった。

 ジョン・ル・カレ、出世作は『寒い国から帰ってきたスパイ』(ハヤカワ文庫)。その後で「スマイリー三部作」を完成させて地位を不動のものにした。ミステリだからゲーム性は充分にある。しかしそれを覆うほどの人間たちの描写がいい。彼らのふるまいや会話、一瞬のしぐさ、身に着けたもの、性癖、などを通して悲哀が読む者に寄せてくる。

 スパイとは結局は信頼の否定であり裏切りである。だからそれをあばく側に訪れるのは勝利感ではなくせいぜい空虚な達成感なのだ。「スマイリー三部作」はソ連諜報(ちょうほう)部を率いるカーラとイギリスで同じ地位にいて一度は失脚するジョージ・スマイリーの対決の物語で、最後の『スマイリーと仲間たち』でカーラを捕まえる。この結末がなんとも苦い。

 三部作が完成したのが一九七九年。対ソ連という舞台を使い切った後、一九八三年に書かれた傑作が『リトル・ドラマー・ガール』。主題はイスラエル=パレスチナ問題だった。ヨーロッパ各地で爆弾を仕掛けるパレスチナ側のテロリストをイスラエルの諜報部が追う話だが、ジョン・ル・カレのリアリズムはそうそう簡単に一方を悪役にしない。潜入の任務を負ったイギリスの若い女優が見る難民キャンプの光景は現代の世界を生々しく映している。

 ふたたび話をロシアに戻した『ロシア・ハウス』は一九八九年。冴(さ)えない中年のイギリス人が惚(ほ)れたロシア女を救い出すために自分の国の諜報部相手に仕掛けるトリックが見事で読後感も爽快、ですよね丸谷さん。
    --「今週の本棚・この3冊:ジョン・ル・カレ=池澤夏樹・選」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121216ddm015070032000c.html

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「不毛な興奮」を慎重に退け、「事柄(ザッヘ)への情熱的献身」を引き受けるということ

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 政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)--責任感(Verantwortungsgefuühl)--判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(ザッヘ)」〔「仕事」「問題」「対象」「現実」〕への情熱的献身、その事柄を司どっている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲオルク・ジンメルがつねづね「不毛な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。インテリ、とくにロシアのインテリ(もちろん全部ではない!)のある種のタイプに見られた--ジンメルの言葉がぴったりな--態度、また現在「革命」という誇らしげな名前で飾り立てられたこの乱痴気騒ぎ(カーニヴアル)の中で、ドイツのインテリの間でも幅をきかせているあの精神態度。そんなものはむなしく消えていく「知的道化師のロマンティシズム」であり、仕事に対するいっさいの責任を欠いた態度である。実際、どんなに純粋に感じられた情熱であっても、単なる情熱だけでは充分ではない。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力--これは政治家の決定的な心理的資質である--が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。ドイツのインテリの卵たちの間ではこうした傾向が育成されれば、彼らの将来は政治的無能力を宣告されたも同然である。実際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である。政治は頭脳でおこなうもので、身体や精神の他の部分でおこなうものではない。であるが、もし政治が軽薄な知的遊戯でなく、人間として真剣な行為であるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によって培われる。しかし、距離への習熟--あらゆる意味での--がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」単なる政治的ディレッタントから区別する、あの強靱な魂の抑制も不可能となる。政治的「人格」の「強靱さ」とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。
 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離--この場合、自分自信に対する距離--にとって不倶戴天の敵である。
    --マックス・ヴェーバー(脇圭平訳)『職業としての政治』岩波文庫、1980年。

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なんというか……。
想像していた予測通りなのではあるのですが、懲罰としての投票行為が、さらなる巨悪を招き寄せ、その間隙を突くように第三極という有象無象が跋扈するというのが現状ではないだろうか。

鬱憤をはらす当て馬的な選択こそ、民主主義を根幹から揺るがす暴挙ではないか。

こういう名目的な脊髄反射が続くところをみるにつけ、ワイマール末期や戦前の二大政党制の終焉期を想起してしまう。

その意味では、これも何度も言及しているけれども、数年に一度の「お祭り」騒ぎで「はじまった」「オワッタ」とだけ評して、あとは丸投げにするというスタイルから卒業することが必要なんだろう。

自分が一票を託した政治家や政党が、その掲げるものを履行するのかどうか、そして何らかの暴挙を阻止することができるのかどうか、そのことを注視・注文し続けていくほかあるまい。

現実には、特効薬なんて存在しない。

必要なのは、「不毛な興奮」を慎重に退け、「事柄(ザッヘ)」への情熱的献身(その事柄を司どっている神ないしデーモンへの情熱的献身)を引き受けていくしかない。

何度も紹介しているけれども、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』の末尾の一節を冒頭に掲げておく。

これは政治家にだけ要求される資質ではあるまい。

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覚え書:「今週の本棚:2012年「この3冊」/下  ◇村上陽一郎(東洋英和女学院大学長・科学史)」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。


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今週の本棚:2012年「この3冊」/下(その2止)
毎日新聞 2012年12月16日

 ◇村上陽一郎(東洋英和女学院大学長・科学史)

 <1>魂について--治癒の書 自然学第六篇=イブン・シーナー著、木下雄介訳(知泉書館・6825円)

 <2>神学大全=トマス・アクィナス著、稲垣良典訳(創文社・刊行中)

 <3>ピアニストのノート=ヴァレリー・アファナシエフ著、大野英士訳(講談社選書メチエ・1890円)

 通常の紙上では、なるべく邦人のオリジナルをと心がけている。ここでは翻訳を。

 <1>アヴィセンナのラテン語名で知られるイスラム世界最大の学者の重要な著作の邦訳。近代語訳を造るだけでも業績となる世界だが、精密な日本語に置き換えることの労苦と、それによる恩恵に敬意を籠(こ)めて。

 <2>先人の訳業を継いで、現在第三部を中心に訳者が、じっくり腰を据え、詳細な注、索引などを付して刊行中のもので、未完ではあるが、読書界の話題の一つとしたいので、敢(あ)えて。出版し続ける書肆(しょし)にも敬意を。

 <3>ピアノ演奏界の異才が日本の読者へ書き下ろした。禅に深く傾倒し、お寺にピアノを持ち込んでシューベルトのソナタを魂で弾く著者のノート。断片的で多少追いかけ辛(づら)い文章だが、率直な評言もあって無類に面白い。
    --「今週の本棚:2012年「この3冊」/下  ◇村上陽一郎(東洋英和女学院大学長・科学史)」、『毎日新聞』2012年12月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121216ddm015070054000c.html

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寡婦の声はもちろん天下を動かすに足らず、しかれどもかれらもまたその憂愁を訴うるの権利を有す。

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 寡婦の声
 戦争は国家の利益ならん、しかれども寡婦もまた国家の一部分なり。寡婦の声はもちろん天下を動かすに足らず、しかれどもかれらもまたその憂愁を訴うるの権利を有す。かれらの声はもちろん国家の聴くところとならず。しかれどももしかれらにしてかれら刻下の真情を語るの自由を与えられんには、かれらは声を放って言わん、「戦争はわれらにとっては非常の苦痛なり」と。
    --鈴木俊郎編『内村鑑三所感集』岩波文庫、1973年、131頁。

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いつもは期日前投票ですませるのですが、平日に時間が割けず、結局、ひさしぶりに投票所の足を運ぶことになりました。

12:00前に投票所を訪れましたが、割と混雑していることにうれしく喜びました。投票率は前回より低いということですが、現実にはどうなのでしょうか……ね。

さてと……
政治で「何かが変わるわけねーや!」とふて寝を決め込んで、投票しないのはどうかとは思う。しかし同じように、口角泡を飛ばす喧々囂々の床屋政談にのみ熱をあげるのもどうかと思う。

確かに「政治」で「変えることができる」ところはあるから、投票行動によってアクセスすることは必要不可欠だ。しかし、「政治」で「変えることができる」のが苦手な、本来的には「政治」に属する分野も存在する。だから、投票もしなければならないと思うけれども、投票したら「はい、それでよし」と決め込んで、後者をスルーしてしまうと、何かがはじまらないような気がする。

勿論、「俺は後者をきちんとやっているから、投票しないぜ」と妙に意識高く留まるのことに対しても……、「んんん???」とはなってしまうけれども、「~にすぎない」から「どうでもいい」ではなくて、結局、そうした両義性をひきうけていかないかぎり、すなわち自分自身の考え方やライフスタイルの見直しからはじめなき限り、「何かが変わる」わけはないんじゃないのかなぁ、などと思う次第です。

その両義性を“ひきうける”とは、つまるところ、そうした「政治」という分野に限定される問題ではないことはいうまでもない訳ですけどね。

そんなことを最近、実感する。

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覚え書:「書評:BOOKS ON JAPAN 1931-1972 森岡督行・著」、『読売新聞』2012年12月09日(日)付。

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BOOKS ON JAPAN 1931-1972
森岡督行・著
ビー・エヌ・エヌ新社・3800円

評・ロバート キャンベル(日本文学研究者 東京大教授)

「美しい」プロパガンダ

 見開きを占める大きな画面に、青空が淡く光っている。ふわりと浮かぶいくつもの真っ白な水玉は、よく見ると、数十個の落下傘であり、また左ページから数行に分かれて英語の詩が印刷されている。目をやると、状況がやっと飲み込める。訳してみよう。「敵兵の待つ異国の大地の上。たとえこの身が死んでも栄光ある我らが任務は、新たな命を、いっそうの希望を、アジアの復活のためにもたらすことだ……」。
 太平洋戦争中、日本の陸軍参謀本部が作らせた東方社という出版社の発行した雑誌『FRONT』「落下傘部隊号」の一図である(1942年)。潤沢な資金と一流のカメラマン・編集者を投入すれば、国家プロパガンダもかくも美しい。目を喜ばせると同時に、見る人を震撼させたに違いない。
著者が長い間集めてこられた日本の、欧文による「対外宣伝グラフ誌」を時代順に並べ、豊富な図版と簡潔で用を得た解説を加えている。考えてみると、不思議な一冊だ。平和の世の中も戦中も、日本人はたゆまず外国と外国人に対し自らの文化水準や軍事力の高さ、観光、輸出産業、博覧会と五輪開催の優秀性をアピールしてきた。にもかかわらず、これらの営為を同じ土俵に並べて理解しようとする人はいない。本書の魅力は、「対外宣伝」を広くとらえた点にある。デザインとして見ても抜群に面白い。
 40年間は、人生で言えばふり返れる程度の期間だが、20世紀の中央に寄せてみればとてつもなく長く、また分岐点に満ちた歳月であったように感じる。一方、満州事変(1931)から札幌オリンピック(1972)を「対外宣伝」から眺め直すと、緩やかに打ち返す歴史の波紋も、感覚で掴むことができる。一見の価値がある。

◇もりおか・よしゆき=1974年生まれ。都内で写真集や美術の古書店を営む。著書
    --「書評:BOOKS ON JAPAN 1931-1972 森岡督行・著」、『読売新聞』2012年12月09日(日)付。

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覚え書:「ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場 [著]布施祐仁 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2012年12月09日(日)付。

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ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場 [著]布施祐仁
[評者]上丸洋一(本社編集委員)  [掲載]2012年12月09日


■重層的下請け構造と無関心

 福島第一原発(イチエフ)の事故現場では、2万3千人を超す労働者が、放射能の恐怖と闘いながら、懸命に作業を続けてきた。しかし、そうした現場の状況は、ほとんど外部に伝わってこない。
 本書は、震災発生直後から1年あまりの間に、第一原発で働く労働者50人以上に取材して書かれたルポだ。あの中はどうなっているのか。どんな人たちが、何を思い、どんな作業をしているか。情報の空隙(くうげき)を丹念な取材で埋める。
 原発労働のルポといえば、1979年に出た堀江邦夫の『原発ジプシー』が広く知られる。初めてこの作品を読んだときの衝撃は忘れがたい。
 そして、今回、本書を読んで、『原発ジプシー』から30年以上たった今も、原発の労働環境が改善されていないことに驚かされる。何重もの下請け構造と賃金のピンハネ、ずさんな被曝(ひばく)線量管理、労災隠し。そうした不公正が長い間、まかり通ってきた。
 5年間で70ミリシーベルトの放射線を被曝したある労働者は、多発性骨髄腫を発症して労災認定された。その後、東京電力に損害賠償を求めて提訴したが、東電は被曝と病気の因果関係を否定した。
 労働者は法廷で、裁判官に訴えた。
 「正直に言ってくれればいいわけですが、(東電は)すべて隠すんです。何もかも隠して隠して隠しまくる。……ほんまに使い捨てですわ」
 著者が本書の取材で最もよく耳にした言葉は「使い捨て」だったという。著者も言うように、原発というシステムは、労働者を使い捨てにして成り立ってきた。そうした重層的下請け構造の一番上に座っているのは、実は電力消費者の無関心ではなかったか、と気づかされる。
 登場する労働者のほとんどが匿名だ。取材に応じただけで職を失う危険があるからだ。それでも語らずにいられなかった彼らの言葉を聞くことなしに、何も始まらない。
    ◇
 岩波書店・1785円/ふせ・ゆうじん 76年生まれ。ジャーナリスト。『日米密約 裁かれない米兵犯罪』など。
    --「ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場 [著]布施祐仁 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012121000014.html


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絶望工場日記(1)

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  労働者の根こぎ
 完全に、たえまなく、金銭に縛れている社会階層がある。賃金労働者である。なかでも、出来高払いの賃金体系が導入されて以来、小銭(スー)単位の勘定にたえず注意をむけざるをえない労働者がそうだ。根こぎの病はこの階層において先鋭化された。わが国の労働者はそうはいってもフォード氏の労働者のように移民ではない、とベルナノスは書いた。ところが、われらが時代の主たる社会的困難は、わが国の労働者もまたある意味の移民だという事実にもとづく。地理的にはおなじ場所にとどまるとはいえ、精神的には根こぎにされ、追放され、いわばお情けで、労働に供される肉体という名目であらためて認知されるにすぎない。失業はいうまでもなく二乗の根こぎである。労働者は、工場にも、自分の住まいにも、彼らの味方と称する党や組合にも、娯楽の場にも、真の憩いをみいだせない。たとえ知的文化を吸収しようとしても、そこにも憩いはみいだせない。
    --シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『根をもつこと(上)』岩波文庫、2010年、67頁。

