研究ノート:日蓮のもつバイタリティ 中村元×鶴見俊輔対談より
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これからの仏教
鶴見 少し話がずれるんですが、そういうふうに世界を見渡して考えると仏教はどういう方向へといくんですか。
中村 やはり若干の特徴が現れています。まず一つは、超宗派性です。古い昔からの宗派というのがその区別の意味をもたなくなりました。その傾向はいろいろなところに現れていると思います。違った宗派の間で協力するとか、同じ地区の仏教徒が協力する。古いドグマは意味をもたなくなる。超宗派的な共同がおこなわれる。それから、宗教の世俗性ということです。古い時代には、宗教は世俗生活に対立していたものです。ところが最近になりますと、生活の中に宗教を生かさなければならないとみんながいうわけです。はては「在家仏教」という主張も出てきました。会社員などが集まって仏典を読む。話し合いをする、といったような動きがあっちこっちに出てくる。第三の特徴としては国際性というか普遍性をもってきた。違った人種、違った国の人々が意見を交換する、協力する。
鶴見 しかし、一方ではまた違う動きも出てきますね、創価学会のように今までの宗派よりさらに排他的な。
中村 さらに排他的なものが出てきましたね。これをどう解釈していいのか。しかし、将来は創価学会も変わるんじゃないかと思うのですが。これがナチスみたいなものに日本ではならないのではないかと私は思います。だんだん増えてくると先鋭な排他性が希薄になります。
鶴見 創価学会も日蓮宗なんですけど、どうして明治以後は日蓮宗を通してだけ、実に創造的な宗教運動が出てきたんでしょうか。また仏教的な思想家にしても、日蓮の系統が主に、宮沢賢治とか、石原莞爾とか、妹尾義郎とか……。
中村 日蓮の思想が、民族的なバイタリティに結びついているのでしょう。仏教界では日蓮の系統がいちばん活動意欲をはっきり出していますね。第一、日蓮の生涯がそうでしたでしょ。その門流がひじょうに活動的だったわけです。ただ、その向け方はいろいろ違うと思われます。ある場合は、ナショナリズムで、ある場合は平和運動で、中には同じグループが状況に応じて違った動きをするのです。たとえば日本山妙本寺。戦争中はかなり国家主義的だったですけれど、今日はもう、平和運動のほうへいっていますね。ここにひじょうな飛躍があるわけですけれど、しかし日蓮の精神を現実に生かすんだという意欲をもっている点では皆同じだと思われます。
こういうことがいえませんかな。人間的に望ましい生活をするということについて、昔は、国家の支配統制の力が弱かった。それは、大名はずいぶん勝手なことをしたり暴圧をおこなったでしょうけれども、自分たちだけでひそかに暮らす範囲があった。しかし、今日ではそれができない。あらゆることに国家の支配統制を受けている。そういうところで邪曲を正すということになりますと、どうしてもおさえている権力に対して抗争することになる。だから対抗意識をもたせるものは、やはり日蓮の力です。今は、国家の問題じゃなくて、世界的に、世界が一つの地球社会というものになって、強い力をもっている国が他の国をおすというようなことが現実におこなわれているわけです。すると、これに対抗する精神が当然出てくる。それにいちばん結びつきやすいのがやっぱり日蓮であるようです。
鶴見 日本の仏教学についてどういうことを望まれるんですか。昔から変わらないという点で、どういうことがいちばん困るんですか。
中村 つまり訓詁註釈だけやってるわけです、仏教学でもインド学でも。現実の人間生活において個々の思想がどういう意義をもっていたかを検討しようという仕事は、ほとんどやろうとしない。
--中村元、鶴見俊輔「学問をこえて」、『中村元対談集ⅢIII』東京書籍、1992年、243-245頁。
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中村元先生と鶴見俊輔さんの対談「学問を超えて」は、異色対談といってよいものの一つでしょうが、ふたりが肝胆相照らすといいますか、お互いの言葉に膝を打つところにその醍醐味があるのではないかと思います。
この対談では、学としての仏教学の過去と現在、そして未来を展望する内容です。それと同時に、仏教学に限らず学問とは、本来どうあるべきかということを、鶴見さんが聞き手になって、中村先生の生涯から語れるという仕立てになっておりますが、最後は「これからの仏教」について。
