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覚え書:「今週の本棚:辻原登・評 『アラビアン・ナイトと日本人』=杉田英明・著」、『毎日新聞』2013年02月03日(日)付。

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今週の本棚:辻原登・評 『アラビアン・ナイトと日本人』=杉田英明・著
毎日新聞 2013年02月03日 東京朝刊

 (岩波書店・1万9950円)

 ◇「千年の伝承物語」をパノラミックに洞察する

 『事物の声 絵画の詩--アラブ・ペルシア文学とイスラム美術』でイスラム世界の文学と美術を微分・積分して、イスラムに対する包括的な視点を準備したあと、『葡萄(ぶどう)樹の見える回廊--東・地中海文化と東西交渉』では日本とイスラムを結ぶ、文化の失われた環を探った著者は、今回は『アラビアン・ナイト』一本にしぼって研究の成果と蘊蓄(うんちく)を存分に披露した。それは、きらびやかなレトリックと深い洞察・卓見で埋め尽くされた巨大なパノラマだ。

 『アラビアン・ナイト(千一夜物語)』は九世紀から十九世紀に至る千年の間に、アラブ世界で徐々に成長を遂げた口承と書写によって民衆のあいだに伝承されてきた物語である。千年かけてつくられた物語!

 十七世紀初に、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスは、自分は、騎士道小説を諷刺(ふうし)した作品を書いたにすぎないと考えていた。その前、コロンブスは西に航海することによってインドに到達したと思い込んでいた。ところが、両者とも全く別の世界を、つまりコロンブスはアメリカを、セルバンテスはフィクションの新大陸--近代小説を発見したのだが……。さて、セルバンテスは、『ドン・キホーテ』の原作者はアラビア人歴史家シーデ・ハメーテ・ベネンヘーリで、元来アラビア語で書かれていたと言明している。むろんセルバンテス一流の韜晦(とうかい)なのだが、当然、ドン・キホーテの冒険の数々には、『アラビアン・ナイト』の多彩な物語が下敷きとなって埋め込まれていることがうかがえるのだ。

 この本では、まずこの信じられないような長大な時間の中で生長してきた物語の歴史と変遷がたどられ、それがヨーロッパにどのように受容されていったかがスケッチされる。

 最初のヨーロッパ語への翻訳はガランによる仏語訳、これが十八世紀初頭。このガラン訳から独語訳、伊語訳、オランダ語訳、露語訳など重訳が出た。

 十九世紀半ば、アラビア語原典が刊行されると、マルドリュスの仏語訳、バートンによる英語訳が登場して、『アラビアン・ナイト』市場は一挙に花開く。

 日本人で、最初にこの物語に大きな興味を示したのは南方熊楠(みなかたくまぐす)。彼はバートン版を入手して、これを類稀(たぐいまれ)なる好色文学として愛好し、喧伝(けんでん)する。つづいて芥川龍之介。彼は上海の古本屋からバートン版十七冊を取り寄せ、耽読(たんどく)。再話の形で子供たちに読み聞かせるべき素材として、『ドン・キホーテ』、『神曲』、シェークスピア、そして『アラビアン・ナイト』を挙げている。

 だが、最も影響を受けた作家は谷崎潤一郎で、『蓼喰(たでく)ふ蟲(むし)』は主人公の一人、要(かなめ)が上海から高額でバートン版を購入するエピソードに始まり、そこに描かれた「バグダツドの三人の貴婦人と門番の話」から夫婦交換(スワッピング)のアイデアを得、それを小説の構造に据えるのである。

 あるいは、オーストリアの詩人・作家ホフマンスタールの『千一夜物語』論の中で、彼が絶讃(ぜっさん)する「アリー・シャールとズムッルドとの物語」から、我らが三島由紀夫が如何(いか)なるインスピレーションを得たかを明らかにする章など目が離せない。

 とまれ、著者の野心は、中東へのまなざしをヨーロッパを経ないで、直接経験することにある。それは、前嶋信次・池田修による『アラビアン・ナイト』アラビア語原典からの直接訳(平凡社東洋文庫版十八冊、一九六六年~一九九二年)の刊行を俟(ま)ってはじめて我々にも可能になったのだが、現在の日本人は急速に『アラビアン・ナイト』への関心を失っているようにみえるのはなぜなのか。著者と共に考えてみたい。
    --「今週の本棚:辻原登・評 『アラビアン・ナイトと日本人』=杉田英明・著」、『毎日新聞』2013年02月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130203ddm015070029000c.html


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