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12月から短期のアルバイトで、パン工場のライン作業に従事しております。その雑感を少しtwitterに書いたもののまとめですが・・・

さて、絶望工場も2週目に突入。昨日はまる一日、バナナの皮を剥いていた(洋菓子ライン)。切り口が付けられたバナナがベルトコンベアで送られてくる。臨時職工5人でむきむきする訳ですが、剥いたバナナの上下をそろえて常勤のバイトのおばちゃんが斬る。そのスピードについていけなかった。

ちょうど今日は大学生のバイト君(某体育会部員で、部と会社が提携していて、オフの季節に派遣しているようでしたが)と組んで仕事した。自分もそうだけど、生活がかかっている人間は時給880円でも、ちゃっこらちゃっこら皮を剥いていたけど、そうでないと、眠気でカクンカクンしたりするなあ、と。

まあ、それは天ツバであって(苦笑、自分も大学時代に工場系ライン・バイトで(マネキンの貸し出しセンター)、レンタル先から返却されたマネキンを磨くというのをやっていたけど、これも生活苦ではなく、ちょとした銭稼ぎで(日払なので)やってたけど、たしかにカクンカクンしていたなあ、と。

しかし、今日の熟練のバイトのおばちゃん(バナナをカットする方)にはやっぱり愕いた。自分も含めてそうだけど、やっぱり、そういう黙々と「作業をする」ということをどこかで「蔑視」していたなあという偏見は否定できない。しかし、そういう熟練の寡黙さって案外大切なんじゃないかと思ったりした。

そりゃあ、もちろん、ラクにお金は稼ぎたいとは正直には思う。しかし、家計に不足があるから工場でバイトするようになったけど、今更ながら「お金を稼ぐ」という意義をもう一度確認しているような気がしている。そしてできれば月30万でいいから、ふつーに収入を得たい。
※、どうでもいいけど、四国電力の株式配当が、今季はなしでツライ。

ヴェイユのように、魂をすり減らすことはたぶん、自分にはできないと思うし、自分がそれをやってしまうと欺瞞だろうと思う。かといって、親の財産に安住するとか、ずるいことをするは趣味でもない。ほんとうに、等身大の収入で等身大の生活をしていきたいなあと思うのは夢想なのかなあ。

まあ、体中が重い鉛のようになって、研究する時間も実際には確保しがたいのは事実だ。ただ、躰を動かして、且つ、神経をとぎすまさなければならない、この臨時職工っていう作業は、いろんな意味で、もう一度、自分自身を確認する作業になっているとは思う。

さきの大学生ではないけど、へんな話かもしれなけれども、案外、若い衆だと、女子高生がいちばん、まじめに「はい、はい」っていって元気に活躍してるんだよね。

例えば、知的な産業だけが、えらいのよ「エッヘン」とか思うのは一種の錯覚だと思うよ、ほんとうに。もちろん、ひとにより不得意とか技能による差異は歴然として存在すると思う。しかし、それは認識の地平というそれにしかすぎない。いや、だから文革みたいに下放しろって訳でもないんだけど。

……ってことで、今日の絶望工場日記は以上の通りw 次は金曜日なので、また、楽しませてもらいますん。というか、そうでも考えないとやっていけないという自分がいるし、現場で作業をやりながら、「やっていけない」つうのが違うという自分もいるわけでね。ほんと、怒糞野郎だと思う。

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覚え書:「書評:哲学原理の転換 加藤尚武著 [評者]鷲田 小彌太」、『東京新聞』2012年12月09日(日)付。

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哲学原理の転換 加藤 尚武 著

2012年12月9日

◆今と向き合う「苦情処理係」
[評者]鷲田 小彌太 哲学思想研究家。著書に『日本人の哲学(1)哲学者列伝』など。
 現役の哲学研究者で加藤氏ほど、通史かつ最新の問題意識をもち、鋭利な論理で包括的かつ刺激的な議論を展開してきた論者は稀だ。本書は大部ではないが、大情報を備えた氏の「最後から二番目の決算書」と思える。
 氏は常に哲学者の「立ち位置」に、哲学に何ができ何ができないのかに細心の注意を払う。哲学は個別分野を超越し統合する特権的な地位にあるのではない。学問、技術、政策等の分野に入り込み、社会的な合意形成の援助をすることを本務とする。氏の比喩にしたがえば、清掃係、苦情処理係だ。軽微な仕事なのか。そんなことはない。
 二十世紀後半、(1)核エネルギー開発が原子の、(2)遺伝子操作が遺伝子の、(3)臓器移植が生物個体の、(4)温暖化が地球生態の、それぞれの自己同一性(=狭義の自然法則)を破壊し、従来の技術のままでは自然が存続機能を失うことが明らかになった。
 この最新技術は、しかし最古の哲学問題、プラトン以来の精神「離存説」と経験論の「白紙説」(生まれ落ちたとき精神は白紙状態だ)の誤謬(ごびゅう)を明らかにする。「知性のない感覚は存在しない」(ヘーゲル)、「その都度の経験に先行する一定の形式が経験を可能にする」、たとえば生物学的な先天性(遺伝子等)が経験の成立に関与しているという「自然的アプリオリ論」を認めざるをえなくする。最新の技術問題と最古の哲学根本問題がリンクしているだけでなく、ともに問題解決を迫られている、これが現在なのだ。
 だからこの問題提起も解決の方途も従来の哲学や倫理学の枠内から生まれるべくもない。哲学の応用(周辺)部門だけが担いうる問題だが、先駆的に提唱してきた応用倫理学こそが現在の哲学の中心課題を担いうると誇らしげにいう理由だ。哲学者は個別科学の専門家ではない。同時に哲学研究者として専門家でなければ技術と哲学とを架橋できないと言外にいう。至言だろう。
かとう・ひさたけ 1937年生まれ。哲学者。著書に『二十一世紀のエチカ』『災害論』など。
(未来社 ・ 2310円)
<もう1冊>
 加藤尚武著『応用倫理学入門』(晃洋書房)。生命・環境・企業・情報の四つの基本軸で、どんな思想的合意が形成されるかを学ぶ。
    --「書評:哲学原理の転換 加藤尚武著 [評者]鷲田 小彌太」、『東京新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012120902000157.html


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目の前が少し明るくなったように感じていた:2012年12月13日、げふんげふんの会

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では、帰る、と言った太左衛門へ、捨蔵はその瓜を土産にくれた。
 「早く種を蒔いたのに遅くできた瓜だが、味は悪くない」
 「よいのか、人にくれても……」
 「汁にしてもよいし、漬物にしてもよい」
 「そうか、それはうまそうだな」
 捨蔵に見送られて野路を引き返すうちに日が沈んだらしく、暮色は濃い夕闇に変わろうとしていた。太左衛門は捨蔵の心遣いを感じながら、しばらくは板塀の続く道を歩いた。
 (負けたな……)
 と思ったが、言葉ほど悔しさはなく、むしろ心地よい気分だった。自分は上ばかり見て生きてきたが、捨蔵は自分を見つめて生きてきたらしい。そもそも人間の出来が違うし、あれは本当に負け惜しみではないだろうという気がした。それにしても迂闊だったのは、五十二歳になるというのに今日まで人生の値打ちを一通りにしか考えなかったことで、人の幸福のありようも人それぞれに違うということであった。人から見上げられるまま偉そうにして、いい気になっていたのだから、そんなことに気付かないのも当然であった。早い話が、もしも立場が逆であったら、自分にああいう態度がとれたかどうかは怪しいだろう。
 つらい一日になるはずが、捨蔵に大事なことを教えてもらい、太左衛門は目の前が少し明るくなったように感じていた。
    --乙川優三郎「九月の瓜」、『武家用心集』集英社文庫、2006年、117-118頁。

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木曜日は、授業が済んでから、かねてからtwitterでやりとりをさせて頂いている人生の先輩方と夕刻からずっぽりと一献重ね合わせて頂きました。

匿名主義を隠れ蓑と錯覚する日本のネット環境といえば、匿名差別屋の跋扈を許し、まじめに考えようとすることや、人間同士の真実のやりとりをさまたげようとする勢力が強いのがその現状と特徴であると思います。

しかし、現実には、それだけがすべてではなく、立場や考え方は異なるけれども、ともに、様々な問題について、水平にそして双方向に語り合える仲間、友、先輩というのはやっぱり存在する訳で、ほんとうに、この「人間」という代え難い「財産」に恵まれたことに感謝です。

別に何を話した訳ではありませんが、それでも話し足りなかったというのも事実であり、当初は「ぜったいに、カルくしか呑まない」と決意して参加したにもかかわらず、げふんげふんとなってしまうといういつもの惨状となりました。

ともあれ、年末のお忙しいなか、参集された皆様方、ありがとうございました。

自分自身もまた今日から新しい挑戦を繰り広げていきたいなあと思う次第です。

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覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『カエサル 上・下』=エイドリアン・ゴールズワーシー著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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今週の本棚:本村凌二・評 『カエサル 上・下』=エイドリアン・ゴールズワーシー著
 (白水社・各4620円)

 ◇人間を鋭く洞察した“傑物”の実像

 ローマ人の格言に「幸運の女神は強者を助ける」というのがある。その裏返しに「なにもせずにただ祈るばかりの者たちを、幸運ははねつける」とも忠告する。これらの文言をカエサルほどあざやかに演じてみせた男はいないのではないだろうか。とはいえ、みずから幸運児と称したカエサルだが、失敗も少なくなかった。

 カエサルには生涯にわたって悩まされつづけた醜聞がある。十代のころ最初の海外勤務地アナトリアで、保護国の国王と同性愛関係にあるという噂(うわさ)が広まった。ギリシャ文化を尊重したローマ人も同性愛だけはひどく嫌悪していた。だから、花を摘まれた若者とは軟弱きわまる笑い草だった。噂の真相は今さらわかりようもない。だが、若きカエサルが、奇抜な服装と過剰な自負心のせいで、かなり嫌われ者だったことは示唆してあまりある。

 前62年、執政官に次ぐ公職(法務官)にあるとき、無鉄砲で名高いネポスという護民官を熱心に支持した。ネポスはそのころの暴動事件の主犯格と疑われていたが、偉大な軍人ポンペイウスの義弟でもあった。カエサルにすれば縁故のないポンペイウスの支援を得るつもりだったのかもしれない。だが、状況を見誤り、行き過ぎてしまった。元老院はカエサルの解任を決議する。当初は白(しら)を切り通そうとしたが、ほどなく自宅に引きこもり引退の姿勢を見せた。そこで民衆が集結しカエサル支援の大声を上げる。仕組まれた芝居だったかもしれないが、元老院はやむなくカエサルの解任を取り消した。

 政略のみならず軍事行動でも苦杯は重なる。ガリア人との戦いのなかでも名高い大一番アレシア攻囲戦の前の出来事。敵の勇将ウェルキンゲトリクスの軍団を欺き、まさしく罠(わな)にはめようという矢先だった。敵と味方との異同を見誤ったローマ軍が大混乱に陥る。このために最前線で指揮をとる百人隊長が46名も戦死してしまう。この敗戦後、カエサルは兵士の勇敢さを讃(たた)えつつ、規律の欠如を叱責した。それとともに、敗因の分析を披歴しながら、ガリア人の戦闘力とは無関係だとも付け加えることを忘れなかった。

 英雄カエサルといえども、いくどとなく誤認も挫折も経験している。だが、そのたびに、彼は自分の犯した間違いを理解する能力ももっていた。さらにまた、劣勢にめげず巻き返すだけの才覚にも恵まれていた。

 ところで、なによりも注目されるのは、カエサルが人間の世界にひときわ鋭い洞察力をもっていたことである。人間というものは、現実そのものよりもそうあってほしいと願うことを信じやすい。カエサルはそのことを熟知していた。

 ときとして彼は民衆の願望どおりに演出してみせる。功利的で慎重な同世代のキケロなら気前のいい浪費家など理解しがたかったにちがいない。だが、カエサルは、借財をいとわず大盤振る舞いするし、それを恩にきせない大らかさもあった。

 前44年、カエサルはローマの貴族たちの雰囲気を読み誤っていたのかもしれない。警告していた占い師を「3月15日が来たぞ」と笑いとばすと、「まだ3月15日は過ぎ去っていません」と言われた。その直後、暗殺の刃(やいば)がふりかかった。

 聖徳太子や源義経のように、カエサルも数知れず重なる伝説に覆われている。それらを剥がしていくと、確たる真実は意外と少ないのだ。それにもかかわらず、本書はその成功話も失敗話もふくめて、歴史上の傑物の実像に迫り、好感がもてる。もともと古代の軍事史を専門とする著者ならでは、人間の裏を読む術にはたけているようだ。(宮坂渉訳)
    --「今週の本棚:本村凌二・評 『カエサル 上・下』=エイドリアン・ゴールズワーシー著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121209ddm015070002000c.html


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覚え書:「書評:石炭の文学史 池田浩士著 [評者]川村 湊」、『東京新聞』2012年12月09日(日)付。