中村先生は、これからの仏教の特質として、超宗派性、世俗性、国際性の3つが大切になるのではないかと、この対談では指摘しております。それはとりもなおざす、日本仏教の負の歴史……それは、独自性の探求とはほど遠い宗派意識や宗学の問題、僧俗のヒエラルキー、そして島国根性、といってよいかと思いますが……の反省にたった上での展望であり、先生ご自身も仏教学というアカデミズムまでが同じ陥穽に陥っていることに対する異議申し立てに起因する創造的示唆なのではないかと思います。
だからこそ、先生は我が身で知らせながら、専門的手続きを決しておろそかにすることなく、狭苦しい仏教学という枠組をやすやすと乗り越えていったのだろうと思います。
そのひとつの実践道場としての「寺子屋」である東方学院もその一事例であることは言うまでもないでしょう。
たしかに、世界が狭くなっていく、そして通俗的には葬式仏教の限界といったものが露わになるにつれ、制度宗教の側でも、それなりの対応を講じていかない限り、じり貧になっていくことは明らかですから、そうした方向へシフトしつつあるとは思います。
もちろんまだまだな訳ですが、超宗派というのは、なんらかの作業仮説のような一なるものへ消化されるという意義ではなく……理性の宗教や、宗教におけるエスペラントなるものの創造というものは糞でしょうけど……参与の形式として「超宗派的な共同」は現代世界において必要不可欠ですし、「古いドグマ」に閉じこもることのナンセンスもあきらかだからです(※ただしここでも、時代に対するおもねりとしての改変もまたナンセンス)。
そして、世俗性に関しても国際性に関してもいうまでもありません。それぞれの独自性とは、他なるものと真摯に対面することによって、いっそうそれが輝き深まるからであります。
こうした3つの軸へのシフトは歓迎してしかるべき流れだとは思いますが、ところどころで指摘したとおり、安易な迎合は慎重に退けていってしかるべきですから、その動向を見守りたいなあとは思います。
さて、後半部分は、宗教のもつ「排他性」の問題。
特にここでは素材として日蓮門流の歴史が検討されておりますが、これは、実際のところ、日蓮関係にだけ限定される問題でないことも明らかでしょう。
その宗教がその宗教として他と違うという意識がなくなってしまうと宗教は存在することができません。もちろん、その意識が排他的なものとなって人々を苦しめてきたことは明らかですが、それを完全抹消することは、まさにそれぞれの宗教というものの消滅を意味するから、「二番、三番があっての一番」という絶対性をどのように担保していくかは、大きな課題であるとは思います。
※もちろん、これは敷衍すれば、宗教にだけ限定されるものでもありませんから、例えば、他者を否定することによって、自分の存在を充足させようとするネトウヨ的承認欲求のようなものも似たところがありますので、真理をめぐる問題に限定されない人間の生き方の問題と相即不二になっているとは思います。
で……。
鶴見さん、中村さんともに、排他性の問題は問題があるけれども、積極的な面にも注目する必要があると話を進めますが、「どうして明治以後は日蓮宗を通してだけ、実に創造的な宗教運動が出てきたんでしょうか」という問いに対して、それを日蓮のもつバイタリティ、そしてその随伴者たちの「日蓮の精神を現実に生かすんだという意欲」に見いだそうとしています。
もちろん、そのバイタリティには退けられてしかるべき事例の方が多いとは思いますが、日蓮自身の生涯を想起するならば、その批判の排他的エネルギーは実際のところどこに向けられていたのかと誰何した場合、それは、「国家の支配統制」であったことには注目すべきではないかと思います。
「おさえている権力に対して抗争すること」としての日蓮のバイタリティ、この創造的エネルギーは現在うまく機能しているのか。
「だんだん増えてくると先鋭な排他性が希薄」になるのは必然だと思いますが、社会において一定の影響力を与えうる、足場を固めたあとだとしても、「おさえている権力」に対しては、一定の預言者的スタンスを失わない。日蓮門流にはかくあって欲しいとは思います。
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