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石炭の文学史 池田 浩士 著

◆失われた生活掘り起こす
[評者]川村 湊 文芸評論家・法政大教授。著書『補陀落』『原発と原爆』など。
 玄海原発を見に行った時、近くに『にあんちゃん』の舞台となった炭坑(廃坑)があることに気が付いた。本書にも取り上げられている『にあんちゃん』は、差別と貧困に苦しむ在日韓国人の「坑夫」一家の生活を、末っ子娘の安本末子が書いた日記だ。
 石炭から石油へ、そして原子力へというのが、ついこの前まで、真顔で語られていた近代日本のエネルギー政策の趨勢(すうせい)だった。石油が石炭を滅ぼし、原子力は石油に取って換わる(はずだった)。資源としての石炭、産業としての炭鉱、文化としての炭坑節や「炭坑文学」なるものは廃れてしまった。斜陽産業の象徴だったボタ山も、スラム化した炭住も、とうの昔に姿を消した。そんな時代に「石炭」のことを語るのは時代遅れ、時代錯誤も甚だしい…。しかし、本当にそうだろうか?
 「海外進出文学」論第II部としてまとめられたこの大著は、プロレタリア文学としての炭坑文学、国策文学として書かれ生産文学と呼ばれた炭坑小説、台湾・朝鮮・満洲における炭坑に関する文学作品、そしてエネルギー転換の名の下に、石炭産業を切り捨て、炭坑で働く人々の職場と仕事を一挙に奪い取った「合理化」運動の過程と歴史を、厖大(ぼうだい)な文献・資料・記録によって再構成した、文字通りの労作である。地の底から掘り出してきた「黒ダイヤ=石炭」は、地表に現れると、誰も顧みないガレキとしか見えなくなる場合がある。だが、失われた「過去」を掘り出す作業が、現在を、そして未来を改めて照らし出すことを、私たちは忘れてはいけないのだ。
 福島原発の近くには常磐炭坑が、浜岡には相良油田が、柏崎・刈羽近辺には小さな油井(ゆせい)群があった。そうした石炭・石油エネルギーの廃墟(はいきょ)に原発が作られていったことを思えば、石炭の歴史を語ることは、まさに「即物的」に現在への痛烈な批判となる。3・11以後の本書の刊行は天の配剤である。
いけだ・ひろし 1940年生まれ。京都精華大教授、ドイツ文学。著書『虚構のナチズム』など。
(インパクト出版会 ・ 6300円)
<もう1冊>
 畑中康雄著『炭鉱「労働」小説集』(彩流社)。北海道の三井芦別炭鉱で働いた著者が、炭鉱労働や暮らしを生き生きと描いた作品。
    --「書評:石炭の文学史 池田浩士著 [評者]川村 湊」、『東京新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012120902000158.html


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「みんなの広場 教養教育の大切さを考えよう」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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みんなの広場
教養教育の大切さを考えよう
大学生 19(京都市上京区)

 大学に入学してから発見したことがあります。一般教養科目のおもしろさと奥深さです。第一線で研究されている先生方の授業で、知的好奇心をくすぐられます。将来の損得勘定を抜きにして、縦横無尽に「知の世界」を旅することができるのは、大学生ならではのぜいたくだと思っています。
 しかし、現在は専門教育を重視する考え方が強いようです。国際競争力を磨くためといった実社会での有りようのみを考え、教育成果に「効率」という物差しを当てる傾向にあります。
 確かに日本を支える人材は必要です。しかし、そういう人物は、有用か無用かという枠を超えた知識を広げる中で自己を見つめ、人間としての深みを持つ人の中から生まれてくるのではないでしょうか。今後の日本を考えるうえでも、今一度、教養教育の大切さについて考えてもらいたいと思うのです。
    --「みんなの広場 教養教育の大切さを考えよう」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『非合理性の哲学-アクラシアと自己欺瞞』=浅野光紀・著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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今週の本棚:村上陽一郎・評 『非合理性の哲学-アクラシアと自己欺瞞』=浅野光紀・著
 (新曜社・3990円)

 ◇“意志と行動”のへだたりを考える

 哲学ときくと、それだけで拒否反応を示す読者もあるかもしれません。この本も「哲学」と銘打たれています。しかも「非合理性」とくると、一層鼻白む人もありそうです。しかし、この本の主題は、私たちにとってとても身近なものです。

 私たち人間は、様々な行動をします。「行動」とは何かを定義することは難しいようですが、行動とは、人間--もっとも、この言葉は人間ばかりではなく、生き物はもちろん、機械などにさえ使うことがあります--の内面ではなく、外から見て取ることのできる事柄一切を含んでいる、と考えたらどうでしょうか。もっと俗っぽく「外面(そとづら)」でもよいかもしれません。

 そうすると、直(す)ぐにわかることがあります。人間において、内面と外面とが、常に一致しているわけではない。これは、自分でも日常的に経験することです。「外面如(げめんにょ)菩薩(ぼさつ)・内心如夜叉(やしゃ)」などという表現もあるくらいです。

 そして本書は、まさしく、人間の内面と外面との間の関係、とりわけ、その間に生じる食い違いを、主題として取り上げています。最初の三章では、イソップの「酸っぱいブドウ」の例を引いて語られることの多い、いわゆる「自己合理化」という問題が扱われます。そこでは、行動を引き起こす自らの意志の問題は、幾分棚上げにして、自分の行動の結果が、自分にとって思わしくないときに、それを「合理化」してしまう人間の性向がテーマになります。著者は「自己合理化」とは言わずに「自己欺瞞(ぎまん)」という言葉を使いますが、それは「合理化」という積極的、能動的な場面ばかりでなく、そもそも人間は、認識の段階ですでに、「不都合な真実」を素通りさせてしまうような面を備えている、という点に力点を置こうとしているからのように読めます。

 もちろん、人間が生きていく上に、こうした面が百パーセント悪である、というわけにはいかないでしょう。しかし、その問題に気づいておくことは大切です。本書では、その点が詳しく、しかし読み易い形で分析されています。

 第四章以下のキーワードは、「アクラシア」という、聞き慣れないカタカナ語で表現されるものです。ソクラテスにまで溯(さかのぼ)ることのできるこの言葉に、著者は新たな命を吹き込んでみようとします。この言葉に著者の与えるとりあえずの定義は「意志の弱さ」というものです。ここでは、さきほど棚上げされていた人間の行動と、それを生み出す意志との間の食い違いが主題になります。自らの目指すものは、Aであっても、それを実際に行動に移すだけの強い意志に欠けるために、結果としての行動はBになる。そんな場面を考えてみればよいでしょう。これも、私たちがしばしば日常で経験することです。

 このような現象を理解するために、著者は、ある行動をしつつある自分を批判的に、あるいは一種の不審感をもって、眺めているもう一人の自分という構造を提出します。この構造は、決して離人症のような病理的な状況を指すのではなく、むしろこれも日常的に誰しもが出会っていることとして、考えられています。ここでも俗っぽい表現を持ち出せば、あの「サルでもすなる反省」ということでもよいかもしれません。

 本書の最も挑戦的な要素は、先の「自己合理化」ないしは「自己欺瞞」という論点と、この「アクラシア」という論点との間に通底する問題を明らかにしようとするところにあります。哲学の面白さを伝えてくれる一著です。
    --「今週の本棚:村上陽一郎・評 『非合理性の哲学-アクラシアと自己欺瞞』=浅野光紀・著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121209ddm015070005000c.html


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覚え書:「みんなの広場 不可解な自民党幹事長の発言」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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みんなの広場
不可解な自民党幹事長の発言
パート 71(福島県田村市)

 私は東電福島第1原発から35キロ離れた所に住んでいる。避難地域ではないが、毎日の環境放射線量を気にかけて外部被ばくも内部被ばくも回避するよう心がけて生活している。
 先日、自民党の石破幹事長がテレビで「経済活動のために原発は必要だとあえて言う勇気も必要である」旨語っていた。原発を再稼働・維持していくことを勇気というのだろうか。原発が事故を起こさないものでないことが確認された今、石破幹事長の発言は再び原発事故が発生した場合は、地域住民に泣いてもらえばよいと聞こえる。
 本当にそれで良いのだろうか。日本は首都と大阪近辺が安全なら成り立つというものではない。国民全体の健康と生活を守らなければならないはずである。経済も社会も個人もすべて「命あってのものだね」ということを知ってほしい。
    --「みんなの広場 不可解な自民党幹事長の発言」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:2012年「この3冊」/上 ◇鹿島茂(明治大教授・仏文学)」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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今週の本棚:2012年「この3冊」/上(その1)
毎日新聞 2012年12月09日 東京朝刊

◇鹿島茂(明治大教授・仏文学)

 <1>世界文明史の試み--神話と舞踊=山崎正和著(中央公論新社・3360円)

 <2>トクヴィルの憂鬱=高山裕二著(白水社・2730円)

 <3>ジャン=ジャック・ルソー=永見文雄著(勁草書房・7770円)

 今年一年の最大の事件は、NHKテレビ出演が契機となって『パンセ抄』というかたちでパスカルの翻訳を出したことだが、そうなると、まるで磁石に吸い寄せられたように読む本もパスカル中心の軌道を回ることになる。

 <1>は「する」身体と「ある」身体の二元論から出発して、人間の根源的欲動である社交の本質を「ある」身体に内在する不安に求めたユニークな文明論。<2>は民主主義とは何かを探っていくうちにパスカル的想念に至ったトクヴィルの出発点がロマン的魂にあったことを突き止めた伝記的研究。<3>はパスカルとの対比でルソーを理解しようとした好著。すべては気晴らしであるゆえ、人間は神にすがるしかないとするパスカルに対し、ルソーは人間の不幸を招く原因である非充足性こそが人間の条件を乗り越える道でもあると説く。
    --「今週の本棚:2012年「この3冊」/上 ◇鹿島茂(明治大教授・仏文学)」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121209ddm015070010000c.html

http://mainichi.jp/feature/news/20121209ddm015070183000c.html


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仏教哲学で初めて“ブッダ”とカタカナで書かれた中村元博士

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辺見 「萩の花」というタイトルにしてもいいですね。
 先生は仏教の心を本当にわかえりやすく書いていらっしゃいますね。私は、学生時代に『東洋人の思惟方法』を読みまして、とても勉強させていただきました。

中村 恐れ入ります。いや、あれはゲテモノでございましてね、専門家の間じゃ評判悪かったんですよ(笑)。

辺見 でも、今、たいへんな評価を受けて……。先生はまた仏教哲学で初めて“ブッダ”とカタカナで書かれたんですね。

中村 仏陀の“陀”の字を大学生が間違えるんだから、一般の若い方にはもう無理だと思いましてね。で、音写つまりカナでインドの発音を写したわけです。当時はずいぶんしかられたもんです。進歩的な仏教学者からもね。今では、築地の本願寺でもカナで“ブッダ”と書かれてることがございますから、もうしかられないと思ってるんですが(笑)。

辺見 もともとはインド哲学の教えだって難しくなかったと思うんですけれど。
中村 やさしいんですよ。お釈迦さんは、当時の民衆のことばで説いたわけですからね。ところが、中国の知識人を経て日本の知識人が受け取る間に、なんか難しいことになりましてね。
(初出)辺見じゅん『初めて語ること 賢師歴談』文藝春秋、1987年(初出誌『諸君!』1985年11月号)。
    --中村元、辺見じゅん「実社会じゃ役に立たない人間なんです」、中村元『中村元対談集Ⅲ 社会と学問を語る』東京書籍、1992年、252頁。

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稀代の碩学・中村元先生のエピソードといえば、やはり『佛教語大辞典』のそれを思い浮かべる人が多いのではないかと思う。自分自身もその一人だ。

中村先生が『佛教語大辞典』のために用意した「二百字の紙で三万枚くらい」の原稿が、まあ、事故のような形でなくなってしまいました。しかし、怒ったら原稿が戻ってくるわけでもないとして、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて、作り直したという話です。

このところ、中村先生の対談の方を読み直しているのですが、作家の辺見じゅんさんとのやりとりをちょうど仕事の休憩中に読んでいました。そのエピソードについても勿論、言及はありましたが、ひとつ、驚いたのは、“ブッダ”と「カナ」で表記する嚆矢が中村先生であったということ。

先生は卑下しながら対談を進めておりますが、“難しい”“高尚である”ことが学問ではないと日頃から仰っていた信念のひとつの真骨頂なのではないかと思います。

それを始めた頃は、「ずいぶんしかられた」そうですが、宗教にしても哲学や思想にしても、もともとは難しいものではなかったはず。難しいとか高尚であるということが悪いという訳ではありませんが、ワカラナイから「有り難い」とするのはひとつの錯覚であり、その錯覚というのが、日本における哲学や宗教の受容の歴史ではなかったかと思います。

今となってみれば「ブッダ」と「カナ」で表記することは殆ど当たり前で、「仏陀」と表記するひとの方がまれでしょう。

一見すると「些細」なことに見えるかも知れませんが、これは勇気ある決断だったのではないかと思います。


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覚え書:「今週の本棚:2012年「この3冊」/上 池澤夏樹(作家)」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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今週の本棚:2012年「この3冊」/上(その1)
毎日新聞 2012年12月09日 東京朝刊

 ◇池澤夏樹(作家)

 東京プリズン=赤坂真理著(河出書房新社・1890円)

 世界が土曜の夜の夢なら--ヤンキーと精神分析=斎藤環著(角川書店・1785円)

 気仙川=畠山直哉著(河出書房新社・3360円)

 『東京プリズン』は、アメリカに留学した十五歳の少女が高校のディベートで昭和天皇の戦争責任を論じる、という見事な設定の小説。奥行きのある思想が生きのいい体験的な言葉によって縦横に語られる。

 斎藤環の本はヤンキーという文化現象を手がかりに日本文化を深層から解き明かす。「徹底して現状肯定的であること」とか、「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」とか、なるほどと納得のフレーズが山盛り。相田みつをと橋下徹に通底するものの背後に、ぼくは日本に固有の反知性主義を読み取った。

 『気仙川』はページを繰るのが辛(つら)い本である。陸前高田出身の写真家が津波の直後、郷里に向かう。母の安否がわからないままの宙に浮いた旅路のドキュメントを被災前と後、両方の写真が立体化する巧妙な構成。
    --「今週の本棚:2012年「この3冊」/上 池澤夏樹(作家)」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121209ddm015070010000c2.html

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書評:平野伸人編『本島等の思想 原爆・戦争・ヒューマニズム』長崎新聞社、2012年。

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 1988年12月、「昭和天皇に戦争責任はあると思います」と発言し、右翼に銃撃された元長崎市長・本島等さん。本書は本島氏の代表的な論説や講演を収録した思想集大成である。

 本島氏の言動は過激と評される向きもあるが、それは同調社会に一石を投じる魂の挑戦であり、本書は時代の証言録といっても過言ではない。そしてそれは、ヒューマニズムのひとつの実践の軌跡といってよい。


 国連軍縮特別総会での演説の他、原爆に関する突っ込んだ論考(被爆ナショナリズムの解体)のほか、アジアに対する加害責任と謝罪など、戦争と平和の本質を突く氏の主張が幅広く収録されている(36編)。

 五島列島の寒村に非嫡出児として生まれ、カトリック差別と貧困に苦しんだ少年時代の思い出も克明に記されている。本島氏の足跡を理解する上でも、本書は貴重な資料となっている。

 本島さんはことし90歳にして健在であるという。総右傾化する現在、時勢を撃つ本書の出版は意義深い。

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覚え書:「みんなの広場 語り継ごう満蒙開拓団の悲劇」、『毎日新聞』2012年12月07日(金)付。

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みんなの広場
語り継ごう満蒙開拓団の悲劇
会社員 58(福岡県嘉麻市)

 先日の余録に「東京満蒙開拓団」(ゆまに書房)の書名を見つけた時は驚いた。先日読み終えたばかりの本が紹介されていたからである。
 私の両親は旧満州(現中国東北部)からの引き揚げ者。父は満蒙開拓団時代のことをよく話した。が、母は亡くなるその時まで、1945年8月9日の旧ソ連の対日参戦から引き揚げまでに起きた出来事については、口をつぐんだままだった。
 晩年、母は言った。「世の中には口に出して言えることと、口に出して言えないことがある。口に出して言えないようなことが当たり前になる。それが戦争」と。結局、当時のことは何も語らないまま旅だった。
 「開拓団についてもっと知りたい」。私は関連書籍を読みふけった。
 開拓団の悲劇は後世に語り継ぐべき歴史である。風化させてはならない。
    --「みんなの広場 語り継ごう満蒙開拓団の悲劇」、『毎日新聞』2012年12月07日(金)付。

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覚え書:「今週の本棚:旧約聖書物語 上・下=ウォルター・デ・ラ・メア」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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今週の本棚:旧約聖書物語 上・下
ウォルター・デ・ラ・メア
(岩波少年文庫・上巻798円、下巻756円)

 世界でもっともよく知られている本は『聖書』であろう。それはギリシャ神話とともに、ヨーロッパの精神の源ともなっている。しかし、本当に読んだ日本人は少ないにちがいない。ユダヤ教の聖典である旧約聖書となればなおさらである。この本はイギリスの詩人が、宗教色をできるだけ排して旧約の物語を書いたもので、休日に格好の一冊になろうか。
 物語としての旧約は、四つにわかれるが、「創世記の物語」とモーセ--それがこの上巻に、下巻はダビデの登場までで「預言者たち」の時代は省かれている。
 神が光をはじめ万物をつくり、七日目に休んだ。そして自らに似せて人をつくった。
 楽園を追われる人間、そしてノアの箱船の物語。なぜかバベルの塔は出てこない。
 ユダヤ人がエジプトに行き、生活が逆転し、モーセに率いられて脱出する様はよく書かれている。ただしモーセの十戒の内容は解説のみ。
 下巻は物語性が弱い。選ばれた指導者が、子供に地位をゆずるとダメになり、ダビデが登場する。「ダビデ、王となる」となるが、本文は王になる前の物語。=阿部知二訳(鷺)
    --「今週の本棚:旧約聖書物語 上・下=ウォルター・デ・ラ・メア」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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2012年12月7日の震度5弱とたま

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金曜日、夕刻に久ぶりに大きな地震がありました(2012年12月7日午後5時18分頃 三陸沖地震 震度5弱)。

ちょうどその時、今月からはじめたバイトの工場で仕事をしていたのですが、下から突き上げるというよりも、横に大きく長くゆれるなーと思いつつ、かなり驚きました。

18時に仕事を切り上げてから、そのまま市井の職場へ直行。僕自身は、これは千葉か茨城かなと思うほど大きなイメージでしたが、19時に職場についてから、

「東北沖だったんだよ。津波も来ているんだよ」

と言われて、これはマジでやばいな、などと思い、北天に祈りを捧げました。

さて、仕事が済んでから自宅へ戻ると、部屋の本がぐじゃぐじゃ。

細君と少し話をしましたが、その時、子どもは塾へ。細君は自宅へいたとのこと。同じように久しぶりの大きな揺れに驚いたそうですが、それよりも驚いたのは、「たま」の「驚きよう」だったとのこと。

四月に細君が子猫を拾ってきたのですが、小さな揺れはたびたび経験しておりましたが、「震源は三陸沖なのに、首都圏だろうと思ってしまった」自分ではありませんが、彼女が最初に経験した大きな揺れでしょう。
 
最初は部屋の中をはしからはしへ狂ったように走り、いったん、ソファーの下に潜ってから、そのまま、どこかへ遁走。

「うわー、家の中なのにどこにいるのかわからない」

……って、仕事の最中に「たまがいなくなった」とメールが届いていたほどでした。

その経緯をうえのように、帰宅してから聞きましたが、20時過ぎてから、子どもの勉強机と壁の間の10センチぐらいのスキマで固まってい、そこから引き出して、とりあえず、部屋へ移したのですが、それでも興奮は収まらないようで……。

ここ2-3日も、かなり警戒しているご様子です。

しかし、日本全体が、地震の、いわば“活動期”にはいった現在、いつ何があってもおかしくない状況を踏まえるならば、そのとき、たまとどうするか、今のうちから決めて、対策しておくしかないですね。

しかし、たまも先の地震はかなりのショックだったようです。

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覚え書:「書評:ヘラクレイトスの仲間たち 坂口ふみ著」、『読売新聞』2012年12月02日(日)付。

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ヘラクレイトスの仲間
坂口ふみ著
ぷねうま舎
評・岡田温司(西洋美術史家・京都大教授)

自己の中に探る宇宙

 「個」の誕生というテーマを長年一貫して問い続けてきた著者が今回たどり着いたのは、意外にもヘラクレイトスである。「万物流転(パンタ・レイ)」で知られる古代ギリシアの哲学者はまた、「わたしは自分自身を探求した」という言葉を残しているという。近代的な解釈を投影した「空想かもしれない」と断りつつ、著者はそこに、後のアウグスティヌスやデカルトにも通じる「自己存在の意識の確実さ」を読み取る。主観性や内面性といった、西洋近代の哲学を突き動かしてきたお題目が、今日の思想界でやや分が悪いことも著者は十分に承知のうえである。それらはしばしば「近代の病」とみなされる。
 にもかかわらず、著者があえてそこに立ち返ろうとするのは、確たる理由があるからだ。簡潔にして力強い次の一文に、それは要約されている。「自己へのまなざしは根本的な批判のツールとしても働いてきた」。たとえばソクラテスに典型的なように、己を知るとはまた、「あらゆる現行の権威・知・政治を批判する」ことに通じる。著者によれば、貴族制から民主制へと移行する過渡期に生きたヘラクレイトスにおいても、現行の国制や主導的な知への批判精神は、自己への眼差しと不可分であった。しかも、このギリシアの哲学者にとって、自己を探求するとは宇宙を探求することでもある。「自己の内面の広さと深さに目覚めること、そしてそこに沈潜することが、同時に宇宙の法と根源に至ることである」。自己の探求とは本来、内に閉ざされたものではなくて、他者や世界や宇宙へと開かれたものなのだ。
 「あとがき」で著者は、幾ばくかの自己アイロニーを込めて、自身の仕事を「相も変わらず時局離れのした論文」と呼んでいる。とんでもない。同時代的であるとは、時局に乗りかかることではない。そこからなにがしかの距離をとってきたからこそ、著者の仕事は特異なアクチュアリティを発揮している、と私は思う。
◇さがぐち・ふみ=1933年生まれ。東北大名誉教授。著書に『<個>の誕生』『天使とボナヴェントゥラ』など。
    --「書評:ヘラクレイトスの仲間たち 坂口ふみ著」、『読売新聞』2012年12月02日(日)付。

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覚え書:「書評:ホームレス障害者 彼らを路上に追いやるもの [著]鈴木文治 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2012年12月02日(日)付。

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ホームレス障害者 彼らを路上に追いやるもの [著]鈴木文治
[評者]上丸洋一(本社編集委員)
著者:鈴木文治  出版社:日本評論社

■「排除」の原理に希望の風穴

 著者は、川崎市にある日本基督教団桜本教会の伝道師である。盲学校、養護学校の校長を務めた障害児教育の専門家でもある。ホームレスの人々や障害者と「共に生きる」とは、どう生きることか。本書に多くのことを学んだ。
 桜本教会がホームレスの人々への支援を始めたのは1994年。当初は住民の反対運動や嫌がらせにあったが、少しずつ理解が広がった。翌年からは週2回、食事や衣類、日用品の提供を始めた。
 そうした活動の当初から、著者は、ホームレスの人々の中に、障害者が多くいることに気づいていたという。
 若者のバイクにはねられ、72歳で亡くなった「クニさん」は、難聴で知的障害があった。「神様ありがとうございます。アーメン」の祈りの言葉を発することも難しかった。教会では下足番をつとめ、笑顔を絶やさなかった。
 「タクマくん」は29歳。相手の話は理解するが、自分から話すことはない。養護学校を卒業後、作業所に10年ほど通ったが行方不明に。1年後、多摩川で水死体となって見つかった。
 どうして彼らはホームレスとなったのか。何が彼らを路上へと追いやったのか。
 著者は「本人というより周りの支え方に問題がある」と述べている。
 「共生」とか「共生社会」といった言葉が使われるようになってすでに久しい。
 しかし、現実はどうか。
 障害者が路上での暮らしを余儀なくされていること自体、「共生」の対極にある「排除」の原理がなお、社会を支配していることを示している。
 本書は、その厳しい現実を描きながら、同時に、その現実に希望の風穴をあけてくれる。著者はこう書いている。
 「桜本教会は(略)単なる支援活動ではなく、『共に生きる営み』だからこそ、20年を経て今日まで継続しているのである」
    ◇
 日本評論社・1890円/すずき・ふみはる 48年生まれ。田園調布学園大教授。『幸いなるかな、悲しむ者』など。
    --「書評:ホームレス障害者 彼らを路上に追いやるもの [著]鈴木文治 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012120200016.html

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覚え書:「太平洋戦争:庶民の日記が伝える戦争観 緊張した中にも開戦日の高揚感」、『毎日新聞』2012年12月08日(土)付。

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太平洋戦争:庶民の日記が伝える戦争観 緊張した中にも開戦日の高揚感
毎日新聞 2012年12月08日 東京朝刊

 1941年に日本と米英が開戦してから72回目の「12月8日」を迎えた。当時の国民は、多くの犠牲を払った太平洋戦争の始まりをどう受け止めたのか。日記はその戦争観を伝えている。「女性の日記から学ぶ会」代表の島利栄子さん(68)=千葉県八千代市=が集めた日記や手紙類は、男女や年齢を問わず明治時代から現代まで約4500点に上る。日記の中の「12月8日」を見た。【吉永磨美】

 ■ニュース伝えるラジオ「すっかり売切」

 「午前七時臨時ニュースあり。英米軍の交戦状態に入りたる旨公報あり。早速、表に提示すべく大書す。木の葉かきに行く考えなりも中止して、ひっきりなしに入るニュースをきく。尾張へ用事に行く。土師(はじ)方面へラジオ持ちて行く。(欄外に『警戒警報出(い)でたり』)」(8日)

 当時50歳だった元教師の吉田得子さんは、岡山県瀬戸内市で夫とともにラジオ販売業を営んでいた。日記には、開戦前日(7日)までは戦争の記述は目立たず、開戦を境に急に増えだした。ラジオで聞いた開戦のニュースを店先に張り出すなど、注目していた様子が記されている。

 「暁より雨天となりて警戒警報解除となりたり。ラジオの修理者と購入者、門前市をなす。すっかり売切状態にて、ことはりする」(9日)

 翌日にはニュースを聞くために大勢の人がラジオを求めて列を作り、売り切れの大繁盛になったらしい。日記には岡山市にラジオを仕入れに行ったことや修理のためにラジオを持った客が次々と店に来る様子がつづられ、地方でも緊張した庶民の様子がうかがえる。

 このほか、日本軍の必勝祈願で寺社へお参りに行ったり、品不足で不便な生活を送ったりする中で、空襲時のための救急の講習会への参加、配給品の受け取りなども記されていた。(「時代を駆ける-吉田得子日記1907-1945」<みずのわ出版>収録)

 ■大勝の一報に「血湧き肉の躍る」
 「本日午前十一時四十分、英米両国に対して宣戦の大詔煥(かん)(ママ)発(ぱつ)せらる。吾(わ)が軍は今朝早暁から大西洋(※西太平洋の誤記か)に於(おい)て、佛印(現ベトナム、ラオス、カンボジア)方面、泰国(現タイ)方面に於て米英両軍と已(すで)に銃火を交へて幾多の赫々(かくかく)たる戦果を挙げし報道 刻々としてラヂオニュースに依(よ)りて報ぜらる。正午、食事来たりて此(こ)の大事突発を耳にせり。皇国国民の一人として如何(いか)で血湧き肉の躍るを禁じ得んや。夕食後は、本宅にて専らニュースを緊張裡(り)の内に聞きて拾時(じゅうじ)就床(しゅうしょう)す」

 35歳の男性は、ラジオで開戦を知った。この日は、実家のある栃木県内で農作業をしていた。病気のために軍隊には行かなかった。ラジオ商の女性と同様、男性の日記も前日までは戦争についての記述はほとんどなかったが、戦争に関する記述が増えていく。

 翌9日には「昼の戦況ニュースを楽しみに待ちしが、ラヂオは遂(つい)に音を立てず、空(むな)しく隠居に向かふ」と日本軍の戦いぶりを伝えるニュースを楽しみにしていたようだ。10日には、フィリピンに上陸した日本軍が大勝したニュースを聞き、上機嫌で仕事に励んだことがつづられている。

 「此の上もなく、心強さを覚えつつ、且(かつ)第一線に粉骨活躍の勇士に満腔(まんこう)の感謝を捧(ささ)げつつ縄仕事に従事せり。皇国の民として生れたる幸福と栄光とてかくも心強く方(まさ)に覚えたることなし」

 ■「宣戦がきこえて来て、武者ぶるい」

 東京都内に住む40代の主婦も開戦の日を記録。日記欄のわきには家計簿欄があり、菓子70銭、カウヤク(膏薬(こうやく))1円などと当日の支出がメモされている。開戦日の日記の書き出しは、まず「上天気」であった天候に触れ、当日の息子が参加する遠足について「あたりなり」と母親らしい気持ちを書き記す。続いて日記の内容は一変。開戦に興奮した主婦の心情が次のように生々しく記されている。

 「珍しく朝から(ラジオの)ニュースをかけていたら日本歴史上特筆すべき米英への宣戦がきこえて来て、武者ぶるいする。午後松丸さん一寸(ちょっと)来て、ひとしゃべりする」

 都内の20歳代の女性は、自宅の大掃除の後、帰宅した父親から開戦を聞いたという。その時の心情を日記にこう記した。
「日英米開戦といふことで吃驚(びっくり)した。宣戦の御詔勅も降り、いよいよ始まった。(中略)夜ほんとうに灯火管制が行われ、いよいよ緊張。ラヂオもニュースばかり1時間毎(ごと)に放送している」

 島さんによると、当時の世界情勢もあり、日本が戦争に突入した状況を積極的に支持する気持ちをつづった日記は多く見られるという。開戦日については、著名人も含め多くの日記に書かれており、日本軍の勝利に沸く心情などが目立つという。
    --「太平洋戦争:庶民の日記が伝える戦争観 緊張した中にも開戦日の高揚感」、『毎日新聞』2012年12月08日(土)付。

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http://mainichi.jp/select/news/20121208ddm012040010000c.html

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覚え書:「異論反論 新駐米大使が『県内移設』発言をしました=佐藤優」、『毎日新聞』2012年12月5日(水)付。

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異論反論 新駐米大使が「県内移設」発言をしました
寄稿 佐藤優

沖縄の力見くびるな
 2001年1月に発覚した外務省の元要人外国訪問支援室長による内閣官房報償費(機密費)詐取事件をきっかけに、同省の改革が行われた。
 外務省事務次官経験者が駐米大使となり、首領(ドン)として君臨しネットワークをつくる。それを資金的に支えていたのが要人外国訪問支援室長だった。外務省の腐敗体質をなくすために事務次官は最終ポストになるという改革がなされた。しかし、今秋、11年ぶりに佐々江賢一郎氏が事務次官から駐米大使に栄転した。佐々江大使は11月27日に着任後、初めて記者会見を行った。<(佐々江氏は、)ワシントン市内で大使着任後初の記者会見を開き、米軍普天間飛行場移設問題について「現在の安全保障環境上、沖縄県内に移設することが抑止力の維持につながる。米政府や米議会と意志疎通を図りながら進めていきたい」と述べ、名護市辺野古への移設を進める考えを示した。/県が日米両政府に養成している日米地位協定の改定については「日本政府としては修正せずに対応するという立場だ」と述べ、改正に向けた米政府との協議に否定的な姿勢を示した。>(11月29日「琉球新報」電子版)
 沖縄では、米兵2人による集団強姦致傷事件、さらにこの事件の直後、別の米兵による住居侵入と中学生への傷害事件が発生した。日米地位協定を抜本的に改定し、刑事事件を起こした米兵に対して部分的な治外法権を認めるような現行制度を変更し、他の人々と等しく法の管轄に服させることを、沖縄全体が求めている。さらに沖縄県宜野湾市の普天間飛行場の辺野古移設に関しても、仲井真弘県知事、稲嶺進名護市長をはじめ、沖縄選出の全国会議員を含む、保守、革新を問わずすべての政治エリートが反対している。
 外務省の首領である佐々江氏の発言は、外務官僚が信じるところの国益のために、沖縄を犠牲にするという宣言だ。「現在の安全保障環境上、沖縄県内に移設することが抑止力の維持につながる。米政府や米議会と意志疎通を図りながら進めていきたい」という発言は、「たとえ辺野古への移設ができなくても、海兵隊は必ず沖縄に置く。米政府・米議会と話をつければ、沖縄の民意は力で押し切ることができる」という意味だ。

国家統合に深刻な影響
沖縄に日本離れの懸念
 日本の陸地面積の0・6%を占めるに過ぎない沖縄県に在日米軍基地が74%も所在するという過重負担で構造的に差別されている沖縄県民を同胞とみなす気持ちが、佐々江氏には欠如している。氏は沖縄の底力を過小評価している。沖縄では、そう遠くない過去に琉球王国という国家があったという歴史の記憶がよみがえりつつある。中央政府が沖縄の名誉と尊厳を軽くみる状況が続くならば、沖縄は主権回復を試みることになる。佐々江氏の発言が日本の国家統合に深刻な悪影響を与えている。
さとう・まさる 1960年生まれ。作家。元外務省主任分析官。「電子書籍『キンドル』にはまっています。紙の本では品切れになっている五味純平『虚構の大義 関東軍私記』(文春ウェブ文庫)を読んで、当時と似た状況が現下日本で進行していることに気がつきました」
    --「異論反論 新駐米大使が『県内移設』発言をしました=佐藤優」、『毎日新聞』2012年12月5日(水)付。

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「軽く」いくはずが「重く」といういつものパターン

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どうでもいい雑感ですいませんが、木曜日は授業のあと、教員バスでいっしょになった英文学のF先生と、、、

「軽くイキますか?」

、、、などという話になりましたので、

二つ返事で、

「重く」

、、、行ってしまった次第です。

ちょうどF先生のお知り合いの米文学のH先生もご一緒され、論壇風発!!!

楽しい時間を過ごさせて頂くことができました。

皆様、本当にありがとうございました。


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【書評】世界文学から/世界文学へ 文芸時評の塊1993~2011 沼野 充義 著

◆日本の作家に広さ求めて
[評者]巽 孝之 慶応義塾大教授、米文学。著書に『リンカーンの世紀』など。
 沼野充義という恐るべき頭脳が存在することを知ったのは、かれこれ三十年ほど前にさかのぼる。ロシア語、東欧語をはじめ英独仏他ほぼ一ダース以上の多言語を操る稀有(けう)な外国文学者は、同じく多言語・多文化に通暁した不世出の哲学者・井筒俊彦のようなタイプだろうかと想像していた。しかし知り合ってみると、意外にも我が国の新聞・雑誌に多くの現代日本文学論を寄稿する側面もあり、アカデミズムとジャーナリズムを理想的に併存させている絶妙なバランス感覚に驚かされたものだった。
 その最新刊は、ほぼ過去二十年の文芸時評の集積であり、全五百ページ。自身多少なりとも現代日本文学論に挑戦したことのあるアメリカ文学者としては、毎月刊行される文芸雑誌をすべて読破してかからねばならない文芸時評というのがいかに重労働を強いるものかよくわかっているから、まずは物量的な「塊」だけで圧倒される。
 しかし、文芸時評家は誰よりも時代を見通し、まだ評価の定まっていない新しい作品群に適切な判断を下し、時に称賛するも時に叱咤(しった)激励しつつ来るべき文学の展望を与えるという、文学の使徒たるべき「魂」をも備えていなければならない。そう思って通読すると、大江健三郎や村上春樹は別にしても、デビューして間もない多和田葉子や頭角を現し始めた笙野頼子、三浦俊彦、水村美苗、ひいては円城塔に至るまで、まずは沼野氏の判断が早くから本質を喝破しているばかりか、あくまで外国文学者としての視点から、現代日本文学全般のうちに狭さではなく広さを希求する明確な理想が浮かびあがってくる。それは著者が愛誦(あいしょう)するアルメニア詩人アモ・サギヤンの一節「飛ぶときだけは/重くならないで」に込められた理想と矛盾しない。
 世界文学としての日本文学の位置と未来を正確に指し示す本書は、まぎれもなく現代文学の預言書である。
ぬまの・みつよし 1954年生まれ。東京大教授、ロシア・東欧文学。著書に『亡命文学論』など。
(作品社・3990円) 
<もう1冊> 
 海老坂武著『戦後文学は生きている』(講談社現代新書)。敗戦から沖縄返還までに出版された二十作品をもとに戦後史を再検討する。
    --「【書評】世界文学から/世界文学へ 文芸時評の塊1993~2011 沼野充義著」、『東京新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012120202000174.html

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覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『空と風と星と詩』=尹東柱・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『空と風と星と詩』=尹東柱・著
 (岩波文庫・567円)

 ◇心の影をうつしだす清らかな名詩集

 <人生は生きがたいものだというのに/詩がこれほどもたやすく書けるのは/恥ずかしいことだ>

 これは自分を見つめる「たやすく書かれた詩」の一節。尹東柱(ユンドンジュ)のことばは、ことばを書きつけるすべての人の胸にひびく。

 尹東柱は、いくつかの美しい詩を残して、終戦(解放)の半年前、一九四五年二月、二十七歳の若さで獄死した。本書には全六十六編と原詩(ハングル)を掲載。日本での文庫は初。

 父祖移住地の中国・北間島(プッカンド)の生まれ。原籍地の朝鮮北部(現・北朝鮮)の中学、ソウルの延禧(ヨニ)専門学校をへて、立教大学、同志社大学に留学。治安維持法違反の嫌疑で逮捕され、福岡刑務所で急死(生体実験、毒殺説も)。最期に何か話したが日本人の看守にはききとれなかった。

 日本統治下の朝鮮。日本語だけを用いることを強制された時期、尹東柱は、朝鮮のことばで詩を書き、渡日前『空と風と星と詩』(原稿)を三部つくる。没後の一九四八年、家族や友人の思いをのせて『空と風と星と詩』刊。以後韓国の国民的詩人となった。すでに伊吹郷、上野潤、竹久昌夫、茨木のり子らの詩集訳・作品訳があるが、在日詩人金時鐘の新訳は、尹東柱の詩をより多くの人に伝える画期的なもの。「序詩」は日本留学前、一九四一年の作。

 「死ぬ日まで天を仰ぎ/一点の恥じ入ることもないことを、/葉あいにおきる風にさえ/私は思い煩った。/星を歌う心で/すべての絶え入るものをいとおしまねば」(部分)

 この翌年には、客地日本での孤独な下宿生活がうたわれる。前掲「たやすく書かれた詩」は「窓の外で夜の雨がささやき/六畳の部屋は よその国」で始まり「私は私に小さな手を差しだし/涙と慰めを込めて握る 最初の握手」で結ぶ。自分が自分と握手するしかない日々。だが尹東柱は冷静に、自分の世界と向き合った。心の影をうつすように、詩を書いた。その静けさが人をひきつける。

 明日、明日というが、起きたら、「明日ではなく今日であった」(「明日はない」)という影のあるユーモア。「弟の印象画」「このような日」の家族スケッチ、「市(いち)」の庶民風景。「皺ひとつないこの朝を/深く吸い込む、深くまた吸い込む」(「朝」)。まわりのもの、少し昔のことなどを配置しながら、順々に詩がめざめるという運びである。

 韓国の大型書店では詩集と小説集でそれぞれ「ベストテン」が掲示されることが多い。一九七六年以来ぼくは韓国の旅をつづけているがそのようすに変わりはない。尹東柱の詩集(絵本も含め、各社から何種類も)は現代の詩集をおさえ、つねに上位。抗日運動にいのちをかけた詩人たちへの畏敬の念もあり、詩の読者はとても多い。

 中国の科挙の影響かと思われるが、白日場(ペギルジャン)(みんなで集まって詩の競作)はいまもさかん。詩人になるには通常、推薦制度を通過しなくてはならない。いったん認定されるとそのあと詩を書かなくても詩人で通る例も。内部にエリート意識がめばえ、それが詩の歩みを止めるのだ。

 尹東柱は、そんな現代とは別の時節に生まれ、詩の原郷のような場所から、清らかな詩を届けた。「白骨に気(け)取られない/美しいまた別の故郷へ行こう」(「また別の故郷」)。

 尹東柱の詩は中国、北朝鮮、韓国、そして日本という、現在の四つの国と、深いかかわりをもった。どの国の人にも、たいせつな詩人である。(金時鐘編訳)
    --「今週の本棚:荒川洋治・評 『空と風と星と詩』=尹東柱・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121202ddm015070003000c.html


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覚え書:「今週の本棚:若島正・評 『新世紀読書大全 書評1990−2010』=柳下毅一郎・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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今週の本棚:若島正・評 『新世紀読書大全 書評1990−2010』=柳下毅一郎・著
 (洋泉社・3990円)

 ◇世界が違って見えてくる“特殊読書人”の本棚

 書評集のおもしろさは、なんと言っても、その人の本棚の一部を覗(のぞ)き見できるところだ。不思議なもので、ばらばらな点を結んでいけば一つの形ができあがるあの絵遊びに似て、一冊一冊はばらばらでも、それをまとめて本棚にすると、一人の読者の輪郭が浮かび上がってくる。本が人間を作ってしまうということ。そういう真実を納得させてくれる書評集こそが、本当に読む価値のある書評集ではないか。

 柳下毅一郎の『新世紀読書大全』は、著者がこの二十年間にあちこちの媒体で書き散らした書評を集めたものだ。映画、SF、コミック、殺人……といったように、扱われている書物をおおまかなジャンルで括(くく)ってしまうと、それはただ単に「趣味の幅が広い」という陳腐な言葉で言い表されてしまうことにしかならないだろう。ところが本書はそうではない。「特殊翻訳家」を自称する著者にいかにもふさわしく、本書が扱っている、洋書を数多く含む書物たちは、かなり特殊である。この毎日新聞の書評欄で取り上げられそうな本はきわめて少ない。良識ある読書人なら避けて通りそうな、ヤバい本、ヘンな本、狂った本が基調である。たまに普通の本が混じっていると、ほっと安心するほどだ。なぜ狂った本なのか。それは、世界が違って見えるからだ。そうして歪(ゆが)んだ世界を見続けているうちに、柳下毅一郎という一人の特殊な読書人ができあがる。著者はこう書く。「こちらの価値判断を崩すもの、それを狂気と呼んでいい。優れた表現はつねに狂気をはらみ、世界を破壊する悪意を抱いている」

 その意味で、まえがきで著者が述懐するように、本書は「ほとんど脈絡もなく出鱈目(でたらめ)」であるかのように見えて、実は一貫している。著者が強く惹(ひ)かれるのは、「世界に満ちあふれた雑多な情報の中から特別なものを掘りだしてくる人たち」であり、「本気で道を極めている人」である。著者が信奉するSF作家J・G・バラードの名品「ウェーク島へ飛ぶわが夢」を論じた文章に出てくる「きみのオブセッションを信じよ」という言葉どおりに、たとえ世間一般にはクレージーと思われようとまっしぐらに突き進む人たちこそ、柳下毅一郎のオブセッションの対象になる。そのオブセッションを信じた結果が、この『新世紀読書大全』なのだ。

 従って、著者は決して出鱈目ではなく、むしろ生真面目(きまじめ)に見えることすらある。対象へのオブセッションやフェティシズムが感じられない本、冷ややかな批評、粗雑な仕事に対する著者の批判は手厳しい。要するに、本気度が足りないというわけだ。もちろん、熱く没入するそのかたわらで、冷静な価値判断ができないとオタクと変わらなくなってしまう。その点で、ホットでありながらクールでもあるのが、批評家として、そして特殊読書人としての柳下毅一郎の美質だ。ニーチェの超人思想を実践しようとした殺人者として有名なレオポルドが書いた本を論じた中で、「これはほぼまちがいなく殺人者によって書かれたもっとも優れた本である」というくだりは、最も印象に残った一節のひとつである。

 ゲテモノ料理のフルコースを堪能するような、六百頁(ページ)を超える本書(税別三八〇〇円という値段は信じられないほど安い。本書に収録された『紙葉(しよう)の家』に対する書評を参照すること)を読み終わった後では、たしかに世界が変わって見える。クズ本としか見えなさそうなものまでが、なにやら妖しい光輝を放って、見世物小屋の呼び込みさながらに、わたしたちを誘っているような気がしてくる。
    --「今週の本棚:若島正・評 『新世紀読書大全 書評1990−2010』=柳下毅一郎・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121202ddm015070020000c.html


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「今週の本棚:鹿島茂・評 『ジャン=ジャック・ルソー』=永見文雄・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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今週の本棚:鹿島茂・評 『ジャン=ジャック・ルソー』=永見文雄・著
 (勁草書房・7770円)

 ◇分裂の思想家像、解釈への決定版

 ルソーはラディカル(根源的)な思想家である。ゆえに歴史の曲がり角でしばしば召喚され、フランス革命では「人民主権」が、スターリニズムとファシズムの時代には「一般意志」が、それぞれ援用されたし、また現代ではエコロジスムや反原発のルーツとして持ち出されている。しかしそのために党派別のルソーが存在するかの観を呈して、ルソーの実像が見えにくくなっているのも事実である。ルソー生誕三〇〇年を期して刊行された本書はこうした「分裂したルソー像」を一つのキー概念の導入で「統一的に解釈するひとつの試み」である。では、そのキー概念とは何なのか? それは「自己充足」という概念である。

 著者は、ヨハネ=パウロ二世の言葉を「人間は自ら充足しえない」ととった記事の見出しに霊感を受け、これをパスカルが『パンセ』で展開した「神なき人間の悲惨」という考えと結びつけながら、次のようにルソー思想の独創性を説明する。

 パスカルによれば、気晴らしのない人間は自らの無力に耐えきれず悲惨な状態に陥るが、それは人間が原初から非充足性(永遠に満たされない思い)を運命づけられるという「原罪」を負ったためであり、その悲惨を免れるには神の恩寵(おんちょう)にすがるしかないが、著者は「これに対しルソーは、人間の本源的善性(bont〓 originelle)を主張することで、原罪を徹底的にしりぞけた」と考える。

 すなわち、ルソーは、原始の自然人は身体的必要の満足で充足する動物的状態にあったがゆえに他者に依存しない孤独で自由な存在であり、それゆえ幸福な存在であったという仮説を設けて神の自己充足性に代えたが、では、こうした幸福な自然人が社会状態への移行と同時に不幸になったのはなぜかといえば、それは次のような「自己完成能力」が人間に備わっていたためであると考えた。

 「人間には自己完成能力がある。それは人間を自然状態から逸脱させ、社会状態の一切の悲惨を生む原因になったものであり、この能力はひとたび顕在化すれば無限に発展する恐ろしい能力だ。しかしながら、もし人間に自己救済が可能だとすれば、人間にはこの能力をおいて頼るものは何もないのであって、したがって自己完成能力は自己救済の可能性を人間に保証するものともなるのである(自己完成能力の両義性)。ルソーはいわばこの人間の自己救済の側に賭ける新しいタイプの人間なのだ」

 以上が本書の言わんとすることだが、しかしルソーの著作はおいそれとこうした結論が導き出せるようには書かれてはいない。逆に『人間不平等起源論』や『社会契約論』を表面的に読むとルソーの複雑な思想を「自然に帰れ!」というような単純な惹句(じゃっく)に落とし込みかねない。ルソーは「自然に帰れ!」などとは一言も述べておらず、一貫して「自然には戻れない」と主張しているにもかかわらず、である。左右の全体主義や過激エコロジスムの歪曲(わいきょく)されたルソー像もこうした還元的な読み方から来ている。

 これに対して、著者はルソーを理解するには生涯と著作を関連させながら統一的に読み解く以外にはないとし、第一部でルソーの生涯を詳細に検討したあと、第二部ではその全作品を深く分析し、メインの「思想の検討--自己充足の哲学」を第三部としてもってくるという三段構えの構成にした。これが、本書を紀要論文の集成を超えたルソー解釈の決定版にするのに役だっている。ルソー初心者からルソー専門家にまで、広く推薦できる一冊。
    --「今週の本棚:鹿島茂・評 『ジャン=ジャック・ルソー』=永見文雄・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121202ddm015070004000c.html


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覚え書:「今週の本棚:白石隆・評 『中国人民解放軍の内幕』=富坂聰・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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今週の本棚:白石隆・評 『中国人民解放軍の内幕』=富坂聰・著
 (文春新書・819円)

 ◇意思決定や戦略、進化の方向性を多面的に

 中国の国防費はすでに20年以上にわたって2桁の伸びを続け、2012年には6700億元(約8・7兆円)を超えた。日本の防衛予算の約2倍である。また、中国は、東シナ海でも南シナ海でも、周辺諸国との領土紛争において、現にあるルールをしばしば無視し、一方的行動をとることも多い。そのためだろう。中国のシビリアン・コントロールはどうなっているのか。人民解放軍は戦前の日本軍のようになっているのではないか。そういう懸念がしばしば語られる。

 では、実のところ、どうなっているのか。本書はそれを考える上で格好の本である。いくつか、例を挙げよう。

 たとえば、空母の保有である。最近、中国は空母「遼寧」を就役させた。これにどんな意味があるのか。空母の保有はもちろん戦闘能力の向上を意味する。しかし、空母を持ったからといって、「日本にとって中国の脅威が大きく変化することはない。」という。懸念されるのは、平時の海における中国のプレゼンスの拡大であり、中国の海上行動がいままで以上に大胆になることである。しかし、中国のカタパルト技術はまだまだ未熟で、中国の空母がアメリカの原子力空母に対抗できるようになるのはずいぶん先のことである。

 では、中国は、どんな戦略で東シナ海と南シナ海を「中国の海」にしようとしているのか。中国の軍事戦略をアメリカは「接近阻止・領域拒否戦略」と呼ぶ。その鍵は地対艦ミサイルにある。命中精度が上がれば、中国の地対艦ミサイルはアメリカの原子力空母にとって大きな脅威となり、有事の際、空母は東シナ海、南シナ海に入って来られなくなる。その一方、練習艦として、また海におけるプレゼンス向上の手段として、空母「遼寧」を就役させ、さらに本格的な国産空母の開発・建造を進める。それが戦略である。

 もう一つは人民解放軍における意思決定のしくみである。軍の統帥権は中央軍事委員会(軍委)にある。先日の党大会で中国共産党の最高意思決定機関である政治局の中央委員、常務委員が改選され、習近平が胡錦濤に代わって総書記に就任し、軍委主席にもなった。では、シビリアン・コントロールはどうなっているのか。

 軍委の中枢は軍委弁公庁にある。この機関は軍委主席のスケジュール管理から、党、政府機関との調整、会議に上程される議案や各軍から上がってくる陳情の整理まで、あらゆる案件を扱う。また、指揮命令系統では、総参謀部が軍の要として作戦、対外情報等を担当し、有事には軍の指揮はここに集中される。

 党中央の最高意思決定機関のメンバーは、軍委のメンバー以外、職務上、軍と関わることはない。また、一般に、党の実力者は軍に接近せず、距離を置くことを心がけるという。軍を党内の権力闘争に巻き込まないためである。しかし、軍委のメンバーは、主席の習近平以外、すべて軍人である。これでは党と軍の関係は希薄化しかねない。では、どうするのか。党の中央弁公庁(中弁)がその任を担う。中弁は党政治局の事務局として軍と日常的に接触し、中弁主任は自分の指揮する軍部隊も持っている。その意味で、中弁は、まさに党・国家の中枢となっている。

 本書は、帯に「『尖閣上陸Xデー』は来るのか!?」とあって、一見、きわものと思う人もいるかもしれない。しかし、中国における党と軍の関係、軍内の意思決定、軍「進化」の方向、中国の軍事戦略、空母建造の意義、軍系国営企業と太子党など、人民解放軍を理解する上で大いに参考になる。好著である。
    --「今週の本棚:白石隆・評 『中国人民解放軍の内幕』=富坂聰・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121202ddm015070018000c.html

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覚え書:「今週の本棚:五百旗頭真・評 『中国共産党の支配と権力』=鈴木隆・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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今週の本棚:五百旗頭真・評 『中国共産党の支配と権力』=鈴木隆・著

 ◇五百旗頭(いおきべ)真・評
 (慶應義塾大学出版会・7140円)

 ◇冷静に「中国民主化」の可能性をさぐる

 ああ中国、なんという国か。人治が法の支配に優先する。とりわけトップの権力抗争の日には、ブルドーザーがすべてを破壊して進むようだ。中華秩序は昔の話ではない。中国のみが国際秩序の主人公であり、中国の欲する資源と領土は中国のものである。他国はそれに従わねばならない。尖閣諸島国有化以降の中国の荒れようを見て、以上のような悲鳴に似た中国観を改めて懐(いだ)いた日本国民は少なくないのではなかろうか。

 そういう時だからこそ、本書のようなホンモノの冷静な研究を推したいと思う。

 中国は民主化するのか。本書はこの誰もが持つ疑問にとり組んだ力作である。30年を超える高度成長が生んだ「新社会階層」に本書は焦点をあて、民主化の可能性を探りあてようとする。

 中国以外の常識でいえば、経済発展は中間層を膨らませ、それは社会の多元化とともに民主化の基盤を醸成する。たとえ権威主義政府の下での経済発展であってもかまわない。それは国民を富ませることで、とりあえず現権力の正統性を高めるが、中長期的に民主化の時を招き寄せ、権威主義体制を終らせる。それゆえ、日本人が民主主義を奉ずるにもかかわらず、それを欧米諸国のように他国に強制することを好まず、むしろODAなどにより工業化と経済発展のインフラを支援しようとしてきたのは、きわめて適切なやり方だと言える。

 かなり広く妥当するように見えるこのセオリーは、中国にもあてはまるのであろうか。冷戦終結期の天安門事件において民主化運動を鎮圧した中国共産党は、一党体制を堅持しつつも、世界市場経済の中での繁栄を求める方針を、1992年のトウ小平の指針「社会主義市場経済」により明確にした。経済発展の持続がもたらす新事態への応答が、2001年に「3つの代表」論を展開した江沢民の「7・1講話」である。それは労働者と農民の党であったはずの共産党に、新社会階層の名において資本家をも迎えることを公認した。本書はこれを重視し検討の出発点とする。

 新社会階層は約8千万人とされる。中国全人口の6%程度だが、西欧2ケ国の総人口ほどの数である。その多くが企業家・経営者などから成る新経済組織、もしくは社会団体の管理者や弁護士などの新社会組織に属する。この専門性を帯びた新興勢力の動向、そして共産党がこれをどう扱うかを検討することにより、本書は中国民主化の展望に手がかりを得ようとするのである。

 本書は、米国や日本など世界の中国研究者の議論を丹念に紹介し、それを組み合せつつ自らの議論の土台とする。加えて中国内のそこここで行われた意識調査・アンケートなどの集積がかなりあり、それらを積極的に活用している。超巨大な中国の各論と全体像をつくすことは不可能であろうが、それでも研究水準がここまで進んだのだと感じる。

 さて内容と結論を急がねばならない。個別具体的な本書の分析は、中国に民主化の夜明けが来る気配はないことを示し続ける。はばたく新社会階層は、民主化変革の担い手となるコストを払うよりも、自らが然(しか)るべきポストを得ること、否、自らの事業が当局とライバルによって葬られることなく成功をつづけることに腐心する。彼らにとり共産党体制の動揺は、自らの事業の不安定化をもたらしかねない。政治的腐敗などには厳しい批判も持つが、基本的に現体制支持派なのである。

 ひるがえって、それは共産党の社会変動へのたくましい対応力の証しでもある。党の組織部が新社会階層の然るべき部分を党員に取り込む、のみならず胡錦濤政権下で統一戦線の活動が強化され、入党しない社会諸勢力との協調関係を拡(ひろ)げている。こうした党側の対処からもれ落ちるのは、新社会階層のような成功者ではなく、周辺に追いやられる不遇層かもしれない。彼らは数限りなく小暴動を起こすが、それを面的な社会騒乱に進ませない当局の力には侮りがたいものがある。

 「中国の特色ある社会主義的民主」という議論がある。西側社会が基軸とする「選挙民主」ではなく、中国は「協議民主」を進むとする。コーポラティズムの議論を見て、西欧もやっと中国的民主主義に近づいたとほほえむ中国学者もいる。中国が共産党支配の下で多くの者の意見を汲(く)み上げ、意思決定過程に参画する層を拡げてきたのは事実である。しかしそれは所詮「熟議的独裁」以上のものであり得ない。香港やシンガポールに見られる「諮詢(しじゅん)型法治」の可能性についても、袁世凱(えんせいがい)の帝制の域を出ない議論であるとする。

 このように、本書は冷静に「中国民主化」の実体についての幻想を斥(しりぞ)ける。それでいて、議論と中国政治の全体動向は、一党独裁の限界を告げていると最後に論ずる。たとえれば、中国共産党は果敢に防戦し、時には攻勢に打って出るたくましさを持つ。だが個別戦場から目を戦局全体に転ずれば、中国共産党は大きな撤退戦を強いられていると観察する本書である。
    --「今週の本棚:五百旗頭真・評 『中国共産党の支配と権力』=鈴木隆・著」、『毎日新聞』2012年12月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121202ddm015070028000c.html

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「変われば変わるほど変わらない」。

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 「クソッタレの世の中に噛み付いて生きて行こうとずっと努力してきた。でも、それはもうやめにしよう。クソッタレの世の中だからこそ、傷つき、涙している人たちがいる。俺はその人たちに寄り添いながら生きていこう」(義家弘介『ヤンポコ ーー母校北星余市を去るまで』文春文庫)
 「クソッタレの世の中」という言葉に注意しよう。この言葉には、後にふれるヤンキーの社会に対する関心の希薄さにも通ずるような、曖昧な汎用性がある。つまりいつの時代でも通用することば、ということだ。
 義家は確かに変わったのかもしれない。変わっていないのは社会が「クソッタレ」であるという認識である。そんな社会に正面からぶつかっていくか、あるいは社会の犠牲者に寄り添うのか。いずれにしても義家は、まず社会を否定するところから「闘い」をはじめようとしている。つまり、それこそが彼の「変わらなさ」である。
 僕の持論はこうだ。人はしばしば変わることを口にする。しかし人が本当に変わることは難しい。いや、むしろ、こう言うべきか。「変われば変わるほど変わらない」。僕がしばしば引用するフランスの諺だ。実のところ、これは僕の人間観のもっとも根本にある原理のひとつである。
 ただしこれを「しょせん人は変わりっこないんだから、がんばっても仕方ない」という諦観と思われては困る。僕はこのことばに、永劫回帰にも通ずる真理をみているのだと言えばおわかりいただけるだろうか。「人の変化」を肯定するためにこの言葉を用いているということは伝わるだろうか。この言葉にはまた、変化というものが、なんらかの恒常性や普遍性を担保にしなければ起こりえないという意味も含まれているのだ。
    --斉藤環『世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析』角川書店、2012年、133ー134頁。

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斉藤環さんが指摘する「人はしばしば変わることを口にする。しかし人が本当に変わることは難しい」ということを本当に実感するようになった。

若い頃は、人間はチャンスと決意があれば、今の自分とは違う自分になれる……例えばそれを「成長する」だとか「変革する」だとかいう表現で……とは、字義通り思っている訳ではないし、全てが全てそういう訳ではないけれども、そういう事例もあるだろうとは思っていた。

しかし、それを全否定に近い形で否定するようになったのは、年老いた所為で保守的になって、「クソッタレの世の中」に対してやぶにらみしながら、「しょせん人は変わりっこないんだから、がんばっても仕方ない」という諦観と思われては困る。

例えば、何かの社会的境遇や立場が変わることや、ライフスタイルが変わることを、単純に「変わること」と同定することはできないのではないかという話です。

それはそのひとの全人性を表象する唯一の表示でもないし、例えば、貧乏だった人間が成功して金持ちになって、マナーや要件やらの全てを身につけたとしても、そのひと自身が「変わった」わけではない。そう当事者とその関係する人間が「変わった」と錯覚しているだけではあるまいか。

例えば、支持している政治的イデオロギーや信仰といった人間の内心に関わる部分が、移動したり、チェンジしたりすることも、人生においておうおうにして存在する。しかしそういった事例も「変わった」わけではないのではないか。

人間が変わるとは、変わらないことを自覚する。もちろん、それは先にいった「しょせん……」という諦観といった保守の退嬰ではない。

ここ数年、「変われば変わるほど変わらない」というものをたくさん見てきた。

人間は「変わるわけではない」。

おそらく深く、そう自覚する……たとえば、「変化というものが、なんらかの恒常性や普遍性を担保にしなければ起こりえないという意味」……ことによってこそ、積極的な肯定的な側面が創出されるような気がしてほかならない。

まとまりにくい雑感ですけど、そういうことを最近よく感じます。

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覚え書:「ニュースの匠:まかり通る政界のウソ=鳥越俊太郎」、『毎日新聞』2012年12月1日(土)付。

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鳥越俊太郎 ニュースの匠
まかり通る政界のウソ
あまりに品がない

 ウソをついてはいけません--。これは世間一般の常識ですよね。「ウソつきはドロボウの始まり」って言葉もあるくらいです。それがどうでしょう? 政治の世界ではウソが堂々とまかり通るんです。
 まずは民主党が2009年の選挙で掲げたマニフェスト。中でも「コンクリートから人へ」はいいキャッチコピーだと思いましたよ。鳩山政権ができて早速、前原誠国土交通相(当時)が八ッ場(やんば)ダムの建設中止を宣言しました。やったね!と思いましたが、国交省の前身・建設省出身の前田武志氏が国交相になった途端「ダム建設再開」です。民主党はここで大ウソをついたことになったのです。
 最近、選挙を前にしていわゆる第三極の集合離散が繰り返される中で驚いたのは、日本維新の会の代表代行、橋下徹さんの、良く言えば変幻自在、悪く言うとウソでも何でもありのパワーゲームです。
 橋下さんには「前科」があるんですね。大阪府知事選に出馬する直前まで「2万%出馬はあり得ない」とテレビの中で公言していたのに、数日もたたずして知事選に名乗りを上げていました。この時は選挙の戦術としてはあまり品は良くないが、ありなのかな、と納得していたのですが、今回は、あまりにも品がないウソの行列です。
 私の記憶では橋下さん、まず政策として「維新八策」をぶち上げ、合流希望の国会議員には「政策の完全一致」を求めていました。橋下さんがテレビの中で何度もこう言うのを聞いています。「政策、理念、価値観の一致が大前提です」
 橋下さんらしく歯切れいいなあと感心していた私がアホでした。その後、石原慎太郎さんの「太陽の党」と合流するに当たり、橋下さんがとった行動は「価値観」んぼ一致どころの話ではなく、これまで主張してきたことをあっさり投げ捨ててしまうことでした。「企業・団体献金の禁止」は「維新八策」の目玉政策ではなかったんでしょうか。それが「太陽の党」との合意で消えてしまい「経過措置として上限を設ける」という訳の分からないものへと変わり、「原発2030年代ゼロ」も「フェードアウト」と変わりました。橋下さんを「ウソつき少年」とは言いませんがパワーゲームのウソには付き合いきれませんね。
    --「ニュースの匠:まかり通る政界のウソ=鳥越俊太郎」、『毎日新聞』2012年12月1日(土)付。

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http://mainichi.jp/opinion/news/20121201ddm012070005000c.html

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覚え書:「今週の本棚:近代を創ったスコットランド人=アーサー・ハーマン著」、『毎日新聞』2012年12月2日(日)付。

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今週の本棚:近代を創ったスコットランド人=アーサー・ハーマン著
(昭和堂・5040円)

 近代における人間や社会や世界に対する新しい認識を切り開いた18世紀の啓蒙思想。フランスほど華やかではないが、スコットランドでは活発で独創的な思想が花開き、近代文明に大きな影響を与えたことを明らかにする。本書は米国とカナダでベストセラーとなった。
 馴染みのある名前の何とスコットランド生まれが多いことか。『国富論』のアダム・スミスをはじめ、デイヴィッド・ヒューム、ジョン・ステュアート・ミル、トマス・リード……。蒸気機関を発明したジェイムズ・ワットもそうだ。英国北方の貧しく孤立した地域がなぜ知的拠点になり得たか。カルヴァン派プロテスタント信仰の下で、自由で自主的な個人の観念が育ったこと、ロンドンから遠く離れ、国家機関や貴族的サロンに支配されなかったことなどを著者は挙げる。ちなみに今に続く『ブリタニカ百科事典』第1巻は1768年に中心都市エディンバラで創刊された。
 この啓蒙思想のグローバル展開の契機となったのが人々の米国移住。これは英国からの独立運動の思想的基盤を準備することにもなる。壮大なスコットランド人の精神史である。=篠原久監訳・守田道夫訳(恵)
    --「今週の本棚:近代を創ったスコットランド人=アーサー・ハーマン著」、『毎日新聞』2012年12月2日(日)付。

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うへぇ、今日から年末の工場(ライン作業)アルバイトが始まってしまう。
大学の非常勤で家族もいるわけですが、当然、それだけでは生計が立たない訳でして、致し方なしということです。

工場で仕事をすること自体に、なにかわだかまりのようなものは特別ありませんけれども、正直、学習と研究の時間がそれだけ減少するのがちょっと寂しいところです。

まあ、だからといってこのポスト工業社会爆発しろというのでも、ああ、どうしようもならないやと発想するのも避けていきたいところですが、タカ派政党が「最低賃金の保証の見直し」だなんて言い始めていることには、「おいおい」と思ってしまいます。

アメリカを例にとるまでもなく、1%を手厚く保護し、残りの人間を極貧化させていく。そういうやり方には限界があるわけでして。だからといって、外からの完全な平準化の強制で解決するというのも違う訳で、ともあれ、こうした連中だけが、正直なところ「よくわからないけれども、まあ、なんとかしてくれるのだろう」と思って拡大していくことには、「いかがなものか」と逆らいたいとは思います。

えてして、経済政策において、特定の……しかもそれが往々にして社会的強者……立場に都合の良い舵取りをする連中は、特定の人々が差別されることも、それは差別ではなくしかたのないことだと居直りを決め込む連中と一致することが多いのですが、そういう瑕疵も見逃したくないようにしたいですね。

ともあれ、年末の忙しい時期、みなさまもお風邪など召しませぬように。

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覚え書:「【書評】ことり 小川洋子著」、『東京新聞』2012年11月25日(日)付。

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【書評】ことり 小川 洋子 著

◆静かに愚直に生きる幸せ
[評者]横尾 和博 文芸評論家。著書に『新宿小説論』『文学÷現代』など。

 静謐(せいひつ)な世界である。その静けさはどこからやってくるのだろうか。それは小鳥を愛し声を聞き分け、他者のために尽くし、自然の音色に耳を傾ける主人公の生き方に由来するからだ。誰にもかえりみられることもなく社会から忘れさられ、愚直に生き、人づき合いが苦手な主人公。孤独とは自身の声に耳を澄ませることの代名詞なのか。
 物語は「小鳥の小父(おじ)さん」と呼ばれていた男が、ある日自宅で孤独死していた場面から始まる。小父さんは子どものころ、両親や兄と暮らしていた。しかし兄は幼いころから失語症状態で独自の「ポーポー語」という言葉を使い、外部との接触を絶っていた。兄の言葉は誰にも理解できないが、小鳥たちとは会話が成立し、また兄の言葉を理解できるのは七歳違いの幼い小父さんだけだった。
 兄弟が若いときに両親は亡くなり、小父さんは近くの企業のゲストハウスの管理人として働き兄を養う。しかし兄は五十代で病死し、ひとり残された小父さんは、兄が愛した幼稚園の小鳥小屋の清掃を無償で引き受け、兄への鎮魂と自らの魂の拠(よ)り処とする。図書館司書の女性へのほのかな恋心、虫の声を聞く老人との出会い、メジロの鳴き合わせ会などの小さな波乱に遭いながらも小父さんは静かに生涯を終えていく。小父さんの生は孤独だが幸福である。
 言語とは伝達機能だけではなく、人が自然や生き物と感じ合うひとつの手段である。その意味で多声的な小説であり、自らの内部の声を聞くことこそが情報過多、喧騒(けんそう)の時代にあって、重要なキーワードであることを考えさせられた。著者は二〇〇三年の『博士の愛した数式』でも、世の片隅で静かに生き、傍目(はため)には自閉的で偏執的な人間と映ろうとも、自分のなかの静寂に寄り添う人物像を描いてみせた。本書はさらに磨きがかかった作品である。沈思黙考する人間こそ美しい。
おがわ・ようこ 1962年生まれ。小説家。著書に『ミーナの行進』『最果てアーケード』など。
(朝日新聞出版・1575円) 
<もう1冊> 
 稲葉真弓著『半島へ』(講談社)。東京の生活に疲れた女性が半島の別荘で一人で暮らし、その静寂と自然のなかで再生する物語。
    --「【書評】ことり 小川洋子著」、『東京新聞』2012年11月25日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012112502000179.html

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覚え書:「3.11後を生きる:『原発やむなし』目覚まして/城南信金総研」、『東京新聞』2012年11月28日(水)付。

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3.11後を生きる:「原発やむなし」 目覚まして/城南信金総研

「原発に頼らない安心できる社会」を目指す方針を掲げる、城南信用金庫が今月スタートさせたのが「城南総合研究所」。原発がなくても経済や社会は成り立つという専門家の分析を、分かりやすく情報発信していくのが狙いだ。旗振り役の吉原毅理事長は「原発やむなしと考えている自称『現実主義者』に目を覚ましてもらいたい」と訴える。(白石亘)


◆「お金中心に考えすぎ」

原発を動かさないと、電力不足になって停電が起きる─。こうした情報が盛んに流される中、電力不足が懸念された夏場を乗り切ったのは周知の通り。

幼い子を持つ母親らは、放射能の被害など安全面からも原発の恐ろしさを痛感している。それでも各種の世論調査を見ると、経済的な理由などから「原発はやはり必要」と考える人たちが一定程度、存在するのも事実だ。

彼らに脱原発を思いとどまらせているのは、原発を止めると、電力が足りなくなったり、電気代が大幅に上がってしまうという「二つの懸念」というのが吉原氏の見立てだ。原発に関する正確な情報が行き届いていないとみる。

城南信金は原発事故を受け、昨年4月に脱原発を宣言。以来、専門家と意見交換を重ね、蓄積してきた知識をベースに、シンクタンクを設立した。主に原発のコストと電力不足をテーマに、専門家によるさまざまな切り口での分析を分かりやすい言葉で世の中に広げる「媒体」を目指す。

シンクタンク業務を手掛けるのは、城南信金企画部の担当者11人で、専門家に取材した結果をリポートにまとめる。第一弾のリポート(A4判4枚)は1万部作製し、店頭で預金者や取引先の中小企業などに配っている。

シンクタンクの「理論的な支柱」となる名誉所長には、加藤寛・慶応義塾大学名誉教授を迎えた。歴代の自民党政権下で経済政策のブレーンを務め、旧国鉄の分割民営化などに取り組んだ著名な経済学者。吉原氏は学生時代、慶大の加藤ゼミで学んだ門下生で、加藤氏は就任を快諾したという。

脱原発を宣言してから、休みも返上して講演会などに飛び回る吉原氏。志に賛同した取引先の中小企業が節電商品を開発して売り出すなど、活動の輪は着実に広がっている。

意外な応援団もいる。本紙が研究所の設立を報じた今月9日、城南信金本店に小泉純一郎元首相から電話が入った。「よくやった、と激励されました」と吉原氏。元首相は4月に城南信金が開いた講演会でも「原発を推進していくのは無理。原発の依存度を下げていくのが、これから取るべき方針」と訴えたという。

一方で、「原発ゼロは非現実的」と言う人たちから、「会社に損失が生じるから、原発を止めるわけにはいかない」「電気代が上がると、生活が苦しくなる」との本音を聞くにつけ、「お金や自分のことばかり考えているのが現代社会の病理」と痛感するという。

「みんな自分のことで精いっぱいなのは分かる。だけど、お金を中心にモノを考えすぎて、地域やお客さんの幸せを切り捨ててしまっていいのか。今こそ社会の連帯を取り戻し、間違ったことはやめるのが大人の責任だ」


◆脱原発は雇用を拡大

シンクタンクの城南総合研究所が発表した第一弾のリポートに、名誉所長に就いた加藤寛慶応義塾大学名誉教授が寄稿した。「脱原発は新産業の幕開けをもたらし、景気や雇用の拡大になる」として、日本経済を活性化させる観点からも、原発ゼロを訴えている。

加藤氏は、電力9社による地域独占体制について「原子力ムラという巨大な利権団体をつくり、独占の弊害が明らか」と指摘。かつて自らが改革に取り組んだ旧国鉄を引き合いに「国鉄は独占を排除し、分割民営化により国民を向いた経営に転換した」と説明、独占にメスを入れるよう訴えた。

さらに「古い電力である原発を再稼働しても、決して日本経済は活性化しない」と指摘。太陽光や風力といった再生可能(自然)エネルギーなど発電方法が多様化し、節電や蓄電池の分野でも技術革新が急速に進んでいることを挙げ、「原発に依存したこれまでの巨大な電力会社体制も、近い将来は時代遅れになり、恐竜のように消滅するだろう」と予測した。

その上で「脱原発にかじを切れば経済の拡大要因になり、中小企業などものづくり企業の活躍の機会が増える。経団連は雇用が減ると言うが、むしろ脱原発は雇用拡大につながる」と、経済効果の大きさを強調している。

このほかリポートでは、原発のコスト構造を検証した。経済産業省のエネルギー白書によると、1キロワット時当たりの発電コストは原発が5~6円、火力が7~8円。しかし、これには原発のある地域に支払われる巨額の交付金は含まれていない。立命館大学の大島堅一教授の試算によると、原発が10.3円、火力が9.9円で、原発の方が割高になっている。

さらに、使用済み核燃料の保管や処理に掛かる費用もかさむことから、「原発のコストは恐ろしく高価で、将来、大幅な電気料金の値上げにつながる。原発を廃炉にすることが経済的にも正しい判断」と結論づけている。
    --「3.11後を生きる:『原発やむなし』目覚まして/城南信金総研」、『東京新聞』2012年11月28日(水)付。

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覚え書:「【書評】満洲浪漫 長谷川濬が見た夢 大島幹雄著」、『東京新聞』2012年11月25日(日)付。

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【書評】満洲浪漫 長谷川濬が見た夢 大島 幹雄 著


◆国策の理想と現実
[評者]川崎 賢子 文芸・演劇評論家。著書に『彼等の昭和』『宝塚』など。

 長谷川濬(しゅん)は甘粕正彦の自死に立ち会った男である。ロシア語を学び、旧満洲(まんしゅう)国にわたり、外交部から弘報処を経て満映(満洲映画協会)に身をおいた。満洲国において文化工作や宣撫(せんぶ)活動は重要視された任務であり、満映の理事長・甘粕は同時代のヒットラーやスターリンと並んで大衆文化における映画の力を高く評価する権力者だった。
 長谷川は旧満洲国の国策にかかわりつつ、満洲の文学運動においても中心的な役割を果たした。「満洲浪曼」という雑誌によって活躍した。
 しかしながら四十歳目前で敗戦を迎えた彼に、戦後日本社会での暮らしは困難を極めた。映画館の夜警やCIC(対敵諜報(ちょうほう))の活動、ナホトカ行き貨物船の通訳、ドン・コザック合唱団招聘(しょうへい)の通訳などを務める合間に、彼はおよそ百三十冊にも及ぶノートを残した。名付けて「青鴉」。本書はそれをもとに書きおこされた長谷川濬の評伝である。そこには渡満の動機や満洲国の理想と現実の落差が痛みと共に記されている。
 失意の日々は、満洲でえた結核とのたたかいの日々でもあった。戦後の苦難は、長谷川の満洲イメージをも実際より「夢」に近づけているかもしれない。情報活動はロマンだけで出来ようはずはないだろうし…。
おおしま・みきお 1953年生まれ。サーカスプロモーター。著書『ボリショイサーカス』ほか。
 (藤原書店・2940円)
<もう1冊> 
 『長谷川四郎集-戦後文学エッセイ選(2)』(影書房)。長谷川兄弟の末弟、濬の弟である作家のシベリア回想など。
    --「【書評】満洲浪漫 長谷川濬が見た夢 大島幹雄著」、『東京新聞』2012年11月25日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2012112502000176.html

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書評:吉原毅『信用金庫の力 人をつなぐ、地域を守る』岩波ブックレット、2012年。

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脱原発宣言で注目を集める城南信用金庫・理事長によるお金の話。人を生かし殺すお金。その弊害にどう対抗するか--。信用金庫は「小さな銀行」ではない。社会協同という崇高な理念が存在する。本書は副題の通り「人をつなぐ、地域を守る」歩みの回顧と展望の書である。

まずはじめに太古から現代に至る「お金」の歴史を概観し、「人類の歴史は、お金との戦いの歴史」と筆者は指摘する。それは人間を分断する「麻薬」との戦いである。麻薬の分断にどう立ち向かうか。「健全なコミュニティがあってこそ、健全なお金が流れる」。

上場株式会社のあり方を疑問視したA・スミス。銀行に対抗するために公益事業を目的とした「金融機関」としての信用金庫の歴史等々(「貸すも親切、貸さぬも親切」)……。本書は優れた社会思想史であり、協同組合事業の歴史を活写する一書でもある。

終章は「原発に頼らない社会に向けて」。「お金の弊害を防ぎ、人、地域を守るのが信用金庫の使命」。城南信金の取り組む「脱原発」の実践が、信金の意義や役割に誠実であることの現れであることが理解できる。短著ながら、幅広く手にとって欲しい。


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覚え書:「万引きの文化史 [著]レイチェル・シュタイア [評者]出久根達郎」、『朝日新聞』2012年11月25日(日)付。

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万引きの文化史 [著]レイチェル・シュタイア
[評者]出久根達郎(作家)

■れっきとした犯罪なのに

 古書店の店員になった直後、万引きを目撃した。あの時の衝撃を、今も忘れない。三つ揃(ぞろ)いの紳士が当たり前のように、雑誌を背広の内側に忍ばせたのだ。そのまま店を出ていくのである。私は足がふるえて、声をかけられなかった。
 その後、何十件も遭遇した。もはや、ひるむこともない。咎(とが)めると、冗談だよ、と照れ笑いする者、金を払えばいいだろう、と開き直る者、いろいろだった。捕まえた方が、何だか後ろめたくなる。万引きは、実に妙な犯罪だった。
 映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘプバーンは、雑貨店で猫のお面をくすねる。同伴者の青年作家も、真似(まね)て彼は犬の面を選ぶ。二人は面をかぶって逃げる。アパートに戻った二人は、お面を外して見つめあい、そして抱き合う。万引きは映画や小説の場面に取りあげられた。
 その意味では文化には違いないが、れっきとした犯罪なのである。
 人はなぜ万引きをするのだろうか。特別の技を要しない。誰だって、しようと思えば簡単にできる。しかし実行するには理由があろう。本書には種々の事例が出てくる。
 裁判官の娘の重役は、自分を貶(おとし)めることが快感だったと語り、小説家の女性は、盗んで集めた品々を見るとスリルを感じる、と告白した。
 貧しいから盗むのではない。2006年ブッシュ大統領の補佐官が、モップなどを万引きして逮捕された。16万1千ドルもの年俸を得ながら、88ドルのステレオを盗んだ。裁判でこう供述した。ハリケーンの被災者に対し、取った政府のまずい態度を自分は恥じていた。自罰意識が恥ずべき行為に走らせたと。
 訳者のあとがきによると、わが国書店の損失額は260億円以上、この内の73%余が万引きによるものと(2007年統計)。読んでいて気がめいってくる。最後に訳者のこの一言でやっと笑えた。「この本を買ってください」
    ◇
 黒川由美訳、太田出版・2310円/Rachel Shteir 米デポール大学演劇学部の准教授で美術学士課程の主任。
    --「万引きの文化史 [著]レイチェル・シュタイア [評者]出久根達郎」、『朝日新聞』2012年11月25日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012112500011.html

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覚え書:「一揆の原理―日本中世の一揆から現代のSNSまで [著]呉座勇一 [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2012年11月25日(日)付。

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一揆の原理―日本中世の一揆から現代のSNSまで [著]呉座勇一
[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)


■現代に通じる 人と人のつながり

 一揆というと、農民が竹槍(たけやり)を持って武装蜂起する革命的イメージが共有されている。実際、「前近代日本の固有の階級闘争」という枠組みが与えられ、弱き者の連帯による権力への抵抗という像が確立してきた。しかし、著者は言う。それは「事実に基づくものではなく、戦後の日本史研究者の願望によるもの」だ、と。
 著者は、大胆にこれまでの見方を疑い、一揆の実像に迫る。そこで見えてきたのは、暴動や革命といった特殊な運動よりも、人と人とをつなぐ具体的な紐帯(ちゅうたい)にこそ、一揆の本質があるという点だ。
 一揆の黄金時代は中世。従来の見解では、中世社会の人間は支配・被支配の封建的上下関係に縛られてきたとされる。しかし、中世の主従関係は、必ずしも絶対的ではない。実際は、互いに義務を負う双務的な関係として成立し、中世ならではの契約関係が誕生した。
 この契約は、水平的関係においても成立する。そして、ここに「一揆契約」という観念が立ち現れる。
 一揆の結成は、血縁を超えてなされた。人々は旧来の縁を切断し、新たな縁を結ぶことで、仲間を形成した。これまで赤の他人だった人々と契約を結び、疑似的な親子兄弟関係を構成することこそ「一揆契約」だったのである。
 一揆は、時に集合せず、目立つ決起集会も行わなかった。熱狂や神的儀礼も伴わず、たった二人だけの契約に留まることもあった。大規模な武装決起だけが、一揆の姿ではない。
 「相手にふりかかった問題を自分の問題として考え、親身になって、その解決に協力する」ことこそ、一揆における人間関係だと著者は説く。そして、現代のソーシャル・メディアによる「新しいつながり」との類似性に言及する。
 結論は少々強引だが、議論は明快で読みやすい。従来の一揆観を覆す論争的な一冊だ。
    ◇
 洋泉社・1680円/ござ・ゆういち 80年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科研究員(日本中世史)。
    --「一揆の原理―日本中世の一揆から現代のSNSまで [著]呉座勇一
[評者]中島岳志」、『朝日新聞』2012年11月25日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012112500017.html

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